「お前の負けだ」(12/2++)
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「嫌だ。殺さない」
長くも短い思考の果てに湊は、はっきりとそう答えた。
違和感があった。
たいてい、優希が長々と喋ったり相手の話をわざと無視する時はなにか都合が悪いことを隠しているか嘘をついている時だ。もしくは、どこかがおかしいか。
それに、世界を滅ぼすつもりなら早々に全員を殺してしまえばいいし、幾月に囚われる必要も湊と奏子を守って何度も何度も死ぬ必要は無い。
つまり、優希はなにかやむにやまれない理由があるか何かで嘘をついて殺されようとしている。9月に殺してくれと頼んできた時のように。
結局、湊や皆の思いは優希にこれっぽっちも届いていなかったというわけだ。
そのことに対してふざけるなよ、と怒りが湧いてくる。
ちりちりと脳裏を焦がすような感覚が湊を襲い、思考を邪魔してくるも、何故か湊は冷静にそう判断した。
「約束したし、ボコボコにして気絶させてでも絶対に生かして連れて帰るからね。詳しい話は帰ってからたっぷり聞くから。今のうちに言い訳でも考えといてよ」
おそらく、カダスから出た後に妙に聞き分けよく全てを話したのも、選択に対しどちらでもいいと日和見だったのも、今日殺されるのを虎視眈々と待っていたからなのだろう。
カダスに居た“
その予定が、早送りになったのだとしたら? 死の宣告者になってしまったせいで、かつての綾時と同じように自分たちに殺されることによって苦しくもなく辛くもない選択をさせようとしていたとしたら?
自分たちはその程度の存在だと思われていたのか。仲間ではなく一方的に救われ、守られるだけの存在だと思われていたのか。
そのことに湊は壮絶な怒りを抱いていたのだ。
「わ…湊、怒ってる?」
「怒ってない。キレてるだけ」
「ソレ、怒ってるって言うんだよ!」
怒気を滲ませる湊に奏子があわあわと慌てる。
普段の言動が物騒で気が強いのは奏子だが、本当は丁寧で気弱だ。誰かのために頑張ったり、やる時はやると言うだけで、根幹は普通の女子と何ら変わりない。だからこそ風花とも早々に仲が良くなったとも言える。
逆に普段物静かな湊は1度暴れ出すと止まらない。普段はどうでもいいと言っておきながら、キレるときはキレる。それはもう、奏子がビビって優希や養父母に泣きつくくらいには。
つまるところ奏子より、1度火が着いたら危険物で爆弾なのは湊の方である。
しかしそんな奏子でもさすがに湊が察したものと同じ違和感を今回は察せたようで、む、という顔つきになって優希を睨みつける。
「お兄ちゃん、悪ぶってもダメだからね! さっき、髪の毛ガシガシしたでしょ! あれ、お兄ちゃんが困ってたり、恥ずかしかったり嘘つく時にやる癖なの、私知ってるもんね!」
「は…!? そんなわけ、な…」
咄嗟に、優希は奏子の言葉を否定しようとしてまた手を首筋へと無意識に伸ばしかけた。瞬間、
「あーーーー! またやってる!!! やっぱりお兄ちゃんもちょっとイライラしてるけどさっきまでの話、嘘なんだ!」
「…………」
奏子は指をさして大声で叫んだ。
その声にビクゥッ! と肩を跳ねさせ硬直した優希はそのまま目を逸らしてのろのろと上げていた腕を下げた。
「なるほどな。今度から見分ける基準にしよう…」
横で、美鶴が奏子の予想通りになった優希を見て感心する。
今度から、嘘をついていたり恥ずかしがったりする時はそういうことをするのかよく観察してみよう、とそう思ったのだ。
『ぷぷー、クセ、バレてんの』
優希の視界に、ふわふわと浮いている半透明の自分が映る。
不格好な、子供の落書きのようなスマイルが描かれた仮面を被ったもう1人の自分は笑うような仕草で優希を煽る。
「黙れ」
『なんだよ。せっかくの計画がご破算になりそうだからって俺に当たるなよ。俺もキミなんだからさあ。汝は我、我は汝ってね!』
真剣な場面だと言うのに茶化すように突然現れた
その姿と言動は統合されたはずの『前回』の自分そのままだ。だが、何か違う。
「俺に統合したんじゃなかったのか? というかお前……ほんとは『前回』の俺じゃないな?」
『あ、バレた? 俺はニャルラトホテプさ。ニャルラトホテプによって赤子のきみに植え付けられた化身部分。混沌でもありキミの中の、ニャルラトホテプ成分を司るとこってやつ? 18+n年間一緒に生きてきたんだからさーもうちょい優しくしてくれてもいいじゃん…俺なのに俺に厳しくて泣きそう』
「いや、俺の計画を邪魔するような人格なんか要らないんだけど」
他の人間には見えていないそれと優希は小声で会話する。
なにか手っ取り早く殺してもらう計画でも考えてもらえるのかと思えば、こちらをおちょくるだけの敵でも味方でもない
そんな事を分かっているのか、
『てか、【
「いっぺん死ぬ? ほら、ここにちょうどいいロンギヌスの槍がある。楽に出血多量で死ねるよ」
『うひひ、俺、幻覚なんすわ。流れる血が無くてサーセン!』
「いますごい無性に自分にロンギヌスぶっ刺して死んでやりたくなった。訴訟」
ひとり漫才をやっている場合ではないのはわかっている。だが、この
『それやったら
「それこそ却下だ。『前回』、説得されてみんなの所に帰ると決めた瞬間に殺されて『アレ』を放ちかけただろ。あんなのは二度とごめんだ」
『ああ、
「…?」
妙に、生易しく説得してくる。
気味が悪い。
「なにかぶつぶつ言ってるみたいだけど、言い訳は思いついた? 謝って帰ってくるなら今のうちだけど」
これではもう、どちらが悪かわからない。
『うわ、あの湊。バチバチにキレてんじゃん。こわ…しかもペルソナ付け替えたな今!? ゲェ! ルシファー! ルシファーナンデ!? あっ読めたぞこれ、奏子は嫌がるだろうからひとりでアレやるつもりだな!? やっべ、俺逃げるわ。モコイさん風に言うなればバイバイくんだネ!』
何かの準備をしているらしい湊をみてそそくさと慌て始めた
ペルソナを“ルシファー”に付け替え、そして
人に向ければ一撃で気絶させる所で済むものはないが、確実に止められるであろう方法を選んだらしい湊に、優希は苦笑する。
「……いいや。俺は謝らない。帰るつもりもない」
見せつけるのもいいだろう。
そう思っただけで。
実際、優希はどうしてすんなりと敵だと認識して殺してくれないのかとイラついていた。兄という仮面をかなぐり捨て、全力でぶつかり合って、意図して相手を傷つけてもいいとは思えるほどに。
「そう。ならその曲がった性根、叩き直してあげるよ」
「やって見せろよ
吠える。
来るのは殺意ではない。
しかし、優希の中の危険信号が「死ぬぞ」とビリビリと警告する。それと暴れ狂う殺戮衝動を無理やり抑えつけ、構える。
「“ルシファー”! “サタン”!」
湊が召喚器の引き金を引く。
最強の堕天使が二柱。明けの明星と敵対する者。
それらの異名を持つ最強格のペルソナが2体同時に召喚され、それぞれの力を放ち超新星爆発の如きひとつの大きな光となって放出される。
──ミックスレイド【ハルマゲドン】
喰らえば“力を司るもの”ほどの力がなければ即死の必殺の一撃。
湊はそれを、どうなるかわかっていて放った。
しかし、
『ばぁーか』
湊の耳元で囁くように嗤うような声が聞こえたような気がして振り向くも、誰もいない。慌てて顔を優希が居たはずの場所へと向けた。
瞬間、ゾッとするような気配と共に、爆風が止んだそこから先程と変わらず立っている影が見えた。
「なんで…」
ギラギラと、黄金の双眸が睨みつけてくる。その事に湊は戸惑いを隠せない。
『えと、三上先輩はまだ健在です! 良かった…でもこれ…無傷!? 先輩はダメージを受けてません!』
風花がアナライズ結果を知らせる。
無傷ということは効かなかったということだ。あれだけの攻撃が無意味と化した。
「ンなッ!? 湊のよくわかんねースゲーヤツを喰らって、センパイ無傷で立ってんのかよ!? ウソだろ!?」
順平が後ずさりし、息を飲んだ。
湊以外の面子から見ても、先程の湊の攻撃は全力だと思わざるを得ない。
だというのに平然とそこに立っている。
その異常さにたじろいだ全員を冷めた目で見た優希は少しだけ気分を良くして口角を上げた。
「…お返しだ。“デヴァ・マーラ”…! “ニャルラトホテプ”…!」
『この反応…皆さん! 逃げて!』
召喚器を使わずに、片や黒の破壊神。片やネガティヴマインドの化身であり千の貌を持つ外なる神の異名を持つペルソナを呼び出す。
呼び出されたニャルラトホテプはナイトゴーントに似た黒いのっぺらぼうではなく、『月に吼えるもの』と呼ばれる仮面をつけた触手が人の形を成したような姿をしていた。
それらが、湊が呼び出したルシファーやサタンと同じく力を練り上げる。
──ミックスレイド【ハルマゲドン・
先程と同じ、超新星爆発の如き爆発が今度は湊達を襲う。
悲鳴を上げる間もなく、全員がそれに飲み込まれた。
足元の黒い泥に近い水が巻き上がり、水蒸気爆発のように水飛沫をあげる。
あとに残るのは死んではいないが行動不能にまで追い込まれた全員だった。
ナビゲーターとして守りを固めていた風花でさえ、そこに倒れている。
そんな惨状を作り出してなお、優希は誰か立ち上がるだろうと信じていた。
そうでなければこの先、自分が居なくなったあとでもし何かあった時に彼らは乗り越えられない。それは困る。
「……っ……、」
そう思いながら、襲ってきた気持ち悪さと頭の痛みに片手でそこを押さえて一瞬ふらつけばまた
『あーあー…無茶するから。大丈夫?』
「ぐ……これが、大丈夫に見える…?」
吐き気を抑えて返事をすれば珍しく心配そうな声色で
『うんにゃ。見えない。今のでかなり食い込んで来てるかもね。調子に乗ってアイツ由来のペルソナ使おうとするからだよ、我慢してればいいのに。それか“
「それじゃ意味無いだろ…」
『うん。意味無いね。ならプランBに変更だ。全員のペルソナを封じちゃおう!』
うきうきとロンギヌスの槍を指さした
「それも、意味なんて無い。それだと俺が死ねない」
『でもミックスレイドされるの邪魔じゃん?』
「ミックスレイドをするのも実力のうちだ」
『いやだ! せっかくロンギヌス使えるのにその能力1個も使わないとか勿体ない! 宝の持ち腐れだぁ! そういうとこだけ湊たちのこと高く評価するのやめろよぉ!』
「や・め・ろ!」
短く睨み付けながらそう言葉を飛ばせば、
なにをやってるんだ? と優希が頭に疑問符を浮かべた瞬間、胸倉を勢いよく掴まれる。
「よそ見、してる暇あるの?」
どうやってあそこから立ち上がったのか。ボロボロになった湊が狂暴な眼光を湛えたその目で睨み付けながら噛みつかんばかりに迫っていた。
咄嗟に優希は槍で刺そうとして──しかしできないと躊躇し、ひっこめた瞬間。
「っ!?」
バチリ、と槍から稲妻が走る。
それは光となって湊へと直撃し、一瞬だけその動きを止めさせた。が、
「……?」
痛みはない。不思議に思った湊はしかし、優希の胸ぐらを掴んだままそのまま召喚器を片手でホルスターから引き出して引き金を引いた。
カチリ。
シン、と辺りが静まり返る。
何も起こらない。
その様子を見た優希は咄嗟に
「お前……ッ!」
勝手にロンギヌスの槍の力を、ペルソナを封じる能力を使ったな。余計なことをしやがって。と怒りを込めて睨むも、
対する湊はペルソナが呼び出せないことがわかると拳を握りしめる。そして、振りかぶり、
「この…優希のわからず屋!」
殴る。鈍い音が響き、優希は手に持っていたロンギヌスの槍を手放した。
優希が必要ないと判断したのか、ロンギヌスの槍はそのまま消えていく。
しかしそのロンギヌスを持っていた手を握りしめ、これもお返しとばかりに湊の頬を殴った。
「わからず屋なのはどっちだ! さっさと俺を殺せばいい! 俺はもう、人じゃないんだぞ!」
「うるさい! 人じゃなくなっても優希は優希でしょ! 僕らの家族で、兄さんだ!」
殴られる。
「ただ悪魔になっただけならなんとかなるかもしれない。けど俺はもう死の宣告者だ…!敵だ! どうしようもないってわかれよ!」
殴り返す。
「わかるわけないだろ! 僕がどれだけ…どれだけ優希の死に顔を見てきたと思ってるの!? これ以上見たくないに決まってる! ましてや、自分の手でなんて!」
殴られる。
「それを言うなら俺の方が…お前たちふたりの死に顔を見た回数は圧倒的に多い! 目の前で救えなかった無力感が分かるか!? 死ぬとわかってるのに止められない虚しさが! ただ家族が死ぬと分かっていながら仮面を被って日々を過ごすやるせなさが!」
殴り返す。
目から流れる汗とは違う水滴が、頬を伝う。
わかる・わからないの応酬は兄弟喧嘩そのものだった。
「それは優希の感じたことだから、僕にはわからない! 前にも言ったけど、優希は自分と同じ辛いことを僕と奏子にも味あわせるつもりなの!?」
「……っ!」
同じ辛いこと。
その言葉に思考が停止し、目を見開いて息を飲む。
拳が握れず、迷っていれば優希は湊に水面に押し倒され、馬乗りになってこちらに拳を振りかぶっていた。
思わず、目をつぶる。
しかし痛みは来なかった。代わりに、胸に手が乗せられる。
そのぬくもりに優希がゆっくりを目を開けば、泣きそうな顔の湊がそこにいた。
「優希はまだ、生きてる。死んでない。なんとか、なるはずだよ」
「ならないよ。……ならないんだ」
目を逸らす。
「もう限界なんだ。身体も、ほかの色んなことも。たくさん誤魔化してるけど、軋んで、ヒビが入って、割れそうなんだ」
今もほら、砕けてきてる。
そんな言葉を飲み込んで、へらりと笑った。
「俺、皆を殺したくない。滅びになんてなりたくない。消えたくない。だから、湊。お願いだ。嫌でも、俺が俺であるうちに、殺してくれ」
弱音を吐く。
「どっちも覚悟してた綾時より、情けないね」
「…そうかもね。でも、もう俺には…俺自身が救われて、なおかつ湊と奏子を救う方法はこれしか無いんだ」
その他の方法を優希は思いつかなかった。もう既に巻き戻せないところまで進んでしまっている。
「だめだよ、お兄ちゃん…」
奏子が這いずるように近づいて覗き込んでくる。そして優希の手をそっと握ってきた。
「私、お兄ちゃんに死んで欲しくない。消えて欲しくもない。一緒に…みんなで一緒にたくさん考えるから、誰も死ななくてもいい方法! だから…だから!」
「……奏子」
奏子の必死さに、その追い詰められたような表情に、優希の決意が揺らいだ。
そんな泣きそうな顔が見たかったわけじゃない。
「置いてかないで…居なくならないで…! 消えないで…!」
怯えながらすがりついてくる奏子の姿は今までに見たことの無いもので。
否、優希はそれを何度も体験している。しかし死の間際なので覚えていないだけだ。何度も何度も、優希はかつての奏子の前で死んでいる。逆もまた然りだ。
双方の記憶が保持されていないだけで、魂には染み付いている。
もっとも、優希のほうは掠れて消えかけであるが。
「三上」
奏子の肩に手を添えながら、美鶴が覗き込んでくる。
「……私からも、お願いだ」
目を閉じて、思考する。
「…………でも、」
首を縦に振れない。今更、別の手を考えると言われてもどうなる訳でもない。
このやり方だって途方もない回数繰り返し、様々な条件が重なった結果やっと見つけた最善の解決策だったのだ。それ以上の大団円な解決策を、たった1回で見つけ出せるとは優希には到底思えなかった。それに、
「さっきも言ったけど、近いうちに俺が死んでしまうことに変わりはないんだ。滅びとの戦いが無くても、俺の身体はもう限界できっと春まで耐えられない。だから、」
「っ! だから…今のうちにぜんぶ、解決したかったの…? お兄ちゃんがここで死ぬことで…?」
「ああ。奏子と湊が死ななくても済む方法はこれしか無かったから。……解決策はもうひとつある。けど、それをすればふたりは死ぬ。必ず誰かの犠牲が出る。だから、健康でこの先も生きていけるふたりより、終わりに近い俺ひとりで済む方法を選んだ。それだけの話だ」
優希は空いている片腕を目元に乗せ、深く息を吐いた。
泣いてはいない。
全てではないが悪役ぶるのをやめて、話してしまったことに後悔はない。どうせこうなるだろうことは湊が優希を殺さないと決めた時点で決まっていたのだから。
『泣くなよ。エンドロールにはまだ早いんだからさ! あと2ヶ月丸々あるんだぞ! …たぶんね!』
「…泣いてない」
横から空気を読まない
「……お願いだから殺してくれ。そうじゃなくても、もう、放っておいてくれるだけでいい。出口は作るから、ここから、出て行ってくれ」
もう一度、深い息を吐いてから顔を背け拒絶の言葉を吐いた。名案なんて浮かんでこない。全てを解決出来る素晴らしい策なんてどこにもない。
そうやって否定し、拒絶すれば湊の顔が顰められる。
「僕や奏子の話聞いてた?」
「そうだよ! 絶対に、一緒に帰るんだから! だって、まだ何もしてない! なにも考えてないんだよ! それなのになんで、お兄ちゃんは諦めちゃうの!? きっと、大丈夫だから──」
それでも、湊と奏子は優希に光を見せつけた。
希望を与えるような言葉を吐く。
それに優希は酷く拒絶反応を示した。
「俺の心にずかずかと踏み込んで、根拠の無い希望を持たせるのはやめてくれ! そうやって…期待させるだけ期待させてまた俺を置いていくつもりなんだろ! 一緒なんだよ…! 俺も! お前達ふたりの選ぶだろうやり方も! なにが“いのちのこたえ”だ! そんなもの…そんなもの…!!!」
糞喰らえだ。
その言葉を発さずに優希はそのまま目を固くつぶり光を拒絶した。
もう何も聞きたくない。見たくない。放っておいてくれ。このまま静かに眠りたいだけなんだと。
「そうか、きみは、きみの妹とよく似ているのだな」
「……っ、」
静かに降ってきた優しい美鶴の声にびくりと身体を震わせる。
「本当は寂しがり屋で、置いていかれるのが怖くて、否定されたくない。だから先に捨てようとしているのか。自分から捨てれば自分から捨てたのだという建前ができて心の傷は浅いように見えるからな。私の告白を断った時と同じか。ふふ、なんだ…そうか、そんな事だったのか」
穏やかに、慈しむように笑った美鶴は、握り返されもしなければ拒絶もされていない奏子も手を添えている優希の片腕に手を添えた。
しかし美鶴の発言に黙っていなかったのは奏子だ。
「えーっ! 桐条先輩、私のことそういうふうに見てたんですか!? ショック! 探索のリーダーもちゃんとやってるしこんなに頼れて強くて可愛いのに!? それに私、お兄ちゃんみたいに自分からなにかを捨てたりしませんし! 」
「そ、そういう訳ではなくてだな、三上の方が、臆病さに磨きがかかっていて酷いと言ってるんだ! きみはちゃんと強い。……おそらく」
奏子に弁解する美鶴は気づかない。このやり取りで優希のおぼろ豆腐メンタルな心にグサグサとダイレクトダメージが入っていることに。
本人はとてもいたたまれなくなっているということに。
奏子と美鶴さん、希望を持たせるなとは言ったけどそういう方向じゃない。断じて違う。そう言いたい気持ちを押さえ込んで、優希は沈黙を貫く。
『泣いてる?』
「泣いてない」
そうやって黙っていれば再び、
どうやら、ただの暇つぶしかなにかだったらしい。
そういうところは
不意に、身体に乗っていた重さが無くなったと思えば、馬乗りになっていた湊が降りて横に座っていた。
優希が上体を起こせば、それと同時に湊の視線が別の場所を向く。
つられてそちらを見るとボロボロになったアイギスがよろよろと立ち上がってこちらへと向かってきていた。
他のメンバーも意識が戻ったのか、身体を起こして心配そうにこちらを見ている。
よたよたと覚束無い足取りで近づいてきたアイギスは、奏子や美鶴のいる優希の左側ではなく、湊のいる右側へと来るとそのまま腰を下ろした。
そして複雑そうな表情をしたまま、口を開いた。
「…優希さん。わたしはまだ、あなたをどうしたいのか…わかりません。でも、湊さん達を悲しませないためにこれだけは伝えておかなくちゃならないから…伝えます。前回、カダスを探索した際にモコイさんが居て、『モコイさんはモコイさんとしてここにいるから泣くんじゃないぜベイビー』、と伝言を頼まれていました。それがどういう意味なのか、わたしにはわかりません。それでもきっと、いまのあなたには必要なものだから」
「!」
アイギスの言葉を聞いて、優希は視界が揺らぐ。完全に失ってしまったと思っていた存在が、見えずともちゃんとまだいた事に安堵した。
「モコイさんが…そうか、そっか…モコイさんは…あれからずっと“ここ”に居たんだな」
目を閉じて、大事なものを抱えるように胸に両手をやり、身体を丸める。
その表情は湊や奏子に向けるものとはまた違う愛しさを孕んでおり、それまでどう呼びかけてもかたくなだった表情を一瞬で緩めたことからモコイという存在に優希がどれだけ心を許していたのかを4人にありありと分からせるには十分だった。
「……有里」
そんな優希を見て、小さく低い声を出したのは美鶴だ。奏子を呼び、ちらりと視線を向ける。
「なんですか桐条先輩」
「私は今、猛烈に嫉妬している。理由はわかるな?」
そう問えば、奏子もうんうんと頷いて同意する。
「私もです先輩。お兄ちゃんにあんな顔させるなんてどこの泥棒猫!? 桐条先輩でもダメ、私もダメ、湊もダメでモコイさんっていうあの変な緑のならいいっていうのがすごく複雑…」
「? モコイさんは猫ではなく悪魔ですよ」
奏子のボヤキにアイギスが訂正する。
言うなれば泥棒猫ではなく、心を奪っていった泥棒悪魔なのだと。
「そーゆーことじゃなーい! …でも、お兄ちゃんが笑ったならそれでいっか…」
奏子は諦める。
結局、最終的に優希の心を動かしたのはなんの根拠の無い“情”だった。
それは絆と呼べるものでもあり、愛情でもある。
何も解決しておらず、なんの解決策も浮かんでいない状況であるのに、優希は安堵して笑った。
「生きて」と言われるのではなく、優希に必要だったのは、「大切な存在がちゃんとここにいる」という安心出来る存在証明だったのだ。
救う、救われるではなくただ一緒に横で生きているだけでいい。それが何もかもが重しになっていた優希にとって無意識に1番の救いになっていた。だからこそ、自暴自棄でかたくなだった優希の心を動かした。「この先も生きたい」と願っていた時のことを思い出させた。
「優希」
その隙を見逃さず、湊が呼びかける。
「ずっと、悩んでたんだけど。僕と奏子のふたりだったらダメだった。けど、僕ら3人なら? それかもっと、たくさんの人と一緒なら、なんとかならない?」
「3人……たくさん……そうか…! その手があったか!」
湊の提案に優希は思わず声を上げる。
湊の提案は、封印を2人でするのがダメならそれ以上の人数でやれば犠牲を出さずに済むのではないかということだ。ひとりふたりで封印に死ぬほど魂を割くのなら、それ以上の人数で折半すればいい。一番多い母数で考えるなら、地球に生きる全人類で分担すれば個人単位での負担はほぼゼロに等しい。
そして優希は封印ではなく、
1月31日、全人類が影時間を認識しているタイミングで『滅び』を打ち倒せば封印する必要はなくなる。人類が乗り越えたのだと世界に認知させることが出来る。
死ではなく、滅びだけを乗り越えたのだと錯覚させれば、無理な話ではない。
ただし、自分のことについては何も解決していないので先程までやろうとしていたことと結果は変わらないのを伏せて。
「…それなら、なんとかなる…と思う。詳しい方法は、みんなで考えればどうにか…」
どうにかなればいい。
ならなければ、刺し違えるしかない。
「そう。じゃあ、優希はもう『殺して』なんて言わない? というか、一昨日言ってたよね。“僕らの決めた事には従う”って」
「そうだった! お兄ちゃん! 私たち、
そう言って手を伸ばして立ち上がる様に催促する湊と奏子の手を優希はとれなかった。
躊躇う。
「──それは、俺がヒトじゃなくても?」
返事をする前に、咄嗟に優希はそう問いかけてしまった。
瞳が揺れる。拒絶されるのが怖い。
しかし、受け入れられるのも怖い。気持ち悪い。
自分で口を閉じる前に、どんどん言葉が流れ出してくる。
「…嘘ついて、ごめん。たくさん痛くして、傷つけてごめん。謝っても済む話でないだろうし、身勝手なのはわかってる。けど、それでも、俺は…敵なのに、みんなの仲間でいていいのか? 隣にいて、いいのか? …
最後の言葉は自問だった。
未だ、優希の中では自分が存在していてもいいという気持ちはあまりない。
死の宣告者であり、自らがニャルラトホテプの化身でもあるのだと認識した今ではその違和感は更に膨れ上がっている。
自分は異物で、人類の敵で、存在しているだけで周りを不幸にしていく。そんな感覚を覚えるのだ。
存在するだけで災いの元になるのなら、消えてしまった方が良いのではないかという希死念慮が精神を苛んでくる。
許されるはずがない。許されてはならない。
生きてみたいが、生きていいとは思えない。
「「もちろん」」
だというのに、奏子と湊は頷いた。何の迷いも躊躇いもなく。
そんな2人に続き、美鶴もしっかりと頷いた。
「当然だろう。お父様にまだ何も言ってないのに勝手に居なくなられては困る。私を、独りにさせないでくれ。死の宣告者だろうと何だろうと『今』の私が好きになったのはきみだ。きみじゃないと嫌なんだ」
「……うん」
小さく、返事をする。
「で、どこからどこまでが本当なの? お兄ちゃんがニュクス教の教主で…えーっと、
優希は奏子の言葉に首を横に振った。
「厳密には、ちょっと違う。……ごめん、詳しく説明したいんだけどもう、限界で…」
普遍的無意識領域の深層に皆を引きずり込み、ずっとその状態を維持していたために気力の消耗が激しい。
場を形成している力さえ解いてしまえば、カダスの1部でもあったそこからすぐにムーンライトブリッジの上に戻ることが出来る。
そのことを自覚した優希はさっさと元の場所に戻るために抑えていた力を抜いた。
景色が一瞬揺らぎ、そして影時間のムーンライトブリッジの上へと戻ってくる。
「は……はあ……はあ……はあ……」
短く、息を吸って吐く。
脂汗を垂らしながら、うずくまって下唇を噛み締めながら反動の気持ち悪さに耐えた。
自分の力でもあるそれをちょっと使っただけだ。例えそれが借り物で、その資格がないとしても。
それだけであるのに、優希の気力と体力の両方をごっそりと持っていった。
「お兄ちゃん、大丈夫…?」
「だい、じょうぶ。すこし、疲れただけだから」
優希は小さく、息を吐く。
結局、ここで終わらせることを諦めてしまった。
そのせいで
「そこです! 綾時さん! 止めてください!」
「ちょ、ちょちょっ! 急には止まれないようわああああああ!!!」
ガシャーン!と大きな音を立てて、霧の向こうから自転車が突っ込んできて思わず全員がびくりと肩を跳ねさせた。
その声は湊のものとよく似ている声と、優希の知っている少女の声だった。
(いや、少女っていうには…ちょっと……というか今の聞き間違いじゃ、なければ)
「いてて…」
「こんなことなら私がオルギアを発動させてあなたを運べばよかったんです。私なら、優希さんの気配を辿るのもばっちりですし」
「それをしたらいまの僕は気絶しちゃうんだけどな…」
「そっか。今のあなたは
自転車で突っ込んできたのは紛うことなき望月綾時であり、そんな綾時を叱るように文句を言いながら立ち上がらせたのはアイギスによく似た黒い機械の乙女だった。
「エ、綾時! それにそのオンナノコ誰だよ!? …ンー…なんかアイギスにそっくりじゃね?」
突然の綾時の襲来に順平は綾時と黒い機械の乙女──メティスを見比べながら混乱する。
どういうことなんだ、とこの場にいる全員が訳もわからず呆然とするばかり。
そんな中、黄色いマフラーをたなびかせながら綾時が優希の方を向いて能天気に手を振る。
「やあ! 彼女から聞いたんだけど、お兄さん、早とちりしてないよね!」
「……」
「早とちり、しました」とは言えない。
メティスからの視線が痛い。
「その様子だと意気揚々とニャルラトホテプと同じようなムーヴをしようとして、嘘を見抜いた湊さん達にコテンパンにされたか説得されたかで時間切れ、といったところですか? …向いてないんですよ、優希さんにはそういうの」
むっとした顔のメティスが一刀両断し、優希は顔を俯かせる。どうやら全てお見通しだったらしい。
「ところで、三上と知り合いみたいだがお前は一体なんなんだ。見たところ、桐条の対シャドウ兵器のようだが」
明彦が馴れ馴れしく優希へと声をかけ、喋るメティスに問いかける。
美鶴としても、メティスのような機体は見た事がないため、極秘で作られたものかと思うも、そんなものがどうして優希を知っているのかという謎が残ってしまう。
「自己紹介がまだでした。私は対シャドウ特別制圧兵装七式・アイギスの後継機──つまり、妹であるメティスです。そういうことにしておいてください」
「そういうことにしておけって…なんだ、はっきりしねぇな」
メティスの釈然としない物言いに、荒垣がモヤモヤとしたものを感じついボヤく。
その荒垣の言葉の感覚は優希と綾時以外の全員が覚えており、自己紹介を経てもなおメティスという存在が得体の知れないものであるという疑問を捨て去ることはできなかった。
そして急に姉だと言われたアイギスは混乱し、複雑な表情でメティスをゆらゆらと見つめている。
「わ、わたしの…妹…?」
「はい。姉さん。一応、この身体が作られたのは──かなり、前なんですけど。稼働開始時期で言えば姉さんより遅いんです。つまり私が姉さんの妹、という認識は間違っていないんですよ!」
優希はふんす! と力説するメティスの言葉に苦笑しながらも嘘は言ってないから指摘するほどでもないかと沈黙を貫く。
彼女は随分と嘘が上手になったようだ。ニュクスと混じってしまったからかどうかはわからなかったが。
「そんな君が突然起動してどうしてここに? そしてなぜ三上と知り合いなんだ?」
美鶴が訝しみながら問う。
その疑問はもっともだ。アイギスの妹だというのなら、もっと早くに特別課外活動部に合流してもおかしくはないし、その存在を美鶴が知らないということはないだろう。
だというのに優希とは知り合いで、よく知っているような態度をとる。
矛盾しているのだ。
そう、眼光鋭く美鶴に問われ、メティスは「う…」とたじろいだ。
彼女とて、「私はニュクスでもあるんです!」とこの人数を前に説明して、すんなりと理解してもらえるような状況ではないというのを解っている。だからこそ、先ほどとは違い言葉に詰まった。
そんなメティスの様子を見て、優希がメティスの前へと庇うように立つ。
「彼女は──その、どちらかというと、こちら側なんだ。俺やヒュプノス、かつての綾時くんと同じ、
「こちら側って…ヒトじゃないってこと、ですか?」
「いいや。違う」
風花の問いに優希は緩く首を横に振った。
純粋にヒトではない、というだけならロボットであるアイギスや犬であるコロマルもそうだ。
そういう意味ではない、と線引きをする。
奏子だけは兄の「かつての綾時くんと同じ」という言葉に何か違和感を覚えていたがそれを問えるような雰囲気ではなかったため、不安げに口を横に結んで黙っていた。
「彼女も、シャドウだ。…それも、“母なる存在”と呼ばれる強大な」
「母なる存在…まさか、彼女は!」
はっきりと言い切った優希の言葉に、何を指すのか気がついた綾時が隣に立つメティスを見て目を見開く。
メティスはその視線を、真っ向から受け止めた。優希から喋ったというのなら、信じてくれるだろうと願って。
「彼女は……ニュクスだ。お兄さんの言葉が本当だと、するなら」
「ニュクスだと…!?」
一斉に全員が身構える。
絞り出すように出された綾時の声は震えていた。動揺し、“畏れ”さえ感じられる様子にメティスは苦笑する。
「とはいっても、混じりものですけどね。対シャドウ兵器でアイギスの妹であるメティスと…シャドウの母、ニュクス。それがいまの
身構えた全員からメティスを隠すように再び身体を動かした優希を、メティスは手で制止する。
大丈夫。何も悪いことは起こらないから、怯えなくていいと。
「安心してください。私は姉さんの味方ですし、皆さんの敵ではありません。ただ、姉さんや湊さん、奏子さんが辛い思いをするから──優希さんが消えようとするのを止めたかった。それだけなんです」
「でも、ニュクスって滅びなんだろ? この世界を滅ぼす、“終わり”だって」
天田の吐き出すような小さな呟きを、メティスは聞き逃さなかった。
「そう、ですね。はい。そうです。私が目を覚ますことで、私の精神の波動にあてられたこの世界の全ての命は滅んでしまう。ただし、それは私が私の本来の身体で目覚めた場合に限ります」
「そ、それじゃあ…あなたがその姿でいるってことは、世界に滅びは来ないってこと?」
「いいえ、滅びは来ます。確実に。明確な意志と理由を持って。だから、優希さんは己の存在を賭けて消そうとしたんです」
ゆかりの言葉に首を横に振ってメティスは答える。
そのまま月を睨み付け、口を開く。
「──“シュブ=ニグラス”。
それが私の代わりに来る滅びの名です。はるか昔から
メティスの言葉に、動揺が走る。ニュクスでもあるメティスがここにいるのなら、滅びが回避されたというのも同義だというのに、そうではなく。
別の神が明確な意思と理由を持ってこの星を滅ぼそうとしているというのなら、それはそれでまた違った話になってくるのだ。
「はあ!? 産みなおし…? どういうこったよ、それ…」
「彼女が何を持ってその思考に至ったのか、私にはわかりません。ただ、ひとつ確実に言えることは彼女が完全に目覚め、私にあった“滅び”を振るえばこの星の生き物なんて簡単に死んでしまうということです。皆さんの営みも、この星が辿ってきた歴史も、全て否定され、彼女の望むようにぐちゃぐちゃに作り替えられるんです。それは、あなたたちの言う“滅び”と同義でしょう?」
メティスは憂うように下を向いた。
彼女はこの星の全ての生命を一度滅ぼして産みなおすことで己の好きなように作り替える──そんな途方もない目的を聞いて、皆が動揺しない方がおかしいとわかっていた。
「いまはまだ、彼女は半分眠っている状態で、覚醒してない。…直接、手出しをできる状況ではないんです。だからこそ、世界が滅んでいないと言えるんですけど。それに…なぜか彼女は優希さんを欲しがっている。優希さんがいないからこそ、目覚めていないともいえるんです」
「それは…」
「──その人形が苦し紛れにアレの半分を奪ったからだろう」
なぜ、滅びが目覚めていないのか。優希がその理由を説明しようと口を開きかけた瞬間、別の声が割り込む。
それは霧の向こうから、しかし静かに現れボロボロになり人の姿に戻ったヒュプノス──朔間を放り投げた。
「モル…朔間くん…!」
優希がよろめきながらも受け止めて後ろへと横たえさせて前へ出た。
モルフェ、と呼びかけて慌てて訂正し、そしてちらりと見て気絶しているだけだとわかるとそんな朔間を傷つけた件の存在を睨み付ける。
その内にあるのは、怒りだ。
アイギスをガラクタ呼ばわりし、ヒュプノスを残りカス呼ばわりしたのも情がなくなった訳ではなく、あえて別人のようになったのだと印象付けるためだけのことだ。
本心でそんなものだとは、微塵も思っていない。だからこそ本当にヒュプノスに対し、ぞんざいな扱いをし、わざと嬲ったのだろう本体気取りの化身に優希は憤った。
しかし、ニャルラトホテプはそんな優希を歯牙にもかけず、嗤う。
「アレにとって重要な部分を、人形は奪った。だからこそアレは人形を求めるのだよ! …それにしてもお前達の愚かさは驚愕に値する」
下衆な笑み。醜悪に尽きるその笑みを浮かべた幾月の顔をした男──ニャルラトホテプは優希を値踏みするように見て、つまらなさそうに吐き捨てた。
「その人形さえ居なかったことにして見殺しにすれば、お前たちが何もせずとも定められた滅びを回避できたのになあ? そして影時間と人形に関する記憶は消え、なんら問題のない日常を送ることになるはずだった! なぜ
その目はどこまでいっても冷酷で、優希のことを感情のある一つの人格としてみていないようなそんな印象を与える。
悪ぶりながらも結局はどちらにもなれず、迷っていた優希とはそこが明確に違った。
「だが残念だ。この玩具もまた私であり、ただの
高らかにニャルラトホテプはそう宣言する。楽しくてたまらない、と言いたげに。
「ククク…何も知らぬお前達が紡いだ絆と兄妹愛は見物だったぞ! 十二分に楽しませてくれた! だが、これはお前達2人と血のつながりのある兄弟ですらない! 私の作り上げた泥人形…否、操り人形だ! 今、その証拠を見せてやろう!!!」
そう言うや否や、ニャルラトホテプが手をかざしてくる。
途端に、優希が苦しみ始めた。
「う…あっ……ごぷっ…おえっ…!」
ガタガタと体が震え始め、せり上がってきたものをそのまま地面に吐き出す。
血だ。とめどなく血が口から流れている。
「優希!?」
「か…あっ…は、…は…あ、あ…!」
視界が霞む。真っ赤に明滅する。
キーン、と甲高い耳鳴りと共に意識が霞がかってゆく。
寒気と、胸から喉を焼くような灼熱が通り過ぎて、それが吐き出した己の血だと認識した時には身体に力が入らなくなり、地面に膝をつく。
辛うじて、抵抗しようとするもごっそりと大事なものが抜けたような感覚がして、優希の視界は暗くなっていく。
そうして、ぶつりと優希の意識は途切れた。
そんな風に突然苦しみだしぐったりとして動かなくなった優希を見やった奏子がニャルラトホテプ睨み付け、口を開く。
「ねえ、お兄ちゃんになにしたの!?」
「なに、私がこの人形に与えていたものを返してもらっただけだが?」
「どういうことだ!?」
ニャルラトホテプの意味深な言葉に、明彦が聞き返す。ニャルラトホテプから与えられていたもので、取り上げられたから死にそうになるほどのものとはなんなのか。明彦にも、メティス以外の他の人間にもそれが予測出来なかった。
そうして、戸惑っている様子の特別課外活動部を見てニャルラトホテプは喉を鳴らす。
「その様子を見るに、私の化身のひとつを消したあの忌々しき男の魂と死した赤子を再利用して新たな
そう語ったニャルラトホテプはニヤニヤと気味の悪い笑みで湊と奏子を見つめた。本心から、親切にしてやってるんだぞと言わんばかりに。
湊と奏子はそれを睨み返す。
そんなふたりとは逆にメティスはしばし思考したあと、あることに気がついて顔を上げた。
「優希さんが与えられていたもの…私が喜ぶ……? まさか…! 優希さんを元の死体に戻したと…!?」
メティスがニャルラトホテプの言葉に目を見開き、咄嗟に叫んだ。
「湊さん! 優希さんに黄昏の羽根を! 魂が身体から離れてシュブ=ニグラスに回収される前に! 早く!
「っ!!!」
メティスのその言葉に湊が駆け寄り、首元に手を当てるも生きていれば触れるはずのそれがない事に愕然とする。
「何を驚くことがある? 最初からそれは死んでいた。私が仮初の命を与えてやっていただけにすぎない。動く死体だよ、それは」
「そんなことない!!!」
奏子が叫んで否定する。
「お兄ちゃんは生きてる!!!! 生きてるの!」
「だが、それはたった今、死体に戻った。ならば何も変わらんだろう。黄昏の羽根とやらで生命力を補ったところで穴の開いた器から水が漏れるのと同じことだ。有里奏子、ひとつ教えてやろう。そういうモノを、『無駄』または『徒労』というのだよ」
「何を言っている…ッ!」
「どういうことですか、それ…」
ニャルラトホテプの言葉に美鶴とメティスが怪訝な顔をする。
たとえ元が死体でも、蘇生されたのなら、腐ったり完全に死んでいないのなら、先ほどまで生命活動を行っていたのなら、黄昏の羽根で生命力を循環させ、魂が身体から離れるのを防げば何とかなると美鶴はともかくメティスはそう思っていたのだ。
だというのにニャルラトホテプはそれを無駄と一蹴した。
そんな、何も知らないと言わんばかりのメティスを、ニャルラトホテプは嗤う。
「近くで触れていたというのにお前は気がつかなかったのか? なんの
魂の量にも限りがある。それを燃料としてつかっていたのなら、最初は完全にできていた巻き戻しもその燃料が少なくなればなるほどできなくなる。そこで無意識に優希が選んだのが必要の無い記憶を燃料にすることや自分の身体の状態を撒き戻すことに割く力を減らすことだったのだろう。
そうメティスは予測した。
「優希さんはこれまで途方もないくらいの繰り返しを行ってきた…つまり、もう魂もボロボロ……? だから2009年4月6日時点の“
肉体を表面だけ回復させても、魂という生命活動に必要なもうひとつのものが壊れかけているのなら、その穴から徐々に水漏れするように命が漏れ出してしまう、と暗にニャルラトホテプは語った。
そして、魂を損なった身体は例え見かけが健康体だとしても何の補助もなしに長くは生きられない。だから無駄だと断言したのだ。
「まったく、嘆かわしいことにそうなるだろうな。だが、アレを目覚めさせるには十分な物だ。クク、その身体に残っているといいな?」
ニャルラトホテプは最初から
どうやっても救えないと自覚させつつも、希望をちらつかせ、その魂が摩耗して消えるのを待っていたのだ。そうすれば、優希が諦めずとも自動的にニャルラトホテプの勝ちになるのだから。
そのついでに人の業によって人類を滅ぼせるとなればニャルラトホテプにとって愉快なことこの上ない。
そして、ニャルラトホテプはニタリ、と嗤うと奏子を指さす。
「有里奏子。お前達も私と
「知らない…そんなこと、ない…」
と言えば、嘘になる。
ニャルラトホテプの言っている『選択』は奏子には覚えがないが、9月に優希に一度拒絶された際も、カダスで自分の知らない兄の姿を見たときも、なぜかそんなループをしているという兄を知っている風な湊を知った時も、疎外感を感じていた。
どうして自分は何も知らないのか、と。
ニャルラトホテプは否定しきれない奏子を見て笑みを深くする。ここに
「嘘はいかんなあ? なあ、有里奏子。だが──そうだな、私は今とても気分がいい。嘘を吐いたことを許し、いま、
「や、ああああああ!?」
返事をする間もなく奏子は押し付けられ、突然襲ってきた記憶の濁流に悲鳴を上げる。
痛み。感情。光景。匂い。刺激。
バチバチと視界が何度も弾け、見たくもない光景が垂れ流される。
湊が覚えていて、奏子の覚えていなかった周回分の記憶が一気に奏子に流れ込み、それに耐えきれなかった奏子の脳はそれらを処理できずに意識を強制的に落とすことに決めた。
「テメエ…ッ!」
聞こえた悲鳴にニャルラトホテプを一瞬睨み付け、意識を失い倒れる奏子の身体を抱きとめたのは、荒垣だ。
「奏子ッ! おい、しっかりしろ!」
「う、うう…」
それでも、なんとか夢として処理をしようとしてるのか、奏子は呻く。
脳が負荷に悲鳴を上げているのか、奏子はぶるりと身を震わせて冷や汗を流し始めた。
そして、ぐんぐんと体温が上がっていく。
「奏子ちゃん、熱がどんどん上がってきてる…! はやく休ませないと…!」
風花が奏子の額に手を当てて焦る。
脳が必死に記憶の濁流を処理しようとして意識を落としたのはいいが、それでもなお余りある記憶の量に負荷がかかっていて発熱しているのだ。
要するに、パソコンと同じようなものだ。本来は処理しきれない量の情報を処理しようとすれば、当然全力の性能で動かすことになる。
そこで、ショートするか発熱しながらも処理するか。
どちらかといえば後者が奏子の脳で起こってしまっているというわけだ。
「奏子…!」
ニャルラトホテプの行動により突然悲鳴を上げた奏子に湊は咄嗟にそちらを向くも、荒垣に抱えられたのを見て「息を止めてしまった兄を何とかする方が先決だ」、と懐をまさぐる。
教主との戦いの時に全滅した際は、奏子の持っていた黄昏の羽根だけが効果を発揮した。なので湊の手にはまだそれが残っていたことが幸いだった。
元は兄から奏子へ渡されたそれが、まわりまわって自分たちの命を救い、兄の命をも救おうとしていることになにか作為的なものを感じるも、湊はそれを無視して黄昏の羽根を優希の胸に押し当てる。所持者が死亡なりなんなりしたときに効果を発揮するなら、死んでいる人間に押し当てるか触れさせれば効果を発揮させることができるのではないかと湊は予想したのだ。
そしてそんな湊の考えは当たり、すぐさま黄昏の羽根は淡い暖色の光を放ち、身体の中に溶けて消えていく。
しばらくしてゆっくりと心臓が動き出し、小さいながらも呼吸も再開する。
そのことに安心した湊だが、優希はピクリとも動かない。目を覚ます気配もなければ身じろぎひとつしないのだ。
一カ月前と同じ状態に逆戻りしてしまったような感覚に湊はゾッとした。今度こそ、居なくなってしまったら。本当に魂が身体から抜けてしまっていたら。もう、
そんな湊をニャルラトホテプは嘲笑うと同時に哀れむ。
「人形と有里奏子を休ませたいのだろう? ならば、行けばいい。私は引き留めようなどとはしていないのだからな」
口先だけの言葉を吐き、やることはやったとニャルラトホテプは霧の中へと溶ける様に消えていく。
残されたのは優希と高熱に倒れた奏子を囲む者たちだけだった。
「…とにかく、寮かどこか安全な場所へ行きませんか。ここだと影時間が終われば目立ちますし…優希さんや奏子さんをそのままにしておくわけにもいきませんし」
優希と奏子の惨状を見たメティスが顔を顰めて帰る事を提案すれば、そこで意識を失っていた朔間が意識を取り戻す。
ダメージは見た目ほどないらしい。
「う…、」
そうして、ふらりと立ち上がって絶望をしたような表情で優希を見つめた。
「...ゆう、き」