目を閉じて即座にすうすうと寝息を立て始めた優希を見て、湊は思った以上に兄が消耗していることを自覚した。
以前の兄は確かに寝つきが良かったが、話し合いの途中で──しかも小休憩中にすぐさま寝てしまうということはなかった。本人としては寝るつもりはなく、ちょっと目を閉じて頭を休ませるだけだったのかもしれないが、完全に寝入ってしまっている。
これでは、約束の10分後には自力で起きてこれないだろう。
「お兄ちゃん、大丈夫そう?」
「うん。寝てるだけっぽい」
心配するように近づいてきた奏子が優希の顔を覗き込む。
伏せられた瞼は奏子がこれだけ近づいても開く様子はない。いつもなら近寄ってきた気配か話し声ですぐに目を覚まし、目を開くというのに。
「お兄ちゃん…すごく気に病んでたみたいだよね。自分が、ほんとのお兄ちゃんじゃ…“有里渚じゃない”からって」
「僕らからしたら、優希しか知らないんだし、ホントの兄じゃないって言われても実感ないよね。優希は優希のまんまだし」
「だよね…別に、殺したわけじゃなくてお兄ちゃんになろうとしてなってくれたんだよね? わざわざ、いろんなものを犠牲にして。……なんか、己惚れだけど愛されてるね、私たち」
奏子はそう言って少しだけ顔にかかっている前髪に手で触れた。
「…ん…」
僅かに優希が身動ぎするも、目を覚ます様子はない。
湊としても、奏子としても兄の人格が元は人間ではなく、『時を操る神器』そのものだった、と言われても失望も怒りも何もなかった。少しの驚きはあったが。
兄の在り方が変わらなければニャルラトホテプだろうが『
それは、綾時を受け入れられていた湊と奏子の感性によるものであるが、ふたりの知る人外たちが軒並み人間らしすぎるというのもあるのだろう。
カダスのナギサしかり、綾時しかり、朔間しかり、メティスしかり。
ベルベットルームの住人は良い意味でどこか抜けているのでノーカウントだが、話に聞くような鼻につくような傲慢ちきな態度もなく、兄は変わらず兄のままでいるのならそれでふたりは良かったのだ。
そして発端が自分たちということに多少の罪悪感はあれど、何となくその為にすべてを賭けて兄として生まれてきたこと自体に優越感も感じていた。
ただ見ていただけの存在に、他者から願われたからとそこまでするのかと。
明らかに領分を超えている。
『時を操る神器』としても、放置してそのまま時間を流しておけば1人の人間の死など些事で、あっという間だったろうに救うために力の殆どを使ったとなれば──湊と奏子は正直やめさせたいと思っているが──今もこうして魂を、自身を燃やしながら血反吐を吐いて試行錯誤し、救おうとしてくれていることを『愛』と表現せずになんと例えればいいのか。
その根底にある感情は恐らく、10年前の事故の時に車から命がけで湊と奏子を逃がしてくれた母親と何ら変わらない。
ニャルラトホテプとかいう、“かなりいけ好かない”にランクアップした輩が聞けば嘲笑ってきそうだがそれでもよかった。
湊と奏子からしたら、最初から兄は優希しかいなかったのだから。
誰かから無理やり席を奪ったのではない。元々空白だった席に
「どうすればお兄ちゃんはお兄ちゃん自身を許して…愛してあげられるんだろうね」
「わからない。…けど、難しいだろうね」
奏子の言葉に湊は顔を顰める。
湊は優希と殴り合い、あそこまで言ってもまだ兄が何もわかっていないということを分かっていた。
単に、今の優希は崖から飛び降りそうになっているのをあと一歩というところで立ち止まっているだけだ。
それもモコイという親しかったらしい悪魔の言葉だけで踏みとどまっているに等しい。その言葉よりも、もっと大事なことが起これば優希は即座にその崖から飛び降りることを厭わないだろう。
だからこそ、ひとりにはできない。メティスの言ったことが本当なら、自分たちは3人全員がこの先も生きていかなければならない。誰か一人でも欠けることは許されないのだ。
それは義務でもなんでもなく、感情から来ている。
「三上は寝ているのか?」
そんなことを考えていれば、なにやら朝倉と話していた美鶴がソファーへと歩み寄って聞いてくる。
「うん。ぐっすり。ほんとにこの後起こして良いのかなってくらい」
「そうか…三上としても疲れているだろうしな…」
愛おしむように眠っている優希を見つめた美鶴は、すぐにその表情を元に戻す。
「先輩、どうするんですか? お兄ちゃんとのこと」
奏子が問う。
奏子自身、考えたくなかったが兄の命はもう長くない。優希自身がそう自己申告してくるということは、そうとう無理をしているに違いないと思っている。
だからこそ、そんな兄のことが好きだと言っている美鶴にどうするのか、を問うたのだ。
美鶴は大財閥の娘であり、跡取りでもある。そんな立場や責任のある美鶴がほぼ死に体の兄と結ばれるのはあまり良くないだろう。本人にとっても、家にとっても。
それこそ、父親である武治から許しが出るとはとても思えない。
「…私は、このまま有耶無耶にはしない。終わりが近いというのなら、終わりまで付き合う。そしてその後もずっと想い続けるだけだ」
それは優希が死んだ後も独り身を貫くと言っているようなものだった。
何もそこまでしなくても、と奏子は口を開こうとして、やめた。
奏子自身ももし恋人である荒垣が死んだとして、他の誰かに気が向くかと言われたら、絶対にない。
時間が過ぎて、もし誰かと結婚することがあろうとも荒垣を想い続けることはずっとするだろう。忘れられるはずなんてない。無かったことにはできない。
そんな美鶴の想いを理解してしまった奏子は視線を下げた。
「朝倉という医師から聞いたが…三上は機械を“誤魔化して”まで平静を装うとしたらしい。タカヤに話したらしい三上の話からすると、デスの欠片であるヒュプノスを内包していたおかげか無意識に機械を改竄することが容易だった、と。だからあの医師にすら答えを出しかねていたという。だが、嫌でも気がついたのだろうな」
あの朝倉でさえもタカヤに向ける美鶴の言葉と態度に何かを察して「優希は長くはない」と今まで誤魔化していたことをはっきりと告げたという。
その時の顔はやるせなさが滲んでおり、同時に「どうして何もできなかったんだ」という後悔もあったように美鶴には見えた。
「オレ達は、巻き込むことを恐れて足を踏み入れなかったからこそアイツをあそこまで追い詰めてしまった。無理やり聞いてれば、何か変わったのかもしれねえってのにな。支えてやるのが…事情を知ってる大人の仕事だっていうのに、なにも…」と、責任を感じているようなボヤキまで含めて。
優希本人が聞けばそんなことはないと否定するような朝倉の後悔は美鶴からしても負うべきではないものだ。朝倉はこの事件に直接関係はない。それどころか、外部の人間であるのに美鶴たちに協力しようとさえしてくれているのだ。
優希がボロボロになっていることに責任があるのなら、それは桐条のものであり、仲間である自分たちに他ならない。
決して、朝倉のせいではないのだ。
朝倉も根本は優希と似たような性格だと感じ、苦手に思っていたがそうでもないのかもしれないと美鶴は考え直した。
「…私たちが止めたとしても、三上は進むだろう。なら、せめてその道を歩きやすくしてやるくらいはできるのではないかと思っている」
そうは言ったものの何の力になれるのかわからない。
もしかしたら、力にすらなれないかもしれない。相手は、『ワイルド』という特別な力を持つ奏子と湊のふたりでも命を懸けて封印することしかできなかったニュクスをさらに取り込んだ相手だという。そして、優希が倒すのではなく抱えて共に消えることを真っ先に選ぶくらいには厄介だと。
優希やメティスの口ぶりからして、美鶴たちのような“普通”のペルソナ使いが立ち向かえるとは到底思えない。
乗り越えるという決意と覚悟はあるが、実際にはどうすればいいのかわからないのだ。
「違う。僕らは先を歩くのでもなく、後ろを歩くのでもなく、優希の隣に立たなきゃ」
小さく、湊が否定する。
1人に背負わせてはいけないことを、湊は良く知っている。それは、即ちその“1人”が居なくなってしまえば優希が語った『
みんなが、平等に背負わなければならない。
「そうだったな。私たちはみんなで並んでいかねばならない。誰かについていくというのは思考を停止できて楽だが、それがいけないことだということを嫌というほど味わったばかりだったというのに…」
幾月のことを思い出し、それではいけないと美鶴は首を横に振って考え直した。
美鶴は、幾月を信じていた。信用していた。だからこそ、ここまでやってきていた。だが、それこそが幾月の掌の上で、全て利用されていた。
自分で考えることを放棄していたからこそ、微塵も疑問を感じなかった。
「…そろそろ、時間だな」
時計を見た美鶴がそう呟く。10分はとうに過ぎていたが、話があったため黙っていたのだ。
しかしそろそろ再開しないといけない頃合いだろう。このまま長引けば影時間になってしまう。
ストレガはともかく影時間に適応できていない朝倉達を1時間ラウンジで放置というわけにもいかなければ、今は元気そうだが昼まで高熱を出して寝込んでいた病み上がりの奏子とこうして今は眠っている優希をこれ以上部屋で寝させないわけにもいかない。
「三上、起きてくれ。10分経ったぞ」
声をかけて、揺さぶる。
「……うん…?」
小さく呻いてゆっくりと顔を上げた優希は目を開いていたが焦点が合っていない。
寝起きそのものだ。ぱちぱちと何度か瞬きして、「んー…」と唸りながら頭を振った優希は口を開く。
「おれ、ねてた…?」
「ああ…だが、そろそろ話の続きをしてしまわねばならん。あまり遅くなるのも考えものだからな」
「ん……ごめん…」
そんな寝ぼけた様子の優希を見ながら、朝倉は少し離れたテレビの前で尚也や麻希に話しかける。
「クズノハの話だとごくたまに、いるんだとよ。無自覚な現身や神魔の転生体だったり悪魔の好む特殊な魂や因子を持って生まれてくるやつが。だいたいは保護されてたり囲われてたりとそれなりに縛られた人間として生きてたりするみてーだが…アイツは野放しにされてたそういう存在だったっつーこと、なんだよなあ…そりゃめんどくせーことに色々巻き込まれるわけだ。そっち方面は流石に思いつかなかったわ…」
朝倉は頭を抱えた。
悪魔である可能性や悪魔になってしまった可能性ばかり考えていたが、転生体なら話は別だ。そう例えるには経緯が特殊過ぎるが。
そして、ニャルラトホテプの化身となってしまったという話が本当なら、優希自身が己を
つまるところ、ペルソナの制御剤はニャルラトホテプの肉体と同じ成分から作られていることになる。それ即ちマガツヒかマグネタイトということになるかもしれないが、それらは身体を構成する触媒なだけで別の物に変異していることの方が多い。
ネガティヴマインドの化身であるニャルラトホテプの力なら血であろうともそれに近い物質であろうとも、ペルソナを無理やり抑え込むことは可能であるし、あの邪神のことだ。面白半分で使用者にはとばっちりを、と言う意味であんな激烈な副作用をつけたのだろう。
そうでなくては朝倉たちが簡単に副作用のほとんどない制御剤を作れるはずがないのだから。
元々、副作用が無くても済むものに嫌がらせで副作用をつける。使用することに対しての葛藤をも、あれは面白がっている。
ほんと、性根が腐ってるな、と朝倉は内心で唾を吐き捨てた。
「私が見たあの『心の海』の絵がなんでああなったのか、三上くんが語ったことが本当なら、なんだかわかる気がする。あの子自身が、真っ黒に塗りつぶされてたからなんだね…」
麻希も、優希の描いた『心の海』が真っ黒に塗りつぶされていたことを思い出し、視線を下に下げた。
本当にニャルラトホテプの化身だというのなら、あの真っ黒な絵も当たり前だろうという想像からだ。
実際は、心の海の奥底にある“カズムの深淵”のさらに奥へと無意識に帰化しようとする『時を操る神器』と、混じった『もう半分』としての優希の帰巣本能のようなものが反映されてしまった結果であったが、それを知るものはフィレモンとニャルラトホテプ以外には居ない。
「なあナオリン。この話も南条の方に持ってくのか?」
「……一応、資料としてはまとめておくべきだと思っているしその準備はしてる。けど、」
尚也は朝倉の問いに言い淀む。
フィレモンやニャルラトホテプが関係していて、この先の事を考えるならもちろん南条へと持って行って後学の資料にすべきだ。だがここに来て、南条だけでなく桐条に渡すのもいいのではないかという気持ちも湧いてきてしまったのだ。
もしくは、このまま秘するべきか。
尚也は決めかねていた。
許可なく自分たちの情報が資料にされているとなればいい気分はしないだろう。
それも、1人ではなくここまでの大所帯となってしまえば尚更だ。
「ま、資料を送るかはともかく相談するくらいは良いんじゃねえの。それに南条の力もある方がいいだろ。敵はデケえからな」
朝倉はその迷いを流した。
ニャルラトホテプも相手としては十分規格外だが、滅びそのものが牙を剥いてくるとなれば味方は多い方がいい。
こんな巨大な敵に対し、たった10人ぽっちの高校生に立ち向かわせてしまうなど、朝倉の大人としてのプライドが許せそうになかった。
それに、1人は死にかけだ。見ないふりをしろという方が無理だろう。
再び、皆が集まり話が始まりそうだったので朝倉はそこでその話題を切り上げて移動する。
「ええと、どこまで話したんだっけ…」
ぼんやりと、未だ眠そうな顔のまま優希が視線を下に落とす。
朝倉としてはこのまま休んでもらっても構わなかったが本人が今日で済ませた方が良いと考えているのなら止める必要がなかった。
「そうだ。俺が、ニャルラトホテプの化身だったって話はしたけど…ニュクス教の教主……あれも、俺なんだ」
「そういえば…昨日そんな事を言ってましたね…でも、あの時…蛇頭黄幡神との戦いの時の三上先輩はどう考えても先回りできるような状況じゃありませんよね? だって、先輩は私や奏子ちゃん達を見送ってたし…」
風花の問いに優希は曖昧に頷く。
「あれは…そういう移動を短縮する装置か力かなにかがあったんだと…思う。あと、朝倉先生の腕の骨を折ったのは…多分俺だと思います。ごめんなさい」
優希が頭を下げる。
「多分自分だと思う」という曖昧な言葉に、朝倉は首を傾げる。そこまで自覚があるのなら、はっきりと覚えているものでは無いのかと。
「別に良いけどよ。たぶんってオマエ…なんだよ曖昧だな。オマエが教主だったってんならオマエしかいねーだろーよ」
「そ、れは…その、俺が変だった時期があったじゃないですか。あの頃、ニャルラトホテプに操られるような土壌が作られていたみたいで…とはいえ完全に操れる訳じゃなくて催眠みたいなものだったんですけど。指定の日時になったら教会にいる神取に会いにいくようにされてて、そこでまた教主として振る舞うよう暗示をかけられて…って感じらしいです。だから、その間のことは俺、まったく覚えてなくて…意識的には完璧に寝てたんだと思います」
「あー…」
朝倉は苦い顔をする。
確かに11月の初め頃、喋るのが疲れるだのなんだのと妙にぼーっとしていた日があったなと思い出した。あの時はちょうど朝倉の腕が折れていた時と重なる。
何も喋らなかったのも、ギリギリで朝倉たちを見逃したのも、全て催眠をかけられていたからで、思ったよりも朝倉たちが遠くまで走ったせいでその暗示の制限時間が来てしまったのだろう。だから、急に興味を失ったように踵を返して帰っていったのだ。
随分と時間厳守な教主サマだこと、と朝倉は内心でクスリと笑った。正体と仕組みが分かってしまえば朝倉にとっては可愛いものにしか映らない。
「その催眠のようなものが完全に解けたのも──ついこの前で……タカヤ達が出かけていったあの日。影時間に目覚めた俺も無意識に病院から抜け出していたんです。役目を果たすように、タカヤ達をなぶってみんなを誘き寄せる餌にするために。その必要があったから」
「やはり、あれはあなたでしたか…」
優希の言葉にタカヤは納得した。
あの時聞いた「どうして」という戸惑いの声はやはり優希のものだったのだと確信がもてたからだ。
その戸惑いはタカヤ達が生き返ったからではなく、自身がしてしまったことに対して向けられていた。おそらくあの時正気に戻ってしまったのだろう。
弟妹を含む大事なものたちを1度己の手にかけ、よくそこから狂わずに平静を装えたなとタカヤはその異常性に慄いた。常人ならば、かつての優希ならばその場で事実に耐えきれずに発狂しているだろう。
否、既に狂いきっているからこそ止まりようが無かったのかもしれない。1度殺したにせよ、全員生き返ってなんとかなったのだからあとは己のやるべき事をやるだけだと、覚悟していたからこそ止まらなかった。それだけの事だったのかもしれない。
「ごめん、みんな」
もう一度、優希は頭を下げた。
一方、湊はニャルラトホテプが優希を「人形」と呼ぶ意味をようやく理解した。あの時湊を刺し殺したのは優希であり、そんな洗脳じみたそれに抗えずあの空虚な反響音のような言動しかしなかった教主としての姿は正しく操り人形のようだったからだ。ニャルラトホテプにとって兄は本当の意味で「人形」だったのだろう。
そして奏子があの時の教主を優希だと認知したのはその本質を垣間見てしまったからなのだと予測する。だからこそ、神取はその目を塞いだ方が生きやすいと忠告してきたのだ。
物事の本質が常に見えてしまうというのは辛いものだ。多少はフィルターにかけて見ておかないと、普通の人間では耐えられない。
奏子の性格によって今まで大事になっていないだけで、もっと真面目な融通の効かない性格であったなら相当生きにくい人生を歩む所だったはずだ。
「じゃあよォ、オレの腕が治ったのはどういうこったよ。普通骨折が即治るなんてこと、ねーだろ」
「そ、それは…たぶ、ん無意識に力を使ってしまったというか……先生の腕の時間を折れる前までに巻き戻した…んだと思います。すみません、ちゃんと答えられなくて。ほんとに、あの頃のことはぼんやりしてばっかりで今でも微妙で…」
朝倉がどういう事だと訊けばまた曖昧な返事が返ってくる。
休憩をとる前までのあのハッキリとした答えようとはまた違うそのもにょもにょとした答え方に「本人でもよくわかっていないんだろうな」という感想が朝倉の中で浮かんでくる。
そりゃああれだけぼんやりしていて朝倉の下らない冗談を真に受けるような隙しかない人格なら、簡単に操られもすると朝倉はため息を吐いた。
そもそもが幾月というニャルラトホテプの化身だったという男が優希の精神を粉々にしてしまうくらいの仕打ちをしたのが原因なのだから、回り回ってニャルラトホテプの仕業でもある訳だ。
もしくは精神が砕けてしまったのを操る好機ととったか。
「別にいいぜ。結果的に腕は治ったんだし問題ねぇ。もう操られはしないんだな?」
「そこは大丈夫です。俺はもう俺だってちゃんと意識してるので。それに、自分はもう化身とは別物になってしまったのでヤツもあまり干渉できないと思います」
だが、人に戻れたのなら別物になったなどとは言わないだろう。
なにか含んだような言い回しに麻希が首を傾げる。
「化身とは別物になった…? 三上くん、それってどういうこと? 人に戻ったってことなの?」
「違います。俺は昨日、ニャルラトホテプから与えられていた仮初の命を取り上げられました。その時に、死体に戻ったんです」
「!」
朝倉達は目を見開く。
優希の言葉が本当なら、どうやって今喋って動いているのかが理解できなかったのだ。
ただ言葉は挟まずに続きを待つ。
「でも、湊が…弟が黄昏の羽根という物質を俺に使ってくれて今は何とか生きている感じなんです。だから、俺の中に残っているのは『時を操る神器』としての部分と、ニャルラトホテプの化身部分
「あ? シュブ=ニグラス? なんだそれ…」
朝倉はここで突然でてきた名前にはてなを浮かべる。またよく分からない神魔らしき存在の半分をなぜこいつが持ってるんだとめちゃくちゃな状況に首を傾げることしか出来ない。
「あ…そっか、タカヤ達や朝倉先生たちにはまだ説明してないんだった」
そこで「忘れてた」と言わんばかりに優希は呟く。
本人としては説明した気になっていたのだろう。
「シュブ=ニグラス。それが今回俺たちが立ち向かわないといけない敵なんです」
「敵はニュクスじゃないのか?」
尚也も疑問を感じたのか同じように首を傾げた。先程まで、倒すべきはニュクスなのだと話していたにもかかわらず、突然でてきたシュブ=ニグラスという名前とそいつが敵なのだと言われても関係性が分からない。
しかし優希は首を横に振る。
「それを説明する前に、まずはニュクスが何か、というのを説明しなきゃいけなくて…まあ、端的に言ってしまえば月そのものなんだ」
「!!!」
「は? え? あの、それって、空に浮かんでる月、ですよね? ほんとに?」
戸惑うようなゆかりの反応も仕方がないだろう。
突然、戦うべき敵だった存在が今も当たり前な空に浮かんでいる月だと言われて混乱しない方がおかしい。
「こういうのは俺じゃなくて綾時くんの方が説明に慣れてるだろうし、出来ればバトンタッチしたいんだけど…いいかな?」
「…わかったよ。お兄さんがそう言うのなら」
「へ? なんでリョージなんだ…? だってリョージは関係ねーじゃん…?」
順平が更に訳がわからない、と混乱する。事情を知るもの以外は他の面々も何故いま綾時の名前が出たのかがわからないようだった。
それもそうだ。綾時は幾月や武治達と同じ、ペルソナ能力を持たない影時間を体験できるものとして説明されていたのだから。
それなのに突然話の核心に近いニュクスについての説明を優希から丸投げされて答えられる立場にいる、と言われれば訳が分からないと思っても仕方のない事だった。
そんな、決していいとは言えない空気の中綾時は口を開く。意を決して。
「僕は──“デス”だ」
「!?」
「はあ!?」
綾時の発言に今度は動揺が走る。元々聞いていた
だというのに今度は綾時がデスを名乗れば二重、三重に混乱してもおかしくはないだろう。
「いや、デス
「でも、あなたからはそんな反応はひとつも…」
アイギスが困惑したように綾時を見つめる。
アイギスとしても『ダメ』だと思ったのは優希と朔間だけだ。綾時のことはノーマークで、あの激闘を繰り広げ倒すべき敵だっただなんて言われても到底信じられない。
どこからどうみても、アイギスの機械としての判断も、綾時を“人間”だと判断しているのだ。
「そりゃあそうだよ。僕の“デス”としての殆どをお兄さんが取り込んでしまったからね。残っているのは湊と奏子ちゃんに残したペルソナとしての力くらいさ。僕自身はちょっと変なだけのただの人間だよ。いま考えたらお兄さんが僕らの力を取り込めたのも元は『時を操る神器』という僕らの兄弟にも等しい存在だったからなんだろうね」
綾時はかつて、ファルロスだったころに気がついていなかった。
8月末、ファルロスと話をした後に湊は優希の部屋を訪ねた。その際に己の力の殆どを優希に“食われて”いたのだ。
その行動を選択したのは湊が意識を失う直前に優希を介して現れた
だが、その力の殆どは優希へと送られてしまった。だからこそ、
「本来は…お兄さんが語った『かつて』では僕が死の宣告者となって、ニュクスの代弁者──ニュクス・アバターとしてきみたちと敵対するはずだったんだ。でもお兄さんが僕の代わりとなってしまったから、それも変わってしまった」
「お前たち、関係性がめちゃくちゃじゃないか…?」
「元々一つだった存在が三つに分離した。そしてその中で誰が本当の
要は王位継承争いのようなものだ、と優希は例える。
強いものがより弱いものをとりこんで王となる。それと同じなのだと。
『今回』は最初に
そこから何度も大型シャドウの捕食を繰り返し、狂いながらその身に適応させていってしまったがために優希は死の宣告者となってしまった。
適性で言えば本来の13番目のシャドウであるファルロスが一番適しているのだ。そこを、その欠片であるヒュプノスが奪い、本当はそこでせき止められなければいけなかったのに、適性が低かったために優希へと流れてしまったこと。果たしてそれは本当にたまたまだったのだろうか。
綾時は疑っていた。どうして、突然ヒュプノスは大型シャドウを喰らおうなどと思ったのだろうか。もしくは、
この状況も想定内だったのではないかとすら思えてしまった。だが、綾時にはそれを聞けるほどの度胸はない。もし訊いて、獰猛な笑みを浮かべられてしまったら。
今の綾時は心の端で優希という“王者”に対し、恐怖を覚えているのもまた確かだった。
それは、本能的な畏れだ。恐らくタルタロスのシャドウですら、今の優希には近づこうとすら思わないだろう。
うまく
さらに言ってしまえばそれは本来のニュクスに近いものでもあるため、畏怖される存在には何も変わりない。
「僕は元デスだったからこそ、ニュクスについての説明を何度もしてきたからね。だからお兄さんは僕に説明を任せようと思ったんでしょ?」
「まあ、そうなる。俺の言葉だと、たぶんうまく説明できないし。…説明は別にメティスでも良かったけど」
メティスを見ながらも「
「と、いうことで僕が説明するよ。とはいっても大事なことはもうお兄さんが言っちゃったんだけど…母なる者──ニュクスは太古の昔、この星と衝突し、“死”なるものを授けた僕らシャドウの母たる存在だよ。目覚めれば、星は純粋なる死に満たされて、全ての命は消え失せる。その実態は彼女の精神、そして肉体から放出される滅びさ」
「すべての命が消え去るだと…? じゃあ、影人間はなんなんだ…!? ありゃあ、死んでる訳じゃあねえ! 緩やかな滅びを迎えるってんならそんな表現しねえだろ…なあ!?」
朝倉は叫んだ。
確かに滅びが来るとは聞いていた。だが、その内容が突飛すぎるのだ。
そして影人間との関連性も。
「影人間は…僕にもわからない。大型シャドウによって生まれてしまう、弊害のようなものなのだけれど……ニュクスのせいじゃない事だけは確かだ。人の弱さが…もしかしたら、自分の弱さから目を背けてしまったから、ああなってしまったのかもしれないと僕は予想しているんだ」
「…そうかよ。で、ニュクスってやつを殺せはしねえんだろ?
朝倉は腕組をして面白くないと言いたげに息を吐いた。敵が強大なことはわかっていたが、生命に死をもたらしたものだとすれば倒してしまった方が問題が出る。
「…確かに、ニュクスの前では力の大小なんて問題じゃない。死なない命が無いように…時の流れを止めてしまえないように…ニュクスを消すなんてことは…決してできない。でも、さっき言われたみたいに…封印することならできる。優しい、これまでと同じ穏やかな眠りにつかせてあげることはできるんだ。だから、『かつて』のふたりは…」
「…わかった。もういい」
悲痛な顔をしている綾時から顔を逸らして朝倉がストップをかけた。これが、勝ち目のなさすぎる戦いだと理解できたからだ。
「ここで、俺の話になるんだけど」
優希が空気を読まずにそこで割り込む。
「どうして、シュブ=ニグラスという存在が出てきたのか。どうしてニュクスが目覚めたのか。その話をしたいんだ。そしてそこから、“解決方法”を得たいと思ってる。…解決できるかはわからないけど」
倒すのではなく、解決する方法が知りたいのだと優希は言い放った。シュブ=ニグラスとやらもニュクスと同じく封印するのか。
だが、その口ぶりからするとそうではないのだろうなと湊と奏子は察する。封印するつもりなら元々アテを優希は得ているはずなので、こんなことを言わない。
「まずは、事の発端は“人類の死に触れたいと思う感情”が増えたことに起因するんだ。普通に生活を送っていれば、時が進めば霧散してまたなんともなくなるはずだった。けど、結構情勢が荒れたり、人々がそういうことを望むことが増えてしまった。本来なら、そこまで爆発的に増えないそれは“セベク・ショック”や珠閒瑠市での出来事を介して一気に…暴走するみたいに増えたんだ。誰かに意図的に操作されているように」
「操作…? それって、もしかして」
麻希の言葉に優希は頷いた。
麻希も優希も、他の人間も想像している『誰か』は恐らく同じ存在だ。
「はい。人類はじわじわと──自業自得の面もあるけど、ニャルラトホテプによって“人類の死に触れたいと思う感情”や“滅びを求める感情”を増やしていきました。それは人類の総意に近いものとなるほど膨らみ、そしてふたつのものを形作った。ひとつは、死の宣告者たるデス。ニュクスを目覚めさせるための、人類が願った死への渇望──正しく『負の願い』の化身だよ」
「負の、願い…」
奏子がその言葉を反芻する。
兄や綾時がそんな存在だっただなんて信じたくなかった。ただ実験で生み出されただけの、そういう性質をもった存在であって、人類が望んだ滅びの体現者なのだと、“宇宙”のアルカナを得てみんなを守りたいと願った奏子や湊とは対極の位置に存在する、要は『逆位置の“宇宙”のアルカナの力そのもの』だとは思いたくなかったのだ。
「そしてもうひとつは、エレボスと呼ばれる存在。死の宣告者と似て非なる存在であり、シャドウではなく神として形作られた“人類の死に触れたいと思う感情”や悪意そのもの。こちらの方が、よりニャルラトホテプに近いと言えば近いのかもしれない、と俺は思っている。感覚的に言えば
「お触りって……変態野郎って…例えがなんだか卑猥じゃありません?」
「だって、そうじゃん…」
さわわ、と震えながら自らの身体をかき抱いたメティスは心底嫌そうな顔をする。生理的嫌悪を感じているようなその顔を、同じく優希も浮かべていた。
ふたりして気持ち悪そうにエレボスに苦い顔をしているのを見た湊と奏子は「ああ…やっぱり気持ち悪いって思うんだ」と遠い目をした。
「奏子と湊にお触りしたのマジで許せないしさあ…誰も許してませんけどぉ? まずは兄である俺に! 許可取れよ! 死んでも許可しないけどって感じ。シュブ=ニグラスのせいで無意識にアレに愛着を感じそうになってる自分がマジでキモい…うぐぐ…」
ギリギリと歯ぎしりまでして頭を抱える優希は恐らく、奏子と湊がニュクスを封印した後のことを言っているのだろう。
奏子と湊からすれば意識はあってないようなものなので気にしていないどころか情報としてしかしらないので何があったのかはよくわからないが兄がぷりぷりと怒るくらいにはなにかあったのだろうとしか予測できない。
そして優希も口が裂けても言えない。ふたり(の魂)がほぼ真っ裸で石にされて扉にはりつけにされていたなんてことは。
「じゃなくて…」
脱線しているのを自覚した優希は話を元に戻そうと気を引き締める。
「問題なのは、
「それが、シュブ=ニグラスです。かつて、シュブ=ニグラスは外宇宙から飛来し、紆余曲折あり月へと封じられました。ニュクスが居ない、
優希の言葉をメティスが補足する。
エレボスがなぜ、黒い山羊としての形をとったのか。
それは
「…シュブ=ニグラスは二つの相を持つ。男神の相と、女神の相。俺は、『前回』シュブ=ニグラスが目覚めようとしたときにその半分である男神の相を苦し紛れに奪った。破壊と創造、そのどちらかしかできないのなら、彼女はこの星に手出しすることもできないから」
「…? この星を滅ぼすのがソイツの目的じゃないのか?」
尚也は不思議そうに首を傾げた。
人類の滅びの意志がニュクスを、シュブ=ニグラスを呼んだのなら、そこに創造は必要ないはずだ。
「彼女は…この星の全ての生命をひとつにまとめて“産みなおし”、肉体と魂という枷から解放して個としての区切りも死も生も苦楽も総て無い、真の意味で平等な世界にしようとしている。それが、彼女が彼女なりに願いを曲解し、人類を“愛した”結果」
「そんな…」
優希は語る。シュブ=ニグラス自体は人類に対し悪意を持って何かを為そうとするほどの悪い神ではない。むしろ、好意的であり愛着を持っているともいえるだろう。
だが、願われてしまった『滅び』をシュブ=ニグラスは外から来た神であるために曲解した。
“滅びを願ってしまうほどに辛いのなら、苦しいのなら、『救済』してあげましょう──。”
この人類の住まう宇宙のコトワリではなく、外宇宙のコトワリを適用してしまったからだ。
優希は痛いほどシュブ=ニグラスの“愛”が分かった。しかしそれでは相容れない。愛の形が違う。それは自分たちの幸せではないのだと否定せざるを得ない。
だからこそ、戦わないといけない。それでも理解ができないのなら、共に消えないといけない。
「個としての区切りが無いって、私たちが私たちじゃなくなるってこと!? ふざけないでよ!」
ゆかりが青ざめて口の端を引きつらせる。
産みなおしがロクなものではないと予想はついていたが、ここまでの事だとは思わなかった。
滅びもロクでもないが、さらにその上で産みなおして何もかもがひとつになってしまうのが本当の幸せだとはゆかりには到底思えなかった。
「そうだよ。全部、みんな。人類だけじゃなくてこの星にいるすべての生命が溶けあい、ひとつになるんだ。けれどそこに個としての区別も思考も感情も存在せず、ただ在るだけなんだ。そんなの、認められないだろ? 生きているのか死んでいるのか、そのどちらでもないなんて、生き物じゃない。どちらもあるからこそ、俺たちは生きているんだと言えるんだから」
そんな方法では、救われたとは言わない。
はっきりと優希はシュブ=ニグラスを否定する。優希が望むものは“奏子と湊が笑って、これからも普通に日常生活を送ること”だ。そんなグチャグチャとした何かになるのが望みではない。
シュブ=ニグラスの救済は救済ではない。
逆に、幸せな『もしも』な
優希がもし、そんなことができる強大な力を得てしまったとすれば真っ先にそうするだろう。障害も、何もかもを取り除き、真の意味でこんな事件が起こらなかったことにする。途中からでも甘く優しい幸せな夢の中に全員を閉じ込めたって構わなかった。
けれど優希は選んでしまった。この事件があったからこそ得られた絆を無駄だと切り捨てることは出来なかったからこそ大まかな旅路を変えず、結末だけを変えることを。
──苦難があろうとも、