12月5日(土) 放課後
なんとか今日の授業をほぼほぼ先生の説明の声だけで乗り切り、美鶴さんと約束した放課後になった。
文字が読みにくいというのはとても不便だ。自分で書いた字でさえもあまり判別できず、常に眉間にしわが寄っている状態だったので機嫌が悪いか体調が悪いのかと朔間くん以外のクラスメイトにも心配されてしまった。
死ぬにしても何らかの奇跡が起こって死なないにしても、勉強はしておいて損はないし死ぬまでの間文字がずっと見えにくいというのも不便だ。期日まで2カ月ほどあるのに全部を投げ出す程自分は破滅主義者ではない。
「ポートアイランド駅の近くに良い職人のいる眼鏡店があるらしくてな。そこへ行こう」
「ありがとう、美鶴さん」
うきうきと少し楽し気な美鶴さんと校門から道路に出ながら会話をする。
今日はかなり寒い気がしたので首にはアザミさんから貰った青いストールを巻いているが、それでも寒い。
「いや、これくらいはさせてくれ。それに、今日は……デート、なのだろう? ふふ、こんなものが初めてのデートとはな…」
頬を赤く染め、照れたように笑う美鶴さんは可愛い。
「まあ、内容はメガネ作りに行くだけだしどっちかっていうとデートじゃないよね…ごめん。昨日は冗談言っただけだから気にしないで」
「いいんだ。それにまだ私たちは対外的には“友人”なのだから。あの時はああ言ったが…まずは父上に話をするにしても許嫁の彼をどうにかしないといけないからな…」
「ああ、あの…」
遠い目になる。
ウェイターさんに横暴なことをする性格があまりよろしくない許嫁さんだという話は以前聞いた。明らかに、美鶴さんと合ってないタイプであるし見えてる地雷だ。
どちらかといえば、あの
「まあ、そんなことはどうでもいいんだ。まずは、きみの眼鏡だ。私もきみに似合うものを選んでもいいか?」
「そりゃあもちろん。というか俺、そういうのは頓着ないから、その方がありがたいな」
許嫁のことを「どうでもいい」と一蹴した美鶴さんは明らかに前より吹っ切れていい表情をするようになってきている。
武治さんが生きていて美鶴さんが巻き込まれるような桐条グループ関係のごたごたがなくなって余裕があるからだろうか。しいていえば、自分がいることによってこうして許嫁関係で問題──というほどの事でもないかもしれないが話をしなければいけないことができているだけで。
そこから会話は晩御飯は外で食べるかどうか、眼鏡を作るのにも時間がかかるだろうし空いている時間にどこか寄り道していくか、などという話で盛り上がった。
ポートアイランド駅
映画館“スクリーンショット”前
「空き時間でちょうど映画が見れて良かったね」
「そうだな、とても有意義に時間が使えた。あの作品は前から気になっていてな。きみと見れて良かった」
眼鏡のフレームとレンズを選び終え、それが出来上がるまで1~2時間ほどかかると言われてしまったので空き時間をどこかで潰そう、という話になり、道中で話していた通りに映画を見ることにしたのだ。
ちょうど1時間半ほどのその映画を堪能し、今は映画館前の噴水のベンチで余韻に浸るとともに休憩中だ。
「定型的なロードムービーだが、感情の描き方が流石にうまかったな。全てを投げうって旅に出る姿…今の私には、どうも心に響いたよ」
武治さんが生きていても、桐条の娘という立場からは逃れられない。責務ある上流階級の人間であるということには変わりないのだろう。もしかしなくとも、いずれは美鶴さんも武治さんから桐条の代表を譲られるかもしれない。
自分が死んで他の人と結婚したり、もし許嫁と結婚することになれば、その人が桐条を継ぐのだろうが桐条の夫人という立場は何も変わらないだろう。それこそ、武治さんが美鶴さんを桐条から切り離さない限り。
「…ラストシーンで、日常に帰ると決めた主人公は…あの後、幸せになれたんだろうか」
「どうなんだろうね。もしかしたら、幸せになれたかもしれないし、なれなかったかもしれない。幸せか、不幸せかなんて誰にもわからない」
「そうだな…なあ、三上。自分のことなど誰も知らない、どこか遠く離れた場所…そんな場所へ行ってしまえたらと…」
言葉の途中で美鶴さんは一端口を閉じて首を横に振った。
「いや…きみはそうしようとしたのだったな。私はまだ2日の夜の事は許していないからな。私や有里達を置いて勝手に消えようだなんて言語道断だ。ましてや、殺してくれなどと」
「ご、ごめん…」
むっ、と睨み付けてきた美鶴さんに反射的に謝る。まだ喉元すら過ぎてないタイミングでもあるから、こういうことを言われても仕方がない事だと思っている。
それくらいのことを全部みんな忘れてしまうからとしようとしてしまった。させてしまおうとしてしまった。それがどれだけみんなの心を傷つけたのか、わかっていないわけではない。
ただ、絶対に折れないと自分で決意していたのに結局絆されてしまったのがダメだった。それだけだ。
「二度としないと誓うなら許してやってもいい。…別に、きみみたいな投げ出すような生き方に憧れてるわけじゃないんだ。ただ、人は時に、自分が大切にしているものによって手足を縛られる。グループの未来…宗家の娘としての責任…もしもなければ…と考えてしまう事は、正直ある」
美鶴さんが暗い顔になり、物憂えげな視線を地面に向ける。これは、本音だ。
こうしてポロリとこぼれてしまった、いつもなら出てこない本音。
「こんなことを言うのは、叔母上やお父様、お母様に申し訳が立たないかもしれないが…たまに、時たまに、“桐条美鶴”という名前にさえ、私は束縛を感じることがある…」
「美鶴さん…」
美鶴さんがこういう事を言うのは珍しい。それくらい、自分が美鶴さんを追い詰めてしまったのかもしれないと思うと、罪悪感が背筋から這い上がって来る。
ごめん、とまた謝ろうとして、その声が発されることはなかった。
「…いや、分かってる。こんな考えが許される分けないことくらいな…それに、“桐条”をやめられなくともきみに婿入りしてもらえばいいだけの話だ。母様には事前に相談して了承を得ている」
「えっ…? む、むこいり?」
むこいり。婿入り。婿入り!?!?!?!?!?!?アイエエナンデ婿入り!?
突然矛先がこちらへと向いて頭がフリーズしそうになる。美鶴さんの頭の中では将来、俺を婿入りさせることで決まっているらしい。お母さんには許可をもらったらしいけど、まだ武治さんには話してないよね!?
自分はある意味問題物件であるし、そんなこと相談して良く許可がおりたなというか、ほんとに大丈夫なんだろうか。心配になる。
「マナーや作法などは私が直々にきみを指導しよう。病弱な母様もやれたのだから、きみも大丈夫なはずだ。もちろん、ストレスが多い重役との会合や身体に負担がかかるようなことは出来る限りさせない。安心して私に任せてくれ」
「そういうのって男の俺が言うべき立場なんじゃ…」
弱い人を庇うのは男である自分の役目だと思っているし、なるべく矢面に立つべきなのも男である自分だと思うし、守られる立場ではなく守る立場で居たいと思っているのだが、美鶴さんからすると自分は守られる立場の人間らしい。
この死にかけの身体が心底恨めしい。いや、ある意味最初から死体なのでどうしようもできないとかは置いておいて。
「身体の強い弱いに男女は関係ないだろう。大丈夫だ。私がきみを守る」
「み、美鶴さん…」
俺の手を握り、真剣な目で夏の映画で見た白馬の王子様のようなかっこいい台詞を吐く美鶴さんに、涙が出てくる。
嬉しさではなく主に情けなさで。モコイさん風に言うなれば“ションボリさん”だ。
そういうのを、自分が言いたかった。格好つけて言ってみたかった…ッ! 少し悔しい。
ただ、美鶴さんからの信頼と好意をとても感じる。
「だから、三上…生きてこの先も…」
「ああ、ようやく居た!」
「…?」
美鶴さんが何かを言おうとした瞬間、男性の者らしき大声が遮る。なんだかタイミング悪いなあ、と思っていれば、遠くからこちらへと白いスーツを着た身なりの良い男性がつかつかと歩み寄ってきた。
「おーい、美鶴!」
「!」
すごくなれ慣れしく美鶴さんの名前を呼んで近づいてきた男の人は髪の毛をべったりとワックスで固めていて、それでいて香水をかけているのかムンムンと臭い。思わず、顔をしかめてしまう。
というかもしかして、この人は。
「いや、探したよ。こんなところで過ごしてるなんて思わなかったよ。じゃあ、行こうか」
「???」
「えっ…? 待ってください。今日はあなたと約束など、何も…」
行く? どこにだろうか。美鶴さんとふたりで怪訝な顔をする。
そもそも美鶴さんは自分と眼鏡を見る約束をしていて、帰りも一緒に、という予定だったのだ。横から割り込んできてどういう神経をしているのだろうか。いや、自分の予想が正しければこの男は──おそらく、件のとんでもねぇ許嫁だ。
「今夜、めずらしく時間が空いたんだ。なかなか無い事だよ。ボクは忙しい身で、きみは学生。予定は、きみの方が合わせてくれないと」
「そんな…勝手を言われても困ります」
「!」
そこそこ横暴な要求をされ、困ったように眉を下げた美鶴さんを許嫁の男がキッと睨み付けた。
「探したんだぞ!」
そして叫ぶ。
いや、知らんがな。
おっと、ジンの関西弁がうつってしまった。
勝手に探していたのはこの男の方であるし、予定を立てるならば直前ではなくせめて朝や1日前には自分たちのように連絡・相談をしておくべきだ。社会人ならなおさら、そのことが大事だと知っているはずなのに、どうしてそんな態度をとるのだろうか。
「それに、ボクと過ごすより大事な用なんて無いはずだろ…?」
「……」
美鶴さんが思案するように押し黙る。
けれどひしひしと近くにいるためにわかる。美鶴さんは怒りのボルテージをひとつ溜めた。
これがMAXまで溜まったら恐らく処刑だ。白昼の駅前で男の氷像が出来るだなんてとんでもない。できれば、この男の人が美鶴さんのボルテージを溜め切らないうちに帰ってほしいところだ。この人の安全のためにも。
「…そんな、怖い顔するなよ。きみのためでもあるだろ?」
ご自分のためにも今日の美鶴さんの事は諦めて早く帰ってくださりやがれ、と自分はお祈りしたい気分だ。
タイミングが悪すぎる。これが、約束の無い日だったら美鶴さんは素直についていくなりなんなりしただろう。だが、先約はこちらだ。美鶴さんは何も急ぎの理由がない場合それを破棄してまで行くほど非常識ではない。
はあ、と許嫁が溜息を吐く。溜息を吐きたいのはこっちだ。
「理解していると思っていたんだがな。きみはボクの将来の妻として、従順でいてくれればいいんだ。全く、ご当主にしても、きみにしても、扱うのが難しくて困るよ」
「は? なんだ、それ」
思わず、声が出てしまった。美鶴さんが叫ぶ前に、立ち上がり庇うように前に出る。
「…三上…!?」
「美鶴さんはお前の『物』じゃない。扱うのが難しい? 美鶴さんを難しくしてるのはお前自身で、お前の性格が悪いからだろ」
「なんだお前は!? 部外者の口出しする問題じゃない。どいてろ!」
「……」
睨み付けられ、怒鳴られるがまったくもって怖くない。木っ端以下だ。こいつは。
自分を無視した許嫁は美鶴さんへと向く。美鶴さんの怒りのボルテージがなんだかまたひとつ溜まった気がする。
「なあ、美鶴…わかるだろう? 企業経営は子供の使いじゃない。いくら聡明だって、きみはまだ高校生だ。いずれボクの力が必要になる。それに将来の桐条グループには、ボクが必要なんだ。だからこそご当主はボクときみを許嫁にした。これはご当主公認の関係なんだ! 違うかい?」
「……………はい」
猫撫で声でそう告げた許嫁に、武治さん公認と言われて強く出られない美鶴さんはかなり考えたのちに頷いてしまった。
すごく、こちらに申し訳なさそうに。不服そうに。恐らく武治さんの名前を出されていなければ美鶴さんは頷かなかっただろう。そこはこの男の方が一枚上手だということだ。
「いい子だ、美鶴。やっぱりきみは頭がいい。じゃあ、行こうか。ステキな場所を予約してあるんだ!」
「……はい。三上、嫌な思いをさせてしまってすまない…この埋め合わせは必ずする」
心底申し訳ないという悲痛な顔で、小声で謝り自分の横を通ろうとした美鶴さんの腕を掴む。
「待って」
「っ!」
何かを言おうとした美鶴さんをしー、と音を出しながら人差し指を己の唇に当てて抑える。行きたくなければ行かなくていい。
大人になればそうもいかないだろうが、まだ自分たちは学生であり、この男が言うように子供だ。
美鶴さんの腕を後ろに引いて、位置を入れ替えるようにして立つ。
「なんだお前、美鶴にちょっかい出してるのか!? 身分の違いをわきまえろよ? お前とボク達では、背負っているものが違うんだ。だいたい、きみみたいな庶民がボクらに近づこうとすること自体、間違ってる」
「それはそうでしょうね。俺も以前はそう思ってましたよ。住む世界が違うから、と。でも、俺よりもお前の方がダメだ」
睨み付ける。
この男は、敵だ。美鶴さんにとっての毒。それだけは分かる。
「な、なんだよその目…い、言ってる意味わかるか? ボクたちにとって、きみは迷惑なんだよ」
男がたじろいで自分から目を逸らす。
その顔は若干怯えているようにも見えた。
「…ったく、信じられないよ。美鶴もあんなのに関わっていると良くない。不良にでもなってしまうんじゃないのか? 育ちだってあまりよろしくなさそうだし、なんだか不健康そうだ。何か病気でもしているのなら、美鶴にうつるから近寄らないでくれないかな。これだから下賤な育ちはキライなんだ。役に立たないし不相応にボクの邪魔ばかりして…」
悪態は止まらない。が、自分にとってはこの男から言われることの全てに意味がない事だと思っているので微塵も響かなければダメージにもならない。そもそもこの男、こちらに怯えてその言葉を俺に向けることすらしていない。地面に向かって情けなくぶつぶつと呟いているだけだ。
美鶴さんの敵じゃなければ、どうでもいい存在だ。ただ、この暴言の嵐が美鶴さんに向くことがあれば、自分は許せないだろう。だからこそこうして未然に防ぐべきだ。
そろそろ聞くに堪えないし止めた方がいいか、と口を開こうとした瞬間、つかつかと美鶴さんが自分の後ろから前へと出てきた。
その身体は、震えている。が、
「黙れ…」
「み、美鶴…?」
恐怖からではない。怒りだ。自分が気がつかないうちに美鶴さんの怒りのボルテージは溜まりきってしまっていたらしい。
「黙れと言っている!! 彼への侮辱は許さない…!」
「ひっ」
「ひえっ」
あまりの剣幕に自分も驚いてしまう。許嫁の方は何が起こっているのかわからない状況らしく、目を白黒させている。
「な、何だよ…! なにを急に怒ってるんだ!?」
「私は彼を尊敬し、愛している。彼への侮辱は私への侮辱だ!」
「あ、愛してるって…何を言っている!? きみはボクより、こんなヤツを庇うのか!?」
訳が分からない、と言いたげに男は狼狽える。それもそうだろう。両家公認で、許嫁になっている男よりもただの同級生を庇い、あまつさえ愛しているなどといわれれば混乱しない方がおかしい。
「“背負ってるものが違う”と言ったな。ああ、そうさ。お前と彼では比較にもならない! お前は、大切なものの為に全てを投げうつ覚悟があるか!? 自分の力では抗いようのない運命と戦うことは!? 自分だけが可愛いお前にはできないだろう! 私はこれまで、彼のそんな生き方に傷つけられたこともあったが…幾度となく救われ、支えられてきたのもまた事実! 私はお前などとより、彼と一緒に居たい! これまでも、これからもだ!」
「は、はあ!? こいつと一緒に居たい? これからも…とか、何を言い出してるわけッ!? き、きみは…ボクの婚約者だろ!? ボクがこんなガキに劣るって言うのか!? 美鶴、訂正しろ!」
美鶴さんの怒涛の暴露に自分は恥ずかしさで顔が真っ赤になり、許嫁は顔が真っ青になった。美鶴さんにそこまで評価されていたということが嬉しくて、めちゃくちゃ恥ずかしい。
「今なら聞かなかったことにしてやる! グループの将来を考えてみろ!」
「何度でも言えるさ! 私は彼と居たい。いま私を支えてくれているのはお前なんかじゃない…グループもお前を欠いたところで傾くようなヤワなものでもない。今日限りで、お前と私は赤の他人だ。元々、婚約破棄の話をしようとしていたところだったからな。余計な手間が省けた」
「なにぃ~~~~~~~!!!! ど、どういうことだよ! 認めない! 認めないからな!」
それでも許嫁は引き下がらなかった。
唾を飛ばしながら今度は顔を真っ赤にして許嫁の男は美鶴さんへと歩み寄り、胸倉を掴もうとする。
「!」
そんなことはさせない、と飛びだそうとした瞬間、男の腕が別の手に阻まれた。
「およしよ、大人が子供の──それも女に手を出そうだなんて見苦しいったらありゃしない」
黒い、喪服のようなワンピースを着た女性──アザミさんが男の腕をがっちりと掴んでいた。
「な、なんだこのばあさん! くっ、離せ! ボクはあの
「分かってるさ。分かってやってるんだよ」
突然現れたアザミさんは男が抵抗しようとしてもまったくブレない。それどころか、男の方が耐え切れず叫んだ名前に自分は頭が痛くなってきた。
またここでも倉橋商事。もういやだ。なんというか、問題がついて回りすぎている。泣いてもいいならここで泣きたいレベルだ。
そんな自分に気がついたのか、アザミさんが振り返ってニッコリと笑った。
「ああ、アンタだったのかい。そりゃあちょうどいい。どうする? この男をクビにしてもいいんだよ。アンタにゃその資格があるんだからね。どうせ経営権を貸してもらってるだけで倉橋の甘い汁を吸ってた血のつながりもないボンボンだ。この男に変わってからは業績も目に見えて悪くなってるみたいだし遠慮しなくてもいいんだよ」
「え…えと…それは……そういうのはちょっと…」
首を横に振る。
まだ会長になると決まった訳では無いし、そもそもそんな権力あるわけが無いのにここでクビにするとかそんなこと出来るのだろうか。したいとも思っていないし色々な影響を考えればそんなことはしちゃいけないと思うのだがアザミさんは愉快そうに笑っているだけだ。
「は? え? 何の話をして…」
「アンタ、社長なのに知らないのかい、目の前にいるこの子はこないだ死んだ会長の孫で、次期会長であり大株主さまだよ。経営権を貸してもらってるだけのアンタが逆らったらどうなるだろうねえ?」
「は、はあ!? こんなガキが…うちの会長!?!? う、嘘をつくなよ! ボクを騙そうとしているんだな!?」
だからなると決めたわけじゃ…と否定しようとしたがアザミさんがどんどん話を進めていってしまう。
美鶴さんも自分も置いてけぼりだ。というか許嫁(過去形)の気持ちもよくわかる。こんなことを聞いたら普通に嘘だと思う。自分も嘘だと思いたい。嘘であって欲しかった。
「嘘じゃあないよ。あたしゃこれからこの子にその話をするためにここに来たんだからね。ほら、これアンタの会社の顧問弁護士」
「ご無沙汰しております。吉田様」
「な…な……な………!」
アザミさんの後ろから遠慮がちにぺこりと許嫁の男に頭を下げたスーツの男性に、許嫁(過去形)は顔を青くした。
なんというか、赤くなったり青くなったり大変だ。その気持ちは分からないこともない。自分も赤くなったり青くなったり忙しい。
「で、どうするんだい。潔くしっぽを巻いて帰るか。それとも帰らないか。この子の判断にもよるだろうけど、もしこれ以上手を出したり帰らなかったら…大変なことになるかもしれないねえ。なんせ相手は大株主さまだもんねぇ…次の株式総会が怖いねえ…おお怖い怖い」
「ぅ、うう…」
大変なことなるってなんなんだ。
恐ろしすぎるしこっちはそんなことしようだなんて思っていない。
もしかしてアザミさんは嘘ではないがほんとうでもないことをいってこの許嫁を上手く言いくるめようとしているのではないだろうか。なんだか、そんな気がしてきた。
視線がこちらを向くもブンブンと首を横に振ることしかできない。
「あ、あの、アザミさん…それくらいで…」
「うわあああ!
止めてください、と言おうとした瞬間、許嫁(過去形)が耐えきれなくなったのか叫んで駆け出して行ってしまった。
「えぇ……」
「さすがに、あそこまで意気地の無い男だとは思わなかった…はあ…」
「あっははははは! 聞いたかい! いやあ、面白い男だねえあの社長とやらは!」
ぽかん、と口を開けるしかない自分と、呆れる美鶴さん。そしてけらけらと笑うアザミさんに、困ったような顔をしている弁護士さんらしき人。
「あのさ……メガネ、取りに行かない?」
「そうだな…」
もうめちゃくちゃだ。
どっと疲れた身体をひきずって、アザミさんに一言断ってからメガネ屋へと向かうのだった。
メガネを受け取りに行き、店を出た瞬間アザミさんからまた声をかけられて美鶴さんと共に黒塗りの高級車に乗せられる。
車種は、車に詳しくないからわからないがリムジンではなさそうだ。気分は市場へと運ばれていく子牛だ。ドナドナだ。
そしてしばらく揺られ、高級そうな料亭の前で降ろされた。それはもう、唐突に。
「いきなり悪いね。後でアンタの家族も来るから安心しなよ」
「え…!? あ……はい…」
兄妹、ではなく家族と言われたことに驚くも、奏子と湊が知るのは当たり前だと思うし、株式以外にも相続するものはあるはずだ。主にお金とか土地とかそういうものが。
ついでに自分はともかく二人はまだ18歳以下であって、親権者の承諾なりなんなりが必要なんだろう。となるともしかすると
美鶴さんは慣れているのか自然体でいるし、弁護士さんだという人とアザミさんも気にした様子は無い。ガチガチに固まっていかにも“慣れていませんよ”というのは自分だけの様だ。
「青いねえ。だからこそ可愛げがあるってもんさ…」
座敷へと通され、それでもまだカチンコチンと固まったままの自分を可愛い小動物でも見るかのような目で見てくるアザミさんは修学旅行で会った時と変わらない。
しかし自分に会話ができるほどの余裕はないし、誰も何も聞いてこないために沈黙が場を支配する。
「三上、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「だ、だいじょうぶ…慣れてないだけだから…」
ぎゅ、と受け取ったばかりのメガネの入った小さな紙袋を握りしめる。いずれこういう場に慣れることができるのだろうか。
美鶴さんと付き合っていくのなら、これくらい慣れないといけないというのはわかっていても、どうも綺麗すぎる場所にいるのは慣れない。
時間よ早く過ぎろ、と念じながら時計の無い静かすぎる部屋で沈黙すること10分。たぶん、10分だ。きっと。
障子があけられ、湊と奏子、それに
その後でもうひとり黒服の男の人が入ってきた。恐らく、彼がアザミさんの言っていたクズノハのワケ知りな人なのだろう。
「じゃあ、説明と行こうか」
そんなアザミさんの声から始まったこの説明会、それはもう、てんやわんやだった。
養母さんと自分は気絶して倒れそうになるし、湊と奏子と美鶴さんは突然降ってきた引き継ぐものの大きさにドン引き。動じていないのは養父さんくらいだった。
なんと、自分が相続するものに更にプラスアルファであの倉橋のお祖父さんが持っていた東北の方の八十稲羽と言う場所と、東京郊外の物件がついてきてしまったらしい。
正直、実家は今はない有里家を除いて三上家だけと決めているので要らない。売りに出していいかと訊こうとするも、やんわりと言葉を濁しながらアザミさんとクズノハの男の人に止められた。恐らく、悪魔がらみだ。自分で管理しろということか。
倉橋翁自体に兄弟もおらず、遺産を相続できる血縁者と言えば自分たち兄妹だけだったらしく、遺産のお金の方が奏子と湊にそれぞれ半分ずつ。そこそこの金をニュクス教にぶち込んでいたらしいがちまちまセコく貯金もしていたようで、0が7つ位見えたのは幻覚だと思いたい。
その説明の後はひたすら書類に記入の書類地獄だった。
メガネを作れてホント良かった、と思いながらも湊と奏子、そして両親にまで怪訝そうな顔をされてしまいながら書く書類は生きた心地がしなかった。
終わった後は料亭の食事をご馳走になったが、緊張と疲れからか味はしないし、いろんなことがありすぎて疲れた。もう早く寮に帰って布団に入りたい。
「アンタが養父かい。あの子たちのことはしっかりと守っておやりよ。顔も名前も知らない“親戚”が増えるかもしれないからね」
「言われずとも」
帰り際、アザミさんが養父さんに向かって忠告をする。
顔も名前も知らない“親戚”というのは親戚を名乗るなにかだろう。否、そうでなくても有里の方の、父方のがめつい叔母叔父などが知れば湊と奏子に何かしでかすに違いない。それは嫌だ。
あいつらは、ふたりを虐待したクズだ。そんな奴らにふたりは渡さない。渡すくらいなら俺があのクズどもを──
「ちょっと、抑えな。…アンタ、どうしたんだい。えらく怖い顔してるじゃないか」
「え…あ、すみません…」
アザミさんに肩を叩かれ、はっとする。いけない。自分は今、ウィッカーマンとの力の境界があいまいで、下手に殺意を昂らせると何もないところを燃やしかねない。
抑えなければ、と深く息を吐けばアザミさんは何かを懐かしむような顔で頭を撫でてくる。
「…そんな顔、できるんだねえ。アタシゃ、ちょっと驚いちまったよ」
しかし急に撫でるのをやめて表情を真剣なものに変えた。
「でもね、堕ちるんじゃないよ。その先は地獄だよ」
ああ、これはきっと、バレている。自分がヒトではないことを。
分かっていて、まだ自分がヒトに対し直接的な何かをしていないためにアザミさんは手を出してきていないだけだ。
自分が何の罪もない人を襲えば、アザミさんは容赦なく自分を殺すだろう。あの人は、そういう人だ。胸の内にすべてを秘めて、仕事だと割り切って殺す。それが彼女の立場であり役目だ。
だがそんなことは恐らく──自分がヒトに絶望しない限り起こりえない。そして自分がシュブ=ニグラスに呑まれてしまえばまた別だけれども、自分が自分であるうちは大丈夫だ。
そんなことより。
「株…始めようかな…」
いろいろ詳しく説明を受けてちょっと悩んだのは言うまでもない。その先も地獄ではあるのだけれど。
主に株に手を出しちゃいけない! 的な意味で。