12月12日(土) 朝
目を覚ます。見知らぬ天井だ。
ここがどこなのか思い出せない。
昨日、モコイさんを生き返らせようと“ビー・シンフル号”の業魔殿に行って、それから──
『お前は何者だ?』
最後に聞いた男の言葉と姿を思い出す。
そしてぶるり、と恐怖で身体を震わせる。
俺は、誰だ。なんなんだ。いや、俺は“三上優希”で、奏子と湊の兄で、それで、
それで?
“三上優希”は本当にふたりの兄なのか? だって、奏子と湊の兄は有里渚のはずだ。なら、三上優希は誰なんだ? だって、三上ハジメと三上ヒロコの子供である三上優希という人間は生まれていない。生まれていないからこそ、俺は、その名前を、貰って。
でも、有里渚だって生まれていない。生まれていなかったはずなんだ。でも俺は、居場所をとった。その子の居場所をとって、居座っている。
じゃあ、三上優希でも有里渚でも『時を操る神器』でもない“俺”って、なんなんだ?
俺は、何者なんだ。
「おはよう、朝ごはんが出来たよ。起きてるかい? …って、どうしたんだい、そんな難しい顔をして」
もだもだと考えていたら襖を開けてアザミさんが部屋に入ってきた。
どうやら、ここはアザミさんの家かなにからしい。どうしてアザミさんの家らしき場所にいるのかはわからないが、ここは絶対に安全で、安心していいという謎の感覚が自分の中にあった。
「…アザミさん。あの、俺って誰なんですか」
そう問うてみればアザミさんの顔が鬼気迫るような、真剣な顔になる。
「なんだい、まさか、記憶喪失かい!?」
肩を掴まれ、大丈夫なのかと背中を擦られる。
違う。別に記憶喪失というわけではなく──否定するようにブンブンと首を横に振った。
「ち、違います! あの、記憶喪失とかじゃなくて、哲学的な? そういう、あれです…」
「ぷ、あはは! なんだい、そんなことかい! びっくりしたよ!」
笑われてしまう。
これでも真剣な悩みなのだ。しかし心配させてしまったのでそこは謝らないといけない。
「変なこと言ってすみません…」
「いやいや、いいんだよ。そうだねえ…このくらいの歳の子ならそんなことを考えることもあるもんねえ…」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら見つめてくるアザミさんはまた自分の事を小動物だとでも思っているのか、馬鹿にする風ではなく心底可愛いものを見ているだけ、といった様子だった。
そのことに、不満はない。実際自分は彼女からしたらうんと歳の離れたただの子供だ。自分の悩みというのは、人生経験が豊富な彼女からしたら既に乗り越えたものであり本当に大したことない可愛いものなのだろう。
「まあ、昨日あのバカに何か言われたんだろうけど気にしない事さね」
いとも簡単そうにアザミさんはそう告げる。あのバカ、というのは刀を向けてきたなぜか既視感を感じる“キョウジ”という男の事だろう。
そう、なのだろうか。気にしなくてもいいこと、なのだろうか。わからず、思わず困惑して俯いてしまえばアザミさんは頭を撫でてくる。
俺は、こうしてアザミさんから撫でられるのは好きだ。なんだか落ち着く。
「アタシはね、職業柄…沢山名前があるんだ。でも名前があろうが無かろうが、どんな名前だろうがアタシはアタシだし、ここにいる限りあんたはあんたという存在なんだ。難しく考える必要はないよ。むしろ、難しく考えすぎるほうが自分が分からなくなっちまうからね! だいたいのことは美味い飯を食って腹を満たしてからぐっすりと寝て、そして朝になれば全部気にならなくなっちまうから安心しな」
アザミ、という名前は本名じゃないのか。それとも、仕事でほかの名前を使っているのか。自分に対し、アザミさんは多くを語らない。けれど、悪魔絡みの仕事ならそういうこともあるのだろう。きっと手を汚したことだってあったはずだ。
それで悩んだことも。でも、アザミさんはこうして笑っている。ということは、ほんとうなのかもしれない。食事をとって、寝て、朝になれば。きっと。
「それでも引きずるようなら、外に出て走ってきな! だいたい走ればそんな問題どうでもよくなるのさ! それとも、アタシが走らせてあげようか? 一番足が速い
「遠慮しておきます…」
また首を横に振る。
意外とアザミさんはスパルタらしい。悪魔に追いかけられながらマラソンなんてすればぶっ倒れてしまう。それだけは勘弁したい。影時間なら問題ないかもしれないけれど。
そんなことを考えていれば、突然くぅ、とお腹の音がした。自分のだ。
その腹の音はアザミさんにも聞こえていたらしく、「ははは!」と笑われてしまい自分の顔に熱が集まるのが分かる。
「昨日の夜は何も食べなかったからね。そりゃあお腹も空くさ。ほら、朝ごはんが冷めちまうから早く着替えてこっちにおいで」
「は、はい…!」
言われた通りにそそくさと着替え、部屋を出れば廊下でアザミさんが待ってくれていた。
そしてそのまま別の部屋に向かえばそこはリビングだった。キッチンとの仕切りは無いようでそのままキッチンカウンターが見える。
リビングにあるのはあまり大きくないテレビにカーペットの上に乗った脚の短い長いテーブルと、座布団だ。
「ほら、こっち。ここに座りな」
言われて、座布団の上に正座で座る。
「若い子の口に合うかはわかんないから、好きなものだけ食べていいんだよ。食えるもんが無けりゃあ、飯抜きになっちまうけどねえ」
テーブルに並べられているのは至って普通の朝食だ。
茄子と油揚げと豆腐、そしてワカメの入った味噌汁。タッパーに入った大根の煮物とひじきの煮物のふたつ。西京焼きらしき鮭。納豆。生卵。そして五穀米のようなご飯。あときゅうりの漬物。
三上家で出るものとは少し違うが苦手なものはなにもない。それどころか、なぜか懐かしさすら感じる。食べなくても直感でわかる。
「いえ、大丈夫です。全部食べられます。むしろ好きなものばかりです!」
結局自分も欲に忠実だったのか先ほどまでの悩みは吹き飛んで、目の前の食事にワクワクすらしている。
早く食べたいと思っているのが顔に出ていたのかアザミさんは納得したように笑うと口を開いた。
「そうかい。じゃあ、食べようね。…いただきます」
「いただきます!」
手を合わせてそう言った後に箸を手に取って鮭と五穀米を口いっぱいに含む。
美味しい。
次に、漬物に手を伸ばして、小皿に置いてからひとくち。
うん、この味だ。
何故か食べ慣れた味がしてやっぱり漬物はこれでないとと思ってしまう。
煮物も同じく。甘めで煮干しの香りが強いこの大根の煮物が好きだ。
味噌汁も、何故か落ち着く味がして、ひとくち飲んでほう、と息を吐いて、そして口が勝手に弧を描く。
「美味しいかい?」
「とっても! なんだか初めて食べた気がしなくて、すごく美味しいです! なんていうか、全部びっくりするくらい俺好みっていうか…」
訊かれて答えるも、恥ずかしくなってきて尻すぼみになる。
「どれもこれもなんも特別じゃあない、ただのばあさんが作った料理なんだけどねえ。でも、口にあったのなら良かったよ。それだけ喜んでもらえたなら頑張って作ったかいがあるってもんさ」
にこにこと上機嫌に笑うアザミさんを見ながらも箸は止まらない。
美味しい。荒垣くんや
なんというか、好き、のベクトルが違う気がする。こっちは病みつきになりそうというか、
「……やっぱり、似るんだねぇ」
「何か言いましたか?」
「いいや、なんでもないよ。独り言さ。鮭はないけど他のおかわりはまだあるからね、たんとお食べ」
アザミさんが何か言ったような気がして聞き返すもこちらに向けて言った言葉ではなかったらしくはぐらかされてしまう。ただ、悪い意味ではなさそうだ。
「ああ、そうそう。昨日の事なんだけどアンタはどこまで覚えてる?」
食べている途中、アザミさんが唐突にそう訊いてきた。
そういえば、この家に来た記憶がない。思い出すために自分の記憶をたどる。
「えっと、モコイさんを生き返らせようと思って業魔殿まで行って、それで、そこから出た後に目つきの悪い男の人に襲われて刀を向けられて──そうだ、アザミさんの車に乗ったところ、まで、ですね」
何かアザミさんと話をしたような気がするが、車に乗せられたことをぼんやりとしか覚えておらず、その間の自分の情報がほとんどない。
長距離の移動と緊張で疲れていたのか何かで意識を保てなくなっていたのだろう。体力のない自分の身体が心底恨めしい。この体たらくでは戦える、などと奏子たちに胸を張って言えない。待機だと言った湊と奏子の判断が正しかったということだ。
「…そうだね。アンタは車に乗ってすぐに寝てしまったからねえ。安心しな。
やはり、寝てしまっていたのか。そして自分を寝間着に着替えさせてくれたのはこの家の人らしい。同居人か、はたまた。
自分には予想がつかなかったがアザミさんが自分を着替えさせるのを(物理的な力を考慮しても)避けた時点で女の人ではないようにも感じる。
「そう、なんですか? あの、その人にもお礼を。ありがとうございましたって」
「ああ…まあ、あの子は当たり前のことだって受け取らないだろうけどね」
なんというか、見ず知らずの男子高校生を着替えさせるなんて重労働だろうにそれを当たり前だと思うのは単にそういうことに慣れている人なのか優しい人なのだろうか。しかも普通に着替えさせるだけじゃなくて少し大きい寝間着の袖と裾を丁寧にも折ってくれていたのだ。すごく心遣いが出来る人なのだろう。
考えてもわからないのでさっさと思考を放棄してまた箸を伸ばす。
「で、学校にはアタシが送ってあげるからね。食べたらすぐ用意しな」
「わかりました」
そこからすぐに食事を食べ終え、出かける準備をする。
家の前の駐車場に止めてあった軽自動車に乗って、アザミさんの運転で街中を行く。
途中、青山霊園の近くを通ったのであの住宅街は青山のどこかだったのだろう。つまりあそこって高級住宅街では…?
「また溜まってきているのかい…この前祓ったばっかりだってのに、最近多いから嫌になるねえ…」
アザミさんがそんな声を漏らしながら霊園の方を睨みつけていたのでつられて見れば、何か靄のようなものが漂っている。
原因はそれじゃあないだろうと意識して視れば、居る。人は襲っていないが、悪魔が霊園を闊歩している。とはいえ、慣れているアザミさんには何となく悪い気が溜まっているようにしか見えていないようだし、悪魔に足先を突っ込んでいる自分のようにはっきり見えているということではないということは普通の人には何もわからないくらいなのだろう。
すぐに悪魔がヒトに手を出す、という事はなさそうだが、“また”ということは何か異常なことが起こっている証拠だ。
シュブ=ニグラスのせいか、ニャルラトホテプのせいか、それともまた別の要因か。
六本木の方ではニュクス教に混じって翔門会という宗教も活動しているとか。宗教。うん、嫌な予感しかしない。
けれども調べたら普通にメシア教だとかガイア教だとか、自分が気にしてないだけでいろんな宗教が世界にはあるし、今更宗教の一つや二つ気にしてても仕方ないのだけれど。
自分にはできることは無いし、そのまま車で通り過ぎるのを見ているしかない。アザミさんが気がついた、ということは後々アザミさん本人か誰かが祓うのだろう。
それだけの話だ。
辰巳ポートアイランド駅前
さすがに学校の前まで送って貰う、というのは恥ずかしいし注目の的にでもなってしまいそうなので駅前で降ろして貰うことにした。
いつもより早い時間なので、ここから歩いても余裕だ。
「本当にここでいいのかい? 学校まで送ってあげるよ?」
100%親切心からそう言ってくれているアザミさんには悪いが、首を横に振る。
「いえ、ここまでで十分です。まだ時間もありますしゆっくり歩いても間に合うので、散歩がてら歩いていきます」
「そうかい? なら、ここで停めるからちょっと待ってな…」
アザミさんはそのまま深くは追及せずに駅前の駐車場に車を停めてくれた。自分は鞄を持って車から降りる。
「色々お世話になったみたいで…その、ありがとうございました。ご飯もすごく美味しかったです」
「良いんだよ、老いぼれが好きでやってんだからね。アタシも短い間だったけど楽しかったよ。ありがとうねぇ。また、アンタさえ良ければ遊びに来な。今度は弟妹を連れてきたっていいから。はいこれ、アタシの連絡先」
「……はい。その時があればまた連絡します」
自分に電話番号らしきものが書かれた紙切れを渡し、にこやかな笑みのままアザミさんはそのまま手を振って車を発進させる。
遠くへ消えていく車を見送って、メガネをかけてから片手で携帯に電話番号を登録した。
放課後
月光館学園高等部
教室
やることがないので明日のこともあるし真っ直ぐ帰ろうかと思いながらも、何となく動く気になれなくてもう教室にだれもいないというのに机の上で頬杖をつきながら何をする訳でもなくぼーっとしていれば眠気が襲ってくる。
疲れが抜けきっていないのか、それとも朝早くから起きていたせいだろうか。よく分からないが眠いのは確かだ。身体もなんとなくだるい。
「………」
こくり、と船を漕ぎかける。
目の前がぼやけて暗くなる。眠い。でもこのまま寝たらダメだ、という自制心のようなものが浮かぶ。
ありとあらゆる音が遠くなる。根性で目を開けようとするものの、すぐにまた重りを乗せたように重くなって閉じようとする。
抵抗虚しくどんどん視界が暗くなって、目を開いている時間の方が短くなっていく。
(あ…ダメだ、寝る…)
そこで耐えきれずに意識が落ちる。
瞬間、頬杖をついていた腕からも力が抜けたのかごちん! と額を机に思いっきりぶつけた。
「~~~~~~~~っ!!!」
悶絶。
当たり所が悪かったのか久々に泣きそうなほどの激痛が額に走る。チカチカと明滅する視界に、じんじんと痛む額。
もうとにかく痛い。刺されたり焼かれたりとはまた違う、なんというかクリティカルな痛みなのだ。
「む……う……ぐぬぬ、ぐうう…うなああ…!」
唸って額を押さえながら頭をゆっくりと上げ下げして振る。
めちゃくちゃヤバいやつみたいな奇行である。けれどこうすることで痛みを誤魔化せる気がしたからだ。根拠はない。全くもって。
この奇行を誰も見ていなくて良かったと安堵した。
ついでに眠気は去った。去るしかないから去ったともいう。
「なにしてるの…」
「へっ!?」
そうやって悶絶していれば、声をかけられて驚いてしまう。
この教室ではまず聞こえるはずのないその声に返事をしようと額を押えたままで振り向いた。
「なんでピンポイントに人がデコぶつけた時に居るのさ…」
「あぁ…ぶつけたからそんなに踊ってたの」
この教室にまず居ないだろうと思っていた人物──湊の言葉に先日のエリザベスがダンスパーティーを開く! などと言っていたことを思い出してげんなりする。
「踊ってない! 断じて踊ってない!」
どじょうすくいなんて絶対にしないぞ。絶対にだ。請われてもやらない。
「というか、湊がなんで3年の教室に? 美鶴さんでも探しに来た? それともモル…じゃなかった朔間くんに用でも?」
意外と楽しいらしい。自分としても朔間くんには全く別のひとりの人間として人生を楽しんで欲しい気持ちもあるから願ったり叶ったりなのだけれども。
自分としては朔間くんは同じ3年生ではなく1年生からやれば良かったと思うのだ。だって、そうすれば綾時くんを『兄さん』って呼んでしまっても変な空気になることは無いし。
ペルソナとしての名の元になった神と同じく、綾時くんの方がシャドウとしての生まれも先で、モルフェの方が後だったらしいから、そう呼んでしまうのも仕方ない気もするけど、それはそれ、これはこれ、だ。こうなると
いや、待てよ? 意識があると自覚したのは2009年の4月からなのでもしかして自分が末弟なのか…?
「…違う。用があるのは優希に」
くだらない思考をしている自分を他所に、少し間を置いて湊が答える。
なにか大事な話なのだろうか。とはいえ、湊の顔は真剣そうではない。
「そうなんだ。えっと、なにかな?」
「別に。一緒に帰らないかって誘いに来ただけ」
「? なんで俺と?」
訳が分からなかった。
校門から出たり校内で鉢合わせして帰る、ということはあれど、湊から教室にわざわざ来て誘われたことなど無いに等しい。しかも、かなり人気者な湊はアイギスや他の人と仲を深めるので忙しいんじゃないんだろうか。奏子も同じく人気者なので同じだけれども。
わざわざ時間を割いて自分なんかに構っている暇があるのか、というのが率直な意見だ。言わないけど。
「気まぐれ。もしくは仲を深めるため」
「うーん…それ本気で言ってる?」
「本気。あと真っ直ぐ優希が寮まで帰れるか心配だから。昨日も遅くなるって言って結局帰ってこなかったし。夜にアザミさん家に泊まるってメールがちゃんと来たからいいけど」
「うぐ」
そう言われるともうなにも言えない。
普通、こういうのは立場が逆だと思うのだ。兄が弟を心配して、とかそういうのなのだ。弟が兄を(どこかふらつかないか)心配して迎えに来るってどういう状況なんだとツッコまれそうだ。微笑ましい帰宅風景と言うより首根っこを掴まれて連れて帰られるイメージが湧いてしまう。猫か自分は。
(…ん?)
湊は今、「夜にアザミさんの家に泊まるというメールが来た」と言っていたが昨日の夜は寝ていて携帯電話を触った覚えはない。どういうことだろうか。
アザミさんと湊がメールアドレスを交換した、ということは無さそうだし、自分の携帯電話から送られたのだろうか。だとしたら、アザミさんくらいしか居ないが昨日は連絡しておいたともなにも言っていなかった気がする。
いや、たまたま言い忘れただけか。
「どうしたの? 嫌?」
悩んでいれば湊が首を傾げる。
どうやらメールについて悩んでいて黙っていたのを拒否していると思われてしまったらしい。
「違うんだ、ちょっと別の事を考えてた。ごめん、帰ろう」
皆までは言わずに浮かんでいた疑問を喉の奥に押し込んで立ち上がる。ちょっと額を擦り、腫れてないかだけを確認してカバンを持った。
特に変わった会話もなく巌戸台駅から出て、帰り道を歩こうとすれば湊が不意に道を逸れる。
「まっすぐ帰るんじゃないの?」
と訊けば、
「寄り道」
と短く返される。
「普通に帰ってもつまらないでしょ。いつもと同じことやっても知らない一面を知れるってわけでもないし」
「まあ、そうだけど」
今日の湊はなにか変だ。
仲を深めるため、と言っていたが俺と湊は十分兄弟としては仲がいいし距離が近い方ではないだろうか。これ以上仲を深めるといっても何をするのか全く訳が分からない。
「……」
「別に、いつもと同じことはしないけど変なこともしないから」
警戒するな、と湊は言いたいのだろう。けれど湊がいくら突拍子もない事をするとはいえ、自分や奏子相手では特にそんなことはしてこなかったし突然どうしたのか、と思わない方がおかしい。
自分の行動を湊が不審がったのと同じことだ。
微妙な空気のまま向かったのは長鳴神社だった。
階段を上り、境内に入って遊具の近くにあるベンチに座る。
「ここ…」
そっと、ベンチを撫でて俯く。
先月出会ったやけに薄着だった青年はまだ生きているのだろうか。
あの後、ちゃんと湊と奏子に会うことはできたのだろうか。ちゃんと、言いたい事を言えたのだろうか。
「どうかした?」
「…。いや、なんでもない」
自分が下を向いてしまったことに気がついた湊が訊いてくる。けれどなぜか言う事が出来なくて自分ははぐらかした。
きっと、このことは自分が訊くべきではないことだ。本来会うはずのない彼と出会ったことはきっと異常なことで、自分の中で留めておくべきことのように思えたから。
「……ここさ、あの舞子ちゃんとよく来てたんだ」
「あー、あの湊のお嫁さんになるって言ってた女の子ね。湊はモテモテだもんなあ」
9月ごろにそういうことがあったのだと話を聞いたことがあった。それ以前にもちょこちょこ“オクトパシー”の前で会ったりもしていたので彼女のことはぼんやりと思い出せる。
ただ自分はあまり湊や奏子の交友関係は知らないし、首を突っ込まないようにしている。目を塞いでいるともいえるけれど。
だから湊が古本屋の文吉さんと光子さん夫婦や、同じクラスの友近くんと親しいということくらいしか知らない。あとは留学生のべべくんとか。彼は家庭の事情で帰国してしまったらしいけど。
そういえば同級生のグルメキングこと末光くんも湊と食事に行っていたとかなんとか風の噂で聞いたことがある。奏子も湊に負けず劣らずだ。ふたりとも、交友関係が広くないだろうか。
自分の交友関係の狭さに泣けてきそうになる。
その少ない交友関係もだいたい悪魔がらみだったり10年前の事件絡みだし、神条さんは神取でニャルラトホテプでもあるし。
逆に考えよう。交友関係のあるメンツの内3人が人外だっていうのはある意味珍しいんではないだろうか。
「その舞子ちゃんから紹介されてさ、僕と奏子はここに座ってた人とよくしゃべってた…ってだいたい奏子かその人が喋ってたからさ、それほどでもないけど僕は話を聞いてたしそこそこ仲良くなれた、と思う。で、あのお祖父さんからお金も貰ったし奏子とふたりで本を出したいなって思って」
「ええと、ごめん。話のつながりがよくわからないんだけど…どうして本を?」
貰ったというか相続した形になるのだが、ぺらぺらといつになく饒舌に話し出した湊に首を傾げれば、いったん黙った後に言いにくそうに口を開いた。
「生きた証を、遺したいんだ」
「湊の…?」
「ちがう」
湊は首を横にゆっくりと振って空を見上げる。
空は、冬空らしくどんよりと曇っている。
「その、ここで会ってた人の。彼が書いてたんだ。ピンクのワニの物語を。僕らは最後にそれを託されたから、どうしようって考えて、なら、本にしちゃえばいいんだって思ったんだ。これまでそういうこと、してこなかったから」
「……そう、か」
彼はどうやら湊と奏子に会えたらしい。そして、湊が生きた証を遺したい、と言っていることから、もう彼はこの世にいないのかもしれない。
湊と奏子はその話を相続した金を使って自費出版したいという。
「それ、どんな話か聞いてもいい?」
「もちろん」
聞けば、
ジャングルに住むピンクのワニが友だちの小鳥を空腹のあまり間違って食べてしまい、失意のあまり湖を作るほどに泣き続け、そして死んでしまう。そしてその湖はワニの涙で作られたものだということもその過程も知られることなくワニの死後、他の動物たちの憩いの場になるのだ。
という話だった。
なんとも暗い話である。
小鳥もワニも、救われていない。いや、この物語は救われることに焦点を置いているわけじゃないし自分なんかに読み取れるようなものではないのだろう。
彼が何を思い、何を体験してこの話を書いたのかはわからないが、安直に感想を吐ける作品ではない事だけは確かだ。
「…湊と奏子がそれをしたいなら、俺は止めないし出来る限り協力するよ。とは言っても出来てもきっと1月31日までだけど」
目を逸らす。
今の湊の表情を見る勇気がない。
「……うん。優希は、それまでしか生きられないの? もっと、もっとさ…」
2日の時とは違う、湊の震える声に罪悪感が湧いてくる。
けれど、それに負けて耳障りの良い言葉を吐く事は出来なかった。
「言っただろ。俺は元々死体で、湊がくれた黄昏の羽根で生きているように見せかけているに過ぎないんだ。中にある生命力が尽きれば、そこまでだ。だから、もし生き延びられたとしてもある日突然死体に戻るかもしれない。それよりかは──……それよりかは、終わりが分かってた方がいいだろ。それに、俺はこれからどんどんヒトじゃない部分の方が大きくなる。ヒトと一緒には居られなくなるんだ。俺という存在が残っていても、ニンゲンの住まう世界には居られなくなる。居るだけで、存在するだけで大きな影響を持つし迷惑をかけてしまうんだ」
もし、完全に男神たるシュブ=ニグラスになったとするならば黄昏の羽根が無くても生きることはできる。神に転生したようなものだ。しかしそうなるとサマナーではない普通のニンゲンと共にいることはできなくなる。最悪、神性に飲まれヒトとしての姿も保てなくなるかもしれない。
なら潔く消えるか、死んだということにしてしまった方が良い。
大きすぎる力はいずれ全てを滅ぼす。望む、望まないに関わらず。
「存在するだけで…」
「そう。俺はさ、何度も言うけど湊たちに笑って生きてほしいんだ。でもそれは、俺がいるときっと叶わない。神や悪魔に近い俺が傍に居れば湊たちは常に悪魔や超常の存在と関わらなくちゃならなくなる。下手をすれば巻き込まれて死ぬ。俺自身がそういうのの誘因になる訳だからさ。俺としても、それは嫌なんだ」
「でも、僕らの幸せも、優希が…兄さんが居ないと駄目なんだ。居ないと幸せになれないのに、居ない方が僕らの幸せになれるって、そんなの矛盾してるじゃないか…」
震える湊に自分が守ってやる、などというおこがましいことは言えない。神はそこまで自由の利く存在ではないというのが身に沁みている。
それもこれも、制約だらけだ。
神であってもルールの上に立ち、存在しなければならないというのはある意味縛られていると言っても過言ではない。
ニュクスやデスなどはいい例だろう。望みもしない死をふりまかねばならないというのは辛いことこの上ない。
だからこそ、自分は変えたかった。そんな運命を否定したかった。全て自分に乗せるという力技で一応は成功しているとも取れなくはないが、シュブ=ニグラスを退けられなければそれも意味をなさない。
湊と奏子、そして他のみんなが言うこともわかる。犠牲は出ない方が良いに決まってる。理屈ではわかるんだ。でも、前も思ったように犠牲もなく何もかも解決できる素晴らしい方法なんてある訳がない。
「わかってる。そのことは、わかってるつもりなんだ。俺だってそこまで馬鹿じゃない」
「わかってない! 僕らは──…優希が生きて幸せになる様を見たいんだ! 優希ひとりに押し付けて、それで幸せにならないって何度も言ってるだろ!?」
湊が勢いよく立ち上がる。
「押し付けてない。俺がやるべきことを、やるだけだから」
「なら、僕らがニュクスを封印したのだって押し付けられたわけじゃない! 自分で選んだことだ!」
「……そうかもね」
納得はできないけれど、誰かに強制されたわけではなくそういう運命になってしまったという意味では自由意志の上でだ。だから、頷くしかない。
「でもさ──……、…っ!」
続きの言い訳を告げようとした自分の言葉が発されることは無かった。
まただ。ノイズが走るように視界がぶれ、“無理やりこちらを覗きこまれた”のだと分かりこれ以上見せないために慌てて目を閉じて拒絶した。視覚情報さえ入ってこなければ彼女も見えないだろうという安直な考えの上で。
さらに酷く鼓動が飛び飛びになってガタガタと身体が勝手に震える。息ができない。くるしい。
「はあ…はあ…はあ…っ、く、ぅ…」
寒いのに、冷や汗が止まらない。
「優希、なにがあったの。発作? それとも、別の…」
「だ、いじょうぶ。なんてこと、ないから」
もう覗かれてなさそうなのでゆっくりと目を開く。
無理やり抗ったせいなのか身体が酷くだるい。
「変だ。なんてことないわけ、ないでしょ。朝倉医院が近くにあるんだし、行かなきゃダメだ」
自分よりも不安そうな顔をしている湊が腕を掴む。
「朝倉、医院って、なんだっけ、なにしにいくとこ、なんだっけ…」
「え…?」
頭がぼんやりしているような気がする。思い出せない。頭が痛い。
そこが、病院であることは分かる。なのにどうして行かなければならないのか、そこがなんなのかが頭の中で繋がらない。記憶がうまく引き出せない。
「………月が、よんでる…」
あたまのなかで、こえがする。立ち上がって、いかないといけない。
「待って、優希、待って! お願いだから!」
だれかが、叫んでいる。
でも顔がわからない。声も、わからない。どうして、待たないといけないんだったか。
「ああもう、知らないから!」
ゴッ、と鈍い音がした。
「ふぎゃあ!?」
瞬間、意識がクリアになった。痛い。めちゃくちゃ痛い。目の前が白くスパークするくらいには痛い。
「いきなりなにするんだ!」
「それはこっちのセリフ。優希、明らかに変だったし、全然大丈夫なんかじゃないじゃん」
目の前に湊がいる。いや、それは当たり前か。恐らく変になった自分に頭突きでもしたのだろう。
自分の意識が残ってるのは朝倉医院がなんなのかを思い出せなくなってからなので数分も経ってないはずだ。たぶん。
「……ごめん」
「ごめんで済んだら医者は要らないんだけど?」
「はい。ごもっともです」
しゅん、と項垂れる。
しかし湊の口ぶりからするとこの前はシュブ=ニグラスの干渉をノーリスクで回避出来たというのに、今日はノーリスクで回避できなかったということになる。どういう条件の違いなのか。
「ほんと、ドキドキしたから。呼びかけても止まらないし、もう優希が帰ってこないんじゃないかって」
「それにしては頭突きの判断するまでのタイムラグほとんど無くない? ほんとに躊躇してた?」
「緊急時にわがまま言わない」
「えー…脳細胞が死ぬ…バカになる…」
ちょっとそこは異議を申し立てたかった。意外と自分の脳みそはデリケートなんだぞ。いや、脳は誰しもデリケートか。
だから頭突きをされてさらにバカになりたくは無いのだ。
「さっきまで自分のことを死体扱いしてたのに脳細胞くらいが死ぬのは許されないんだ?」
「なにおぅ!? 俺の身体全体はともかく脳の細胞くんたちは健気にも生きてるよ! たぶん…」
「そういうとこさ、綾時そっくりだよね」
「へ?」
湊が笑うので首を傾げる。
自分と綾時くんはそりゃあそっくりだろう。というか湊も奏子もどこかしら綾時くんと似ているところはあるんだし、むしろ似てないとおかしいというか。とにかく何が言いたいのかわからなくなってきたけどそういうことなのだ。いや待てよ? これって遠回しにバカって言われてるのか? いや、そんなまさか。綾時くんも賢いかもしれないし失礼だからその考えはやめにして、とりあえず。
「もしかして…俺の事、バカだと思ってる…?」
「うん」
「マジか…」
まさかの即答にショックを受けた。
「でも嫌じゃないよ。バカな優希の方が好き」
バカな俺の方が好き、というのは湊の紛れもない本心、なのだろうか。
そもそも兄がバカな方がいいってどういう事なのか。些か直球過ぎないだろうか。
「えーっと…それ、喧嘩売ってる?」
「売ってない。変に気を使ったり考え事されるより素の優希の方がまだマシって言ってるの」
「うんん???」
貶されてるのか褒められてるのかよく分からない。
つまり素の自分はバカ、と言っているようなものでは無いのだろうか。なんというか、複雑な気分だ。
「1人だと、優希は変なこと考えるから。それが嫌だ」
「と、言われてもなあ…」
あまり心当たりはない。
そんなに変なことを考えているのだろうか。
「分からないなら分からないでいいよ。僕や奏子がなんとかするし。それが無理なら桐条先輩とか、真田先輩や荒垣先輩がいるでしょ」
そう言われても、何故か安心できない。
なにをどうするのかが分からないというのがこんなに不安だとは思わなかった。
自分はそんなに、バカで頼りないのだろうか。
「ほら、また変なこと考えてる。別に優希のことを貶してる訳じゃないから。ただ…心配なんだ。僕らにまだ言ってないことがあるんじゃないかとか、自覚してないだけで無茶してるんじゃないか、とか」
無意識に顔を顰めていたのか、湊にそう指摘された。こういう所がやけに気になるのは奏子も湊も同じような気がする。
「それはこっちのセリフじゃないかな。俺だって、湊と奏子の事は心配だよ。怪我とか、疲れてるのかとか、隠してない? 無理、してない?」
湊に聞かれても答えられないものは答えられないし、分からないものは分からない。だから、聞き返してみれば湊はまっすぐこちらを見つめてくる。
「してない。ゴタゴタが起きてないぶん、むしろ調子はいい方。それよりも、メガネとベルベットルームの扉が見えるようになったことの説明、されてないんだけど」
「それは…」
短く答えた湊に睨みつけるように見つめられてたじろぐ。メガネに関してはふつうに文字が読みにくくなったから買ったのであってなにか無茶をしたとかで視力が落ちた訳では無い、はずだ。
突然ベルベットルームの扉が見えるようになったことについては本当に原因が分からない。
あの後ポロニアンモールにも行ってみて確認してみたらちゃんとあったし、タルタロスのエントランスでも見かけるようになった。ただ、見えて触れられるだけで入ることはできない。
エリザベスに相談してみても首を傾げるだけで何の役にも立たなかったし、自分でも心当たりがないので答えようがないのだ。
「メガネは……純粋に視力落ちたなーって思ったから作っただけだよ。直前に無理とかはして無いから本当にたまたまなんだ。ベルベットルームに関してもなんにもわかんなくて俺でも困ってるから、原因が分かるような情報をエリザベスやテオドアとかに貰ったら教えて欲しい、かな」
何も隠さずありのままを伝える。
あまり、問われるような視線を送られるのは好きじゃない。
しかし湊は気にしていないのか少し考えて自然に目を逸らした。
「……そう。調子悪いとかあったらすぐ伝えてくれていいから」
「うん。すぐ言う。ある意味湊やみんなが疑心暗鬼になっちゃってるのってこれまで俺がやってきたことの積み重ねだし、信じてもらえるか分からないけどさ」
「“しんどい”よりも“大丈夫”って言葉の方を僕らは信じてないけどね」
チクリとそんなことを言われて下を向いて黙る。こうなると、大丈夫という言葉よりも別の言葉を使った方が良いのだろうか。そういうことでもないか。
「ところでさ、湊の言ってた…本を出すって言うの、どんな感じで出すの? 小説? 絵本?」
これ以上自分のことについて話していても意味が無いように思えたので気を取り直して顔を上げて話題を逸らす。本を出すにしてもだいたいの形が決まっていなければ難しいだろう。
だからそう聞けば湊は迷いなく口を開く。
「絵本かな。奏子も言ってたんだけど、小説や詩とかだと短すぎるからそれが一番良さそうだって。イラスト描いてくれる人募集中。いなければ僕らで描くけど」
「へー」
ちゃんと形はもう決まっているようで安心した。
自分が口出しする必要は全く無さそうだし、手伝うとは言ってもこれならふたりだけでも上手くいくのではないだろうか。自分があてにならないということからは目を逸らすとしても。
「そうだ。優希もなにか描いてみてよ。もしかしたら採用するかもだし」
「良いけど…期待しないでね」
唐突に湊に枝を手渡されたので、地面の砂にその枝を使って絵を描く。イメージするのはビーグル犬だ。
その絵を見た湊が固まって顔を顰めた。
「え…なにそれ………うーんと………カバ……?」
かなり間をおいてカバかと訊いてきた湊にこちらも怪訝な顔をする。どこからどうみたって…ちょっと四角いかもしれないけど……ちゃんと…可愛い犬の絵だ。…たぶん。
「なにって…犬……ビーグル犬だけど………」
「えぇ…? 優希、才能あるね。想像以上だ」
なんだろう。褒められた気がしない。
そういえば園村さんもカウンセリングの時に描いた絵を苦笑いで見つめていたし自分には絵心が全く無いのかもしれない。
「でも独創的で味がありすぎるから不採用」
「ですよねー」
オブラートに包んだ湊からの不採用通知を貰い、笑う。
普通に下手くそだから無理、でいいのにこういう所に気を使うのが湊が人気者になれる理由なのだろう。
いや、そう言える相手を見極めているというか。
伊織相手なら即座に「うわ下手くそ」で終わらせていたはずだ。
ただ、自分はたまにこういう所に距離を感じることがある。いや、伊織と同じような態度をしてくれという訳じゃない。けれど、なんだろうか。
少し寂しい、気がする。
「どうしたの?」
「んー…いや、自分の絵が素晴らしすぎて見惚れてた」
誤魔化す。
さっき感じた寂しさは、気のせいだ。
十分自分たちは仲がいい兄弟なのだと湊から仲を深める云々と言われた時も思っていただろうに、どうしてその仲を不安がっているというのか。
自分たちは兄弟だ。
その前提だけで十分で、仲の良さは足りているだろうに。
この距離感は、適切だ。そうに決まっている。
だからこれ以上相手のことを知る意味なんてない。深入りする必要も無い。知らなくていい。聞かなくていい。見なくていい。だって、これで十分なのだから。