今にも雪か雨でも降りだしそうな曇天が窓の外にうつっているなか、菊乃の言葉に美鶴は耳を疑う。
「……私としてもそうならないことを祈っていますが、奥様や彼がここに来ていることを見逃す輩ではありません」
奥様、と菊乃は言った。
それはつまり、美鶴の母である英恵を指す言葉だ。
英恵は元々身体が弱く、遠方で療養しており滅多にこの桐条宗家の本邸にはいないはずだった。
「何故お母様が?」
「お嬢様とのお電話を重ねるうちにお嬢様や彼に会いたい、と言う気持ちが膨らんでしまったようですよ。その想いだけでわざわざこちらにいらっしゃったようで。ご当主は随分と渋っておられましたが」
そのことに美鶴は驚いた。まさか母がわざわざ自分や優希に会うためだけにこちらに戻って来るとは思わなかったからだ。
菊乃の話によればそれすらも、謀反のようなものを企てようとしている不届き者にとっては良い餌になってしまうかもしれないということで美鶴は不安をぬぐえない。
「……お母様を害されるのはお父様にとっても痛手だろう。私もお母様を人質に取られた場合、動けるかどうか」
「ええ。ですのでご当主はここにいる彼と奥様の警備を強化しております。本来なら、彼は話が終わってすぐ寮に帰っていただく予定でしたが、こんな調子ではまず無理そうですからね」
ベッドの上で苦し気に息をする優希を見やる。
そこに心配や情といった甘い感情はなかったが、菊乃は別段優希のことを責めているわけではなかった。
警戒はすれど悪感情はない。菊乃としては美鶴の脅威にはなりえるかもしれないが、あくまで可能性だ。見ている限り可能性は限りなく低い。
むしろこんなことに巻き込まれてこうして体調を崩してしまうほどに消耗したという事実に憐れだ、という憐憫の感情があった。
「とはいえ、話を聞く限りご当主のせいでしょう。あんなことを言えばどうなるかなんてわかりきっています。あの場で掴みかかられたり精神的負担から気絶して倒れられなかっただけ、マシかと」
菊乃は珍しく武治のことを痛烈に批判した。
扉の向こうからでもわずかに声は聞こえていたらしい。それとも、菊乃はインカムをつけていたから父である武治公認で筒抜けだったか。
美鶴は後者だろうな、と予測する。菊乃に聞かれているくらい、美鶴にはなんともない。
「話すなら、彼の言う通り加害者であるという立場で謝罪をしたりするべきでも、10年前のことを何も言うべきでもなかったのです。それはまた、然るべき時に謝罪すべきこと」
確かに、その通りだと美鶴も思った。だが、不器用な父のことだ。謝らずにはいられなかったのだろう。武治はまず謝罪を挟んでから、話をしたかったのだ。それが礼儀だと思っていたからこそ。
しかし今回はそれが悪手となった。一度は聞かなかったことにして見逃そうとした優希は、二度目は耐え切れなかった。
だからああして感情が爆発し、怒鳴り散らすように武治へと吠えたのだった。
恨みが全くないなどとは美鶴も思っていなかった。だが、普段の優希の素振りが桐条に対する憎悪や敵意を一切見せていなかったがためにないものだと思い込んでしまった。意識をしなかった。
被害者や加害者という関係を無しにして、ただの桐条美鶴という女子として美鶴のことを見たいと言った優希の言葉に偽りはないのだろう。実際、あれだけ怒り狂っていたとしても美鶴に当たり散らすことはしなかった。
だが、武治は別だ。謝罪という名目で抉る必要の無い傷を抉った。治りかけの瘡蓋をはがしたようなものだ。
その瞬間、優希の中にあったどす黒い感情は一気に噴出した。
孤児を実験体にしてしまった武治への恨み。他の子どもたちや美鶴の叔母である千鶴を殺した幾月への恨み。そしてそれらが起こした事故で両親が死に、遺された弟妹に酷い運命を背負わせた桐条という組織そのものに対する恨み。
なくなった訳でも軽減されていたわけでもないそれが暴力という形で現れなかったのはひとえに優希自身が自制したおかげだ。そして急に大人しくなったのも本人が武治の謝罪を求めずに最低限、告げた要望さえ聞いてくれればいいと自分でとりあえずの落としどころを見つけたせいだろう。武治自身は何も許されていない。
むしろあれだけで済んでよかったと安堵すべきか。悲しむべきか。どちらの立場に立つべきなのか美鶴にはわからない。
だが、優希が次に目を覚ました時、恐らくけろっとしているんだろうなという予感はあった。
否、平静を装う、というべきか。全てを押し殺し、あれで終わりだと自分に言い聞かせ続けるのだろう。元より、ああいう風に感情に任せて怒鳴り散らしたりするのを優希は嫌う節があった。
(困ったものだな…)
美鶴は山積みになった問題に目を伏せた。
暖かい、微睡みの中で誰かに頭を撫でられている。
『ナギサ、ごめんなさい。ここまで苦しませてしまったのは私がちゃんと貴方を守ってあげられなかったからね』
声が聞こえる。ああ、この声は、懐かしい。
「ちづる、さん…」
ごめんなさいって言わなきゃいけないのは俺の方だ。死なせてごめんなさい。辛い目に合わせてごめんなさい。
千鶴さんも痛かったのに。苦しかったのに。最後はあいつに殺されて。
憎い。憎い。憎い。
自分が憎い。
『違うの。違うのよ、ナギサ。自分を恨まないで。もういいの』
でも、千鶴さんは自分のせいで死んだ。自分が滅びを願わなかったから。自分が死にたいと思わなかったから。アイツら全員を殺す力がなかったから。だから、憎い。少なくとも、力を持っていなかった自分が。だから、力を求めた。
『言ったでしょう? 私が願ったのは滅びではなくて、貴方の幸せなの。貴方に“人として生きてほしい”と私は願ったのよ』
でも、自分はヒトじゃなかった。俺はそもそも生まれてこれなかった。なら、その願いは叶えられない。
『いいえ、貴方はちゃんとした人間よ。道具でも、死体でもない。人としての心があるのなら、貴方はどんな存在であろうとも人よ』
しっかりした声が肯定する。それでも自信は持てない。そうだとは思えない。だって、俺は人としてのペルソナに目覚めてはいない。全部貰った物か植え付けられたものだ。
『“私たち”が証明してみせるわ。貴方の心に宿った幻だったとしても。分け御霊だったとしても。私たちはもう、誰のものでもなく貴方を守る心の鎧。その一部なの』
夢か現かわからない暗い視界にぼんやりと浮かぶようにパンタソス、ポベートール、モルぺウス、そして黙示録の四騎士たちとトランぺッターが映る。
全部貰い物だった彼ら。それでも一緒に居てくれた彼らのことを、自分は知覚できないでいた。なのにどうして、今になって。
『ナギサ、貴方が分かっていないだけで貴方は最初から人だったのよ。まだ見えないかもしれないけれど──その絆は別ればかりだったかもしれないけれど、ちゃんと貴方の中で実をつけて息づいているの。後は、貴方が一歩を踏み出すだけ。大丈夫よ、私たちがついているんだから! 信じて!』
明るい声で千鶴さん──いや、パンタソスが笑みを浮かべながらそう言った。
信じる。よくわからない。
『チミってば、こんな美人さんの言葉も信じられないだなんて罪な男っスね! まったく、一番星みたいにシャイニーなボクが居ないとダメダメさんかな?』
「……も、こい、さん…」
声が震える。
暗闇の中から浮かぶように現れたのはあれだけ会いたいと願っていたモコイさんだった。
抱きしめようとしても身体は動かない。そもそも、身体の感覚がない。喋っている、というのも実は喋れてない可能性だってある。
『あー! モコイちゃん、だめなのよ! アリスだってユーキおにいちゃんにゴアイサツしたいんだから!』
「あ、アリス!?」
『ちょ、割り込みはダメッスよ!』
驚いた。
自分の代わりにモコイさんに抱き付くようにして現れたのはありすだ。いや、アリスというべきか。どうして、アリスがここに、と思う間もなくにぱ、とアリスが無邪気に笑う。
『あら、アリスの名前を呼んでくれるのね! うれしいわ! うれしいわ! だってアリス、おにいちゃんに嫌われてしまったのだと思っていたところだったもの! アリスはモコイちゃんを殺してしまったから…そのことは、悪いと思ってるのよ? ほんとよ?』
となると本当にこのアリスはモコイさんを殺したアリスらしい。罪悪感を感じているのかしゅん、と落ち込んだような顔になるがそれも一瞬だ。すぐに顔は明るい笑顔に戻る。
『アリスだけじゃなくて赤おじさんや黒おじさんもおにいちゃんが食べちゃったから、わたし、驚いちゃった! でもこれで、みんな…ずぅっと一緒ね! オトモダチも増えてほんとうに嬉しいわ!』
あれだけわかり合えないと思っていたアリスだが、どうやらこの形で満足しているらしくまったく邪気がない。
確かに、アリスはオトモダチ作り以外なら多少感性はアレだったが無差別にヒトを襲わない分まともだと言えよう。なら、モコイさんも平気そうにしているし許すほかない。無邪気さゆえのことならば、反省しているのならば許さないほど心が狭いわけではない。それに彼女は悪魔といってもその心は恐らく子供だ。彼女よりかは大人な自分が許さなくて何になる。
なぜか自分を殺そうとしてきたことについての反省はないようだが、自分もアリスを殺したのでノーカンということにしておこう。
『ダメよおにいちゃん! そんな簡単にアリスたちを許しちゃ! ママに食べられちゃうわよ?』
ママ、というのはシュブ=ニグラスのことだろう。マザーハーロットではなく。
マザーハーロットには悪いことをした。自分が屈させるだけ屈させて、利用した挙句に自分で喰らってしまった。
そんなことを思っていれば、深紅の獣が浮かび上がる。
『なんぞ、そのようなことを悔やんでいたのかえ? 悪魔はそれが日常茶飯事。強い方が弱者を好きにするのが当然である。この童のいうとおり、悪魔に慈悲を見せれば頭より食われてしまうぞ? まあ…それでも契約者が我が願いをかなえてくれるというのなら、そうよな──、うむ、またジュンペーとやらやあのチドリとか言うおなごに会わせてくれればそれでよい』
うっそりとしたような声で要望を告げてきたのはマザーハーロットだ。よく知らないが伊織とチドリのことを気に入っているらしい。ちょっとした執着心のようなものが見える。
というかなんなんだこれは。ちょっと人数が多すぎやしないだろうか。頭がパンクしそうだ。妄想か? これは自分が役に立てないことに参りすぎて見てる夢なのか?
『夢、というのはそうかもしれないけれど…私たちは本物よ?』
困ったようにパンタソスが苦笑する。横でポベートールがうんうんと頷いている。あの子、感情表現が出来たのか、と今更驚く。
モルぺウスは相変わらず沈黙を保っているようだった。
『そうそう、ボクらがいることも忘れないでほしいな。寂しいじゃないか、ライドウ』
「いや俺はライドウくんじゃな──え? クリシュナ?」
突然聞こえてきた聞き覚えのある低い声に夢の中で素っ頓狂な声を上げた。そして声の方向を向けばクリシュナがそこでふわふわと浮かんでいた。
マザーハーロットまでは100歩譲ってまだわかる。だけれども、どうしてクリシュナが。彼は死んだはずでは。
『オレっちもいるぜ! 忘れんなよな!』
『はあ、キミが煩いのはここでも変わらないんだね、カルキ』
『おうともよ! オレっちの良いところって明るいとこだからな! ライドウもそう言ってたし!』
クリシュナが半分生暖かいものを、半分忌々しいものでも見るかのように白馬に乗った五月蠅いカルキを見る。
どうでもいいがここ、乗馬率高くないだろうか。マザーハーロットのは馬じゃなくて黙示録の獣だけど。
心の中というか、頭の中がこれ以上五月蠅くなるのは正直勘弁願いたい。悩みの種が増えそうだ。俺の心はアパートでもマンションでもないので好き勝手されても困るというか、なんというか。
『ふふ、でも賑やかでいいじゃない』
「そりゃないよ千鶴さん…」
空気を読まないおっとりとしたパンタソスの言葉に苦笑する。大分、意識がはっきりとしてきた。賑やかすぎるせいか。
『落ち込んで暗くなるよりかは断然っスよ。チミ、落ち込むとよくないコト考えるしネ』
「モコイさんまで…」
ここにストッパーはいないのか。
モルぺウスに助けを求める視線を向けるも、『無理無理』と言わんばかりに激しく首を横に振られてしまった。辛い。いつもは物理攻撃で頼れる彼もこの人数を何とかするのは無理らしい。というか、一番人間としての常識のある、元々千鶴さんだったパンタソスがはっちゃけてしまっているのでもう抑えがきかないのかもしれない。もはや無法地帯だ、ここは。
神格を持て余した大乱交ペルソナブラザーズだ。いや、デビルブラザーズか?
パンタソスやアリス、マザーハーロットと言った女子もいるからあまり卑猥なことは思えないし言わないけど。
『はっはー! だが、そこの女の言う通り良い事ではないか? なあ!』
良くない。断じてよくない。騒がしいペルソナ筆頭のホワイトライダーに言われても何も認められない。
これ以上うるさくするようならコロッケのレプリカを口にぶち込むぞ。自分の口に。もしくはやけ食いか。
あのうごうご蠢くアレをノーちゃんのメル友…いや神友?の“明星の如く輝くプリティー女子高生のヒカルちゃん”こと
俺は知ってるんだからな
『そうよ、良い事なのよ! ね、ナギサ。貴方の中にはこんなにも絆が息づいている。ちゃんと、ここに残っているの』
パンタソスは笑う。こちらは来る胃痛に頭を抱えたくなる。けれどパンタソスのその笑みは慈愛に満ち溢れている。親が子を見る視線と同じだ。
本当、だろうか。この絆は本当に俺のものなのだろうか。というか絆でいいのかこれ。
『もう、疑り深いというのは仕方がないけれど見てみなさい。向こうにまだ、いるのよ。恥ずかしがって出てきていないみたいだけれどね』
パンタソスが指す方向に視線を向ける。
暗闇の中には、ウィッカーマンが喰らったはずのデヴァ・マーラ。そしてそのさらに後ろにぼんやりと黒い木のようなものと、禍々しい光を帯びている古めかしい和服のようなものを着た男が浮かんでいる。
パッと見ただけでその存在の名前が浮かんでくる。あれは“
アールキングはともかく、アマツミカボシと言われれば心当たりしかない。間違いなく、ライドウくんから貰った曰く付きのブツである死兆石の欠片関連だろう。おお、くわばらくらばら。
いや、安倍晴明の血を継いでいるらしいしドーマンセーマンと言った方が良いんだろうか。そんなことを思っていれば少しだけ苛ついたような気配がアマツミカボシの方からした。
怖いから触らないでおこうと瞬時に決める。なんだあのニトログリセリンみたいな危険物。
『葛葉ライドウだったキミがそれを言うのは因果なものだね…』
なぜか、クリシュナが困ったように苦笑した。だから俺はライドウくんじゃない。そう言おうとしたけど言葉は出ない。
『まあ、一生気がつかなくてもいいさ。キミはライドウであり、そうではないのだから。ボクらが知っていればいいのさ。だろう? モコイ』
まーたクリシュナはポエミーなことを言っている。訳が分からない。とにかく、デヴァ・マーラとアールキングとアマツミカボシはこちらへ来る様子は無い。というよりも自分に力を貸すかどうか考えあぐねているような、見定められているような、そんな気がする。
彼らの力を借りれるようになるのはまだ後らしい。そもそもそんなことは起こらないかもしれないが。というか、恥ずかしがっているとかそういうレベルではないと思うのだ。
やはり千鶴さんは当時はしっかりした人だと思っていたがかなりお茶目で天然さんな性格だったのだろうか。とても疑わしい。
『ま、そっスね。クリシュナのいう通りっスね。チミが何者だろうとボクらだけが知ってれば、それでいいんスよ。うんうん』
モコイさんまで突然訳の分からないことを言い出したので困り果てる。
ふ、と異質な気配がしたので振り向けば、そこには青い炎が燻っているだけ。ただ、ウィッカーマンの炎ではないことはその色からして確実だ。
「……?」
誰かが、そこにいた気がする。けれどその誰かがわからない。
視線を元に戻せば、皆は消えてパンタソスだけになっている。あれだけ騒がしかったというのにピタリと静寂が戻って来る。
そのことに、一抹の寂しさを感じた。
『そろそろ時間ね。次に私たちに会えるのはいつになるかわからない。けれどナギサ。私たちはいつでも貴方の心の内にいて見ているし、人として生きようと思えたその時は力になるわ。絶対に』
手が延ばされ、見えない自分の頭を撫でられる。優しい手つきに、夢の中だというのに段々と睡魔が襲ってくる。
『それまではさよならね…でも、私達は貴方のことを信じているから。だから、どんなに絶望が押し寄せてきたとしても最後まで諦めちゃ駄目。わかった?』
その言葉に返事をしようとしたものの、できないままに自分の意識はブラックアウトしてい──くはずだった。
ちょっと待ってほしい。常に心の中にいて見てるってことは色々見られちゃまずい場面まで千鶴さんに見られていないだろうか。
ほら…思春期を迎えた男の子に必須なアレとか普通に裸とかその他もろもろ。大体は戦闘で発散させてたからよかったものの…いや、メティスにすらそこは漏れてなかったはずだし大丈夫だ。うん。そうじゃなかったら今すぐカズムの深淵に飛び込んでシュブ=ニグラス共々自殺する。恥ずか死んだり社会的に死ぬより自分が居なかったことにされる方がましだ。それくらい、心はガラスなんだ。察してほしい。
「──……? ちづる、さん…?」
最低な思考の後に何秒か間をおいてぱちりと目を覚ます。知らない天井だ。明かりが目覚めたばかりの目に眩しい。
誰かに頭を撫でられている。なぜか美鶴さんではなく千鶴さんかと思い、はっとして視線を向ければ見知らぬ女性が椅子に腰かけていた。
一気に意識が覚醒する。
「は──あわわわわわわ!?」
そのまま驚いて起き上がり、慌てて後ずさりしようとしてベッドのふちから落ちそうになりつるつるとぅるんとぅるんと肌触りの良いシーツと数秒ほど格闘してようやくベッドの上に戻ることができた。
くっ、おのれ高級シーツ。こういうところでこちらに牙を剥いてくるとは。
ベッドの上で縮こまる様にして正座し、おずおずと女性の方を向く。
「あの、貴女は…?」
「ごめんなさい、驚かせてしまったわね…私は桐条英恵。美鶴の母です」
ニッコリと微笑みながら自己紹介をしてくれた女性は美鶴さんの母の英恵さん、というらしい。確かに美鶴さんが笑った時のような雰囲気とよく似たものを纏っている。
母親、と言ったのは嘘ではなさそうだ。
「三上優希です。えと、娘さんとお付き合いさせてもらって…ます!」
頭を下げる。
ちょっと悩んだが一応恋人、という括りなので最後には断言する。そんな自分を見て英恵さんはくすくすと笑いだした。
「止してちょうだいな。頭を上げて…そう。いい子ね。ふふ、美鶴や千鶴さんが可愛がるのもわかるわ…こんな可愛い子、目の前に居たらついかまってしまいたくなるもの」
「へ?」
“かわいい”。
聞き間違えでなければそう言われた、はずだ。初対面で挨拶を交わしただけだというのに。
かっこいいではなくかわいい、だ。悪感情を覚えられていないだけましだが、なんだかちょっと情けない気分になる。
「あの、できれば可愛い以外の方向でお願いします…」
初対面の相手だが我儘を言ってみる。断じて可愛いはないだろう。そこそこ身長もデカい男であるのに可愛いとはこれ如何に。
修学旅行の時に家族である奏子からさえも女性に間違われたけど。お兄ちゃんは悔しいぞ。
「あら、そう? なら──そうね、微笑ましい、かしら?」
きょとん、と綻ぶように笑いながら首を傾げる英恵さんはマイペースだ。英恵さんはお嫁さんらしいので血は繋がっていないだろうが千鶴さんとよく似た性格なのかもしれない。可愛いから微笑ましいになっても何も変わってないけど。
「じゃあ、それで…ところで美鶴さんと斉川さんはどこに行ったかお伺いしても?」
妥協して姿の見えない美鶴さんと斉川さんの行方を尋ねる。ちらりと外を伺えばもう夜になってしまっているのか真っ暗だった。朝から曇りであったのでこれだけ暗くなっても仕方ないと思う。
その上、この部屋に時計は無いらしく、携帯電話を見なければ今が何時かすらもわからない。時間感覚が狂ってしまいそうだ。
「美鶴と菊乃さんは武治さんの所よ。だから代わりに私が来たの。美鶴が熱心に貴方と一緒に居たいと貴方のことばかり話すものだから気になってしまって。そしたら可愛くお昼寝をしているものだから、つい、ね?」
なにがつい、なのだろうか。よく分からないが頷いておく。あと可愛いはやめて欲しい。結構ダメージがくる。
「美鶴を待っている間、暇でしょう? だからおばさんとお話しましょ。ただ、私もあまり身体は強くない方だから休憩を挟みつつでね」
ニコニコと朗らかに笑う英恵さんは美鶴さんとは違う。
いや、先程も思ったように笑った時の雰囲気は似通っている。けれども、美鶴さんはこんなにもずっとニコニコはしていないし朗らかでもない。
性格はどちらかと言えば武治さん寄りのようだ。口調からしてそうだと言わんばかりだけど。
さて、話。話か。何を話せばいいものやら。わからない。
千鶴さんのこと、とかだろうか。とはいえ、自分の中にある千鶴さんとの記憶の三分の一ほどが焼け落ちていて、残っているのは日常のなんでもない会話だったりグリーンピースを克服しようと頑張っていた時くらいの話や最期の時の記憶くらいしかない。
グリーンピースは結局その時克服できなくて、自分でもどうやって克服したのかわからないが食べられるようになっていた。好きではないが、ゲロマズではなくなったと言うべきか。
いや、ここぞとばかりに美鶴さんの好きな物などの普段は聞けないような話をすべきなのではないのだろうか。
美鶴さんのいない今がチャンスだ。
「じゃあ、美鶴さんの好きな物とか…!」
「うふふ、大胆ね。美鶴の好きな物は──バイクよ。もう、凄いんだから。ビュンビュン走ってかっこいいの。最近は忙しくてせっかく免許をとったのにあまり乗れていないと聞いたけれど…」
既知の情報だったがそれをおくびにも出さずに聞く。
しかし嬉しそうな顔でそう語る英恵さんは途中で心配そうな顔になってしまった。
たしか、美鶴さんは周りにバイクのことを危ないと止められていなかっただろうか。そんな話をボソリと言われたような、無かったような。聞けばあの元許嫁も美鶴さんがバイクに乗ることに反対だったらしい。「女らしくないから」だと。とことんムカつくやつだ。好きな人が好きなことを常識の範囲内でしていて何が悪い。
英恵さんの心配は美鶴さんが危険なことをするというよりも好きなバイクにあまり乗れてないという所に向いている。
確かに、最近は作戦という名目でも大所帯になってしまってるので全員で歩いた方がいいよねという結論になり、6月くらいまでに美鶴さんが乗っていた特別仕様のバイクは今や寮の裏口にある小さなガレージに置きっぱなしだ。
たまに、休みの日などに掃除したり弄ってる姿をみかけることはあるが乗っているところはほとんど見かけない。
「そう、ですね。最近は乗れてないみたい、ですね」
解決法とするならば、美鶴さんに時間を作ってあげるとか自分がバイクに乗って一緒にツーリングに行こう、と誘ったり予定を立てることだろう。けれど前者の考えは現実的ではないし自分はそもそも乗れないことは無いがバイクの免許を持っていない。
ううむ。手詰まりだ。
「俺が免許を持っていたら美鶴さんと一緒に外に行けたんですけど…すみません…」
素直に謝る。美鶴さんの力になれないのが悔しい。こんなことならさっさとバイクの免許を取っておけばよかった。今だと視力検査に引っかかりかねない。
「あら、謝らないで! そういう意味で言ったわけじゃないの。美鶴もバイクだけが楽しみじゃないんだから、大丈夫よ」
「でも…」
自分の食い意地が張って食べ歩きばかり連れていったことを後悔する。この前のことに関しては自分のメガネで美鶴さんの好きなものですらないし。
そんな落ち込んでいる自分を見てか、英恵さんはなにか閃いたような顔をした。
「それなら、後ろに乗せてもらうというのはどう? 美鶴もデートという口実で好きなだけバイクを運転できるし、貴方はバイクの免許が無くても良いじゃない?」
「なるほど!」
天才か。
けどなんというか、ドラマとかでよくみるのはやはり男性が女性を乗せてデートに行くシーンばかりだし、複雑な気持ちもある。
けれど美鶴さんが運転をすること自体が好きならば、自分としてはいまはその形が一番いいようにも思えるのでそんな些細なプライドのようなものは捨てようと思う。どうせ、大衆のイメージだ。女の人の運転で後ろに乗せてもらう男の人がいない訳では無い。それが例え少数派だとしても楽しむことにそんなことは関係ない。
「じゃあ、今度誘ってみます」
「ええ、頑張ってちょうだい。応援してるわ」
ところで、と英恵さんは話を切り替える。
その表情はとてもうきうきしているようにも見えた。
「ねえ、婿養子に来てくれるっていうのは本当なの?」
「!? え、えっと、えっとですね…それは…」
突然の問題発言に狼狽えた。確かに、そういう話があるというのはあの元許嫁が突撃してきた日に聞いたが自分は何も返事を返していない。
悩む。これはどう答えるべきか。許嫁になれたとしても恐らく嫁ぐ前に死ぬんです、とも言えずにもごもごと口ごもる。
「どうしたの? なにか、言えない事情でもあるのかしら…? それとも婿養子の話は勘違い、なのかしら?」
心配するように見てくる英恵さんに、見た目だけの笑顔を返す。大丈夫。
そうだ、英恵さんも身体が弱いらしいしストレスになるようなことは伝えられない。
こんなのは建前だ。分かってる。本当は自分が彼女に伝える勇気がないだけだ。
「いえ。勘違いなんかでは…情けないことに美鶴さんとのことをまだ養父母と話してなくて…正式に言ってしまっていいのかと考えあぐねてました。反対はされないとは思いますけど許可は貰えてないのでどういえばいいのか…」
「あら、そうだったの? 答えを急かしてしまったみたいでごめんなさい。けれど本当に悩んだのはそれが理由じゃないでしょう? どうしてか、聞いてもいいかしら?」
口調は柔らかいが鋭い言葉が来る。
取り繕ったことを見透かされている。これは隠し通せない。
「それは──」
言ってしまおうか、と口を開いた瞬間、部屋のドアがノックされる。
美鶴さん達が帰ってきたのかと振り向けば、ドアが開いて知らない男の人が入って来る。
「失礼します、英恵奥様。それと、三上様」
「ど、どうも…?」
頭を下げられたのでベッドの上でこちらも頭を下げる。
スーツのその人は険しい顔をしていてあまり好かない。というか、なぜか幾月がこちらを見るときのような実験動物を観察しているような視線でこちらを見てくるその人にどうしても嫌悪感が出てしまう。
「あら…貴方は」
「高寺です、奥様」
「それで高寺さん、何の用かしら? ここには病人しかいないのだけれど?」
穏やかな口調だが確かに棘を孕んだ英恵さんが仕事の話をするのか、と言いたげに言葉を投げつけた。恐らく、この高寺さんという人は桐条でも偉い立場にいる人なのではないのだろうか。
「奥様には何ら関係のない事ですのでどうぞ席を外していただいても構いません」
なぜかはわからないが危険信号が頭の中で鳴る。
駄目だ。ここで英恵さんをこの場から、自分の傍から離してはいけないという直感がした。
そっと、英恵さんに目配せし、首を小さく横に振る。
「…そうね、折角の提案だけれどごめんなさい。私もこの場に居させてもらうわ」
自分の心が通じたようでほっと一安心する。
しかし高寺さんはそんな英恵さんの言葉を特に意に介さずこちらを冷めた目で見たまま口を開く。
「本日、ここに来たのは貴方にお願いがあるからです。三上様、どうでしょう? 我々桐条グループに貴方の保有する倉橋商事の株式をどうか渡していただけませんか?」
「……」
訝しむ。
なぜ、武治さんを通して話をしてこないのか。なぜ、武治さんが要らないといった倉橋商事の株を狙っているのか。
この言葉だけでも疑問に思う要素がないわけではない。さらにあんな話を聞いていれば疑うには十分すぎるほどだ。
「あの、そもそも貴方はなんなんですか? 高寺さん、と言うらしいですけど、俺はそれ以外のことを知りませんし、なにより武治さんはこのことを知っているんですか?」
質問で返す。信用できない、と明確に表さなければ情報を引き出せない。
そもそも一応信頼はしている武治さん本人に直接ならともかくよくわからない人に言われてすんなりと渡せるわけがない。
「これは失礼。私は高寺一郎。ご当主の右腕、と言えばいいのでしょうか。実質的にグループの代表補佐のようなものをしております」
武治さんの右腕。それは本当だろうかと英恵さんに目を向ければ頷き返してくれる。だが、その表情からこわばりが抜けていない。普通、右腕だと思っている人にこんな対応はするのだろうか。警戒するに越したことはない。そしてこいつ、武治さんが知っているのかということに答えなかった。
「渡していただければそれなりのお返しはするつもりです。そして、ついでと言えばなんですがご当主に嘆願した要求も取り下げていただけるとこちらとしてはありがたいのですが」
「…それは、慰霊碑や遺体の扱いのことですか?」
「はい。今、桐条は
どこから知ったのかわからないが、会話の内容も聞かれていたらしい。
だが、桐条の就労人数を聞かれたところで俺の意志は揺るがない。自分は最低限のことしか望んでいないからだ。これ以上は“みんな”が泣き寝入りになる。そんなものは認められない。
「──日本の就労人口の約2%です。この数字の大きさがわかりますか? たかが2%、されど2%なのです。現在の日本の就労人口は全体で六千万。その2%ともなれば百二十万人ほどでしょうか。その上で、桐条が貴方の要求したことが原因でもし潰れたとしましょう。その百二十万人が路頭に迷うのですよ。貴方は、その責任を負えますか?」
せこい奴だ。そう思ってしまった。
こいつは責任転嫁をしようとしてきている。俺に罪を負わせようとしている。だが、これは自分のせいではない。桐条がすべき自業自得の行いだ。
それこそ、武治さんが望む罪の清算そのものでもあるのに、この人はそのことについて無視しようとしている。
「なら、死んだ人間はどうでもいいってことですか。みんな、あんたたち“桐条”が殺したのに」
「果たして…今を生きる人間より、死した人間のことを優先しなければいけないのでしょうか」
睨み付ければそんな言葉を吐かれ、思わず頭に血が上る。
奪ったのは、殺したのはお前達だろうに。何を──こいつは何を言っている?
「おまえ…ッ!」
「おっと、これは失礼。失言でした」
吠えれば飄々と謝って来るもその顔に誠意はない。
俺さえいなければ、と言った悪意のようなものが僅かに見える。嫌な奴だ。
「高寺さん、今の言葉は事故で亡くなった千鶴さんや、罪の償いをしようと努力している武治さんをも侮辱する発言よ。聞き捨てならないわね」
ちくりと英恵さんの指摘が入るも高寺は素知らぬ顔で無視をした。
もう“さん”付けは止めだ。こいつは敵で、こちらのことをなんとも思っていないしこれも話合いに見せかけた脅しだ。認めるわけにはいかない。
「言われたことを全て加味しても嫌です、と言ったら? 俺が望む物を貴方がたが用意できるとは到底思えませんけど」
「強欲な方だ。流石はあの倉橋翁の血を継いでいるだけはある。断られないよう、出来る限りのことはさせていただきますよ」
強欲なのはそっちだろ、と言いたくなった。
こちらの要望や持つものを捨てて、“桐条グループ”に渡せと言ってきていることのどこが強欲でないのか。自分からはこの高寺という男が上から叩き潰そうとしているようにしか見えない。
出来る限りのことをする、というのもこちらの要望を叶えるという意味ではなく『出来る限り全力を尽くして叩き潰す』と言っているようにしか聞こえない。
「ですが、一度はご当主にその株式を渡そうとしたのでしょう? ならば、桐条グループに渡しても同じこと。違いますか?」
「いいや。俺は武治さん個人に渡そうと思っただけです。武治さんなら、信頼できるから渡してしまおうと思っただけで桐条グループという組織に渡そうと思ったわけじゃない」
「結局は桐条グループのモノになるのです。違わないじゃないですか」
違う。自分としては武治さんが受け取った株をどう使おうが知らないが、桐条グループという曖昧なものに渡してしまえばこいつや自分の知らない人、もしくは美鶴さんや武治さんの敵の懐に入るかもしれないと思えば急に渡したくなくなる。絶対に渡さないぞという意志を固めた。
「武治さんは俺からそれを受け取らなかった。なら、俺も渡さない。武治さん本人から直接言われるならともかく、貴方がでしゃばるなどというのは言語道断です。もう話すことはありません。出て行ってください」
相手はこちらに要望をのませたくてしかたなくて、自分はそれが嫌だ。なら、帰ってもらうしかない。
こいつ自身が気に入らないというところまで来てしまっている。二度と来んなという視線と共に拒絶する。
「では、また後で。気が変わってくれることを望みますよ」
何されても変わんねーよバーカ! と叫びたくなる気持ちを英恵さんが居るために抑え、去っていく高寺を睨み付けるだけで済ます。
というかこの後も会いに来るのか、とげんなりした。マジでなんなんだあいつ。
「はあ…」
「ごめんなさいね…あんな言動、許されることじゃないのだけれど…」
「良いんです。英恵さんのせいじゃないですし。こちらの方こそ巻き込んでしまってすみません」
英恵さんが高寺のやったことを気にしているようだったがむしろこちらの直感めいたもののせいであんな会話を聞かせてしまったことに申し訳なくなる。
すんなり高寺が引いたことから、自分のあの危険信号は杞憂だったのではないかとも思えるが、何か引っかかる。
用心に越したことはないので警戒は怠らないようにしよう。そう心に決めるのだった。
一方、優希から交渉を跳ねのけられたあげく部屋を追い出された高寺は廊下で部下に囲まれながら怒りに表情を歪ませる。
「
心の内にあるのは怒り。それも理不尽なものだ。
だがあれは桐条にとって喉元に突き付けられた刃のような存在だ。上司であった幾月の資料を全て手に入れ目を通していた高寺は知っている。
あれは元々道具として桐条の為に有効利用された後に歴史の闇へと消え、死んでいるべき存在。桐条にとって、居てはいけない存在。いつ爆発するかわからない爆弾と称してもいいかもしれない。
ただの三上優希で居ればよかったものを、忘れていたという
そして美鶴自身も使い潰すべき道具同然の存在と結ばれようとする。
それがどれだけこのグループを左右することなのか、お嬢様もあれも分かっていないのだ、と高寺は憤る。
なんて馬鹿らしい思考なのだろうか。あれは人にはなれない。どこまで行っても
こちらはわざわざ慮る必要の無い
高寺が望むのは桐条グループの存続。それだけだ。その為ならなんでもする。
今回の事を起こす際、美鶴の安全という面で交渉を持ち掛け、御側御用の菊乃を取り込み武治との会話の内容を全て傍受していたがあまり役に立たなかった。
そしてあの交渉の場に英恵がいたこともあり、もう総帥である武治にまで話が通るのも時間の問題だ。ああまでして拒絶されたこともあり手段は選んでいられないな、と表情をきつくして携帯を取り出す。
「私だ。例の作戦を実行する」
その瞳には冷たい決意が秘められていた。