遡ること30分ほど前。
優希達と同じく急になだれ込むように書斎に入ってきた数名の私設部隊に囲まれた武治と美鶴、そして菊乃の三人は身構えた。あれだけ警戒して用意した警備は対人戦のスペシャリストである特殊部隊相手に無駄になったらしい。
「誰の許可を得てこのようなことを…!」
歯ぎしりする菊乃は突然の襲撃に憤る。
美鶴を守るため、武治の指令で菊乃は接触してきた高寺との二重スパイのようなものをやっていたが高寺自体も菊乃を信用していなかったのかあまり情報を寄越しはしなかった。
だからこそ何かやっているということと有事には手段を選ばずゴリ押ししてくる程度のことしか分からず、その後ろに誰かがいるのか、何が目的なのか。それすらほとんど見えなかった。高寺が動いている。怪しい。それくらいの事だ。
だがまさか私設部隊を手中に収めているとは露ほども思わなかったのだ。いや、有り得たことかと武治は考え直す。
この部隊は武治直轄ともいえるものだがその指揮系統に高寺も1枚噛んでいた。武治も多忙で彼らと警備部門の管理も高寺に任せていたのだ。つまり、書類上の主は武治だが実質的な上司は高寺であった。
なら、彼らはどちらの命令を聞くか。分かりきったこと。それが桐条グループの存続に関わることならば尚更。
「申し訳ありませんご当主。それにお嬢様。“話し合い”が終わるまで我々とこの部屋で待機しては頂けませんか。貴方がたはそれだけで良いのです。部屋から出なければ自由にしていただいて構いません」
菊乃を無視し、私設部隊の隊員の1人がそう告げる。その視線と言葉には「何も出来ないだろう」という油断のような感情がありありとみてとれた。
話し合い。つい3時間ほど前に英恵付きのメイドから高寺が優希と英恵のいる部屋に来たという報告を聞いたのだ。だからこそ、美鶴たちとの話し合いが長引いたとも言えるが。
内容はのっぴきならない事だったらしい。つまるところ、その高寺の関わっている話し合いはただの話し合いでは無いことは分かりきっていた。
「三上くんと妻は無事なのかね」
低く、重い敵意を隠さない声で武治は睨みつけながらそう問い質す。
だが、隊員はそんな武治に物怖じせずに事務的に口を開いた。
「おふたりが逃亡、抵抗さえしなければ。もし逃亡もしくは抵抗のどちらかをした場合は発砲・武力行使が許可されています」
「なんだと…!?」
隊員の告げた言葉に美鶴はこめかみをぴくりと動かした。
これでは脅迫だ。話し合いではなく無理やり脅して言うことを聞かせようとしている。
一体、何を要求したのか。そして何をさせようとしているのか。
美鶴と武治は同じ思考を回す。
(恐らく目的は彼の持つ株式だろう。だが、それだけでこのように強硬手段をとる必要が…)
あるのだろうか。
そう武治は訝しむ。それだけでこのように大掛かりな謀反の様なものをする必要があったのか。
失敗すれば首が飛ぶどころの話ではない。当主である武治やその家族に手を出したのだ。制裁はかなり厳しいものになるだろう。
だが、それらを覚悟してまで“三上優希”という少年に対しこれほどまでに過剰な手をとるというのはどういう事なのか。
何に怯えているというのか。
──まさか。
「斉川。昼の会話は高寺に傍受されていたか?」
問いかける。一体どういう事なのか、と戸惑いを僅かに見せるがすぐに表情を戻し澱みなく答える。
「え、ええ…その通りです。会話の内容を流せ、と言われていたのでその通りに」
「そうか…そういう事か…!」
武治は歯噛みした。
高寺の目的は確かに優希の持つ倉橋の株式だろう。だが、このような強行手段に出たのはそれが原因ではない。
恐らく話を聞いていた高寺は昼の会話の優希の要求により、優希の存在自体が桐条の害になると判断したのだ。
武治とて、あの要求が桐条にどんな影響を及ぼすのかくらいは分かっている。わかった上であの要求を呑んだのだ。本来ならば、ストレガ計画が頓挫したその時にすべきことだったのだから。
2時間前に部屋に来た時も優希にその話を諦めろと要求したのでは無いのだろうか。そして、拒絶されたに違いない。
武治から見てあの時の優希はこれ以上引けない、といった追い詰められたような表情をしていたからだ。
被害者である優希の要求をこうして力技で取り下げさせようとするなど、愚かなことを。
武治からしても優希の要求はして当たり前の事だった。10年間も放置していいものではなかったのだ。
事故の犠牲者の慰霊碑はあれどもストレガ計画で犠牲になった子供たちの慰霊碑は無い。それどころか、幾月の話を鵜呑みして遺体すら弔っていなかったのだ。優希があれだけ怒りや憎悪を向けても仕方ないと武治には認めることしか出来ない。だが高寺にとってはそうではなかった。
もし、優希が害され死ぬようなことがあれば武治は誰にも顔向け出来なくなる。
償う機会すら奪われるのだ。これ以上桐条の罪を増やしてくれるな、と武治は祈りながら何としてでもこの状況を打破しなければという決意を固める。
「美鶴」
「はい。お父様」
目配せし、視線を交わす。思っていることは父子共に同じだったらしい。
同時に動き出した三人に、私設部隊は迷いなく銃を構える。
「自由にしていい、とは言いましたが抵抗された場合こちらも武力行使の許可を貰っています。どうか、そのまま止まってはいただけませんか」
遠慮がちに私設部隊の男は言った。
流石に当主とその家族である武治と美鶴、そして御側御用の菊乃に手を上げるのは憚られるのだろう。逆に高寺は足止めが目的だったので優希と英恵のいた部屋に送り込んだ者達よりも武治に対して好感度が高いか作戦とは言えどもこれは背任行為であり、他者を害することに戸惑いのある面子をこの場所に配置するようにした、とも取れる。
本命は何としてでも仕留めなければいけない。だが、武治たちは本命ではなくあくまで時間稼ぎができればいい。最悪、足止めできなくてもそれまでに決着がつけられればいい。絶対につけられるはずだ、と考えていたに違いない。
だからこそ、隙があった。
「命令とはいえご当主やお嬢様を傷つけたくはないのです。出来ればお通ししたいのですが我々も生活が懸かっている。この部屋に留まってはくれませんか。ほんの、一時間程度。影時間になり、それが終わる頃までで良いのです」
今はまだ影時間ではない。
だからこそ、私設部隊の隊員たちは武治と菊乃しか護身用の拳銃を持っていない状況で、一番脅威的であるはずの美鶴が何もできないと思っていた。
「断る。矛を納めるのはお前達の方だ。三上くんは私の客であり、美鶴の大切な存在だ。このようなことは許されることではない」
「ですが、彼の存在は我々グループの者やご当主にとっても害になりうると…だからこそ、我々もこのようにやりたくない汚れ仕事を任されているのです」
心底、申し訳なさそうな顔をしている私設部隊の隊員は嫌々従っているようにも見えた。
やりたくない、と思っているのがその表情からありありと見て取れる。そして銃を構えてはいるものの、ここに居る面子はあまりその引金を引きたくはない様子でもあった。
「それは、誰からだ?」
「申し訳ありませんがいくらご当主と言えどもそれは言えません」
武治が首謀者が誰かと聞くも申し訳なさそうに首を横に振られて断られてしまう。
「私たちにこうして銃を突きつけるのは良く、その者を裏切るのは良くない、とでも?」
「…はい。生活が、かかっているのです」
生活が懸かっている、ということを強調した隊員は言えないながらも何かを武治に伝えようとしていた。その目が必死に何かを訴えかけていた。
首謀者にばれない程度に武治に情報を渡そうとしているようにも見えた。なら、その思惑に乗ってやろう、と武治はこの会話に乗る。
「ならば、きみたち全員が動けなくなった場合はどうするのだね。潔く失敗を認めるのか?」
「いえ、我々以外にも動いているものがおります。今頃、とある目的の為にそちらに向かっていることでしょう。我々が失敗したとしても彼らが何とかしてくれます。だからこそ、我々は余裕であるのです」
隊員の男の目からは余裕などという感情は見て取れなかった。気づいてくれ、と乞うような視線すら感じる。
しかし、別の者たちが動いているとなればそれは一体何なのか。武治たちがこの場にいる全員を拘束し、動けなくしてもなお、優希に要求を突きつけのませることのできる方法。
武治にはわからなかったが横に居た美鶴は気がついた。自分たちが人質のような役割を果たさなくとも、十分に効力を持つもの。それは──
「まさか、寮に…!? お父様、恐らく別動隊と思しき連中は巌戸台分寮の三上の弟妹や私の仲間たちを狙っているのでは!」
「なんと…!」
「私たちよりも、三上にとって真の急所足り得るのは有里達の方です。弟妹を出されれば、三上は……抵抗できなくなるかと」
美鶴の言葉に小さく私設部隊の隊員の男が頷いて息を吐いた気がした。
正解だ、と言わんばかりに。言葉で伝えられない分、小さく頷くことしかできなかったのだろう。
周りの他の隊員も微妙そうな顔をしている。生活が懸かっており、仕事だと割り切っていても無実の、しかも子供相手にこんな乱暴なことをしたくない、という気持ちが見て取れた。
「外への連絡手段は一時的に全て断ち切らせてもらっています。送受信の両方を行うことができません」
申し訳なさそうな顔のまま、連絡はできないと聞く前に答えてくれる。巌戸台分寮に警告することもできず、巌戸台分寮に行っているという別動隊のことを武治が何とかする、という手段も取れない。この包囲からなんとか脱出するほかにはこの状況を打破する方法はないようだ。
「……なんだ、騒がしいな。どうした」
不意に、隊員がインカムを操作し顔を顰めた。誰かからの通信を受け取ったらしい。
「ターゲットが奥様と逃げた? どこへだ? そうか、裏か…進行方向からして正門へと向かっているんだな? 増援の必要は? わかった。我々はこのまま持ち場で待機する」
これ見よがしに武治たちに聞こえるように目配せしながら内容を繰り返した隊員はそのまま通信を切り沈黙した。
どうやら、優希が英恵を連れて逃げ出したらしい。美鶴はそのことに驚いた。優希ならば、英恵のことを考えて大人しく捕まってしまうのでは、という懸念もあったのだ。
美鶴から見て優希はそれほどまでに自分を蔑ろにしがちだ。だが、今回はそうではなかった。
優希にとって退くに退けない条件だったからこそ、“壊滅させる”もしくは“逃亡する”という判断を下してしまった。
土壇場まで追い詰められた優希の爆発力を美鶴はいまいち実感していなかったのだ。
主にその矛先が優希自身に向けられていたこともあり、それが外に──人に向くなどとは思いもしなかった、というべきか。
カズムの深淵で殺してくれと言った時でさえ、何かを戸惑うように遠慮がちだったが為にそんなことはしないだろうと思い込んでしまった。
優希の抱く桐条への憎悪を、未だに美鶴は甘く見ていた。
ほぼ同時刻の巌戸台分寮のラウンジでは物々しい雰囲気が流れている。
巌戸台分寮に侵入したのは桐条の警備部。目的はここに居る全員の捕縛だ。
風花とメティス以外の全員がそこで集められて拘束されていた。全員を捕縛したのちに屋上に止められているヘリで桐条の元に連れていく、と。
勿論、それぞれ訳も分からずに抵抗したが人を捕らえることに長けた警備部に実銃を突きつけられてしまえばどうにもならない。影時間であればペルソナで守りを固めるなりなんなり出来たがそれもできず。
「その汚い手で姉さんに触れるな────ッ!!!!」
「未確認の対シャドウ兵器を確認。ご当主が秘密裏に用意したのか…? ッ!」
「姉さんと奏子さん達に手を出したなッ!!!! その所業、万死に値する!!!」
窓ガラスが割られる音がしたために風花を作戦室で待たせ、入ってきた警備部の人間を叩きのめし、下に降りてきてその光景を目の当たりにした完全武装をした状態のメティスが激昂したままその隊長に襲い掛かろうとした。
が、
「メティス! やめなさい!」
「だめだよ! その人が大怪我しちゃう!」
アイギスと奏子からのストップがかかり、すんでのところで隊長は複雑骨折と内臓破裂を免れた。代わりに手に持っていた銃がバトルメイスで真っ二つにへし折られたが。
メティスはガワこそ機械の乙女だが混じりものでありその出力はアイギスよりも上だ。そして人間という存在に対するリミッターも守らなければいけないという思考も存在しない。メティスの大切であり守るべきものはアイギスと奏子と湊だ。それ以外は正直どうでもいい。
そんなメティスの全力を普通の人間が受ければどうなる事か。想像に難くない。
「なら、手加減でもして全員を気絶させましょう。それでいいですよね?」
けろっとした顔で後ろへと跳ね、距離をとったメティスが何が悪いのかと代案を提案する。
それならば、とこの状況を変えなければいけないことに変わりはないアイギスは遠慮がちに頷く。流石に理由も聞かされずにこうも手荒な真似をされた上に黙ってこのまま連れていかれるわけにもいかないからだ。この詰みに近い状況を変えられるのはリミッターも何もついていないメティスだけだ。
「今の妹ちゃん、完璧に警備部の人をぶっ殺すつもりだったよなアレ…あんなドスの利いた声だせるんだなー……」
「怖かった……」
順平と湊はメティスがあそこまで怒気を高め、声を荒げたところを見た事がなかったので戦々恐々としている。
二週間ほどの付き合いだがここ最近のメティスは幼い女の子、と言った感じで我儘を言うこともあれば可愛らしくむくれることもあったのだ。怒ったとしても駄々をこねる程度。無知ゆえに何か間違ったことをしてもすぐにアイギスに諭されて謝罪をするし、反省もする。
今までシャドウやニャルラトホテプ以外の誰か──特に人間に暴力を振るったり敵意を見せた事すらなかったのだ。あのバトルメイスが向く先はいつもシャドウだけだった。シャドウの母との混じり物がシャドウを倒すというのはおかしな光景かもしれないが、基本的な人格はメティスであるのでアイギスの敵になるようなら容赦しない、といったところだろうか。
ただあそこまで声を荒げ、何の戸惑いもなく人に跳びかかる様を見てしまえば流石の湊であってもビビってしまっても仕方ないというものだ。
「オルギア、発動!」
そこからは蹂躙だった。
対シャドウ用の弾が入った銃をメティスに向け、発砲する隊員もいたがアイギスのものよりも出力の向上したオルギアモードを発動したメティスの敵ではなく。全員さくっとそこそこ痛そうなバトルメイスの一撃を食らって昏倒してしまった。
残っているのは隊長である男だけだ。
メティスはみんなが話を聞けるようにとその男だけを気絶させないでわざとおいておいたのだ。
さっと特別課外活動部の面子の拘束を解き、逆に警備部の人間を攻撃にも使う内蔵ワイヤーで一通り拘束してまとめたメティスはふふん、と得意げな顔になる。
「偉いわ、メティス。ちゃんと手加減できたのね。ありがとう」
「当たり前です! 姉さん、私ちゃんとやれましたよ! もっと褒めてください!」
「もう、仕方ない子ね…」
えへえへと笑うメティスはまるで子犬だ。アイギスに撫でてほしいと頭を差し出せば、アイギスもそれに答えないわけにもいかず撫でる。すっかりアイギスもお姉さんが板についてきている。
今回のMVPはメティスだろうと誰もが思った。後からおずおずと警戒しながら降りてきた風花の話ではこの襲撃を察知したのもメティスだという。
「最初に気がついたのはメティスちゃんだったの。それで誰かが襲撃してくるのなら寮の警備システムを使って扉と窓をロックしてしまえばって思ったんですけど…根本からシャットダウンされてて。なので皆さんに警告をと思った瞬間にはもう遅かったようで……メティスちゃんが居なければ大変なことになっていたと思います」
「それで、わざわざ美鶴先輩のいないときに何の用なのよ。この警備部って人たち」
ジト目で襲撃者たちを見つめるゆかりは不信感を拭えていないのかあまり近づこうとはしていなかった。近寄りたくないという嫌悪感を隠そうともしない。
「ゼッタイ、良くないことで来たんでしょ」
「……」
隊長の男は口を噤んでいる。何も答える気はなさそうだった。そこへ、アイギスに思う存分頭を撫でられて満足したメティスがとてとてとやって来る。
「無理やり口を開けて喋らせましょうか? 火器の扱いは姉さんに劣るかもしれませんが私も得意ですよ!」
「ストーップ! ストップ! ナニナニ!? 妹ちゃん今日過激すぎね!?」
「何を言ってるんですか順平さん。私はいつも通りですよ?」
きょとん、とした顔でメティスはそう答える。
メティスからすれば正常運転らしい。だが、周りから見ればそうも見えない。完全に襲撃者に対し遠慮のない敵意を放っている。
「メティス、あんまりそういうのはアイギスも好かないと思うんだ…」
「そうなんですか? 姉さんもあまりそういう手段は好まない、と?」
困った顔でメティスを諫める天田にもメティス自身はきょとんと何が悪いのかわからない様子で首を傾げる。天田も他の面子も思っていたことだが、メティスは一般常識を知識としては知っているものの、少々特別課外活動部以外の存在に対し思いやりに欠ける。そこがいま、問題点として浮き彫りになっていた。『かつて』のことを思えばアイギスだけだったその“守る”の範囲が特別課外活動部まで広がっているのは奇跡だとも思えることだが。
「そうね…むやみに人を傷つけるのは良くないと思うわ」
「わかりました! なら優希さんと同じく【精神暴走】でもつかっ…」
「ダメ! ぜーーーーったいにダメ!」
「無理やり暴力で屈させるのは良くない」と言ったアイギスにメティスはならば精神面でと提案する。【精神暴走】をメティスも使えるらしいがそんなものを普通の人に使えばどんな悪影響があるかわからない。絶対にダメだ、と奏子が必死に止める。
「では、どうやって彼らから情報を引き出します? この男、なにも喋る気なさそうですよ」
「そうだな…」
全員で考える。
こういう時に美鶴が居れば一瞬で何か名案が思い付いた(そもそも今回の襲撃者は桐条の者なので美鶴が居れば即解決していたともいえるが)というのに、そのブレインたる美鶴が居ないためにいい方法が浮かばない。
「では、風花さんの初期作品である料理を召し上がっていただければ? 噂に聞けば冷凍庫に保存してあるらしいですね。あのげきぶ──」
「ダメ────ッ!!! そんなことしたら死んじゃう! ほんとに死んじゃうから!」
「山岸の料理は…止めてあげて……」
「ワンワンッ!」
風花のお料理経験初期に作った劇物を食わせればいい、とこれまた罪悪感も何も感じていないメティスが提案するがその恐ろしさを知っている奏子と湊、そしてコロマルがメティスを止めた。コロマルはその匂いを嗅いだだけだが。
あれはひと口食べただけであまりの味に卒倒する代物だ。そして食べた後はトイレとお友だちになれる効果つきだ。パンデミックを起こす気か。それとも警備部の全員を地獄に叩き落とす気か。
必死に止めるふたりと一匹を見た風花は段々怖い顔になっていく。そして、
「メティスちゃんと奏子ちゃんたちは後で私とお話、しよっか」
「ひぇ…」
死刑宣告が放たれた。
というより、風花にとってもあの劇物は今となっては黒歴史なのだ。最近ではレシピ本を見ながらちゃんと分量を量り、味見をすればちゃんと食べられてそれなりに美味しいものが出来ている。優希や荒垣にだってお墨付きをもらっている。だというのにいつまでもメシマズ扱いされるのは心外と言うものだ。
ぷりぷりと怒る風花をどうやって慰めるのか。襲撃者を完璧に拘束し、無力化できてしまった時点で目先の問題はすぐにそちらに移ってしまっていた。
「あれ…美鶴先輩の携帯、繋がらない……三上先輩のも…まさか、向こうで何かあったんじゃ……」
ふ、と襲撃者は片付いたので理由を聞くことを込みで引き取ってもらおうと電話をかけようとしたゆかりがどちらにも電話がつながらないことに気がついた。
美鶴が多忙で出ないことがあるにしても、優希が出ないなどというのは殆どありえない。話し合いが長引いている、というのも何の連絡も無しにあるわけがない。
ならば、向こうでも同じようなことが起こってしまっているのでは。
(今の桐条…一体どうしちゃったの……?)
そんな疑念のようなものを抱きつつ、ゆかりはふたりの無事を案じることしかできなかった。
場所は桐条宗家本邸の書斎に戻る。とっくに影時間へと突入したが全員が象徴化せずにそこに居る。
理由は恐らく武治と美鶴以外の全員の手に嵌められている指輪だろう。これは影時間への適性を何の適正もない人間に与える桐条の開発した代物だ。これをつけて適性の無い研究者などは影時間の調査を行っていた。
「……寮へと突入した警備部から連絡がない? 護送が長引いているだけでは」
インカムから再び連絡が来た隊員の男が油断しきっているのかこちらにすべてを伝えるつもりなのか堂々と別動隊の名前を出して首を傾げるがまだ援護の要請がされていないために動こうとしない。あくまで隊員の男は命令された以上のことはやらないことにしているらしい。
「……」
そして寮へと襲撃をかけた別動隊というのは警備部のことらしい。そのことに武治はより一層高寺の関与を確信する。
だが、恐らくそれは失敗したのだという予測もあった。連絡がないということは警備部自体に連絡のできない事態が発生したということだ。
そして、今が好機でもある。動き出そうとした瞬間、窓の外が白み、ほぼ真っ暗だった部屋の中が明るく照らされる。
おかしい。影時間は常に不気味な緑色で照らされているというのに、真昼の太陽の如き光が放たれるはずがないのだ。
「何が起こっている…?」
隊員の一人が部屋を出て、光源があるだろう反対側の窓を確認しに行く。そして息を切らしてすぐに帰ってきた隊員はありえないものを見たかのような顔をしていた。
「炎が…炎が渦を巻いて……!」
その言葉は要領を得ない。
だが、何か異常事態が起こっているのだと察した隊員の男はいったん部屋の外に出、すぐに先ほど戻ってきた隊員と同じように戻って来る。そして銃口をまっすぐ上に向け、引き金を引いた。
6秒ほどマズルフラッシュと共に銃弾がありったけ吐き出され、ワンマガジン分を撃ち尽くした隊員は決意を秘めた顔になっていた。
「行ってください。これ以上は我々の…人の手には負えない。恐らく美鶴お嬢様の御力が必要となるでしょう」
「っ、お嬢様!」
その言葉と同時に美鶴は駆け出していた。何らかの連絡をしたのか屋敷内にいた私設部隊の全員が美鶴を無言で通した。中には恐怖が染みついたような顔をして外を見ないようにしているものもいた。
荒事に慣れているだろう私設部隊の隊員ですら戦慄する炎。
手に負えない。
まさか。そんなまさか。
そうして、屋敷の外に出た美鶴が見たものはあたりを真昼のように照らす炎の海だった。
いたるところに倒れる私設部隊の隊員。それらの一番奥で太陽のような灼熱の炎の塊がごうごうと渦巻いている。だというのに、熱を全く感じないのだ。なにも、燃えていないように感じる。ただただ、炎だけが燃え盛り、触れているはずの草木は無事なままだ。美鶴がよく登っていた柿の木でさえ、風で枝葉を揺らすのみ。
だが幻覚ではないことはこの巻き起こる風でわかる。その風だけはまるでその場を夏かと錯覚させるほどに熱風を吹かせている。
なんなんだ。なんだ、これは。
矛盾しか孕んでいない目の前の地獄のような光景に、美鶴は震えることしかできない。
ふ、と横を見れば母である英恵が優希の着ていた月光館学園の制服の上着を羽織り、そこで上体を起こしている。さらに、その隣には見覚えのない銀髪の機械の乙女が倒れたまま泣きそうな顔をしてじっと炎の竜巻を見つめていた。
優希は一体どこに。どうしてこんなことに。
「美鶴! 三上くんを止めて! このままでは彼が…高寺さんを殺してしまうわ!」
美鶴に気がついた英恵の、悲鳴のような言葉が響く。その言葉で美鶴は咄嗟に召喚器をこめかみ当てた。
英恵の言葉通りならば、ふたりは恐らくこの燃え盛る炎の竜巻の中だろう。だが一体何がどうなってこうなっているのか。どうして優希が人を殺そうとしているのか。
びゅうびゅうと耳鳴りの如く鳴る風の音は泣いている声のようにも聞こえた。