キス。接吻。口吸い。
俗に言うなれば、優希がラビリスにしたのはそういうものだ。だが優希の目的はただキスをすることにあるのではない。
【吸魔】
このスキルを発動するための手段なだけである。本来なら、触れるだけでいいのだが優希はそこまで頭が回っていない。とにかく制御回路は頭についてるだろうという適当な判断だ。
制御回路だけをこれで壊し、マグネタイトに分解して吸収してしまえばいいのだと思い立ったのだ。
しかし、スキルを発動した瞬間、優希の思考は停止した。否、途切れたというべきか。
黄昏の羽根を体内に持つ者同士、接吻という行為の上で吸魔したことが一種の
優希の中にはラビリスの記憶と感情の断片が。ラビリスの中には優希の記憶と感情の断片がそれぞれ濁流のように流れ込む。
これが優希が黄昏の羽根を体内に持っていなければ、普通に制御回路を破壊し魔力を取り込むだけで済んだだろう。だが、黄昏の羽根同士が近しい状況下のふたりを結びつけ、干渉しあってしまったのだ。
唇が離れる。
ほんの一瞬だったが稲妻のような衝撃はラビリスを強制的に動かしていた回路の呪縛を解くには十分で、一度その瞳を閉じたラビリスは光の戻った目を見開いた。
「ああ…あんた…ナギサさんって言うねんなあ……ごめんなあ、ウチがちゃんとしてなかった、せいで…傷つけてもた…」
そう呟き、ラビリスは倒れ、目を閉じる。
無理やり起動させられ、操られ、自分の意志に反することで限界まで戦わされた上に記憶の共有という精神に負担がかかることをすればこうもなるだろう。
元々、メティスはともかく対シャドウ兵器であるラビリスもアイギスも人の心を持ち、行動理念の根底に人を守るという意識が根強く染み付いている。だというのに人と人の争いに繰り出され、ペルソナ使いと言えども実際に優希という人間とラビリス自身の自我が残った状態で無理やり戦わされるというのは精神的に大きな負担となっていた。
11月に幾月によって操られていたアイギスが大きなショックを受けていたのと同じだ。
身体は機械でも、彼女たちの心はヒトであり、機械ではない。
「きみは、ラビリスって言うんだね。ごめん、きみのことをもっと早くに気づいてあげられなくて。俺も、屋久島に行ってたのにな…何にも知らなかった」
泣きそうな顔になった優希はそうして倒れるラビリスを抱き留め、横たえさせると高寺の方へと向く。一方、高寺は思ったような戦果を挙げられなかったラビリスに対し、憤り、失望していた。
「優秀な戦闘成績を修めていると聞いたからこそ何かの役に立つのではわざわざ屋久島からリスクを負って輸送させたというのに、捕縛はおろか足止めすらできないとは……やはり暴走した不良品はだめだったか…あの役立たずが…!」
高寺がそう吐いたのを優希は聞き逃さなかった。目を見開く。
「誰が、不良品だ」
一瞬で詰め寄り、その首を片手で掴んで蹴り倒し馬乗りになる。
「ぐ…ぎ……か、はっ」
「言え! 言ってみせろ! 誰が不良品だ! なにが役立たずだ! ほら、言えよ!」
首を掴んだまま揺さぶり地面に叩きつける。当然、首が絞まっているので声が出せるはずもなく高寺は答えられない。にも拘らず優希はどんどんヒートアップしていく。
目の色がじわりと滲むように灰から金へと塗り変わった。
「なあ! 答えられないのか!? ふ、はは、あはは…そうだよな、そうだよなあ! お偉いさんなお前はこんなゴミクズみたいな薄汚い
歯をむき出しにし、怒鳴り散らすように問いかけても答えが返ってくるわけがない。
優希だってそんなことはわかっていた。だがもう、止まらない。止められない。
どんどん心の奥底からどす黒い感情が湧いてくる。殺意がどんどん膨らんでいく。こいつだけは殺さなきゃいけない。そんな気持ちになってくる。
「あはは! そうだ、死ねよ! 死ねばいい! グチャグチャに壊して、殺してやるよ! 俺もすぐに後を追ってやるからさあ! だから、安心して死ねよ──なぁ!!!」
ギリギリと高寺の首を絞める優希はもはや当初の目的を忘れ、正気ではなかった。狂っているとも言える。
笑いながら泣き、本気で力を込めてすぐに殺してしまわないように片手で首を絞めながらももう片方の手でその手を抑えてぶるぶると震わせた。
「要らないんだよ! みんなを害そうとするお前も、俺も! あはははははは! そうだろう! そう思うよなあ!!!」
滅多にない興奮状態で優希は叫んだ。これが正常な状態ではないことなど、見ていただけの英恵にもわかっていた。
つい30分ほど前に英恵の話を聞き、美鶴の話題に目を輝かせ、困ったようにはにかんでいた姿はどこにもない。
あんなに物静かで丁寧だった普通の少年が、ここまで狂ったように高笑いし他者へと暴力を振るうというのは滅多なことではない。壊れかけている。
英恵ははやく武治か美鶴のどちらかが来てくれないかと祈った。英恵では、この少年を止められない。早くしないと高寺は死に、少年の心自体が壊れてしまう。
「ぐっ…ぅ…」
呻き声をあげる高寺を嗤いながらも優希の視線は冷めていた。まるで、ゴミを見るような目だ。
「ああ、そうだ。苦しいなら、いっそのこと業火に焼かれてみないか? ストレガの子供たちと呼ばれたみんなは燃やしてもらえなかったけど、お前は俺が燃やしてやるから安心だな! あははっ、それがいい! 俺ってば天才かもしれないな!
──英恵さんとラビリス以外の全員、燃やしてやる。俺も、お前も、こいつらも、今回のことに加担した奴らみんなだ! あははははは!」
それでもなお英恵やそこで倒れている機械の乙女を巻き込まぬように、とするところを見るに頭の隅では正常な思考が僅かに生きているのだろう。そこが尚更この少年の歪さを感じさせ、英恵は心を痛めた。
何もなかったわけではない。ひたすら耐えていただけだった。必死に抑え込み、見せないようにしているだけだった。
ギリギリで耐えていた少年をここまで狂わせてしまったのは桐条グループそのものであり高寺でもあった。
「あの子、アイギスのお姉さんなんだろ? あの子はさ、俺と一緒で中身がグチャグチャで、戦うのが嫌で、姉妹を…誰も殺したくなくてずっと苦しんでて、ただささやかな願いしか持っていなかったのに俺の前に放り出して戦わせて、あは…っ──本当に、反吐が出る」
そこで優希は笑みを消し、憎悪と殺意の籠った目で高寺を睨みつけた。
抑えていた片手が外れ、高寺の首にかかる。優希の頭の中で最後のタガが外れた音がした。
「お前ら桐条はいつもそうだ。無理やり戦わせて──壊して。殺して。だからそう思ってるお前みたいなやつが消えれば、ラビリスも苦しまずに済む。もういいよな。十分、彼女も俺も我慢した。うん。そうだ。
血が回らないためか顔が段々と紫色になる高寺にそう言い放った金の瞳をした優希の背後でチロチロと蜃気楼のように炎が揺らめく。
「全部全部、ブッ壊してやる…! 塵のひとつも残してなるものか…! だろう、“ファラリス”ッ! あはははははっ!」
その炎が牛頭の巨人を形作りまた弾け、一瞬にして膨れ上がろうとした。が、
「やめて…」
小さな声が優希を止めた。その声によって一瞬で目の色が金から元の灰に戻る。
優希の足にしがみついたのは、機能を停止したはずのラビリスだった。
「もうええんです……ウチは…だから、その人のこと、殺さんといて…殺してしもたら、ナギサさんまで壊れてまう…!」
「あはっ、なんで? いいじゃん別に。俺は元から壊れてる。だからまたぐちゃぐちゃになってもわからないし大丈夫だよ!」
狂気的な笑みをすぐにやめ、にこやかに笑う優希は笑いながらもラビリスがどうして止めるのかが理解できないようだった。否、分かっていて、最早ラビリス程度では止められないところまで来ているために優希は止まらない。そこまで悪化させてしまったのは現在進行形で首を絞められている高寺だ。
「ほら、危ないから、ね? ラビリス。少しだけ向こうに行ってるんだ」
まるで妹である奏子に呼びかけるような優しい声で優希はそう告げる。
そして高寺の首にかけていた両手を離しラビリスのしがみついている腕を優しく割れものを扱うかのように引き剥がす。
「げほっ…ごほっ…はあ、はあっ!」
手が離れたことで急に血が回り呼吸ができるようになって咳き込む高寺を無視し、優希はラビリスしか見ていない。ラビリスしか目に入ってない。
高寺に向けていた狂気的なそれとはまた違うが、それでも英恵とラビリスは優希の精神が正常に戻ったわけではないとわかっている。
これは、僅かに残った理性だ。
「い、嫌や! ウチは向こうになんて行かへん! 行くんなら、ナギサさんも一緒にです!」
それでも、ラビリスは退かなかった。
優希が人を殺してしまえばそれこそ本当に壊れてしまう。大事だと思っている美鶴と弟妹の前からも姿を消そうとするだろうと記憶と感情を一時的にでも共有したラビリスはわかっていた。だから止めたのは高寺のためではない。しかし、
「ラビリスは優しいんだね。…あのさあ、聞いてる? ラビリスはこんなにも優しい子なんだ。あんなつらい仕打ちを受けたのにまだお前のことを心配するくらいには。なのにお前、この子にさらにこんなひどい仕打ちをしてさ。使えないだの不良品だの、散々言ってくれたよね。不良品どころか燃えるゴミなのはお前の方だっていうのに」
咳き込み続ける高寺に向かって苛立ちを隠そうともせずに優希は侮蔑の視線を投げかけた。ラビリスの言葉は優希に殺しを止めさせることが出来ず、かえって殺意を増幅させただけであった。
結局、優希にラビリスをぶつけたのは高寺にとって失敗どころか最大の悪手に他ならなかった。
優希からしてみればラビリスも犠牲者で、ヒトだ。そんな存在を無理やり操り戦わせるなどと言った所業は実験体時代の憤りや恨みを思い出させるには十分であり、ラビリスが倒れた後の高寺の言動も優希の憎悪を増幅させるには十分な威力を持っていた。
それこそ、憎悪が明確な殺意に変わってしまうくらいには優希の触れてはいけない地雷を踏みまくっていたのだ。
「だから、ごめんねラビリス。俺はもうこの人たちを許すつもりはないんだ。きみが許しても、俺があいつを赦せない」
「ナギサさん、なにを…きゃあ!?」
優希は心底申し訳ないという表情をしながらそのままラビリスをその細腕から出せるはずもない力で放り投げた。
英恵の近くに投げ飛ばされたラビリスは自分では止められないとわかり何も言えずにぐらぐらと揺れる瞳で優希を見ることしかできなかった。そしてラビリスが動く気配がないと分かった優希は高寺へと振り返り口を開く。先ほどまでの狂気的な笑みとは違う、とても綺麗な笑みで。
「これから、俺はお前たちを殺します。とはいえ一瞬で殺すのはやめにしました。だって、それじゃ罰にならないでしょう? じわじわと焼き続けるので、苦しみもがきながら死んでいってください。それでも、俺たちの──みんなの受けた苦しみの100分の1にもきっと満たないけど、俺だって心苦しいのでそれで我慢します」
嘘だ、と高寺は思った。
この少年はいまさら高寺を殺すことに何の躊躇もない。その何も映していない虚ろな目がそう物語っている。心苦しいというのも嫌味だろう。
命乞いをしようなどとは高寺も思わなかった。藪を突いたら悪魔が出た。それだけの話だ。
「
先ほどからなにかおかしい。目の前の少年の口調がおかしくなってきている気がした。ぐちゃぐちゃに、混ざっているような。それに、なにか女のような声が重なっているような。そんな風に高寺には聞こえたのだ。
「…!」
高寺は、一瞬見てしまった。
優希の姿に重なるようにゾッとする程に妖艶な銀髪の美女が笑みを浮かべている。脳をかき混ぜられているような感覚に陥りそこになにもないのにぐちゅぐちゅとねばついた水音のようなものが聞こえる。
しかし、それも一瞬でこの異様な状況のせいで幻覚と幻聴でも見聞きしたのかと振り払う。
「喉を焼き、肺を焼き、全身の皮膚という皮膚を焼き、息を吸うだけでも苦しく、身じろぎするだけで激痛が走る。そんな生き地獄に招待します。大丈夫。ちゃんと、最後には殺してあげますから。永遠の苦しみは与えません。なので皆さんご安心を」
もう誰にも止められなかった。
増幅した殺意は膨れ上がり、爆発寸前だった。それこそ、人を殺してはいけないと自戒していた優希のタガを外して
それほどまでに、優希は弟妹や大切なものを害そうとした高寺たちを誰も逃す気が無かった。
チリチリと陽炎のように揺らめいていた温度の無い炎が一瞬にして莫大な熱量を持つ業火へと変わる。肌が焼けるような感覚を感じ高寺はついに死ぬのか、と覚悟した。
「──全てを悔いながら苦しんで死ね」
それが優希から高寺や桐条の私設部隊という、武治や美鶴、英恵を裏切り、ストレガの子供たちやラビリスを、その姉妹を傷つけた者達への葬送の言葉だった。
報いを受け取れ、と優希の目は語っている。藪さえ突かなければ良かったのに、と語っている。
会社や社員のことを真に考えるのならば黙っているべきだったのは優希ではなく、高寺たちの方だったのだ。このままでは、優希は桐条に直接手出しはせずとも関係者全員を殺す。
それは私設部隊だけではなく、高寺に協力した人間すべてだろう。
「殺すなら、私だけにしろ…ッ! 彼らは私の命令に従っただけで何の責任もない!」
なけなしのプライドが高寺にそう言わせる。
高寺も悪意はあったがその行動理念はあくまで桐条グループのために、という経営者目線で言えばごく当たり前のことで真面目なものだ。
決して自らの私腹を肥やそうなどという私利私欲なものではない。
だからこそ、高寺は他のものを守ろうとした。目の前の、この話が通じるかわからない悪魔に交渉を持ち掛けたのだ。
「……そう。でも、お前の考えに共感して、どうなるか分かってて賛同した奴もいるんだよな? 無理やりじゃなくて、自分から志願して。主である武治さんや英恵さん、そして美鶴さんを害してもいいと思ったんだよな?」
簡単に言いくるめられるほど相手は甘くなかった。狂っているとは言えども正常な思考が残っているが故にすぐに指摘される。めらめらと燃える炎はまだ高寺を直接焼いてはいないがその勢いを衰えさせてはいない。
「ぐ…だが、それでも」
「くどいなあ。どうせ、楽観的だったんだろ? “ただの子供ひとりやふたり、どうにでもなる”って。勝てる戦いだとしか思ってなかったわけだ。お前はそれでも用心深いからこんなに用意したんだろうけど。でも、足りるわけないじゃん」
足りない、と言った優希の言葉に高寺はゾッとする。
確かに、優希の言う通り高寺は甘く見ていた。相手はロクに対人経験を積んでいない素人。たかが高校生の子供に負けるはずがない。それどころかペルソナ反応による探知も反応がなく、異能を失ったとされ、ここ一ヶ月は療養しており戦闘もしていないと言われていた相手に過剰戦力だと思っていたのだ。
そして、楽に優位をとれるとも。だが結果はどうだ? 異能は失われておらず実際に私設部隊の殆どはたったひとりに壊滅させられ、奥の手だった対シャドウ兵器のラビリスも無力化された。そしてここは火の海だ。
いま無事で残っているのは本邸内部で美鶴と武治の足止めをしている数人だろうがその来るかもわからない増援に命を懸けられるほど高寺はギャンブラーではない。動けば優希は問答無用で高寺を殺し、増援も殺すだろう。
「無駄だよ、無駄。全部無駄。お前にできることは、欲を出さず俺に関わらない事だったんだ。素直に俺と美鶴さんがくっつくの、待ってればよかったのに。俺はみんながちゃんと弔ってもらえて、慰霊碑が立てば別にそれだけでよかったのに。桐条グループが滅ぶことを望んでいたわけじゃなかったのに。こんな俺の当たり前の願いで結果的にそうなるのだとしたら、それこそが桐条の清算すべき罪では無いのでしょうか?」
心底、愚か者を見るような目で高寺を見下ろす優希の声は激情や殺意を感じさせない平坦なものだった。
「うん。でもいいよ。高寺さん、嘘はついてないみたいだし。だからほんとに命令を聞かざるをえなくて利用されていた人だけ、見逃します」
微笑む。
その返答は高寺の望むものではなかったが、優希にとっては最大限譲歩した形であった。
命令され、仕方なく従っていた人まで殺してしまえば同じ穴の狢だ。優希は、殺意に囚われていながらもそこだけは捨てていなかった。それを気づかせてくれた高寺にそこだけは感謝したくらいだ。あのままでは怒りに囚われ無関係の人も焼いていたかもしれない。それは望みではない。
「じゃあまず、悲鳴を上げられないように喉から焼きましょうか。『かつて』、俺が幾月にそうされたように。俺の時に使ったのは薬で、そのせいで記憶はめちゃくちゃになるし髪の色も変わっちゃったし目も半分以上視えなくなっちゃったけど高寺さんはそうならないようにちゃあんと呼吸ができる程度に軽く焼くので安心してくださいね」
何を語っているのか高寺にはわからない。
目の前の少年の目は悪いらしいが失明していないし喉は焼かれていない。髪の色も変わったことがないと聞く。ついに、ありもしない記憶を創り出し、それと混濁しているのかと高寺は疑う。それほどまでに優希は狂いきっており、高寺から見ても到底素面だとは言えなかったからだ。
ただ嘘か本当か分からない幾月にされたということをその部下だった自分に返そうとしている意図のようなものを感じ取り、ゾッとする。幾月が生きていれば幾月にしたのであろう。だが、幾月はここにはいない。生きてもいない。
矛先はどうあがいても高寺にしか向かない。
「あ、そうだ。見聞き出来てたら英恵さんやラビリスとか無関係の他の人の精神衛生に悪いし、もう少し炎の勢いを強めますね。熱いかもしれませんけど、我慢してください」
風呂の温度を上げるかのような、そんな気軽さで優希は燃え盛る炎を強める。
更に燃え上がった炎は轟音を立て周りの音と景色を遮断する。これは、外からもふたりの様子が見えることはないだろう。
「ああほんと、高寺さんは幸運だ。俺みたいに身体を切り刻まれることが無ければみんなみたいに苦しんで、愛に飢えて絶望に染まりながら死んでいって弔われないなんてこともないんです。死んだら丁重に弔われ、墓に入れて貰える。素晴らしい事じゃないですか。もちろん、ラビリスみたいに姉妹を殺し続け自分の心を傷つけ続ける精神的な生き地獄のような想いもしなくて済みますよ。ほんとうに、羨ましい」
また、憎悪を滲ませた優希は喋る。
ここで思い切り憎悪をぶつけておこうという算段か、それとも。
「声を出せなくなっちゃうんですし、最後に何か言いたいことは? まあ、何もないですよね。あってももう遅いですけど。知ってます? 直接炎で焼かなくても喉と肺って熱気だけで焼けるんですよ。爛れて息が出来なくなるんです。イモムシみたいに這い蹲って血を吐くしかできなくなるんです。とっても、とっても苦しいんですよ」
一度、言いたいことを語り終えたのか優希は炎を高寺へと向け、喉を焼こうとした。
が、その瞬間飛んできた氷の塊が周りの炎の熱で溶け、僅かな水となってその炎をゆらめかせた。それはなんの影響も及ぼさない些細なこと。だが、なにかが飛んできて邪魔をされたということ自体が優希にとっては警戒すべきことなのだ。
「──……」
一瞬に起きたその出来事に優希はいったん燃え盛る周りの炎を消し敵意を発しながら身構える。
新手か。それともイレギュラーシャドウか。どちらにせよこいつを殺すのはやめて英恵さんとラビリスを守らねばならない。
「三上…! やめるんだ…!」
しかしそこに居たのは召喚器をこめかみにあてた状態で息を切らした美鶴だった。そのことに、優希は一瞬で放っていた敵意を消した。
なんだ、美鶴さんか。そう口には出さなかったが英恵やラビリスを害する者では無くて良かったという安堵から、本心から微笑む。そして、
「やめないよ。ごめんね。美鶴さんの頼みでもこれはダメだよ。やったことの責任を、この人はとらないといけないから」
明確に否定した。
「どうして…」
美鶴から見ても、今の優希は異常他ならなかった。どうして、あんなに虚ろな目をして笑っているのか。虚ろな目をしているというのにその言動は明確な意思がありとてもはっきりとしていてちぐはぐささえ感じる。そして美鶴にすら一瞬と言えど身も竦むような強烈な殺気を向けたという事実。
一体、美鶴や菊乃、そして武治が足止めの部隊と問答している間に何があったのか。
何もわからない美鶴は他者を平気で害そうとしている異様な優希に対して、どうすべきか悩んでいた。だが、
美鶴はその悩みを振り切ってとにかく動いた。近寄り、その手をとる。
握った手はあれだけ燃え盛っていた炎を扱っていたというのに驚くほど冷たかった。
「三上──いや、
「俺は怯えてなんかないよ。あそこにいるラビリスにも言ったんだけどさ。みんなが許しても俺が赦せないんだよね、この人のこと」
庇うような美鶴の言葉に、優希はきょとんとしてラビリスへと伝えた言葉と同じものを返す。そのことに、美鶴は優希自身が誰かのためではなく優希個人の感情で高寺を害そうとしていることを知った。
誰かを傷つけられる怖さからではなく、もう既に高寺が誰かを傷つけてしまったが故に、優希は怒り狂い、自分で赦せなくなった。
ならば、と美鶴はアプローチの方向性を変えることにした。殺意があるのは否定しない。だが、それで短絡的に殺してしまえば困るのは優希自身だ。きっと殺意があれども殺したということ自体に悩み続け、悔い続けるだろう。ならば、感情的な面で問いかけるのではなく、社会生活に則した倫理的なことで揺さぶらなければならない。
そう思ったのだ。
「私は、結婚相手が殺人の罪や傷害罪で問われるのは困るな…」
「……美鶴さんが、そう言うなら。家族や武治さん、英恵さんにも迷惑がかかるのは確かに嫌だし」
ぼやけば、少し不満そうだったがすんなりと折れた。それはもう、驚くほどに。
あれだけ昂らせていた憎悪や殺意を一瞬でひっこめたことに高寺は戦慄を隠せなかった。なんなんだこの生き物は、と慄くことしかできない。
ヒトの理から外れた力を有し、精神面でも今回のことでそちらに寄っていたというのにまさか逮捕されるだのされないだのでその矛を降ろしたということに。
あれだけの力を有していれば高寺や私設部隊の隊員全員を跡形もなく焼くことだって出来るはずであるし、今回のことを考えれば桐条を黙らせ、高寺を害したことすらなかったことにもできたはずだ。
だというのに、殺人罪や傷害罪といったヒトのルールですんなりと引き下がる様子はちぐはぐ極まりない。
無視しようと思えばできること。それを無視せずに迷惑がかかるとまで言い出した少年の精神構造を高寺は心底理解することが出来なかった。
「ありがとう。我慢させてしまって済まない…当然、彼にも他のものにもきちんと責任はとらせるつもりだ。絶対になあなあにはさせない」
戦慄する高寺を他所に美鶴は優希を抱きしめる。そうすればすぐにしっかりと抱き返され、逆に頭を撫でられてしまう。こんなことは美鶴としても初めてのことだったので内心で動揺する。
「ううん、良いんだ。殺したい気持ちとか憎い気持ちみたいなのはまだあるけど、自分でなんとかするから。俺の方こそごめんね。美鶴さん達のこと助けにいけなかったから…」
「いや、良いんだ。あの人数を相手にお母様を守ってくれただけで十分すぎるほどだ」
謝罪をする優希は未だ虚ろな目のままだったが一応そこに美鶴を映してはいるようだった。力をさらに込められキツく抱きしめられる。まるで、離したくないと不安げにその虚ろな瞳が揺れ、そして泣きそうな微笑みを形作る。
「──美鶴さんが無事で本当に良かった。俺、美鶴さんが怪我してたり死んじゃってたら、あの人達みんな燃やし尽くして消しちゃうとこだった」
心底安心したような顔とは真反対なゾッとする言葉を囁きながらひとしきり満足するまで美鶴の頭を撫でて堪能した優希は落ち着きを取り戻したのか美鶴を離して高寺を見た。
「良かったですね。何事も無く命拾いできて。俺を止めようとしてくれた英恵さんやラビリス、そして美鶴さんに感謝してくださいね。とっても」
にっこり。何も映していない虚ろな目で高寺に先ほどと同じ笑みで笑いかけた優希はそれきり高寺から興味をなくしたのかラビリスと英恵が居る場所へと歩いていく。それを見送った美鶴が今度は険しい顔で高寺を睨み付けて息を吐く。
「どういうことか、説明してもらおうか。高寺」