走ることしか考えていないサイレンススズカと効率的に勝つ方法を考えるタイプのトレーナー。あと割と理解のある友人一同。 作:サイレンススズカ専属トレーナー
「んぅ……」
「……あ、あー……ぅ……」
グラスワンダーが来てから数日経った。
スズカは少しずつハンデを増やし、グラスワンダーをボコボコにし続けている。今日は重りに加えまず筋トレで息をあげてから、かつ2500mというスズカにとっては長い距離を走ることになっている。
それでも恐らくまだ届きはしないだろう。一応『大差』ではない程度には詰まっているが、まだ影は踏めない。ただしスズカもかなりスタミナはギリギリだし、最終的には明らかに失速しているのが解る。ここより先は無意味な可能性はあるし、ここからしばらく継続かな。
「スズカ。起きて。遅刻するわよ」
「んー……あと五キロ……」
「何言ってるのあなた」
特に理由もなく私の家で寝ているスズカを起こし、一緒に身支度を済ませる。スズカに作る朝食の余りを食べようと思っていたら全然足りずカップ麺を食べることになった。スズカの妙な目線が本当に痛い。
トレセンに私の車で向かい、スズカは学園側へ。私は仕事があるのでトレーナールームに向かおうとして……部屋の前に知った顔があったので挨拶をしておく。
「桐生院さん。おはようございます」
「あっ、あっ、お、おはようございます!」
「……あの、何かあった?」
私の顔を見るなり飛び退くみたいに頭を下げる桐生院さん。あ、この人ポニテだったんだ。初めて知ったかも。
「いえ、その……先輩が新しい子を担当していると噂に聞きまして……他にも色々と」
「ああ、グラスワンダー。彼女は別に私の担当じゃないわよ」
「そうなんですか?」
「うん。一時預かってるだけ。色々あってね」
まさか、心を折ってほしいと言われたから協力していますなんて言えないよね。やり方も酷いし。でもそうやって頼まれちゃったし……別に今すぐ辞めたいけど。もしくはグラスワンダーを正式に担当したい。
聞くと、桐生院さんはほっと胸を撫で下ろし、信じてましたよ、なんて言ってくる。どうやら、私がスズカの踏み台として先輩からグラスを引き抜いたんじゃないか、という噂があるらしい。
なんとまあトレセンらしいというか。トレセンには良い人しかいないし、物凄くウマ娘第一主義だから、こういう類いの話はすぐに広がる。もちろん確証が無いから踏み込んでこない……いや、事実そうじゃないから無くて当たり前だけど、私にはそんな話は来ていない。
「まあ、引き抜きは……グラスワンダーのトレーナーに聞けば一発だからね。むしろあの人ならすぐ否定しそうだけど」
グラスワンダーのトレーナー、普通にちゃんとした……いや、熱血気味だけどちゃんとした人っぽく見えたけど。たぶん、よほど彼女の件を気に病んでいるんだろうなあ。真面目そうな人だったもんな。
「他の噂っていうのも聞いておきたいけど」
「あ、それはですね……」
少し渋る桐生院さん。私に言ったら桐生院さんの肩身が狭くなるならと思ったけど、それは違うらしい。
「その、傷付けることにならないかと思いまして、所詮噂ですし、先輩がそんなことをしないとは思っています。スズカさんの意思を何よりも尊重する方が……」
結構えげつないことしてる気がするけどね。自由を奪って場合によっては縄で拘束するって、スズカが本気で嫌がったら普通に虐待だから。発覚したら事情聴取くらいは入るよ。
「私は大丈夫。スズカのことしか考えてないし……あんまりこういうこと言っちゃいけないけど……誰が何を言ってても、結局スズカには勝てないんだから私はそれで良いのよ」
「っ……さ、流石です……ではその……グラスワンダーに過度なトレーニングを強いているという噂がありまして……」
「…………なるほど?」
心当たりも無くはないなあ……スズカとの併走とか、見方によっては過度だし。毎回疲れきって倒れているところを叩き起こして通常トレーニングをさせてるのも確かだ。
ただその、グラスワンダーの体調はちゃんと見ているってことは何度も言っておきたい。ステータスだけに頼らず目の前のグラスワンダーもしっかり見ている。そのうえで、彼女の消耗が一過性のものだからやっているのだ。
そもそも、それでもグラスワンダーには結構気を遣っている。あの子、筋トレやプールでもスズカと同じことをしようとするから毎回止めなきゃいけない。流石に能力が違うからね、単純に怪我をして終わりだ。
「……まあ、ちょっと過酷なことはしてるけど過度じゃないわよ。直接誰かに言われたら説明はするけど……たぶん言ってこないでしょ」
「何故です?」
「私がスズカのトレーナーだから」
本当に、スズカの威というのは半端ではない。スズカという例があるのだから、という理由で追及をやめている人も結構いるはずだ。実力主義もここまで来ると極端である。
「そう……そうですよね。グラスワンダーが夜な夜な泣いているって話があるんですが、それも何かの間違いで……」
「そ……れは聞き捨てならないなあ。え? 泣いてるの? グラスワンダーが?」
あの根性と執念の塊が泣くことがあるのか。仮に泣くとして人に知られるように泣くようには思えない。これは流石に本人に聞かないといけないかな……なんて考えながら、私は桐生院さんと話していた。
……ちょっとだけ、胃は痛んだ。
────
「……と、いう話を聞いたのだけど? グラスワンダー」
「…………そうですか。ご迷惑をおかけしました。私の不徳の致す所です」
「あ、いや、別にそんな重く受け止めないで良いから。ただちょっと、辛いなら教えてほしいなってだけだから」
「六十五、六十六……」
午後。いつも通りに併走でボコボコにした後、トレーニングルームで私はグラスワンダーを見下ろしていた。
スズカにおんぶ紐のような装置で背負われ、そのスズカは懸垂をしている。一方グラスワンダーは何故か私の話を聞くときは必ず正座をするので、部屋の一角にヤバい空間が広がっていた。
「いえ……確かに辛いとは思います。ですが、それも私が望んだこと。そんなことで泣き言を言うほど、わがままではないつもりです」
「はあ……じゃあなんで泣いてたの」
グラスワンダーは一瞬だけ目を閉じて、まっすぐに私……の後ろ、懸垂中のスズカを見て言った。
「……あまりにも自分が不甲斐ないからです。部屋で眠ろうとすると、その日の負けが頭をよぎります。全力で走っているのに追い付けず、ただ離されていく光景が……歯牙にもかけられず、私が何者でもないように終わっていくのが怖いのです。気付いたら泣いている、ただそれだけです」
「…………そうなの」
ええ……そんなこと言われて私どうしたら良いの。私やスズカが軽いだけなんだろうけどさあ。トレセンの人とかウマ娘、重すぎるって。
いや人生懸かってるから当然だし、お前はスズカと組んでるし変な能力持ってるからハングリー精神が無いんじゃい! と言われたらそれまでだけど、にしたってもうちょっとあるでしょ。
「本当にご心配ご迷惑をおかけしました。恐らく噂の出所であろう友人には強く言っておきますので。恐らく彼女が自分のトレーナーに相談したんでしょう」
「いや、その子もグラスワンダーを心配してるだけだからそれはやめようね。良い友達だね、でしょ?」
「……はい。私には勿体無いくらいです」
「心配しないで、くらいは言っておきなね」
「はい」
上下に揺られつつ、凹んでしまったグラスワンダーに何かしてあげられないかと考えるけど……何も思い付かない。大人として恥ずかしい限りだ。
「……それより、今日もかなりハンデをつけていただいて……その、スズカ先輩の練習に支障は出ていませんか?」
「え? 大丈夫よ。ね、スズカ」
「九十二……は、はい……もちろん。毎日楽しいですよ。それなりに気持ちよく走れてます」
「そうですか……?」
嘘だけどね。スズカ的には『走れないよりは制限ありで走れる方がマシだけど、それはそれとしてストレス、でも余計なこと言うなって言われてるし黙っとくか』くらいの感覚だと思うよ。
「じゃあ早速友達とやらに言っておいで。今日はトレーニングおしまい。言っておくけど誤解を解きに回ったりしないでね。より誤解されるから」
「……はい。ありがとうございます」
……グラスワンダーは行った。それと同時に、スズカが懸垂を終わらせて私を降ろす。浮遊感から解放された私はスズカに向き直り、一応聞いておく。
「ちなみに、さっきのはどこまで本気なの?」
「え? うーんと……毎日楽しいのは本当ですよ。誰かと一緒にトレーニングするのは、楽しいです」
「気持ちよくは……?」
「ないです。走ってきて良いですか?」
「だめです」
「へぅ……」
まあ、そりゃそうだよねって感じ。体に重りつけるとか訳解らないよね。ごめんね、と謝罪が口をつく。すると、少し驚いた後、スズカはふふっ、なんて笑みを溢した。
「なんで笑うの」
「いえ……普段は散々禁止しても謝らないのに今日は謝るんですね。おかしくって」
「……まあ、それは、そうだけど」
「謝るより走らせてくれた方が嬉しいですよ?」
「それはだめ」
「うぅ……」
休憩しながら、スズカはまったくいつもと変わらない。スズカとグラスワンダー、どっちが変わってるんだろうなあ、なんて思うけど……たぶんスズカなんだろうな。
「ちなみにいつまで走っちゃいけないんですか……?」
「グラスワンダーが折れるまででしょ」
「……そんないつになるか解らないもの待てません」
「こうなったのはスズカのせいでしょ」
「だからってこんなに走れないと拗ねちゃいますよ」
ぱしん、ぱしん、とスズカの尻尾が背中を叩いてくる。いや痛い痛い。攻撃力が鞭と一緒だって。
「ちなみにどれくらい気持ちよくなれてるの? 普段は」
「そうですね……走ろうと思って外に出て、ストレッチをしてる最中に止められた時くらい……?」
「なんで走ることを走ることで喩えるの?」
「それ以外思い付かないので……」
んー、と顎に拳を当てて考え込むスズカは可愛いけど、もし喩えが合っていたなら実質走っていないことになる。じゃあいつ暴発するか解らないじゃんと。あまりにも怖すぎる。
「……ん、おいでスズカ」
「…………ん」
ぱたん、なんて私の膝枕に倒れこむスズカ。人目があるからあんまり派手にはくっつけないけど、これでも良いや。スズカとくっつくと何より私が癒される。お腹あたりにすりすりと甘えてくるスズカを見ながら、でもいつ走りたいマシンになるか解らないなあ、と少し恐怖していた。
ちょっとだけ胃は痛んだ。