走ることしか考えていないサイレンススズカと効率的に勝つ方法を考えるタイプのトレーナー。あと割と理解のある友人一同。 作:サイレンススズカ専属トレーナー
いつものごとくレース理論は適当です。
「トレーナー!? ねえ! トレーナー!」
駆け寄って呼吸と心拍をとる。生きている。息は浅いし心拍数は異常に上がっているが、それでも生きている。でも、意識を失って倒れるようなものが、命に関わらないはずがない。
代償は支払われた。私がオークスに出られないのは、私自身が一番よく解っていた。それでも、どうしても諦めたくなくて、それでも諦めないといけないから、私はトレーナーにそれを委ねた。あの高熱が、数日で治るわけがないだなんてみんな解っていた。
その結果がこれ。私は回復し、トレーナーが代わりに倒れた。そうとしか言いようがない。トレーナーが、私の病を奪い去っていった。
「返事をしてトレーナー! ねえってば! 起きなさい!」
揺さぶってはいけないような気がしたので、床を叩いて呼び掛ける。反応がない。完全に意識を失っている。ぐるぐると回る思考のなかではっとした。私じゃできることなんて何もない。保健体育の知識やレース知識じゃ今のトレーナーはどうにもならない。私と一緒に連れてこられたらしいスクールバッグからスマホを取り出して戻る。119よね。大丈夫よね。
掛かったらまず何を言うんだっけ。まず、救急って言って、それから色々説明して……ここの住所、一回確認しないと……
「……スカーレット」
「ひっ!?」
通話ボタンを押す前に、後ろから甘さがもたれかかってきた。手が伸びて私のスマホを弾くと、そのまま胸元に回す。
「おはよう、スカーレット……身体はどう? 熱は計った?」
「ば……バカ! アンタ自分がどういう状態か解ってないの!? 起き上がんな!」
「元気そうね……さあ、顔をよく見せて」
ずたぼろで、息も絶え絶えのなのに、やたらと言葉がはっきりしている。正直、ここまでされると、全部解っていたはずなのに、怖い。こんなに身体を熱くして、どこをどう見ても死にかけているくせに、少し荒れて冷たいのに私を滑るように撫でる手が、こんなにボロボロでも綺麗な顔が、今しがた倒れていたのに確かに生気のある目が心底怖い。今すぐ突き飛ばして逃げ出したいくらい。
「ああ、スカーレット……頑張ったわね。あなたの勝ちよ……」
「いや、だから」
「走って良いからね……これであなたの勝ち。オークスは……九割勝てる、からね……必ず……」
救急車を呼ばなきゃ。早く。でも、怖くて、動けない。この人は何、何なの。正気じゃない。解っていたつもりだったのに。この人は、トレーナーはおかしい。スズカさんやブルボン先輩の時にも知っていたのに、いざそれを自分が向けられると、背中が寒くなる。
「良いから、まず、寝てなさい……! 私が救急車を、今」
「呼ばなくて良いわ……呼んだらあなたが、同乗しないといけないかもしれない……そうでなくても、アップや準備の時間がもったいないし、理由を説明するわけにもいかないでしょう……万が一でも、あなたが、レースに出られなくなったら……」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 頭おかしいんじゃないの!? それが命より大切!?」
「もちろん……」
あなた達のことが、命より大切よ。正面から抱き締められて、上手く支えられずに壁までふらついてしまう。私と壁に寄りかかり、肩口で、変な息を漏らしながら微笑むトレーナー。
「あなた達のためならね……何でもしてあげたいの……大したことはできないけど、それでも、ほんの少しでも助けになれたら……」
「とれ……な……」
底冷えのする恐怖。吐き気がしてくる甘く酸っぱい酷い臭いと、今にも死にそうな掠れた声。身体が小さくて冷たい。
だけど、私は、愛されている。いつもの、トレーナーの優しい匂いもする。紡がれる声が自信をくれる。ぎゅっと力がこもった腕が温かい。
そうだ、私は、トレーナーに委ねたんだ。信じて託した。私達は、お互いに信頼している。それは絶対だ。その時点で、トレーナーも私も、何が起きてもこいつの責任にしなければならない。
だから、トレーナーがどうなろうと、私はその信頼に応えなければいけない。私は自分がそうしたいから、どうしてもオークスに出たいからトレーナーにそれを頼んだんだ。だったら、トレーナーが拾ってくれた奇跡を、私が捨ててはいけない。
「本当は、出来立てを食べさせてあげたかったんだけど……もう、包丁や火は危ないから……今朝のご飯は食料庫のクーラーボックスの中にタッパーにしてあるから、青色を食べて。温める時間も書いておいたから」
「印刷機に、リハビリのためのメニューを印刷しておいたから、良かったら使ってね。レース分析は、スカーレットにはいらないかもしれないけど……」
「お金の場所、解るよね……もし必要になった時のために、荷物は色々と用意しておいたし……大人の手が必要なら、通話履歴の、一番上の人に……」
淡々と続けるトレーナー。私は、この人のウマ娘だ。一番になりたいから、この人が悪辣だろうが鬼畜だろうがその下についた。狂ったチームであってもそれを受け入れた。この人が本当は、レースのことをどうでも良いと思っているのも知っている。だから、日々のトレーニングがストレスになってしまっているのも理解している。
「気を付けてね、スカーレット……」
じゃあ、それで? もし、もしトレーナーが、今にも死んでしまいそうなほどに苦しんでいたとして、その状態で、私に望むことは何? 今すぐ救急車を呼んで、もしかしたら救急車に私も乗らないといけなくて、万が一にも説明を間違えれば私も検査みたいな話になって、私の時間を使ったり、最悪の場合オークスに出られないなんて話になって。
それで、ああ、発見が早くて命に別状はなくて良かったねって、トレーナーがそんなことを言うの?
「解った……」
もたれかかるトレーナーを抱き上げる。驚くほど軽くなったトレーナーを、交互に洗濯していたらしいベッドのもう片方に寝かせる。これは誘惑だ。今すぐに大声で助けを呼ぶこともできる。
だけど、だけど、私は、スズカさんは、ブルボン先輩は、誰に何と言われようが、トレーナーのことを誰より理解しているんだ。私の思うトレーナーは、きっと正しい。きっとトレーナーだって同じことを言ってくれるはずだ。だから、トレーナーはこの賭けに乗ってくれたんだから。
「全部一人でできるから、アンタは寝てなさい。スズカさん達だけ、呼ぶから」
「ん……頑張ってねスカーレット……」
「ありがとう……本当に、ありがとう、トレーナー」
ベッドに寝かせられると、耐えられないのかトレーナーは気を失った。深呼吸の後、部屋を出る。いつも通り、朝の支度をしなくちゃ、と、その前に。
「……もしもし、スズカさん、その」
『……もしもし。何?』
恐ろしく不機嫌な声が聞こえてくる。ダメだ。オークスに勝っても殺されるかもしれない。覚悟があろうと怖いものは怖い。
「い、今から家に来ていただくことって……できますかね……」
『……すぐ行くわ』
言い終わる前に通話が切れた。解ってはいたことだけど、とんでもなく怒らせてしまった……私もこの件で退くことはできないし、必要なら正面切って強く出る覚悟はある。それはそれとして、スズカさんからすれば私は最低なことをしている。トレーナーを辞めてほしいとまで言った人だもの。怒るのも当然よね。
でも、逃げない。もう開き直るしかない。何と言われようが、私は自分のためにこうしなければいけなかったのよ。スズカさんの気持ちなんて知ったことじゃない。あいつは私のトレーナーでもあるんだから。
────
「お邪魔します!」
「マスター。無事ですか」
お風呂に入っていると、玄関の方から大きな音がした。慌てて出て、バスタオルを敷きつつ脱衣所から顔だけ出す。
ブルボン先輩とスペ先輩。スズカさんの姿はなかった。ブルボン先輩は土足のまま上がり、まっすぐに寝室へ向かっていく。スペ先輩はその場で止まり、いつもの元気な態度で接してくれた。ここに来ると言うことは、全部説明を……いや、先輩のことだ、何も説明がなくても助けに来るだろう。この人はそういう人だ。
「先輩!」
「あ、スカーレットさん! 回復おめでとうございます!」
「ありがとうございます……スペ先輩がいらっしゃったんですか?」
「スズカさんは会いたくないそうですので」
私、本当に大丈夫かしら。
「スカーレットさん。これからマスターを病院に運びますので、オークスの応援はできない可能性もあります」
ブルボン先輩が、毛布でぐるぐるになったトレーナーを持って出てきた。寝ていてもどうも顔をしかめているトレーナーの方だけを見つつ、先輩は軽く頭を下げた。
「しかし、応援しています。改めて言いますが、この件に関して、私はあなたを非難しません。私も同じことをする覚悟があるからです」
「……すみません。ありがとうございます」
「それでは」
先に出ていくブルボン先輩。残されたスペ先輩も私に右手を差し出した。
「頑張ってくださいね。私も……スカーレットさんのことは応援してます」
「なにか含みがありますね」
その手を握りながら返す。
「人の看病で自分が倒れるのは責任ある大人がやって良いことじゃないってトレーナーさんが言ってましたから」
「……それは、まあ」
でもまあ、こっちのトレーナーさんもいざとなればやりかねないですけどね、と先輩は笑い、そして、真面目な顔に直って言った。
「ところで、スズカさんからの伝言なんですけど」
「は、はい」
スペ先輩はダービーウマ娘だ。そこらのウマ娘とは格が違う。たとえスズカさんやブルボン先輩で慣れていても、その視線は心臓を抉った。
「『勝ったら許すわ』、とのことです」
きっと、スズカさんが来ないのは、怒っているとか、それ以前の話で。いつかトレーナーが言っていたことなんだと思う。私に会わないことがスズカさんにとっての思いやりで、そのために、トレーナーが倒れたっていうのに自分では動かなかった。
ブルボン先輩が変に淡白だったのも、あるいは。思い当たると涙が溢れる。私は、本当に、大切にされているんだ。私のわがままにみんなが付き合ってくれている。
「……ありがとうございます、と伝えてください」
「はい、伝えます。じゃあ、下でタクシーが待ってるので、私はこれで。安心してくださいね。絶対に、余計なことは言わないので」
優しく手を振って、スペ先輩も出ていった。一人残される。
……よし。頑張ろう。一番になるために。みんなそう思ってくれている。私が一番になっても何も解決しないけど、一番をとれなければ全てが無意味になる。
着替え、ご飯を温める。荷物は纏められていたので中身をちょっと確認するだけ。トレセンに一度寄る必要はあるけど、すぐに東京レース場に行ける。言われた通りパソコンの印刷機を見ると、クリップで纏められた分厚い紙束があった。
「……本当、凄い人」
これからやるべきリハビリのメニューが、私の体調や残りの時間で場合分けされて纏められている。それから、レース分析が続く。最後に、スカーレットへ、とだけ直筆で書かれた白紙の一ページ。
この続きは、直接聞いた。一文字だけ書いてぐりぐりと消されたメッセージ。
テレビで天気予報だけ確認して、鍵をかけて家を出る。気持ちが良いくらいに快晴で、雲一つ無い。久しぶりに袖を通すトレセンのジャージは、いつもの柔軟剤の良い匂いがした。隣の部屋の新聞受けに、ちらりとオークスの赤文字が見える。
晴れていて、体調が良ければトレセンまで、レース場まで走るのもあり。その言葉に従って、ありがたく走ることにする。今日の大本命は私。片耳にイヤホンを着けて、今日歌う予定のライブ曲を流す。
「見てなさい。私の勝ちよ」
誰へでもなく強く言い切って、力一杯踏み込んだ。倒れた時より弱いはずの私は、倒れた時より確信に満ちていた。
────
「スカーレット!」
「ウオッカ」
つつがなく準備やアップは終わり、勝負服に着替えて控え室で待っていると、ウオッカが飛び込んできた。何よ、そんな不安そうな顔して。いや、気持ちは凄く解るし、心配もありがたいけど。
よく考えれば、こいつが私を運んでくれて、保健室の先生がいなかったときに、他の先生じゃなくてトレーナーを先に呼んでくれたからこそ、私には選択肢があったのよね。そこは本当に、感謝しなくちゃ。
「だ……大丈夫なのか? 走れるのかよ」
「うん。もう大丈夫」
「お前の……トレーナーはどこだ……?」
「……さあ、ね」
わざとらしく間を作ると、ウオッカも察してくれて、そうか、とだけ言って入口近くにしゃがみこんだ。根本的に、ウマ娘とトレーナーの関係は唯一無二だ。私とあいつ、ウオッカとそのトレーナーほど強く結ばれていればなおさら、そのあり方に口は出せない。ごめんねウオッカ。
「とりあえず……お前は走れるんだな……良かった……」
「……ん。ありがとうウオッカ。じゃあ私、もう行くから」
「おう……勝てよ、スカーレット。俺以外に負けるなよ」
「ええ、もちろん」
ウオッカも来たことだし、外でたっぷりアピールをしなきゃ。ダイワスカーレットが誰より上だってことをみんなに知らせて、そのうえで勝つ。
私が頂点に立つ。世界で一番速くなる。スズカさんもブルボン先輩もウオッカも私が越えていく。誰もが認める一番になる。
「なんか作戦でもあんのか?」
「そう見える?」
「見えるね。清々しい顔しやがって」
後ろから話しかけてくるウオッカに目だけで振り返る。彼女に感謝を込めて、まずは私の番。来週はこいつがそこに立つ。まあ、こいつの前座だったらやってやっても良いわね。何年ぶりかの、ティアラからダービー勝ち。こいつの伝説の一ページだ。その前振りとして、食っちゃったらごめんね。
「バカねウオッカ」
ああ、なんて心の余裕。私って本当に良い女ね。
「私が一番速いんだから私の勝ちよ。うちはそういうルールでやってるの」
見てなさいよ。女王は私なんだから。
────
『さあ、続いて出て参りました、本日の一番人気! 桜花賞ではウオッカとの壮絶な叩き合いを制して見事逃げ切った『緋色の風』! ダイワスカーレット!』
最終直線は追い風。私達の風だ。何度も何度もトレーナーのレース分析を反芻する。あいつはきっと、私ならそんなもの無くても勝てると信じている。あれを作る時間がなければ寝る時間も……少なくとも休む時間くらいはあっただろうに。万が一私が不安になったときのために、なんて考えているんだろう。
だから、私はそれを使うことにした。不安になったから。トレーナーのレース分析がないと勝てないかもしれないから。
観客席に大きく手を振って頭を下げる。会場が揺れた。この期待に、私は押し潰されそうなのよ。ふふ。
『ダイワスカーレット、非常に落ち着いていますね』
『良い仕上がりですね。これは期待できそうです』
『やはり彼女が逃げる形になるんでしょうか?』
『可能性はあると思いますね。掛かり癖はあるみたいですから、でもまあ、とんでもない粘り方ができますからね、彼女は』
いつもの実況の人と、ウマ娘にやたら詳しいおじさんの解説も聞こえる。まあそうよね。掛かり癖。あるわね。悪癖よね本当に。
正面スタンド前、ギリギリまで観客にアピールをしつつゲートイン。やや内枠で、隣の二人は後ろ脚質。間違いなく全員が私をマークするし、ウオッカですら追い付けなかったことを考えて、最終コーナー辺りで並べるように先行策を主にしてくるはず。逃げるには絶好の機会だ。
『さあ、各ウマ娘が順にゲートイン。非常にスムーズです』
だけど、どう勝つのが一番アピールになるか。大逃げをしたって良い。今の私なら勝てる。だけど、奇策で勝つのは私の人気アピールにはなるけど、実力アピールとはちょっと違う。スズカさんほどの圧勝ができれば良いけど、トゥインクルシリーズ、特にオークスはそこまで甘くない。スズカさんだって全レース大差ってわけじゃないんだし。
だったら私にできる一番強い勝ち方は、誰もが認める強いレースをすること。私のアピールにもなるし、大逃げ、逃げ、先行と揃えばトレーナーの腕も見せられる。私はこのレースで、女王として走る。
……ふふ。何を考えているんだろう。トレーナー。アンタの愛バは、勝ち方を選べるほどになったわよ。
『全員がゲートに収まりました。さあ、樫の女王の座は誰の手に。府中2400m、ティアラの頂点を懸けて、今』
不思議なほど心が落ち着いている。気合いを振り撒く必要もない。視界が広がっていく。歓声と実況が小さくなっていって、ターフとライバルだけが見えるようになってきた。
目指すは一番。誰にも文句を言わせないような完全勝利。ブルボン先輩のように全てではないけれど、私の体も、私とアイツの信念でできている。死んでしまいそうな気性と抑えきれない狂気を乗りこなしてこそ、
集中。ゲートが、開いた。
『スタートしました!』
スタートは横並び。私も良い。その気になれば出られる。全員が私の出方を窺っているのを感じる。だからこそ、ここで、先頭には出ない。本来逃げ脚質、3番の子は先行もできなくはないから、私と競り合わないために抑える可能性、ばっちり的中。
私が前に行かず流れのままに中団前目についたことで、本来の逃げ二人、3番と12番が前で競り始めた。全員が私を待ったことでかなりペースが遅く、この状態なら競っても逃げきれるという判断だろう。私が退けば前は二人の勝負になる。もう一人前に行った7番はスピード不足で、私の前を取る先行くらいしか勝ち目がない。的中。
歓声を浴びながらそのまま直線。私の位置は外目でも良い。距離のロスよりも垂れウマのほうが怖い。斜め内に一人入れてコーナーへ。私が完全に外を押さえつけているから、膨らむことができずに7番が少し下がった。吐息の距離まで落ちてくる。これで四番手。展開は完璧。
『一つ目のコーナーを回って、ダイワスカーレットなんと四番手。これは思い切った先行策です。デビュー以来の逃げはどこへやら、完璧に控えています』
コーナーを回って、さらに7番のすぐ後ろ。いつでも抜ける。だけど抜かない。先頭争いは落ち着いて、12番が半バ身差。私からそこまで三バ身くらい。まだペースは遅い。少し確認した限りでは、後ろはかなり固まっている。典型的な末脚勝負のスローペース展開だ。
……ここだ。コーナーを越えて直線に立ち上がったところ。ほんの少しだけ踏み込んで、7番に並びかける。
「……っ!?」
ぴたりと横に並ぶ。このレースは私の出方で決まるのは明白。私がペースを早めた時点で、全体が少しずつ早くなる。スローペースのコーナーから、少しずつ上げて向こう正面へ。依然後続は団子だし、これは末脚勝負、何なら直線よーいどんになる。少しでもリードを取ろうと7番は脚を速めた。
っ、この、ぐ……私が一ば……、い、いや。落ち着くのよ私。この勝ち方じゃない。まだよ。お願い我慢して。今回だけで良いから。
「……っ、ふ……」
耐えきれず、強めに息を漏らした私になにかを勘違いしたらしく、後ろから5番が並びかけてくる。衝動を抑えようと少し脚を緩め過ぎてしまったので、外から物理的にも精神的にも圧がかかってきた。
だけど、そろそろ第三コーナー。もっと早くから私を煽って削るならともかく、ここからならギリギリ我慢できる。沸騰しそうな頭を無理やり抑えつけて前を譲る。私を塞ぎたいあまり前に出過ぎている。そして、斜行を避けて私の目の前に立つためにかなり無理をしていた。
最近、逃げウマ娘相手の対策ばかりしている。先行で走ると言ってはいるけど本人は逃げしかできないので、終盤隙あらば前に出ようとしてくる。的中。
コーナーを走りつつ前を確認。抜けるスペースはまだない。先頭最内の12番がスタミナギリギリで、3番が少し外、7番がさらにその外。5番の内は空いたけど、ここに入っても間違いなく12番にぶつかる。
だけど、7番はスピードはあるけどスタミナが2400ギリギリのはず。逆に、3番はパワーとスタミナはあるけどスピードが足りない。そして、私はターフで誰よりも速い。つまり、7番が垂れたところから3番を追うように前に出れば良い。
そろそろ私も限界。気が狂いそう。番手ってこんなに辛いの? エルナトのせいで私って悪化してない?
『さあ先頭は早くも最終コーナーを抜けて直線に入った! 後続はかなり近いところ! ダイワスカーレットまだ内! これは厳しいか!』
コーナーを抜けた。予想通り7番は上手く加速できていない。相対的にそこが下がり、3番が前に出たことで完全にスペースが空いた。
……ここだ。さあ、見ていなさい。女王は、一番は私よ。さあ、
『ここで来た! ダイワスカーレットが抜けてきた! グングン上がってくる! 既に先頭に並びかけている! ここから急坂だがどうだ!』
全部の気持ちをかけて空いたスペースに突っ込んでいく。二人振り切って加速を終えた3番に並ぶ。まだスタミナに余裕はありそうだ。それでも私の方が速い。並んで、一秒もせずに抜け出した。私一人の世界で、大歓声と追い風に乗せられて飛ぶように速度が上がる。力が溢れる。私の中の『ダイワスカーレット』と一致していく感覚がある。
まだだ。まだ振り切れる。これじゃ足りない。ほんの一欠片も、たらればは残さない。さらに力を込める。後ろを突き放し、坂を駆け上がる。私が加速する度に歓声が大きくなっていく。もっとよ。もっと私を、私達を認めて。私達を褒めて。私達を見て!
『ダイワスカーレット先頭! 先頭はダイワスカーレット! さらに突き放す! これは決まったか! 女王は! オークスは! 残り200mを切ってもダイワスカーレット!』
これがきっと、私達の景色。誰も前にいない、一番の景色だ。また一歩、私は頂点に近付いた。
『ダイワスカーレットだ────っ! やはりダイワスカーレット! 女王はダイワスカーレットです! 圧巻!』
ゴール板を駆け抜け脚を緩める。実況の声をかき消すような大歓声。どっと疲れが来て内ラチに手を掛ける。あんまり冷たくない。良かった。私、最後まで熱くならずに走れたんだ。
掲示板の仮点灯。どよめきのなか息を落ち着け、一緒に走ったみんなと労いあったり、悔しくて声を上げる子もいたり。私も何人かと握手をして、勢いで抱き締められたりもした。
そして、確定のランプ。一着は私。大差ではない。当たり前よね。ここは、そういうウマ娘しか立てない場所なんだから。
「ダイワスカーレットさん、どうぞ」
「ありがとうございます」
決まっているわけじゃないけど流れとして、係の人がハンドマイクを持ってきてくれる。マイクパフォーマンス、どうしようかな。何にも考えてなかった。
「あ、えーっと……その、皆さん、応援ありがとうございます。ダイワスカーレットです。皆さんのご声援のおかげで、桜花賞に続き、私はオークスも走り切ることができました。本当に、私を応援してくれて、ありがとうございます」
深々と頭を下げる。飾った言葉だけど、これは本当。
「そして……それと」
でも、飾らない言葉も必要だ。誰より印象に残る、エルナトのダイワスカーレットを歴史に刻む。
「マイク、音量下げて頂けますか。大きな声を出したいんです」
咳払いで音を確かめる。すぐにお願いは反映された。
今日くらい、許されるでしょう。明日からはまたいつものダイワスカーレット。今だけは、あいつのダイワスカーレット。営業スマイルから目を大きく開き、歯を見せて大きな笑顔。マイクの上を持って観客席を右から左へ指で指す。
「みんな、ちゃんと見てたでしょうね!」
びっと、あいつが言う、『いつものポーズ』で指を立てる。
「やっぱり私が!!!」
ねえ、トレーナー。
「一番だったでしょ!!!!!!?」
ちゃんと見てたでしょうね。アタシの走り。
────
「トレーナー!」
ライブも終わり、打ち上げに誘ってくるクラスメイト達に待ってもらって病院へ。スズカさんから無言で送られてきた病院の部屋に飛び込んだ。
「あ、スカーレット」
ベッドの上に、点滴をつけてへらへらと笑うトレーナーがいた。
「おめで」
「バカッッッ!!!!!」
「スカーレットさん。病院です」
涙が溢れてきた。訳が解らなくなる。とにかくトレーナー、トレーナーを、なんか、トレーナーが。
「おめでとうスカーレット。頑張ったわね」
「ぐ……うぅぅ……っ! バカ、バカ……! 何してんのよ! アタシ、アタシっ……!」
「ごめんね」
気が付けば、トレーナーにすがりついて泣いていた。生きてる。無事だったのよね。じゃなかったら、いやでも、これから死ぬにしても私が勝てばこいつは笑いそうだし、だけどブルボン先輩も何も言ってこないし、
「大丈夫。無事よ。数日入院して終わり」
「スズカさん……!」
トレーナーの枕元に、いつものスズカさん。一切、これっぽっちも、怒っている様子はない。
「あの、その、スズカさん、私」
「許すわ。約束したでしょう」
「でも……っ」
「仕方無いことだもの」
「だけ」
「許すわ」
「あっすみません……あの、出てます、色々……」
「あ……ごめんなさい」
圧が。圧が飛んでくる。それ以上言ったら許さないぞという迫力を感じる。逃げるように視線を向けると、腰辺りに座るブルボン先輩がいつもの無表情で頷いた。
「おめでとうございます。スカーレットさん」
「ありがとうございます、ブルボン先輩!」
「素晴らしい走りでした。王者の走りです。私達の
ブルボン先輩ならできるだろうに、先輩は明確に私を持ち上げた。涙を拭き小さな椅子に腰かける。ずっとトレーナーは笑っているまま。本当に平気……いや平気じゃなかったからここにいるんだけど、まあ、それでも助かったんだ。
「凄かったわよスカーレット。感動しちゃった。あんなに素敵な走りが見られたんだから、多少倒れたくらいいたたたたたスズカ待って抜けちゃう抜けちゃう腕が肩が」
「ちゃんと反省してますか?」
「ごめんって……でもほら、か、勝ったら許すって……」
「それはスカーレットさんへ言ったのであってトレーナーさんは許してません」
「痛い痛い痛い痛い痛い」
よく見ると、トレーナーの腕に尻尾が絡んでいる。だからさっき私撫でられなかったのね。いつものトレーナーなら撫でそうなものだけど、片方は点滴、もう片方はスズカさんか。
「何をしてもらいましょうか」
「か、簡単なことが良いなあって……」
「簡単にサインしてもらいますよ」
「あっそれ以外で」
「この空気でちゃんと断られると傷付きますね……」
二人の関係なんて心配していなかったけど、思ったよりトレーナーは軽いし思ったよりスズカさんは怒っていない……ん?
「アンタ頬っぺたどうしたの」
「これはさっき……ね。右はスズカ」
「ああ、なるほど」
「左もスズカ」
「あっ両方なんだ」
「当たり前です」
よく見るとスズカさんも少し目がやぼったい。良かった。いつものみんなだ。私は何も失わなかった。失っても良かったけど、こっちの方がずっと良い。やっぱり私は恵まれたウマ娘だ。才能と、ハードトレーニングができる身体、それをさせてくれるトレーナーと、ずっと私の前にいる忌々しい二人。
これからももっと強くなれる。ウオッカと一緒に駆け上がり、それにも勝っていつか一番になる。ここにいればそれができる。
「ところで、トレーナー達って、今日の走りをちゃんと見てたのよね」
「ええ、ギリギリリアルタイムで見られたわ」
「そう……じゃあ聞くわ。今日の私の走り、何点ですか?」
私の問いかけに、へらへらした笑いからいつもの微笑みに戻ったトレーナーは、そして、私の偉大な敵達は五秒と空けずに答えた。
「そうね……90点かな」
「次は逃げでお願いしますね。気が狂いそうだったんですよ」
「中盤、必要以上にペースダウンしていたように見えましたが」
好き勝手なことを。
「そう……見てなさい、次は絶対! アンタに100点って言わせてやるから!」
「ふふ……楽しみにしてるわ」
楽しそうに笑うトレーナーに、私もにっと笑った。ああ、私は本当に幸せだ。
「ブルボンさんはやらないんですか?」
「場所がありませんから」
「おでことかお尻とか残ってますよ」
「待ってスカーレット。変なこと教えないで」
「なるほど」
「ブルボン????」