走ることしか考えていないサイレンススズカと効率的に勝つ方法を考えるタイプのトレーナー。あと割と理解のある友人一同。 作:サイレンススズカ専属トレーナー
三月七日、記録者、ミホノブルボン。
本日、マスターは体調不良により自宅療養中です。スズカさんは三日後に金鯱賞を控えており、私もそんなスズカさんと行動を共にすることが多いということで、感染症のリスクも鑑み、マスターの居住・行動エリアへの接近禁止命令が出されています。
「八十五、八十六……」
スズカさんのトレーニングについてはマスターからメニューを頂いていますし、私のものについては確認しましたが平時と内容は変わらないものになっていました。スズカさんのレッグカール・マシンの重りを上から押さえて負荷を上げつつ、非常に真剣にトレーニングに励むスズカさんの観察を続けます。
普段から、スズカさんは一度練習メニューを受諾した時点でそれを完遂するまでは集中する方です。プロセス『交渉』は必ずそれが終わった後に為されます。成功した試しはありませんが。
「ブル……ボン、さん……最後の十回なので、もう少し負荷を上げて」
「了解しました」
少し力を加え、負荷を二百五十キロ程度まで上げます。強引に私の身体が浮き上がり、カウントが再開されました。マスター曰く、スズカさんのパワーはウマ娘の中でも特異なものではないらしいですが、それでも私を圧倒するものがあります。
「九十九……百……っ、ふぅ……ありがとうブルボンさん。これで終わりだっけ?」
「はい。昼トレーニングは以上です。お疲れさまでした」
「お疲れさま、ブルボンさん。これからスペちゃん……みんなと甘いものでもって言われてるんだけど、どう?」
ステータスチェック。『空腹』……ではありませんが、疲労による麻痺だと判断。マスターは基本的に食事制限等を設けませんので、問題は無いはずです。資金もお父さんにお小遣いを貰っていますし。
誘っていただけたことに感謝しつつ、シャワールームに戻ります。私も坂路練習の後ラットプルダウンを行いかなり疲労感がありますが、私の数倍の負荷でトレーニングを終えても平然としている彼女には驚かざるを得ません。
トレーニング施設のほぼ全てに隣接されているシャワールームに入ります。更衣室及び脱衣所は共用ですが、チームである私達は慣例として同じロッカーを使います。
「よい……しょっと……」
……マスターも度々言う通り、スズカさんの身体はウマ娘の理想形とも言えるものです。
身体に起伏や脂肪が少なく引き締まり、筋肉も大きさではなく密度を増して張り詰めたようなものです。お父さんとのトレーニングで私もそれなりに自信はありますが……ステータス『残念』……いえ『羨望』……でしょうか。私はスズカさんより筋肉量も密度も劣りますが、どうも足や臀部、胸部の脂肪分が多い気がしてなりません。同年代のウマ娘の身体データはデータベースにありませんが、恐らく速く走るためには不要なものでしょう。
二人分の体操服をロッカーに入れ、浴室へ。
「スズカさん。イヤーキャップが」
「あ……ありがとう。危ない危ない」
「先に行っています」
マスターがいないからか、スズカさんの様子はいつもと違います。私が四ヶ月の間見てきた彼女はその……直接言うのは躊躇われますが、レースで見せる威圧感は一切無く、マスターと強い絆で結ばれた一人のウマ娘です。
普段からのマスターへの要求もそうですし、我々の立場からすれば管轄外であるマスターの仕事にも興味を示します。私にも良くしてくださいますが、時々オーダーもあります。
ですが、マスターのいない時のスズカさんは少し落ち込んでいるような気がします。分析ではなく、感覚としてですが。
「……あっ……」
「どうかしたの?」
「い、いえ……誤って冷水を出してしまい……」
「気を付けてね」
声色等にしても特に平常時と変化はありませんが、ややトーンダウンしているように感じられます。エルナトで共用しているボディーソープを泡立てながら、私は磨りガラス越しのスズカさんにボトルを渡します。
「どうぞ」
「ありがとう」
「……あの、スズカさん」
「どうしたの?」
耳を避け髪を洗いながら、シルエットのスズカさんがこっちを見てくれます。マスターがいる時は基本的にお二人が話すことになりますので、かなり貴重な経験です。
「今日は、一度も走りたいと言う言葉を聞いていませんが……体調不良ですか?」
「違うけど……ブルボンさんも私のことを誤解してるわね?」
「妥当な帰納かと思いますが」
「私だってちょっとくらい考えてるのよ?」
「……そうだったのですか?」
身体を流し軽く拭き取り、先に浴室を出ていくスズカさんについていきます。スズカさんはいつも通り起伏の読み取りが困難な複雑な表情のまま、うーん、と顎に指を当てて何か思考プロセスに入ります。
「別に、走りたいし走っても良いのよ? ブルボンさんが走って欲しいって言ったら今すぐにでも走るけど」
「いえ、そんなことはありません」
「うぅ……でも、その……今走るのは……ね? 違うでしょ?」
「ストッパーであるマスターがいないのであれば、最も合理的な判断かと思われますが。スズカさんは走ることを何より望まれているようですから」
「そ……れはまあ、そうなんだけど……」
尻尾を拭き取り、テールオイルを使用しつつ、スズカさんはさらに続けます。
「トレーナーさんが病気でいない時に走るのは……卑怯かなって」
「卑怯?」
「ううん、言葉にしにくいんだけど……解る?」
「申し訳ありません。いつも通りでは?」
「言うようになったわね……?」
マスターが不在の際、スズカさんからは何度も一緒に走るようオファーを受けています。日常会話よりもその方が回数は多いでしょう。私はマスターからのオーダーによりそれらを全て断ることになっていますが、それをスズカさんが上書きすることも多々あります。
「その……ね? トレーナーさんが寝てるとか、ただ見てないだけとか、追い付けないとか……そういうのは別に良いんだけど……」
「いえ、良くはありませんが」
「良いの。でも病気の日は違うかなあって」
「……そうですか」
いまいち理解できませんが、スズカさんが言うのならそうなのでしょう。元々スズカさんの言動は半分は理解できませんし、理解する必要はないとマスターからも言われています。
機械の類いは触れられないため髪と尻尾にドライヤーをかけてもらいます。スズカさんは尻尾や髪のケアには一家言あるらしく、非常に上手くやってくれます。何故か一般的なそれとは違い、纏めて絞り広がらないような処置をとりますが。
一般的にはボリュームを重視するべきなのではないでしょうか? お父さんもお母さんもそうしていました。もちろんこだわりはありませんし、スズカさんが当然のようにそうしているので、トレセンにおいてはそれが一般的なのかもしれませんが。
「そのうち解るわ」
「そうでしょうか? マスターとスズカさんのことが私に理解できるとは思えません」
「そんなことないわよ」
「そうですか」
スズカさんが言うならそうなのでしょう。私の家の文献でも、人……ウマ娘も含めて、人どうしというのはちょっとしたきっかけで信頼し合うことができるようです。お二人が関わった期間は聞くところによると一年にも満たない程度ですが、それでも。
「はい、尻尾終わり。じゃあちょっと待っててね。私もするから」
「ありがとうございます」
自分のケアを始めるスズカさんを隣でじっと眺めます。本当にこだわりをもってやっているのでしょう、走る時と並ぶ程度には彼女は真剣です。脳内メモリを休ませると思って特に何も考えず待つことに決めます。
「うーん……まだ少し広がっているような……」
マスターは大丈夫でしょうか……一応、看病についての知識は取り急ぎインプットし終えています。マスターの家はオール電化ですので主だった家事の手伝いはできませんが、熱冷ましが必要ならそれくらいはできますし、道順さえ指示していただければ買い出しも務められます。
……あるいは、人肌が必要ならと頭によぎりますが……これはスズカさんがやるべきことでしょうか。
「ブルボンさん、タオル取ってくれる?」
「はい。ハンドタオルでよろしいですか?」
「うん。ありがとう」
待機中……スリープモードに移行……いえ、いけません。この後出掛けるのですから……しかし……体力低下による疲労が著しく、強制スリープが……
「あっブルボンさん」
「……申し訳ありません、強制スリープへ移行しかけました。まだ活動可能です……」
つい、持っていた荷物を取り落としてしまいました。まだスタミナが足りていないのでしょうか……いえ、マスターからは劇的に伸びているとのお墨付きを頂きましたし……
「無理しないで。今日は解散しましょう」
「しかし……」
「遊びに行くのは今度でもできるから。ブルボンさんはいつも頑張ってるんだし、今度トレーナーさんにお願いしましょ?」
「……ありがとうございます……」
私の荷物だけ持って、寮へ……いえ、少し体力が……トレーナールームで仮眠を取りましょう。早急にスリープモードに移行しなければ、先程のように途中で倒れてしまう可能性もあります。スズカさんに一礼の後、ふらつく身体を何とか制御しつつ歩いていきます。
スズカさん達の会合に参加できなかったのは大きなマイナスです。感覚としても、論理的思考の上でも、スズカさんやその後輩の方との会話は貴重です。今度マスターに話してくれるとのことですが……正直なところマスターとの会話はいついかなる状態でもできます。緊急性を有しません。
強制スリープ移行を含め、バッドステータスが複数感知されています。早急に休まなければ。夕方のトレーニングもあります。
そしてエルナトのトレーナールームまでたどり着いたところで……後ろから声をかけられました。
「これはこれはブルボンさん! ちょうど良かった!」
「……バクシンオーさん」
「今ちょうど、同期の皆さんでカフェに行こうとしていたのです! どうですか!」
サクラバクシンオーさん。私と同期として入学し、私と同じように……いえ、私以上にスプリンターとして期待されているウマ娘です。何度かお話しし、助けていただいたこともあります。
彼女が一人で話し掛けて……いえ、彼女は基本的に一人で行動しているのですが。
「一人しかいないようですが」
「これから誘いに行きます!」
「しかし」
「さあ行きましょう! ブルボンさんが普段喋らないと皆さん心配していますよ!」
「待っ」
手を引かれ、意見する間もなく連れていかれます。スリープ、私の睡眠、が……
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『あ、もしもし、トレーナーさん?』
「あー……どしたのスズカ……何かあった……?」
『ブルボンさんなんですけど……あの、夕方のトレーニングはできないみたいです』
「な……んで? 珍しいわね」
『同期の友達達に色んなところに連れ回されたみたいで……起こしても起きなくなっちゃいました』
「あ、そう……いいよ。寝かせときな」
なんでそうなるの、ブルボン。