走ることしか考えていないサイレンススズカと効率的に勝つ方法を考えるタイプのトレーナー。あと割と理解のある友人一同。   作:サイレンススズカ専属トレーナー

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あなたのために、サイレンススズカ(秋天)

 天皇賞。

 

 春と秋に行われる大レースの一つである。去年はスズカが勝ち、思えばあれがスズカの躍進の始まりと言っても良い。あれからジャパンカップ、大阪杯、宝塚記念と勝って、今に至る。

 

 そんな天皇賞について、スズカの出走は基本的に非常に求められている。ウマ娘レースにおいてよく言われることとして、中央に来たらエリート、未勝利勝ったら一流、重賞勝ったら栄光、G1取ったら伝説なのだ。今回はそれに加えて連覇までかかっている。そりゃ期待値も高まるだろう。私だって、本当なら手放しで喜んでいた、と思う。

 

 

 ……けどなあ。

 

 

「ん……どうしたんですか、トレーナーさん」

「ううん。何でもないのよ」

 

 

 最近、本当にスズカを天皇賞に出すのが正しい選択なのか、そう思うことがある。

 

 スズカの健康は、毎日王冠の直後も、そこから毎週、お医者さんのところに連れて行っている。だけど、どうしてもあの熱病のような、スズカをどこかに連れて行ってしまう現象だけが解らない。何度調べても、何度見ても、スズカには異常は無い。しまいにはトレセン側から、何の問題も無いのに何度も利用するなとお叱りを受けてしまった。私も強くは反論できない。事実、私だって何がどうなっているのか解らないのだ。

 

 

 私の隣で、授業中貰ったらしい課題を進めるスズカ。何度見ても、彼女に怪我率は無い。私の目の正確さについては私は信頼しているし、これまで一度として間違ったことはない。ブルボンについてもかなり無茶をしているが何事も無いし、それとなく他のウマ娘の怪我を見抜いたこともある。

 

 そんな私の目は、この間もそう、スズカは健康だと言っている。トレセンでいらぬ心配をしているのは、ただ私一人なのだ。スズカも、お医者さんも、『私』も、私なんかよりよっぽど信じられる人達が、異常は無いと断言している。

 

 

 それでも、あの高熱から感じた言いようのない恐怖は日に日に私にのしかかってきている。次に走って、スズカが完全にスピードの向こう側に入っていった時、何が起こるのか解らない。

 

 

「……スズカはさ」

「はい?」

「……天皇賞、どう思ってる?」

「え……? 楽しみ……ですけど」

 

 

 ドリルを解きながら首を傾げるスズカ。これも厄介なのが、普段のスズカなら、きっと私が「天皇賞はやめよう」と言えば従ってくれるのだ。

 

 

「今度こそ向こう側に行けるかもしれないですから」

 

 

 でも、今回は違う。スズカの目には確固たる意志がある。「走れるからレースが楽しみ」、ではない。これは、私が曲げてはいけないものだ。スズカの数少ない自我の一つなんだから。走りたい、走って走って、一人になりたい。そう言っていたスズカに、私がこれ以上何か言って良いはずがない。

 

 

「そうよね……うん、楽しみ」

「どうしたんですか……? トレーナーさん、毎日王冠からおかしいですよ」

「そんなことないけど……ちょっと疲れてるのかもね」

「……いっぱい食べて寝てくださいね?」

「ええ」

 

 

 ブルボンみたいにね、と言うと、くすくす笑い出す。ああ……可愛い。スズカはやっぱり、スズカだ。私のウマ娘だけど、私のものではないのだ。私はブルボンに指示は出す。でも、口が裂けてもダービーに出るなとは言えない。スズカも同じだ。普段走るのを制限できたとしても、今回のそれを止めるのは、スズカから大切なものを奪うのに等しい。

 

 

 特に話すこともなく、そのままブルボンが部屋に来るまで私はボーっと何でもないことを考えていた。

 

 

 

 

 

 ────

 

 

 

 

「マスター……はぁっ、はあ……オーダー……完了しました……」

「うん。んー……まだいけそうね。もう一本、同じタイムで。今度は最終直線で余力を全部吐き出すこと。良いわね」

「はい……では……走行可能まで回復し次第、直ちに遂行します……」

 

 

 ブルボンのトレーニングは、しっかりとやらなければならない。アルテミスステークスでもブルボンは快勝し、少なくともマイルまでは間違いなくトップランナーと言ってもいい。これを覆すのは朝日杯、そして、その後の1800、そして皐月賞の2000だ。まあ、今の時点でもブルボンなら走りきれるだろうけど。

 

 

「トレーナーさん……退屈です……ちょっと走ってきます」

「だめ。スズカはこの後プールなんだからね」

「でもこんなにいい天気なんですよ?」

「スズカ天気なんか気にしてないでしょ絶対」

「気にしてますよ? 気温、湿度、風……少し違うだけで感覚が全然違うんです。たとえばですけど、少し涼しくて風が吹いている日なんかは、ひゅうひゅう耳を風が抜けていって、段々冷えていくんですけど、体の芯の方から温まってきて、じわじわ脚に力が入ってきてですね。これが風が無いと、今度は温まる方が早くて、でも私が速いのでそのまま風を切っていく感じになって、そうするとこう、一気に気持ち良さがぐんと増すんです。なので」

「ごめんスズカ。私が悪かった」

「じゃあ走ってきます。トレーナーさんが悪い人なので」

「それとこれとは関係無いねえ!」

 

 

 そんなー……と私の前から寄り掛かってくるスズカ。こうしていても何も違わない。いつものスズカだ。たぶんあの高熱も、スズカからすれば直感で、問題無いと感じているのだろう。それはそれで信用ならないが、直感で危ないと感じている私も同じようなものだ。

 

 

 ……と、指示通り走ったブルボンが帰って来る。うん、怪我率が出ている。これで終了だ。ストレッチをさせて、次はスズカのトレーニングに行かないと。

 

 

「ほらスズカ。ブルボンが終わったら次はスズカなんだからね。早く着替えなさい」

「むぅ……もう走る気持ちができてるんですよ?」

「勝手に気持ち作らないで?」

「これからは作りません。じゃあ今回はもうできちゃってるので……」

「だめーっ。このっ、往生際が悪いのよっスズカはっ」

「んっ、んふふ、ふふふっ、ず、ずる、ずるですっ、く、くすぐった……」

 

 

 スズカをうまく誘導して連れていくのも、もう慣れたものである。大人は怖いのだ、残念だけどね。

 

 

 

 

 

 ────

 

 

 

「ではマスター。お休みなさい」

「ん、お休みブルボン」

 

 

 ぱたん、と寝室の扉が閉まる。今日はスズカもブルボンもお泊りに来ている。まあスズカは結構来ているので今更だけど。ブルボンも、時々本人の意思以外に、ニシノフラワーにお友達とお泊りするからと言われることがあるらしい。

 

 

 私はと言うと、柄にもなく……本当に、何年振りか解らないくらいの、お酒を飲んでいる。絶対に一杯目に飲んじゃいけないタイプの強いやつ。

 

 

「んー……ぐぅ」

 

 

 きっつ。一瞬にして酔っぱらう感じがする。お酒、弱いもんなあ私。甘いお酒しか飲んだことないから、口に広がる苦みに顔がきゅっとなる。

 

 二口飲んだだけでかっと体が熱くなってきて、やり過ぎたかなあなんて思っていると、今日は最後にお風呂に入ったスズカが出てきた。

 

 

「トレーナーさん、お風呂あがりましたよー」

「んー。ほらスズカ、こっちおいで」

「なんですか? もう、甘えんぼですか?」

「スズカに言われたくないなあ……」

 

 

 とは言いつつ、隣に座ってくれるスズカの脚に寝転がる。細いなあ。こんな足からあのスピードが出るなんて信じられない。そりゃあ、ウマ娘の脚はガラスの脚とか言われるわけだ。物理法則を無視した不思議な力は、ウマ娘にとっても制御しきれない敷居がある。

 

 お風呂上りでぽかぽかのスズカが、機嫌良く私のことを撫でてくる。スズカの顔が見られない。私、最低のことをしようとしている。

 

 

「……スズカ」

「はい?」

 

 

 それでも、お酒の力を借りて、言わなきゃいけないことがある。

 

 

「天皇賞、だけど」

「はい」

 

 

「……回避するわけには……いかない、かな」

「……どうしてですか?」

 

 

 突然何ですか、とは言われなかった。

 

 

「私……ごめんね。スズカの、スピードの向こう側……応援できないかもしれなくて」

「はい」

「スズカがね、どうにかなっちゃうんじゃないかって、心配……ううん、不安なの」

「はい」

「何も理由なんて無いの。ただ私が、何となくって思ってるだけなの」

「はい」

 

 

 涙が出てきた。私、何を言っているんだろう。走ることが、速いことが何よりも好きなスズカに、私は、言っちゃいけないことを言っている。スズカに必要なのは私じゃなくて、自由に逃げさせてくれるトレーナーで、私はスズカが気持ちよく走れるようにって、そう言って契約したのに。

 

 

「でも、スズカ」

「……迷っちゃいますね」

「え……」

「トレーナーさんは、どっちが良いですか?」

「私は……出て、欲しくない」

「じゃあ」

「でも、スズカのやりたいことを邪魔したくないの……! スズカ、そこに行きたいって言ったじゃない。びっくりしたの、スズカが、これがやりたいって言ったから! いっつも私、スズカにダメって、走らないでって、これで次は目標まで奪ったら、私……」

 

 

「そうですか……」

 

「……やっぱり、迷っちゃいますね」

 

 

 スズカが、私の頬に手を置いた。細い指が触れて、するり、と耳元へ抜けていく。上から聞こえるスズカの声は、とってもいつも通りだった。

 

 

「私は、スピードの向こう側に行ってみたいです」

 

「確かに、これが……目標? なのかも? よく解らないですけど、たぶん目標なんだと思います」

 

「でも、トレーナーさんのこと、私は信じています。トレーナーさんが言うなら、もしかしたら、良くないことが起こるのかもって、ちょっと思います」

 

 

 ぺし、ぺし、と私の頭を叩くスズカ。

 

 

「だから、悩んでます。トレーナーさんは私に走ってほしくないんだなって、ちょっと前から気付いてましたから」

「ごめん、ごめんねスズカ……」

「赤ちゃんみたいですね、トレーナーさん」

 

 

 スズカの脚に突っ伏して泣いてしまう。淡々と話だけを聞いてくれるスズカに、それ以上私は何を言うこともできない。これでスズカが止まってくれるんだろうか。止まってくれないだろう。私ではもう、どうにもならない。

 

 

「スズカ……」

「寝ましょう、トレーナーさん。具合悪くしちゃいますよ」

「うん……」

「大丈夫ですから。きっと上手く行きますよ。トレーナーさんのこと、信じてますから。私のことを一番に考えてくれてるって知ってますから」

「うん……」

 

 

 そのまま、私はスズカに抱き着いたまま眠った。介抱しようとしたスズカの手によって、私は翌日全裸に剥かれていた。なんでそうなるのよ、ぶきっちょ。風邪ひくじゃん。

 

 

 

 

 

 ────

 

 

 

 

 十月二十日、記録者、ミホノブルボン。

 

 本日、マスターはトレーナー達の集まりがありトレーナー室へ来るのが大幅に遅れます。よって、私は事前に頂いていた筋トレメニューと走り込みを終えて、体力回復のためにトレーナー室に戻りました。

 

 

「ただいま戻りました……エアグルーヴさん。こんにちは」

「ああ、ミホノブルボン。お疲れ。すまない、少し話をしているんだ。邪魔をする」

「いえ。目的は睡眠ですので問題ありません。シャットダウンはいかなる状況でも行えますので、気兼ねなくお話しください」

 

 

 トレーナー室に、エアグルーヴさんがいました。スズカさんの一つ上ですが、スズカさんと対等な関係で、何度かここにも宣戦布告をしに訪れたことがあります。マスターの評価は……データベース検索、確か、実力はあるが正統派であるためスズカさんへの勝率は絶望的である、だったはずです。

 

 

「ごめんねブルボンさん。お休みなさいね」

「はい。お休みなさい」

 

 

 スズカさんにも申し訳なさそうに挨拶を頂きました。トレーナー室においては私の定位置となったベッドに横になり、タオルケットを掛けてシャットダウンに入ります。三秒前、二、一、

 

 

「……話を戻そう。さっきのスズカの懸念だが……正直、そうなる……と思う。勝手な想像で、すまないが」

「そうよね。うん、そう思ってたわ。トレーナーさん、優しいから……そうなったら困っちゃうもの」

 

 

 シャットダウン処理を中断。目を閉じたまま、二人の会話を記録することにします。

 

 

「しかし不思議な話だ。お前のトレーナーがお前にレースを回避させるとはな」

「うん……私もちょっとびっくりしたわ。そんなこと一回も無かったし、天皇賞だって元々トレーナーさんが選んだレースだから……」

「理由も無いのだろう? スズカが何度か医者にかかっていたのは知っている。異常は無かったと」

「無いみたい。私も何にも解らないわ。むしろいつもより調子が良いくらいで……でも、トレーナーさんはたぶん、何かを感じてるんだと思うの」

 

 

 マスターが、スズカさんにレースを回避させる……? 理解不能です。マスターの思考はいまだ予測は難しいですがしかし、お二人の意見からすればむしろマスターはレースを推奨する立場のはず。

 

 

「ああ、それについてはスズカが信じるというならそれで良い。私が言うようなことじゃない……だがスズカ。さっきも言ったがそれは……周囲は騒ぐぞ」

「そうよね……」

「当然だ。私もスズカから話を聞かなければ一度は沸くだろう。何故何の異常もないスズカを走らせないんだ、と。何も知らない者共からすれば尚更だ」

「うん……私も、そう思うわ。みんな、私のことを待ってるんだなって思うの」

 

 

 スズカさんを、待っている。秋の天皇賞を連覇する、稀代の逃げウマサイレンススズカを待っている。なるほど、尤もです。スズカさんが病院に通い、何の異常も検知されなかったのは私も知っています。マスターはどうやらレース後にスズカさんが起こした発熱や食欲増大を懸案していたようですが、一時的な興奮によるものであると結論付けられています。

 

 ですから、天皇賞回避を決定した場合、その判断は理解されない、ということでしょう。私やスズカさんはマスターの指示に従いますが、それは、マスターの指示を信頼しているからです。

 

 

「トレーナーさんを心配させるのはね、嫌なんだけど……でも、これで走らなくて、みんながトレーナーさんに何か言い始めたら、それは、その、トレーナーさんが、心配で……」

「……言いたいことは解るぞ、スズカ。お前の考えは間違っていない……と、私は思う。私がもしお前の立場だったなら、きっとそうしただろう」

「それにね、今回は私、走りたいの。レースに出て、走りたいって思ってるの」

「……スズカがか?」

「ええ。やりたいことが……見たいものができたから」

 

 

 スピードの向こう側。私もマスターも未だ真意を図りかねている、スズカさんが突如として主張を始めた概念。走行中のアドレナリン放出による全能感や多幸感とは明らかに違うらしく、現在のスズカさんはそれを求めてレースへの準備を進めています。以前とは、明確に異なります。

 

 

「そうか……それで、どうする」

「エアグルーヴは、どうしたら良いと思う?」

「一人のお前の友人として、もし走らなくても、私は否定しない。自分のトレーナーを信じることに理由は必要無い。どんな結果になっても、私はお前の味方でいよう、スズカ」

「うん」

「だが、トレセンの……仮にも意思決定に少しでも関わる立場としては、お前には走ってほしい。それを待ち望んでいるファン、後輩がいて、ウマ娘エアグルーヴもいる。恐らくURAもそれを望むだろう。時に私達は、勝者は、走らなければいけない時が来る。お前のそれは、たぶん今だ」

「……うん」

 

 

 走らなければいけない時。エアグルーヴさんも、スズカさんも、勝者です。私には理解できない概念を聞かされても、スズカさんはそれが当然とばかりに肯定しました。共通認識があるのでしょう。まだ勝者ではない私には解らない何かが。

 

 しばらく室内に静寂が広がりました。一番大きい音は、私の吐息か、あるいはグラスで変形して滑る氷の音。会話が止まっても、二人とも、何も言わず時間が過ぎるのを受け入れていました。

 

 

「トレーナーさん、怒るかな」

「何故だ?」

「走るなって言われたのに、私が走るから」

「……知るか。お前達の関係は時々全然解らなくなる」

「そうなの? エアグルーヴは結構解っていると思ってたんだけど」

「……他に比べればな。お前の友人だからだ」

「ありがとう、エアグルーヴ」

「感謝するな。お互い様だ」

 

 

 どうやら、スズカさんの意思が固まったようです。マスターの指示に反し、天皇賞に出走するのでしょう。走らなければいけない時に、走るようです。

 

 

「もし私がこれで……」

「やめろ。聞きたくもない」

「トレーナーさんに怒られて走っちゃダメって言われたら、ちゃんと説得してくれる?」

「……お前の冗談は解りにくいんだ」

「冗談じゃないわ。きっとトレーナーさん、怒るわよ。怖いんだから。笑って息ができないくらい擽ってくるし、嫌だって言うまで頬っぺたをふにふにするんだもの」

「楽しそうで何よりだよ」

「あー、エアグルーヴが適当になった……」

 

 

 これ以上聞く必要は……いえ、これまでも必要はありませんでしたが、好奇心も満たされました。今度こそ、スリープモードへ移行します。

 

 

 三、

 

 二、

 

 一、

 

 

 ゼロ。

 

 

 

 

 

 

 ────

 

 

 

 天皇賞当日。

 

 

「それじゃあ行ってきますね、トレーナーさん」

「……うん」

「もう、大丈夫だって何度も言ったじゃないですか。そんな顔しないでください」

 

 

 スズカはもう、割り切っていた。勝負服に身を包み、レース前だというのに私に気を遣ってくれている。私がまだ迷っているから、余計な迷惑をかけてしまっている。

 

 

 結局、スズカは出走を選んだ。理由は何度言っても教えてくれなかったけど……果たしてスピードの向こう側への欲望が勝ったのか。それとも、私のためなのか。それは卑怯だと思って、回避したら私が何て言われるかなんて話題に挙げなかったのに。変なところで敏感なんだから、スズカは。

 

 

 ゲートに向かっていくスズカを見送り、今日はスズカを直接見るため観覧席……それも、一般のお客さんに交じった一番下の正面スタンドへ降りていく。隣にいるブルボンは、こんな私を見てどう思ってるんだろう。しっかりしなきゃ。スズカのことで悩むのと、ブルボンのことは別なんだから。

 

 

「ブルボン」

「はい」

「はぐれないようにね。物凄い人だから」

「はい。手を繋ぎましょう、マスター」

「……まあ、それはそうね、繋ぎましょう」

 

 

 ブルボンと手を繋ぎ、観覧席へ。マナーは悪いけど人混みをかき分けて、最前列に陣取った。スタートはちょっと見辛いけど、まあそれはそれ。双眼鏡を首から提げて、とんとんと胸を叩く。まだ不安は取れない。でも、スズカは走ることを選んだ。理由はどうあれ、もう止めることはできない。スズカに期待する実況の前口上を聞きながら、スタートをひたすら待った。

 

 

 お願い、スズカ。

 

 

 

『スタートしました! やはりサイレンススズカ、素晴らしいスタート! 序盤からどんどんと飛ばしていきます!』

 

 

 見えてきた。スズカは当然先頭を走っている。他に逃げウマがいないからか、ほぼ一人旅同然の差が既に開いている。スパートで速度を上げなければならないのに当然の権利のように普通に飛ばすのは正直少しスズカの笑いどころだ。まあでも、スズカは速ければ速いほど楽しくなって速くなるからこれで良いのか。スズカが足を溜めたら私もびっくりだし。物凄い勢いで直線を突っ走るスズカに、ちょっと気が楽になる。

 

 

 前半が過ぎ去り、みんなで長い直線を進んでいる。スズカに潰されないためか、スズカ以外のペースはやや緩い。スズカ一人だけが、五十七秒という意味の解らないペースで進んでいく。緩く登り坂を経ても何も変わらない。絶対王者スズカがただ一人、カーブに入りつつある。第三コーナー。グラス越しのスズカは相変わらず、鋭い逃亡者だった。

 

 

「スズカ……!」

「……マスター」

 

 

 先頭、スズカ。大きく離れて二番手、さらに離れて三番手。いつものスズカだ。絶好調の、一番強いスズカだ。

 

 

 スズカが、スピードの向こう側に行ってしまう。大欅に消える瞬間に少し口を開き息を入れたスズカの姿に、私はそんな確信を抱いた。

 

 

 体が勝手に柵に縋りつく。手に持っていた双眼鏡が落ちる。再び現れたスズカが、スズカではなくなっているかもしれない。私が私の不安を煽り、身を乗り出して名前を呼んだ。

 

 

 

 

「スズカ!」

 

 

 

 

 そして、世界が止まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『あーっと……これは……さ、サイレンススズカ! サイレンススズカの様子が! これは、どうした……!』

 

 

 

 

 欅を抜けたスズカの体は、明らかに跳ねていた。違う。スズカじゃない。スズカならもう、地面を突き刺すみたいなあの脚で加速している。それが、弾むように遅く、そして、必要も無い外へとよれていく。

 

 

 

「……っ」

 

 

 

 手足が出る。柵を掴み、体が浮きあがった。上がる視点から、こんなに遠くで、でも、スズカの様子だけはずっと見えたまま。

 

 

 大きく外に避け、そのまま、スズカの体が崩れ落ちた。丸まるみたいに両手両足で芝を踏むスズカ。私の体がスズカに近付いて、

 

 

「スズカ……ぅあっ!?」

 

 

 がくんと落ちる。視界からスズカが消えていく。スローモーションのお別れの間、後ろから呼びかけるブルボンの声が聞こえていた。蹲って動かないスズカに手を伸ばし、そのまま、わたしは

 

 

 

 

『さ、サイレンススズカに故障発生! サイレンススズカに故障発生です! これは大変なことが起きてしまいました……!』

 

 

 




次回は早めに。今のところ全三話を予定しています。
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