走ることしか考えていないサイレンススズカと効率的に勝つ方法を考えるタイプのトレーナー。あと割と理解のある友人一同。 作:サイレンススズカ専属トレーナー
その日、私は生徒会室に運ばれていた。
スズカの事故から時間も経ち、私の仕事は平常に戻っていた。これまでは本当に忙しかった。忙しかったといっても、その内容は結局はどれも私の身を守るようなもので、スズカのためのものではないから、文句を言うような立場にはないんだけど。
色々なところに飛び回り、直接ではないが様々なメディアに出演させられた。責任から逃れろとトレセンが私に言うのだ。スズカのそれから逃げることはしたくなかったけど、私にはまだブルボンがいる。この事故が起こってもなお、まだ私のトレーニングをやってくれるブルボンを誰かに託すわけにもいかない。私がバッシングを受けることは良くても、それが原因で辞めることになれば放り出されるのはあの子だ。
それに、トレセンも私を放しはしないだろう。私の能力は把握しておらずとも、私の実績はあまりに大きくなり過ぎた。変わらずウマ娘を見れば全てが表示される目は、今も正常に動き続けている。
スズカの怪我を予想できなかったものの、それは他のお医者様と何も変わらない。目がおかしいというより、私の勘が冴えていたのかもしれない。あるいは、あの時のスズカは既にウマ娘として行ってはいけないところに足を踏み入れていたか。
トレセンは私を全力で守っていたし、私もとにかく何かやらなければならないという一心でそれに従っていた。今のところ、私に悪意が向けられることは無くなってしまっている。
今日も、悪質な記者が秋の感謝祭に紛れてくるというリークがあり、トレセンが用意したアパートに一時避難をさせられていた。監視や警備も多少つけているとのことで、私でなくスズカにつけろと苛立ちながらも鍵を掛けてじっと部屋で大人しくしていた、のだけど。
「な、何!? 誰!?」
突如として玄関から鈍い音が響き、とたとたと軽い足音が入り込んできた。私が侵入者を確認する前にうつぶせに組み伏せられ、目隠しを装着させられる。
どう抵抗しようとしてもどこも動かせないほどの理不尽な力は、明らかにウマ娘のそれだった。
「ミッション完了。ライスさん、目隠しの次はヘッドフォンです。急ぎましょう」
「名前を言ったら意味無いよね!? まだ耳当てしてないんだよ!?」
そして、聞こえてきたいつもより少し弾むような愛バの声。もう一人誰かいるけれど、とにかく、私を直接押さえつけているのはブルボンだった。
「ぶ、ブルボン!? 何してるの!?」
私の言葉も虚しく手足を縛った後ヘッドフォンを着けられ、猿轡まで噛ませられた。そのまま何かの中に入れられ、どこかに運ばれている。
何をしているの。というかブルボンはスズカのところにいるんじゃなかったの。今スズカは一人ってこと? 意味が解らない。どうして自分の担当にこんなことをされているんだろう。
そこそこ丁寧にどこかに寝かされ、そこからしばらくゆっくり、小刻みな揺れが続いた。車か何かだろうか。寒さは無いし感触はそこそこ柔らかい。普通に座席に乗せられたな。
ブルボンが仮に突然私を嫌いになっても、こんなことをするとは思えない。ブルボンはたぶん、この間夢で見たみたいに、無言で書きあがった契約解除書類を置いて出ていくだろう。それが一番効率的だからだ。
こんな手段はブルボンでは思いつかない。もう一人、ライスと呼ばれていたウマ娘の入れ知恵だろうか。聞いたことはある。確か……そう、ライスシャワーだ。どんな子かはあんまり覚えてないけど、こんな子なの……? ブルボンの友達、どうなっているの。
困惑しているうちに、また持ち上げられる。こんどは運搬スピードが速い。そこそこ急いでいるのだろうか。そして、少し経って、誰かに引き渡された。米俵みたいに肩に担ぎ上げられ、乱暴に柔らかな何かに放り出される。
逃げる……逃げる? どうやって? ウマ娘から逃げられるわけがない。ここがどこだかは解らないけど、室内のはずだ。扉から出なければ逃げられない以上、そこを塞がれたら人間に太刀打ちはできない。
何をされるのか、ブルボンは何がしたかったのか。そんなことをしている間に時間は過ぎていき、いい加減猿轡で吐き気を催してきた頃、私は袋から出された。
手足が解放され、ヘッドフォンと猿轡がほぼ同時に無くなった。
「どうしたのブルボン。私に何か不満があるなら」
「ああ、すまないエルナト・トレーナー。ブルボン君なら今はいないよ。今頃、友人とカフェテリアかどこかにいる」
「……シンボリルドルフ」
「……そう怯えた声を出さないでほしいな。私だって人並みに傷付く」
自分の手で目隠しを外す。ちかちかと目を差す人工的な光源の下、私が寝転がっていたソファの向かいに座る彼女は、ウマ娘の長と言っても過言ではない、トレセン学園現生徒会長、シンボリルドルフだった。
悠然と、いつもと同じどこか達観しているような、それでも希望に満ちた表情で生きている。
「……突然どうしたの。呼び出すなら言ってくれれば自分で来るのに。わざわざブルボンにこんなことさせなくても」
「すまない。トレセンには完全防音の部屋が少なくてね。本当は生徒会室に来てもらわなくても良かったんだが」
「どういうこと? あなたが私を呼んだんじゃないの?」
「私じゃないよ。むしろ逆さ。私は雇われの身だよ。報酬は甘いパフェと心躍る勝負……を、予定している。どんなウマ娘も逆らうことはできないね。私もやっと我、に返ったところだ」
「……意味が解らないわ」
「……今のはそこそこ解りやすいつもりだったんだけどね」
シンボリルドルフ生徒会長は学生でありながら、持っている権限なんかはもはや我々トレーナーや教師より上と言っても過言ではない。本人の実績もあり、賢く高潔なウマ娘だ。それに、ウマ娘のことを第一に考えるというのは伊達ではない。自分の人生をウマ娘のために捧げられる存在だからこそ、シンボリルドルフ。あの気難しいエアグルーヴが手放しで尊敬し、一匹狼なナリタブライアンが頭を下げる存在である。
そんな彼女が私を呼び出したのなら、間違いなく『お話』だろう。それも、私の望む形での。だけど、そうではないと言う。彼女はあくまで冷静で、特に会話を始める気も無いのか、ポットからお茶を淹れて私に差し出してきた。
「どうぞ」
「……ありがとう」
連行の間、そこそこ寒かった。温かいお茶が骨身に染みる。シンボリルドルフも一応大人の私がいるのにも関わらず、ソファへの座り方はとてもラフだ。このまま黙っていれば何も言わず時が流れるんじゃないかという不気味な沈黙が流れていた。私って、こんなに沈黙に弱かったかな。
「それで。誰に言われたかは解らないけど、何か言いたいことがあるから連れ出したんじゃないの?」
「言いたいこと? 無いとも。私の立場であなたに言えることがもしあるなら、何の効果もない慰めの言葉くらいだ」
「……どうして。あなたはウマ娘第一主義でしょう。みすみす担当を怪我させた私を責めるべきじゃないの」
「それは今のところ考えていないよ。何度も言うが私の立場から……いや、シンボリルドルフ個人からしても、あなたを責めるつもりはない。あなたに責められる謂れが無いし、私個人に義憤も無いからだ。あなたももっと簡単に考えた方が良いと思う」
少し困ったように笑いながら言うシンボリルドルフ。呑気に湯呑を置いて、ふう、と一息つくその姿に、そして、その言葉に、かちん、と目の前が赤くなるような気がした。
「違うでしょうシンボリルドルフ。そうじゃない……私には責められるべき理由と事実がある」
「私はあの子の、スズカの担当トレーナーなの。あの子の怪我は私のせいと言えば良い。責めるべきところならいくらでもあるでしょう? いくらだって何だって言える……!」
「私を見てよ! スズカにみすみす怪我をさせて、それでこの二週間私がしたことは何!? どれもスズカのためじゃない! 全部全部私のためのこと! 私が傷付かないための、私を守ることしかしていなかった! あの子を傷つけた私が、全責任を負うべき私が、保身に走って!」
「いっちょまえに悲劇のヒロインを気取って! 何が痩せたよ! 何が眠れないよ! だから何よ! 誰よりも辛かったのはスズカで! 誰よりも痛かったのはスズカじゃない! 私じゃない! なのに、なのになのになのに! それでスズカを放って自分のために走り回っている私が、責められる謂れが無いなんて!」
「私には解っていたの! あのまま走ればスズカに何か良くないことが起こるって! それでも止めなかった! スズカの優しさに甘えて、スズカのためと言い訳をして、それによって起こる責任から逃げたんだ! いくらでもやりようはあった! 何度も何度も何度もスズカを縛り付けておいて、それなのに、突然にあの子の意思を尊重すると綺麗な言葉で誤魔化した!」
「やめてよシンボリルドルフ! あなたは良いじゃない! あなたが何を言っても私が消えることはないの! 私をあなたが責めても、それで傷付くウマ娘はいないのよ! 好きなように言えば良い! スズカに寄りかかる身分の癖に、そのスズカを傷付けた私を! あなたには責める権利がある!」
「ウマ娘が第一なんでしょう! だったら怒ればいい! 何をされても甘んじて受け入れるわ! 誰も彼も私は悪くないだの気にしちゃいけないだのふざけたことを! 私に責任が無いはずがない! 私はあの子のトレーナーで、全て解っていて、それで見逃した……だから……こんな……こんなのおかしいのよ……」
「私の役目はあくまで時間を稼ぐことだからね。言いたいことがあれば言うと良い。私に対してでも、そうでなくても。あえて何か言わせてもらうなら……哀毀骨立は人として当然だ。それはあなたの権利だと思うよ。切歯扼腕もさ」
ヒステリックに叫び出した私に、まだシンボリルドルフは何も言わない。咳き込んで、テーブルに項垂れる。
「ねえシンボリルドルフ……スズカの友達も、理事長も、誰も何も言わなかったわ……どうして? スズカがああなってしまったのに、どうして誰も何も言ってこないの……すべての元凶は私なのに……」
「人の気持ちは難しいものだよ、エルナト・トレーナー。それぞれに考えがある。勝手に憶測しても、代弁してもいけない」
「仇には怒るじゃない、不幸があれば悲しむじゃない……なのに私だけなんで許されているの……? おかしいとは思わないの……?」
私が何を言おうと、シンボリルドルフはただ無言で聞いているだけだった。入り口にはいつの間にか、扉を塞ぐようにナリタブライアンがもたれ掛かっている。本当に何がしたいの、みんな。私を拘束して向こうからは何も言わないのは何故?
そのまま、私は何も言われないまま時間だけが過ぎた。そして、突然にシンボリルドルフが立ち上がり、私の湯飲みを取り上げた。
「……そろそろかな。じゃあ悪いけどトレーナー。もう一度目隠しとヘッドフォンを着けてもらっても良いかな。もう騒いだりしないだろうし、猿轡はいらないだろう?」
「……今度はどこに連れていかれるの?」
「すまないが説明する気は無いし、時間も無い。抵抗するならブライアンが力技で着けさせるが」
「……おい、聞いていないぞ」
「言っていないからね」
謎のやり取りが交わされている。でも、流石に逆らうことはできないし、意味も無い。言われた通り目隠しを着け、ヘッドフォンに手を掛けた私の横で、シンボリルドルフは閉じ切っていた窓を開いた。冷たい秋風と同時に、喧騒が舞い込んでくる。トラブルで免除された、ファン感謝祭が行われていた。
『あっ、あっ……あ! ゴール、今ゴールしましたっ……! ええと……六番さん? 四番さんの方が先だったかしら……ううん、あ、四番さん? 四番さんらしいです。秋の感謝祭、サイレンススズカ杯の一着は四番、ファイネストデイさん。おめでとうございます。え? 何か一言……? ええと……心臓に悪いので、できればもう少し早くスパートをかけてくれるとドキドキしなくて済みます……あっ、こういうのじゃなくて? ごめんなさい、え?』
「……スズカ?」
「こらこら。良いから耳を塞いでくれ」
直後に無理矢理ヘッドフォンを着けられてしまったが、最後に聞こえてきたマイク越しの声は確かに、今も病室にいるはずのスズカのものだった。
────
次に連れてこられたのは、どこか少し肌寒い場所だった。目隠し越しに光くらいは解る。真っ暗だ。明かりはほとんど無い。でも、座らされた椅子はかなり上等で柔らかい。まるで映画館みたいな、そんな感覚がある。
運び方もかなり丁寧で、たぶんブルボンではなかったんだろう。他の誰かだ。ということは、何人ものウマ娘がこの件に関わっていることになる。まあ、シンボリルドルフが手伝っている時点でどんなウマ娘が出てきてもおかしくはないけど、ここまで大掛かりにして、でも私に何も言わず。水面下で何かをする理由が解らない。
それに、さっき聞こえてきた言葉は何。スズカの声だと気が付いて内容がいまいち入ってこなかったけど、でも、レースの実況……のようなことをしていた気がする。スズカが? そんなわけないと思うんだけど。
「あっ」
「こんにちは、スズカさんのトレーナーさん」
「スペシャルウィーク? 私を呼んだのはあなた?」
「いいえ。スズカさんです」
「スズカが……?」
「少し経ったら迎えに来ますから」
ヘッドフォンと目隠しが外される。暗闇だ。ずっと目を閉じていたからか、何も見えない。目が慣れない。少しずつ、ほんの少しずつ、闇目が利いていくより前に、ぱっと目の前でライトがついた。ここは、どこかの、ホール?
「す……ぁ……」
その光景に、目を奪われた。
『……はぁっ』
息を吐き出す音がした。ステージ上に、スズカがいる。スポットライトに照らされて、広いステージの真ん中に一人だけが座っている。高めの細い椅子に、お行儀よく座って、マイクを持っていた。
勝負服と同じ、白と緑のスレンダーライン。髪に飾った銀色のティアラ。綺麗に結ばれた栗毛が、いつもより輝いて見えた。
『星の海が、広がる空』
『静寂だけが満ちていった』
音楽は静かに、小さく。掠れそうなスズカの声が、ホールに響く。
『優しい夢くれる光』
『安らぐ刻をくれた闇』
観客は私一人。観客席の真ん中に、私が一人。目を閉じて、呟くように。両手で握るマイクが、スズカの唇に近付いていくまで、鮮明に見えた。
『この世界は美しいの』
私はきっと、そう歌い上げて私に向いたスズカの微笑みを生涯忘れない。
『見て』
本当に綺麗で、儚い笑顔に、あの時も私は、
『良いんですか……? 本当に、私と走ってくれますか……?』
『ええ。あなたならきっと誰より速くなれる。自由にやりたいように走ってほしいの』
『……私、一人で走っていたいんです。でも、それじゃ勝てないって』
『ううん。あなたが譲ることはないわ。あなたが一番速いのだから、好きに走ればいい。それで勝てるように私がしてあげる。あなたがそんなことで悩まなくていいように、私が何とかするから』
『……私、負けず嫌いですよ。信じちゃいますよ。私が一番にゴールできるように、あなたが……』
『約束する。あなたの走りに惚れたわ。信じてくれていいから、あなたの走りたいように走って。私の前で、誰も追いつけないあなたを見せて』
『……はいっ』
私は、スズカを、
『ひとり見上げた夜空』
『ただ 静かな世界』
『縛るものなど何もない』
『心は自由だから』
聞き惚れ、動けない。着飾って歌うスズカから目が離せない。
『誰のためでもなくて自分のために』
『星に向かって歩いて行こう』
『そっと静かに そっと確かに』
『輝く Silent Star』
────
「……」
「……」
歌い終わったスズカと、聞き終わった私。音楽が止まると同時に、二人揃って抱え上げられ、トレーナー室に連れてこられていた。
ソファに座る私に寝転がって、スズカが頭を預けてくる。ひじ掛けにギプスの脚を置いて、ドレス姿のまま目を閉じている。
「サイレンススズカ杯って、何?」
「第一声がそれですか?」
私の手を引いて、勝手に首元に触れさせる。
「流石に一人のために機材とか、借りられなかったので。レースを開いて、ライブまでの時間をちょっとだけ使わせてもらったんです」
「レースを開いたの?」
「はい。URAも快く協力してくれました。凄いですよね。勝ったら今度の有馬記念で、投票名簿に名前を載せてもらえるらしいですよ。賞金は出ないですけど」
「……凄いわ」
こくん、とくん、と、飲み込む音や鼓動を感じる。少しいつもより速い。
「歌や、ドレスは?」
「ファルコン先輩がウマドルの曲を作ってもらっている方がいるんです。作詞も手伝ってもらいました。ドレスはキングさんのお母さんがデザイナーらしくて」
「……全部、スズカが?」
「そうですよ。何とかできました。たくさん手伝ってもらって、私は、歌っただけですけど」
仰向けのまま、すりすりと頭をすりつけてくるスズカ。
「……後」
「トレーナーさん」
遮られた。
「違いますよ」
「……ごめん」
ぱちりと目を開けて、じっと私を見るスズカ。優しく頬を撫でると、くすぐったそうに声を漏らした。
「ちゃんと見ててくれました?」
「……うん」
「どうやったらトレーナーさんが戻って来てくれるか、考えたんです」
「……うん」
「きっと話しても解らないだろうし、トレーナーさんは優しいから、たぶん優しく言われても嫌がると思って」
「……うん」
「もう、塗り潰すしかないかなって。どうでした? 忘れられそうですか?」
「……わかんない」
「トレーナーさんがこんなに私に良くしてくれるのは、私のことが大好きだからですよね? 私の走りが」
「……うん」
人間なら耳のあるあたりに手が上り、そのまま解かれた髪束を梳く。
「でも、私今、走れないので。だから、歌いました」
「……うん」
「惚れ直しました?」
「……うん。綺麗だったよスズカ」
良かったです、と、にへらと笑うスズカの頭を抱えて、ウマ耳に触れる。こくりと喉が鳴った。
「じゃあ、トレーナーさん。私のためでも良いです。トレーナーさん自身のためでも良いです。いつも通りでいてください。叱ってください。それから、いっぱい褒めてください」
「……叱ることなんかないわ」
「ありますよ。だって私、トレーナーさんの言うこと、聞きませんでした。速く走りたくて、走っちゃいました」
「スズカがそうしたかったなら……そうすれば良いのよ。自由に走らせるって、約束したんだから」
「それならもっと叱ってもらわなきゃいけませんね。トレーナーさんを信じるって、私、言いましたから」
スズカが手を伸ばす。きゅっと首を抱えられ、ぐっとスズカに近付く。
「叱れないよ」
「私がそうしてほしいのにですか? トレーナーさんの大好きなサイレンススズカですよ? ほらほら」
「うん」
「……私は私のために走っただけです。トレーナーさんがちゃんと止めても走ってました。勝手に背負わないでほしいです。私が挑戦して、私が失敗したんです。だからトレーナーさんは、勝手なことをするなと、いつもみたいに怒ってください」
「私は、スズカのトレーナーだから、私が止めないと」
また手を奪われ、甲でぺちん、ぺちん、とスズカの頬を叩く。
「……怒っても叩いたことは無いわよ、スズカ」
「でしたね。でも、普通のトレーナーさんはこんなこともしないんですよ」
スズカが私の頬を抓った。鼻を押し、唇をなぞる。
「今更じゃないですか。それとも、トレーナーさんが普通の人だったら、私が普通のウマ娘だったら、こうして一緒に居られましたか?」
「……ううん」
「じゃあ良いじゃないですか。普通じゃないんですよ。勝手に走る私と、止めるトレーナーさん。トレーナーさんが縛ったって私は走りますからね」
「……誇って言うことか」
私も、スズカの額を指で弾いた。
「それに、私がこれくらいで済んだのはトレーナーさんのおかげです」
「私は何も……」
「あの時、はっきり見えたんです。スピードの向こう側が。さらに上への光が見えたんですよ」
「……そう」
「でも、トレーナーさん、言いましたよね。私がどうにかなってしまうって。だから、やめました。行っちゃいけないんだなって。だからたぶん、これくらいで助かったんです。私は確かに速く走りたいですけど、死にたいわけじゃないですよ」
「スズカ……」
だから、とスズカは両手で私の頬を挟み、耳を撫でた。
「トレーナーさんのおかげで助かりました。でも、トレーナーさんのせいで、スピードの向こう側にはもう行けないんだと思います」
「……うん」
「ありがとうございます。私は怒ってます。おこです。おこー」
「……おこー」
私も、スズカの頬に触れた。スズカの頬に、雫が落ちた。スズカの頬が、にこりと歪んだ。
「だから、私から離れちゃダメです。責任を取ってもらわないと困ります。これからも私が走れるように、これからも一緒に、居てくれないと困ります」
「……言われなくても、一緒にいるよ」
「今のトレーナーさんは居ないですよね。解ってて言ってますか?」
「……うん。解ってる」
潤んだ視界を袖で拭う。スズカがいつもの微笑みのまま、私を見ていた。
「ちゃんと、スズカと一緒にいるよ」
「本当ですか?」
「本当」
「本当に本当ですか?」
「本当に本当」
「絶対ですよ」
「絶対」
くるりとスズカが寝返って、俯せになって擦りついてくる。いつぶりか、スズカの頭を撫でた。気持ちは固まった。もう逃げられない。私はずっと、走るスズカを見ていることになる。常に走り続けるスズカの姿を。
つまり、今までと変わらない。
「なら、良いです」
「……うん。そうね。ごめんスズカ」
「……話、聞いてましたか? 謝らなくても良いってことですよ?」
「それじゃないわ。スズカの話はよーく解ったから。もう大丈夫。私は、もう大丈夫だから」
スズカの顔を見ないように、脚に負担を掛けないように、そのまま抱き起こす。胸に抱いて、しっかりとスズカを抱えた。くっつくとさらに、早鐘みたいにスズカが脈打っていた。
「無理させてごめんね、スズカ。私のせいで、変に頑張らせちゃったね」
「……トレーナーさん」
「本当は、最初にこうしなきゃいけなかったね。もう私は大丈夫だから、スズカも、大丈夫よ」
「…………トレーナーさん」
「ありがとうね、スズカ」
ぐっとスズカの体が縮まった。その分抱きしめやすくなる。可愛いねえスズカは。でも完璧じゃないんだよね。できることとできないことがある。できることは走ること、できないことはそれ以外。走ることで全てをねじ伏せて解決してきた子はやっぱりレベルが違う。そんな子に色々やらせちゃったし、その分ちゃんと甘やかしてあげないといけないわね。
「……痛かったです」
「痛かったね」
「怖かったです……!」
「怖かったね」
「私……っ、も……走れないんじゃないかって……! 二度と走れなかったら……どうしようって……」
「頑張ったね、スズカ」
「っ……! も……トレーナーさんに……嫌われちゃうって……走れなくなったら、私……ただのワガママで……!」
「うん」
「もうダメですよ……! 私から離れちゃダメですから……! 本当に、不安で……ずっと、怖くて……!」
「ありがとうね」
「っ……」
大きくスズカが息を吸った。ぺたん、とウマ耳を両腕で抱える。少しくらいこれでも音を遮断できるだろうか。無理か。ウマ娘って耳が良いもんね。
そして、スズカはそれからしばらく泣いていた。泣き止むまでこうしていようと、私はただスズカの背中を撫でていた。
────
「菊花賞、惜しかったわね」
「はい……スカイさんにしてやられちゃいました……あそこまでやられると悔しいけど悔いも無いです!」
ある日。私がスズカの病室に帰ると、スペシャルウィークがいた。そういえば、拉致の日に声を掛けられてから会ってなかったっけ。色んな人へのお礼回りはスズカが松葉杖でも一人で動けるようになったらって話にしたし、彼女の場合は菊花賞もあったから。
……まあ、あの日あんなに動き回っておいて何言ってるんだって感じだけど。なんだかんだ泣き疲れて寝落ちして病室に帰れなかったこと、死ぬほど怒られたし。
「あらスペシャルウィーク。こんにちは」
「あっ……こ、こんにちは!」
緊張してるなあ。まあ、私が悪いんだけど。
「菊花賞の話?」
「はい。スカイさんの逃げが凄かったって話です!」
「確かに凄かったねえ」
スズカと同じことを、スズカほどの身体能力無しで再現したのは恐れ入った。最初に飛ばして、最後にもう一度伸びる。それに加えて中盤で大きく減速することでスタミナ切れを匂わせ、一人だけスパートを早めることで逃げ切る。素晴らしい作戦勝ちだった。ステータス的に、どう考えてもスペシャルウィークが勝つと思っていたんだけど。
「でも、いつかは勝ちますから。ずっと頑張れば、いつか必ず勝てます。スズカさんにも!」
「私には勝てないと思うけど……」
「私だって速くなったんですよ!」
「……あんまり言われると走りたくなっちゃって困っちゃうわ。ちょっと……うん、走らないので一回外行って良いですか?」
「ダメ。絶対動くでしょ。安静って言ってるのよ」
「ぁぅぁぅ」
また変なことを言い出したスズカの唇を摘まんだり放したり。この前外に出て、走りたいあまり身体が前に出て車椅子倒したの忘れてないからね。私が支えなかったら大惨事だったのよあれ。
「ちょっとだけ……」
「ちょっとでもダメ。入院期間が延びるわよ」
「退院しても走らせてくれないじゃないですか!」
「当たり前でしょーっ」
「ふゃぅふゃぅ」
頬をすり潰す。ダイエット成功の私と違ってスズカはこういうところは健康的だ。柔らかくてムカつく。なんだこの子は。
「あ……あははっ」
そんな私達を見て、スペシャルウィークが突然に泣き始めた。
「スズカさん……良かった……わた、私……」
「あっごめんスペシャルウィーク! 私のせいだね! 泣かないで! 心配かけたね!」
「す、スぺちゃんには成功したって連絡入れたでしょ? 泣かないで、ああっ、あぅ……」
「遅くなりました。おつかいミッションを達成……何をしているのですか?」
「あっブルボン! 早くドア閉めて! 勘違いされる!」
「スぺちゃん落ち着いて、ほ、ほら、買って来たお菓子食べて良いから……」
二人でスペシャルウィークを宥める横で、我関せずと定位置に座るブルボン。扉、閉めてないねえ! これは誤解されるねえ!
「おい、何故スズカの病室から泣き声が……何をしている」
「エアグルーヴ……! 助けて! スペシャルウィークが泣き止まないの!」
「……意味が解らん」
頼みの綱のエアグルーヴが来た。すぐに帰った。何しに来たの、あの子はあの子で。
その日はスペシャルウィークを元気付けるのに一時間ほど費やし、帰るタイミングを失った私は病院に泊まった。コンビニのおにぎり、こんな美味しかったっけ?
以上天皇賞編でした。最後までお付き合いいただきありがとうございました。次回からは平常運転に戻ります。