駄目だ。
「フシュルゥゥ……」
来るな。
「ぁっ……ぁ……」
嗤うな。
「げ、ほっ……ミー、シア……逃げ、て……」
逃げて。
一歩、一歩と
レベル差のある恐怖が伸し掛かり、彼女の右手が小刻みに震える。
「は、っ……はぁっ……はっ……」
動けない。
死ぬ。
「―――ッ、うぁぁぁぁぁあああああっっ!!」
刹那、振り絞った叫びと共にミノタウロスの首元から血が吹き出る。
彼女に意識が向ききっていたせいで、ミノタウロスは彼――支給品のナイフを突き立てるベルが分からなかったようだ。
「やっ――ゔぁっ!」
ようやく一撃――と思ったが、その口元もすぐに苦悶が滲む。
勢い余ったベルがそのまま服を掴まれ、私の後ろに投げられた。
「っ、ベルさんっ!!」
「っぐ、くそぉっ……」
頭から投げられた様で、起き上がったベルの頭には血が流れていた。
「こ、の…………」
そうして、刃の折れたナイフを持って相対したベルはようやく戦慄する。
「あっ……あぁ…………」
中腰の姿勢のまま、膝がガクガクと震える。
ここで膝立ちになるのは許されない。
本能で「膝をついてはいけない」と解っているのかどうなのかはベルにしか分からないが、どちらにせよ動けない二人はほぼ詰みだ。
ミノタウロスが再度腕を上げる。
その顔は嗤っていた。
ひゅっ、とミーシアの呼吸が止まる。
目も閉じれない。
駄目だ。
―――そして、ミノタウロスの身体がミーシアの身体を磨り潰す直前。
迷宮にはそぐわないような風が吹き、目の前の敵の動きが止まる。
いつまで経ってもやって来ない死に固まる二人。
そして、ミノタウロスに幾重もの亀裂が。
「あ」
そう零したのは、ミーシアかベルか。
細切れになったミノタウロスから、大量の血が吹き出る。
恐怖で膝が笑い伏していたミーシアは当然のこと、その近くに居たベルにまで血のシャワーを被ってしまうことになった。
「…………あ、の」
「……えっ」
その
【ロキ・ファミリア】の《剣姫》アイズ・ヴァレンシュタイン。
このオラリオで数少ない女性冒険者のなんと
颯爽と現れた割にはその顔は少し申し訳無さそうだが、何故ここに?
「……大丈夫ですか?」
人形みたいに首をコテンと傾げたアイズは、表情を全く変えずにそう言った。
突然の出来事に硬直する二人。
問い掛けても反応がないのを不審に思ったのか、アイズはもう一度。
「あの……大丈夫、ですか?」
その言葉にベルがようやく再起動する。
美しさと強さ、そのどちらもを兼ねたアイズにベルは一目惚れと憧れを抱いたようだ。
"ダンジョンに出会いを"。
ベルの夢がここで一個叶ったというのは僥倖ではあるが、その肝心のベルからの反応がない。
「あっ、そのっ―――あ」
そうして、一拍遅れて再起動したミーシアがちらりと後ろを向く。
そこには、ルベライトの瞳と遜色ないくらいに顔を紅くしたベルがいて。
「だ」
「だ?」
「だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああ!!!!!!?」
助けてもらってしまった不甲斐なさとアイズの容姿への恥ずかしさが混ざりに混ざって、ついには奇声を上げて走り去ってしまった。
「ええええええええええええ!?」
「あっ……」
腰の力が入るようになったミーシアは置いていかれて叫び、アイズは未だ表情を変えずに彼が走り去っていった方向を見る。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
沈黙。
いっその事誰か来てくれ、と願うがそれは叶わず、これ以上長引かせられないと思ったミーシアはアイズに向き直って頭を下げる。
「……えっ、と……その……助けてくださってっ、ありがとうございました!」
「う、うん……」
「あのっ、その……ベルさんを追うので、失礼しますっ!!」
「あっ……髪……」
もう一度深くお辞儀をしたミーシアは、その勢いで地面に落ちた髪飾りに意識を向ける事無く走り去ってしまう。
「行っ……ちゃっ、た」
サラサラと灰になるミノタウロスを横目に、アイズはその髪飾りを拾う。
彼女が持っていたものだろうが、その造りは繊細そのもの。
白の胡蝶蘭をベースとしてアクセントとして青いデルフィニウムをあしらった小さなそれは、ミノタウロスの返り血で所々汚れてしまっていた。
きゅ、と彼女はそれを握る。
「……綺麗に、しなきゃ」
二人に逃げられてしょぼん、としていたアイズの雰囲気が、少し戻った気がした。
「……………………でも、逃げられちゃった……」
訂正。
めちゃくちゃ凹んでいた(主にベルに)。
胡蝶蘭「純粋な愛」「純潔」
デルフィニウム「清明」