薄暗い空。凍てつく夜で冷え切った冷たい風が、ボクの身体にぶつかり後ろに流れていく。
グリップを握る手が暖を求めて悲鳴をあげる。
風こそ手袋で遮断されているが、その手袋が冷え切っているのであまり意味がない。
人気のない早朝の街。ボクのビーちゃんがトコトコと音を立て走っていく。
時折後ろに積んだ荷物に意識をやりながら橋を渡り山道に入る。
朝露に濡れた山道を登っていくと、道の先にぽつんと一軒家が見えた。
灯りはついているけど軒先には誰の姿も見えない。まだ家の中にいるのかな。
ウィンカーを出してバイクを家の前で停める。
エンジンを止めバイクを降りる。あたりが急に静まり返った。
「うぅ、さむさむ」
かじかんだ両手を開いたり閉じたりして神経をつなげていく。
ガチャリ。そんな音がして振り向く。玄関のドアが開き中から見覚えのある女の人が出てきた。
「外でバイクの音がしたからもしかしてと思ったけど、やっぱり双葉ちゃんだったのね」
おはよう、そう言って女の人は微笑んだ。その顔はボクの友達にそっくりだった。
「あ! おはようございます。咲さん」
ヘルメットを脱いで挨拶。
志摩咲さん。リンのお母さんだ。前にリンの家にお邪魔したときに知り合った。
会うのはこれで二回目になる。相変わらずすごい美人だ。たぶん、大学生くらいと言われても信じてしまうだろう。
「ずっと走ってきて寒かったでしょ。冷えるといけないから入って入って」
「え、あ、ちょ」
背中に回り込まれて強引に家の中に押し込まれる。咲さんは会った時からずっとこんなかんじだ。
初めはボクが小さいから子供扱いしてるのかと思ったけど、ボクのお母さんも似たような感じだから、母という人種はみんな似たようなものなのだろうと思うことにした。
今ごろお母さんどうしてるのかな。
「ごめんなさい、リンまだ起きたばっかりなのよ。悪いんだけどもう少し待っててもらってもいいかしら。リンー、双葉ちゃん来たわよー」
「へぇ、もうひたのぉ?」
廊下の向こうの洗面所から眠そうな目のリンが頭だけ出してボクたちを見てきた。
「ふたば、おひゃよー」
歯磨きの最中なのだろうか、口がもぞもぞ動いている。
「こら、歯磨きしながら喋らないの! ほらパパッと準備なさい」
「ふぁーい」
ふにゃっとしたこの感じ、志摩リンというよりも、しまりんのほうがしっくりくる。
ちょっと可愛い。本人に言ったら怒るだろうから内緒だけど。
「もう、ほんとにわかってんだか。ごめんなさいね双葉ちゃん、せっかく早起きして来てもらったのに」
「あ、いえ、ボクも早く来すぎちゃったんでリンさんはなにも悪くないですよ」
元ボッチゆえの心配性がわざわいして、予定よりも30分も早く来てしまった。
遅れるのは論外だが早すぎるのもそれはそれで問題だ。次からはもう少し遅くでよう。
「ふふ、双葉ちゃんは本当にいい子ね、感心しちゃうわ。そうだ、ずっと立ったままもなんだし、リビングでお茶でも飲みましょっか?」
「あ、いえ、そんな悪──」
「ささ、早く上がりましょ。ココアでいいわよね?」
背中を押され、リビングに連行されるボク。本当に優しくていい人だ。
こんな人だからこそ、リンもあんな優しい性格に育ったのだろう。
それがちょっとだけうらやましかった。
「二人とも、忘れ物とかはない?」
荷物を積んだ二台のヤマハを眺めながら、咲さんが心配そうに言った。
外はまだ暗く、突き刺すような空気が肌をなぞる。夜が明けるにはもう少し時間がかかりそうだ。
「わたしは大丈夫。双葉は?」
ヘルメットとダウンジャケットとマフラーで完全武装したリン。準備は万端みたいだ。
「ボクも平気。一応ダブルチェックしておく?」
「なにそれ」
リンが知らなくても無理はない。まだ学生のボクたちには馴染みの薄い言葉だからだ。
「自分のバイクを点検してからバイクを交換してもう一回点検しよってこと、とくにリンは初めてだし念には念をね」
ちなみにネットで聞きかじった知識なのは内緒だ。
「どうしたの? 急に早口になったけど」
「なに? なんのことかな? わからないなあ」
べつに、一回友達とやってみたかったなんて、これっぽっちも思ってなんかない。
「……やりたかったんだな」
「はい……」
「ふふ」
ごめんなさい嘘です。めっちゃ憧れてました。
だから二人ともそんな微笑ましいものを見るように目で見ないでください。
「……わかった。やろっか」
リンの返事にボクもうなずきビーちゃんの点検を始める。
ブレーキ、クラッチレバーの緩み、ランプ類、タイヤ、荷物の結索。ざっと点検し異常がないことを確認する。
「ヤマハの2スト……悪くないわね」
「咲さん、何か言いました?」
後ろで眺めていた咲さんが、何か言ったような気がするが、点検に夢中になっていたせいで聞き取れなかった。
「ひゃっ!? な、なにも言ってないわよ! き、気のせいじゃないかしら?」
どこか慌てたように取りつくろう咲さん。やっぱり変だ。眠いのかな? まあいいか。
「双葉、そっちは終わった?」
点検が終わったらしいリンがやってくる。
「うん、ボクも終わった。じゃそっちのビーノ見るね」
お互いの位置を交換し同じように点検する。
スクーターは乗ったことがないけど、見なきゃいけないところに違いはない。うん、とくに異常はないみたい。
それにしても、このちっこい初心者マークかわいいな。どこで買ったんだろう。
「こっちは大丈夫だったよ。リン、そっちはどう?」
「荷物まとめるネットがちょっと緩かったからきつくしといた。それ以外はとくになにも」
「え、ほんと? ありがとう」
ダブルチェックしておいて正解だった。ビーちゃんは荷物が積みにくいからなあ。荷台をつければ解決するけど古すぎて売ってないっていうね。
「じゃ、行こっか」
「あ、ちょっと待って。はいこれ」
バイクに跨ろうとすると、リンがボクを呼び止め何かを差し出してきた。
「なにこれ、ヘッドセット?」
受け取ったものを眺める。片耳用の小型ヘッドセットだ。こんなもの渡してどうするつもりなんだろう。
「この前ツーリングしたとき声が全然聞こえなかったでしょ? そのことお父さんに相談したらインカムを使えばいいんじゃないかって言われて、使ってないやつ借りてきた」
インカム、たしかヘルメットにつけて会話できるようにする機器だ。ボッチには無用の長物だったから全然知らなかった。
「ほら、それスマホに繋いでラインすれば同じことできんじゃないかなって」
リンの言葉に、脳裏に渦巻いていた疑問の線が繋がった。
「あぁ、なるほど! よく思いついたね」
たしかに、ラインなら通話料もかからないし通信距離も気にしなくていい。
通信データを消費してしまうが動画を見るのに比べれば微々たるものだ。
悪くない。目から鱗だ。
「いや、ネットに書いてあったのパクってきただけ。それよりも早く試してみなよ」
暗くて気がつかなかったけど、よく見るとリンの口元にはマイクのようなものが伸びていた。もう装着済みというわけか。
よし、ボクもやってみよう。ヘッドセットを耳にはめ、その上からヘルメットを被る。ヘッドセットが薄いおかげで難なく被ることができた。
ケーブルをスマホにさす。すかさずラインでリンに電話する。
「お、きた。もしもし?」
ヘッドセットからリンの声が聞こえる。とりあえず成功のようだ。
「うん、聞こえる聞こえる」
今のところやり取りは問題ない。あとは走ってどう聞こえるかかな。まあそれは走り出さないとわからない。
さて、いい加減出発するとしますか。
ビーちゃんに跨る。ボクに続いてリンもビーノに跨った。
「じゃあお母さん、行ってくるね」
「二人とも車に気をつけるのよ。はしゃいで変な道とか走っちゃだめだからね」
「わかってるって。着いたら写真送るね」
「楽しみに待ってるわ。双葉ちゃん、リンのことおねがいね」
「はい、わかりました。じゃあ行ってきます」
キックペダルを蹴飛ばす。ブルンと古いヤマハが唸る。
セルスイッチを押す。キュルキュルと新しいヤマハが目を覚ます。
立ち込める白煙。ゴーグルを目にかけネックウォーマーを鼻まで押し上げる。
「ついていくから前お願い」
リンに先導をお願いする。今日の主役はあくまでリン。ボクはついていくだけだ。
もちろん何かあったら手助けするけどね。
「うん、わかった。お母さん、行ってくる」
ウィンカーがカチカチと点滅し、ビーノがゆっくりと進み出す。
左右確認、視界良好、進路良好、出発進行。
「気をつけるのよー」
走りだすビーノ、咲さんに会釈して赤く光るテールランプを追いかけてアクセルを吹かす。
薄闇のアスファルト。二つの赤い光が尾を引いて駆け抜けていく。
空の端が赤く染まっている。日の出はすぐそこまで近づいていた。
「しまりんしまりんディスイズ双葉、レディオチェックオーバー」
『なにそれ』
流れていく景色の中、耳にはめたヘッドセットからリンの声が聞こえてくる。
「マイクテストだよ。どう? 聞こえる?」
『ちょっと風切り音入ってるけど普通に聞こえる』
「りょーかーい」
ヘルメットにシールドをつけているリンの声には風切り音は聞こえないけど、ゴーグルだけのボクの声には風切り音が混じってしまっているようだ。
でも、この分なら問題なさそうだ。走りながら喋れるのがこんなに便利だなんて思わなかった。
木々に囲まれた県道9号をゆっくりと流し、国道52号に向かう。
トラックが一台、ボクたちを追い抜いていった。
リンもこの一週間で慣らしたのだろう、スムーズに避けていた。
「道わかんなくなったらボクに言ってね。ナビ使うから」
『大丈夫、わたしも双葉と同じアプリ契約したから。これめっちゃ使いやすいね』
あ、契約したんだ。やっぱりあれ便利だよね。有料なだけあって作り込みが違う。
「これからどうする? ちょくで高ボッチ行く? それともどっか寄ってく?」
『甲府抜けて霧ヶ峰行こうって思ってる。山登るけどいいよね?』
「全然、むしろ大歓迎」
峠道はボクの大好物。ヘヤピンにS字、どれもわくわくするものばかりだ。
『あんま無茶すんなよー』
「へいきへいきー コーナーを二個も抜ければサイドミラーから消し去るから」
ちょっとだけネタを振ってみる。かなり有名だけどいけるかな?
『自信満々に抜かされた奴のセリフ言っても説得力ないからな』
あ、通じた。意外だ。アニメとかあまり見そうにないのに。
アニメ見放題のチャンネル契約してるしキャンプ場ついたら一緒に見よっかな。
『そういえば双葉服変わった? いつもと全然違うけど』
一瞬だけ視線を胴体に持っていく。新調したばかりのパステルブルーのジャケットが目に入る。
「うん、この前ワークマンで買ってきたんだ。これすごいよ。水も風も全く通さないしめちゃくちゃあったかい」
今までPコートを着ていたのが馬鹿みたいに思えるほど暖かい。もっと早く買っておけばよかった。
『ワークマンって作業服の? へぇ、そんなの売ってるんだ。てっきりモンベルとかそっち系だと思ってた』
「店入るのすごく大変だったよ。おじさんしかいないし」
『だろうね』
それはどういう意味のだろうね、なんだろうか。聞いてみたい。いや、やっぱやめとこ怖いし。
そんなくだらないやりとりをしていると、大きな橋にさしかかった。
身延町と三郷町の間に流れる富士川を渡る大橋。峡南橋だ。
交差点を左折し、鉄骨のトラスによって補強された橋を渡る。
不意に朝日がさしこむ。その瞬間、視界に映る全てがオレンジ色に染め上げられた。
広大な富士川。家も山も川も、目に映る全てがオレンジに染まっていた。
何本もの鉄骨が何本もの影を作る。その中をボクたちが駆け抜けていく。
『めっちゃ綺麗……でもさみぃー』
声が震えている。まだ朝だししょうがない。日が出てくれば少しは暖かくなるんだけどなあ。
「ダウンジャケットだけじゃちょっときついかもね。上からレインコートとか着れば少しは暖かくなると思うよ」
『マジか、天気予報晴れだったから持ってきてないわ』
ありがちなミスだ。ボクもそれでよくやらかした。いらないと思って置いていったときにかぎって必要になる。
天気予報では晴れなのに、バケツひっくり返したみたいに雨降らせるのはなんの嫌がらせなんだろうか。ほんとやめてほしい。
「じゃあボクの貸すよ。橋渡ったら渡すね」
『ごめん、ありがと。マジで助かる』
橋を渡り対岸に到着。右折して国道52号に入る。
旅はまだまだ始まったばかりだ。
それからボクたちは、南アルプスを通過。韮沢、北杜を通り抜け、県道17号線をひたすら北上、長野に突入した。
気がつけば、かろうじて田舎街と言えた景色は見渡す限りの山と田園に変わり、刈り取られてすっかり茶色くなった稲が絨毯のように敷き詰められていた。
『マジで田んぼしかねぇー』
「なんかご飯食べたくなってくるね」
そうだ、秘密兵器もあるしコンビニかスーパーで材料買ってカレーでも作ってみよう。楽しみが一つ増えた。
『今日は無理かな。パスタだし』
「パスタ? あ、なんかきた」
視界の端に映るミラーに黒い影がチラついた。水色のSUVだ。けっこう早いな、70は出してる。
「後ろから車来てる」
『うぃー』
速度はそのままで、ウィンカーを焚いて車体を路肩に寄せる。
すかさずSUVがサンキューハザードを焚きながらボクたちの横を通り抜けていった。
あれ? あの車どこかで見覚えが……
「リン、さっきの車もしかして」
『うん、たぶんなでしこのお姉さんだと思う』
やっぱりそうだ。あれは桜さんの車だ。ドライブかな、どこに行くんだろう。あとでなでしこに聞いてみるか。
「けっこう早いね」
『だね』
今通り抜けたばかりなのに、もう豆粒みたいになっている。まあ、こんな長い道だしスピード出したくなる気持ちもよくわかる。
たんにボクたちが遅いってだけかもしれないけど。
『あいつら今ごろ電車かな』
「12時くらいに集合って言ってたからまだ寝てるんじゃない?」
6時に出発してまだ2時間くらいしかたっていない。
目当てのキャンプ場は山梨市駅の最寄りにあるって言っていたから、野クルのメンツなら寝ていても不思議じゃない。
とくに大食いのピンクは要注意だ。
『なでしこのやつ興奮して寝不足だったりして』
「なんかありそう。遅刻とかしないといいけど」
そんな会話をしながらバイクを走らせ続ける。
日はすっかり上り、雲一つない空は青く澄み渡っていて、太陽で暖められた風が全身を包み込む。
寒さの中にあるわずかな温もり。
田舎の風、旅の風。
前を走るビーノの排気音。
なんかいいなあ、こういうの。
「リン、楽しいね」
気がつけばそんなことを口にしていた。
寒かったら寒いと言えて、楽しかったら楽しかったと言える。
同じ景色を見て、同じ寒さを感じて、同じ空気を吸う。
ひとり旅も悪くないけど、こういうのも悪くない。
リンも楽しんでくれているのかな。
『……そうだね』
スピーカー越しのリンの声は相変わらずぶっきらぼうだったけど、少しだけうわずっていた。
それが答えだった。
『そういえば、あいつらに長野行くって言ったの?』
ぎくり。なぜこのタイミングでその話を持ち出してしまったのか。
どうしよう。そうだ、ここは三十六計逃げるにしかず!
「えっ、なんて!? ごめん、電波悪く──」
『言ってないんだな』
「はい」
スピーカーごしに深いため息が聞こえた。
そう、ボクはこの後に及んでまだ三人に連絡をしていなかったのだ。
理由? そんなの簡単だ。
「リン、だってボクだよ?」
『あ、うん、もういいわ』
ボクだよってだけで説明になってしまう自分が悲しくて悲しくてしかたがない。
そしてそれで納得されてしまうことがもっと悲しい。
くそう、いつかカッコいい大人になってやるからなー!
『はぁ……あとでちゃんと自分で言えよ』
「……うん、頑張ってみる」
あぁ、どうやって言おう。気が重いなあ。あおい怖いだろうなあ。
『でないとわたしがばらす』
やめて! お願いだからそれだけはやめて!
長野県、県道17号線、八ヶ岳エコーライン。寒空の下、一匹のクソザコの悲鳴が響き渡った。
用語解説
コーナーを二個も〜〜
なにっ...慣性ドリフト...! ゴ ァ ァ ァ(効果音)
ワークマン
この世の全てのおっさんの味方。バイク用品ヘルメット以外全部ワークマンで揃う説