レジ袋を片手にコンビニを後にする。自動ドアを出ると、肌にまとわりつくような寒さが全身を包んだ。
「さむ〜」
「さむさむ」
綾乃と二人で身震いする。
空はオレンジジャムの上にコーヒーゼリーを乗せたような色になっていて、空の向こうで飛行機が赤と緑のランプをチカチカと点滅させながら飛んでいた。
あの飛行機に乗っている人たちも家に帰るのだろうか。ふとそんなことを考えた。
「あち、あちち」
ビーちゃんのシートに腰掛けて熱々のお茶をすする。冷え切った喉を熱いお茶が通っていくのがよくわかる。
「ふへぇ、あったまりますな〜」
「だよね〜」
とろけた顔でお茶をすする綾乃に心の底から同意する。
けど、よく考えてみたら、わざわざ自分から寒い思いをして温かい飲み物をありがたがってるわけで、そう思うと人間とはなんて罪深い生き物なのだろうと思った。
「そうだ、冷めないうちに食べないと」
レジ袋からあんまんを出す。紙袋に包まれたあんまんはまだまだ熱々だった。
「あ、ずるー!」
「ふふふ、うらやましかろー はい」
あんまんを半分千切って綾乃に手渡す。熱々の黒い餡子が外の空気に当てられて真っ白な湯気を立てた。
「え、くれるの?」
「自分だけおいしいもの食べて友達がお茶だけって、普通にやじゃない?」
なんというかもうまく説明できないけど、もやもやするのだ。
ずっと一人が当たり前だったから、こういうのに憧れているっていうものあるんだろう。
「……そっか、ありがと」
二人であんまんにかじりつく。
外の寒さでいい感じの温かさになった甘ったるい餡子をほんのり甘いふわふわの皮が引きたてる。
「「おいひい〜」」
ありふれたコンビニの、ありふれたあんまん。だけど、今のボクたちにとっては何よりものごちそうに見えた。
あんまんをかじりながらスマホを見る。メッセージが何件か入っている。リンとなでしこからだ。
なでしこは千明にほうとうを作ってもらったらしい。写真に映ってるほうとうはすごくおいしそうだった。
リンはあれからいろいろ巡ってるみたいだ。神社や犬のおみくじ、峠から見下ろした街。お昼ご飯。
どれも楽しそうだ。
「なに見てんのー」
「リンが送ってきた写真。今長野の南のほう行ってるんだって」
「へぇ、また長野行ってるんだ。やるじゃん」
「ハマったんじゃない? 高ボッチ行く時に峠走った時もけっこうノリノリで走ってたし」
「なにそれみたい」
あの時は途中からリーンインとかリーンアウトも使い始めて、キャンプしに行くのか峠を攻めに来たのかわからない感じだった。
そのうちハングオンとか使いだしてもボクは驚かない。
「ボクたちと違ってスクーターなのにすごいよね」
「なんか、ちょっと会ってみたくなったなあ」
「冬休みになったら連れてこようか? リンもツーリング嫌いじゃないみたいだし、きっと来てくれると思うよ」
静岡にもいいキャンプ場はたくさんある。海で釣れば意外とすんなり来てくれそうだ。
「その時は紹介よろしく〜」
「自己紹介くらい自分でやりなさい。このめんどくさがり魔神め」
「は〜い」
欠片だけになってすっかり冷え切ったあんまんを口の中に放り込みお茶で流し込む。
「あと何キロだっけ? もうけっこう走ったよね?」
「ちょっとまってねー」
ナビを開いて残りの距離を確認する。琵琶湖まで約50キロ。あと2時間弱といったところかな。
「このまま進めば50キロで琵琶湖だって」
「やったー! あとちょっとじゃん!」
「そーそーだからパパッと行っちゃお」
「だね、行こ行こー」
空のボトルと包み紙を片付けてバイクのエンジンに火を入れる。
すっかり暗くなった空の下、コンビニの灯がバイクを怪しく照らす。
「じゃ、行くよー」
「はいよー」
走り出す。テールランプが赤い尾となって夜に溶けていく。
琵琶湖は目と鼻の先だ。
「あれ……50キロがちょっと?」
ふふふ……
漆黒の暗闇の中をヘッドライトの光だけを頼りに進んでいく。
耳をすませば風の音に紛れて微かに波の音がするのがわかった。
この付近には川も海もない。あるのは湖だけ、とてつもなく大きな湖しかない。
滋賀県、琵琶湖。日本最大の淡水湖の一端にボクたちはついにたどり着いた。
『ふたば〜 まだ〜?』
後ろでエイプに乗る綾乃が疲れた声でたずねてくる。
100キロ200キロは楽勝なのに、最後の10キロがやけに遠く感じる。バイク乗りあるあるだ。
名古屋から5時間、浜松と合わせて計9時間シートに跨っている。ボクはともかく綾乃は限界が近いのだろう。
ちなみにボクは15時間になる。
「そろそろだよー あれだ」
左手のほうにライトに反射するPの看板が見えた。
琵琶湖、湖岸緑地。今日の宿だ。
対向車と後続車を確認してウィンカーを出し駐車場に乗り入れる。
ヘッドライトのハイビームで照らされた駐車場はもぬけのからで、車の一台も停まっていなかった。
夏に来た時は何台か停まっていたんだけど、今日は違うらしい。平日だからかな?
入り口の端の白線にビーちゃんを停め、少し遅れて綾乃がその横に付ける。
エンジンを切る。途端に辺りが暗闇に包まれ、痛いほどの静けさの中に岸に水が打ちつけられるチャプチャプという音だけ鼓膜で反響する。
「とーちゃーく、お疲れ綾乃」
ヘルメットを脱ぐ。夜の寒さが顔を包み込む。
「や、やっとついたぁ〜」
少しだけ効くようになってきた夜目がヘナヘナと膝からくずれる綾乃をとらえた。
「大丈夫?」
「う、うん、へいきへいき〜」
ボクが差し出した手を掴んで立ち上がり、ヘルメットを脱いで車止めに座り直す。だいぶお疲れのようだ。
「暗くて全然見えないけど、ここってもう琵琶湖なんだよね?」
「そうだよ。ほら」
スマホのナビを広域モードに切り替えて綾乃に差し出す。
「あ、ほんとだ。わたしたちほんとに琵琶湖いるんだ……」
疲れ切った綾乃の顔がだんだんと明るくなっていく。
「うはー浜松めっちゃ遠いじゃん。こんな遠くまで来ちゃったんだ……」
緩んでいく口元、弛んでいく眉毛。細まっていく目。
「ふ、ふふ、あは、あはは! ねえ、すっごくない? わたしたちこんな遠くまで来ちゃったんだね!」
目をパチクリとさせてナビの地図をいじくりまわす綾乃。指を動かすたびに綾乃の口から笑いがこぼれる。
「あはは、浜松遠っ!」
自分がこんな遠くまで来たことが信じられないのだろう。ボクも初めはそうだった。
自分のやったことが信じられない。だけど、れっきとして自分はそこにいる。
ナビを開いてズームアウトしても目に映る地形は見知らぬものばかり。
そしてしばらく地図をいじくって、ようやく現実を受け入れる。
自分は遠くに来たのだと。来てしまったのだと。来れてしまったのだと。
「はは……ほんとに来ちゃったんだなあ……」
スマホの画面に照らされた綾乃はそれはそれは満ち足りた笑みを浮かべていた。
「スマホありがと。ちょっと湖みてくる」
ボクにスマホを返すと、立ち上がり湖岸に向かって歩き出す。
駐車場を出ると、広い芝生が広がっていて、湖の水面が光を反射して時折きらりと輝いた。
「暗くてなんもみえねー!」
暗闇に覆われた琵琶湖を眺め、笑いながら芝生に大の字に寝転がる。
「はぁー 疲れた。てか寒っ」
「そろそろテント出す?」
寝転がった綾乃に手を差し出す。ずっとこのままってわけにはいかない。
この緑地はテントOKだ。せっかく持ってきたんだから使わない手はない。
「だね、どっちだす?」
ボクはテントを持ってきている。そして綾乃もテントを持ってきている。
「どっちが、いい?」
わざわざ二つも張る必要はない。ゆえに戦いは必然だった。
差し出した手を掴んで立ち上がり、目を細める綾乃。
「「むむむ」」
人気のない冬の琵琶湖、張り詰めた空気がボクたちを包み込む。
おたがい無言でうなずき、足を開き拳を構える。
どっちが勝っても恨みっこなし。命をかけた真剣勝負!
「「じゃんけんポイ!」」
ボクが差し出すは全てを吹き飛ばすパー。
対して綾乃が出すのは森羅万象を切り裂くチョキ。
「なっー!」
「いぇーい」
勝負、綾乃の勝ち。
膝をつきうなだれるボク。そしてそんなボクを見下ろすようにダブルピースで勝ち誇る綾乃。
「しょうがないなーテント出すよ」
「あ、なにか手伝うことある?」
結局手伝うのかーい。
まあいいや。駐車場に戻りビーちゃんに積んでいた荷物を下ろす。
ボストンバッグから吊り下げ式のライトを取り出して紐を引っ張る。月明かりしかなかった周囲がオレンジの光に包まれる。
「これ持って照らしててくんない?」
「りょーかーい、でもそんなんでいいの?」
「ボクもテント使うの初めてでさ、せっかくだし一人でやってみたいんだよね」
「あ、ちょっとわかるかも」
だよね、テント買ったら一人で設営したくなるよね。
荷物を抱えて芝生に戻る。とりあえずバイクに近いところでいいだろう。
荷物を置いて、ネットで買った格安のグラウンドシートを広げる。
インナーテントを広げて、ポールを伸ばし十字に固定。四隅の穴に差し込んでアーチ状になったポールにテントのフックをかけていく。
どうせ寝るだけだし、風もないからペグはいいかな。
そんなこんなで10分もしないうちにインナーテントを張り終える。
「おぉー もうテントになった」
ケチらないでちゃんとしたやつを買って正解だった。設営がものすごい楽だ。
張り終わった白いインナーテントの上からフライシートをかぶせてポールに固定。夜露で張り付くと意味ないし、これだけペグを打っておこう。
紐をシートに結びペグを芝生に打ちつけ……
「あ、ハンマー忘れた」
しまった。ハンマーのことすっかり忘れてた。まあいいや、芝生だし足でいいでしょ。
「えい、えい」
フライシートがピンとなるように、靴底でペグを芝生に打ち込んでいく。
よし、テント設営完了!
「できたー!」
「おぉー」
綾乃にランプを返してもらってテントジッパーを開き中に入り、天井にランプを引っ掛ける。
「おじゃましまーす。ほぉほぉ、こんななってるのかー なかなか快適ですな〜」
「少し狭いけど我慢してね」
二人用とは謳ってはいるけど、コンパクトなだけあってけっこう狭い。こういう時ばかりは小さな身体に感謝だ。
「うぅ、寒かった〜」
手をこすったり腕をさすったりして身体を暖める。
「風がないと全然あったかいねー」
風がないだけでも長時間のツーリングで冷え切った身体にはありがたい。体感温度がまるで違う。
「ふふふ、ちょっとまっててねー」
鞄から百均で売ってたミニテーブルを前室に置き、同じく百均で買ったシリコン鍋敷をセット。
「あ、そのテーブルかわいい」
「でしょ、百均で買ったんだー」
その上にイワタニのバーナーを置いて五徳の下にネットで買った遮熱版をセット。
「そして、こいつを取り付けるっと」
コールマンのヒーターアタッチメントの切り込みを五徳に差し込む。
よし、完成。
あとは火をつけるだけ……おっと、その前にベンチレーションを展開しておかないと。
「綾乃、天井にあるベンチレーション出しといてくれない?」
「ベンチ? レーション?」
「えっと、空気穴のこと。上の方にある蛇腹みたいなやつだよ。下手したら一酸化炭素中毒になっちゃうかもしれないからね。気をつけないと」
「こわ、りょーかーい。あ、これか」
視界の端で綾乃がベンチレーションをいじる。外気が入り込んできてテントの中が少しだけ寒くなるのがわかった。
これで本当に準備完了。コックを捻ってガスを放出。すかさず点火スイッチを押す。
カチッという音がして、次の瞬間ガスがボウっという音とともに青白く燃え出す。
「おーついたついた。その上の丸いやつなに?」
「これはコンロにつけるヒーター……ようはストーブ。そしてこの上に……」
コッヘルを出して水を注ぎヒーターの上に乗せる。これで暖房と湯沸かしが同時にできる。
「あっ、これあれだ、ストーブとヤカンじゃん」
「そうそう。たぶんすぐにあったかくなると思うよ。そ、し、て!」
さっきコンビニで買ってきたカレー麺をどんと置く。
「こちらが今夜のメインディッシュになります」
「おーカレー麺! しかもビッグ!」
「さらにさらにー!」
レジ袋を逆さにする。中からどさどさとおにぎりが降ってくる。
「好きなの選んでいいよー! って言っても白むすびとツナしかないけどね」
あとは全部売り切れてしまっていた。郊外のコンビニだからしかたないね。
炭水化物に炭水化物を合わせるという暴挙。旅だからこそできる不健康な組み合わせ。
うーん、さいこー! 野宿と言ったらやっぱりこの雑極まりない食事だよね!
「ありがと、後でお金渡すね」
「うん。あ、お湯沸いたみたい」
コッヘルに張った水がぶくぶくと沸騰している。カップの蓋を開けてお湯を注ぐ。カレーのおいしそうな匂いがテントの中に充満する。
「うわ、カレーの匂いすっご」
「服についちゃうし、外で食べる?」
「やだーさむいー」
「わかる。ていうかあったか!」
ベンチレーションのおかげで風通しがいいのだろうか。
いつのまにかすごい暖かくなってきた。さすがにちょっと暑くなってきたので上着を脱ぐ。
「わたしも脱ご。双葉、この丸っこいのすっごいね」
「うん、ボクもこんなに暖かくなるなんて思ってなかったからびっくりだよ」
バーナーの火にかけられたヒーターは、よく見ると金属の外装が赤く光っていて、見るからに熱そうだ。これは火事とか火傷に要注意だな。
今度天ぷらガードでも買ったほうがいいかな。テント燃えたら洒落にならないし。
「ちっこいのにすごいやつだなーお前」
「うんうん、えらいえらい」
二人で炎に揺られるヒーターを眺める。
冷え切って縮こまっていた筋肉が解されていく。これやばいな。快適すぎる。
「そろそろ三分たったんじゃない?」
時計を見る。たしかにちょうどいい時間だ。カップの蓋を開ける。スパイスの香りと湯気がもわっと広がる。
「あはは、双葉眼鏡真っ白じゃん」
真っ白になる視界。眼鏡をかけて温かいものを食べようとするといつもこれだ。
「ま、前が見えない」
「ちょっとこっち見てー」
「へぇ?」
言われたとおりに綾乃を見るとパシャリと音がした。
こいつ写真とったな。あとで寝顔撮ってやるから覚えてろよー
「ふふ、なでしこにおーくろ」
「はいはい、もうラーメンできたんだから伸びる前に食べちゃお」
「はーい」
「「いただきまーす」」
狭いテントでボクたちの楽しげな声がこだます。きっとこのカレー麺もすごくおいしいに違いない。
「ちょっと外見てくるね」
「ふぁぁい、あんま遠くいくなよー怖いから」
あ、そっちなんだ。
食事を終えひと息ついたので、あくびをする綾乃を背にしてテントからでる。
「さむっ」
テントから這い出た瞬間、猛烈な冷気がラーメンとヒーターで火照った身体を包み込んだ。
息を吸うと冷たい空気が肺に入り込み身体に流れていく。息をはくと白いもやになって宙に吸い込まれていった。
「静かだな」
誰もいない琵琶湖。真っ暗闇の湖岸に波が打ちつける音がこだます。
遠くのほうで、車のライトが流れて消えいった。
「そういえば、リンもう着いたのかな」
ちょっと電話してみようかな。そう思った矢先だった。
「電話?」
スマホを出す。噂をすればなんとやら、リンからだ。
「もしもし?」
『あ、繋がった。どう? そっちは』
「琵琶湖着いて、テント張ってご飯たべたところ」
『よかった、無事についたんだ。こっちもやっとひと息つけた。温泉で寝過ごしちゃってさ、マジで焦ったわ』
リンが寝過ごすなんて、よっぽど温泉が快適だったのだろうか。ボクがいたら起こしてあげられたのかな。
いや、ダブル寝落ちする未来しか見えないな。温泉気持ちいいもんね。
「そんなことあったんだ。大丈夫だった?」
『めっちゃ遅刻しそうになって最悪双葉みたいにその辺にテントでも張ろうかと思ったけど、なでしこのお見舞いに行ってた大垣のおかげでなんとかなった。あいつってけっこういい奴だね。ちょっと誤解してた』
詳しいことはよくわからないけど、なんとかなったらしい。まあ無事でいてくれればなにも言うことはない。
クリスマスのキャンプ。リンが千明のことを苦手なのがちょっと気になってたけど、この分なら大丈夫かな?
「そっか、ほんとよかったね。それで今上伊那だっけ。どんなところなの?」
『めっちゃ夜景綺麗。あとで写真送るよ』
「いいな、こっちは暗すぎて何も見えないよ」
なにせスマホ以外の人工的な光源が一切ない。こういうところにいると、自分たちが普段いかに明るい場所で暮らしているかを実感する。
『まあ湖だもんね。空は?』
「空?」
リンの言葉にはっとして上を見上げる。
「うわぁ……」
そこには空を覆い尽くすほどの星の海が広がっていた。
赤い星、白い星、青い星、数えるのも馬鹿らしくなるような色とりどりの星々。
「すごい……」
『どうしたの?』
「星がさ、すごい綺麗なんだ……」
息をするのも忘れて空を眺める。この光景を見れただけで、今までの全てが報われた気がした。
『そんなに綺麗?』
「……すごいよ。リンにも見せてあげたい」
『へぇ、ちょっとうらやましいな。こっちは街の灯が眩しくてよく見えないんだよね』
「あとで写真送るよ。そっちの夜景と交換」
『うん、そういえば綾乃って子はどう?』
テントに首を向ける。ランプに照らされた影が時折動く。耳を澄ませると笑い声も聞こえてきた。誰かと電話でもしてるのかな。
「だいぶ疲れてるみたいでテントで休んでる。なんだかんだいって10時間くらい乗ってたからね」
『浜松からそこまで200キロくらいだっけ? まさか、野宿じゃないだろうな』
「ボク一人ならともかく、友達に野宿なんてさせないって。ちゃんとキャンプOKの公園でテント泊だよ。しかもヒーターアタッチメント付き」
さすがにお風呂とかには入れないけど、キャンプとしてはかなり快適な環境を作れたと思う。
「おかげでぬくぬくだよ〜」
『うわずる。こっちは寒い思いしてるってのに』
「リンが琵琶湖に来たら入れてあげる」
『何キロ離れてると思ってるんだよ。死ぬわ。また今度入れてよ』
長野から原付で琵琶湖行ったら何キロくらいになるんだろう。最悪24時間走ってもつかなさそうだ。
『それで、明日はどうするの?』
「琵琶湖一周して向こう岸のゲストハウスに泊まる予定。バイクで行くと2000円なんだって。すごいよね」
『やっす。そんなんで大丈夫なの?』
「ネットの評判もかなりよかったし、男女で部屋分かれてるから大丈夫。写真で見たけどお風呂がすっごい大きくて気持ちよさそうだった」
『なんだよ、めっちゃ満喫してんじゃん。双葉のことだからてっきり全部野宿かと思ってたのに』
「一人だったらそのつもり……いや、やっぱ一人でもたぶん適当に宿で泊まってたと思うよ」
旅一つとっても野宿、ホテル、キャンプ、いろんな手段がある。せっかく選び放題なのに野宿にばかりこだわるのもつまらない。
そう言えば綾乃に明日宿泊まるって言ってなかったな。あとで言っとかないと。
「もうちょっと自分に優しくしてもいいかなって思ってさ。それに、みんなにも心配かけちゃうしね」
近場ならともかく助けも呼べないような遠くで野宿したなんて言ったら、またあおいと千明に心配をかけてしまう。
何も告げずに伊豆に行った時の二人の顔はもう見たくない。
『そっか、それ聞いてちょっと安心したかも』
「あはは、なんか心配させちゃってごめんね」
『ほんとだよ。もうちょっと自重……してそれなんだったな。そういえば』
「えへへ」
『えへへじゃねえよ』
ごめんねリン。ボクにとっては琵琶湖もお出かけの範疇なんだ。こればっかりは性分だからしょうがない。
『まあいいや。寒いしそろそろ切るね。そっちも外でしょ? あんまり身体冷やすなよ』
「うん! じゃーねー!」
『うぃー』
電話を切る。途端にあたりが静かになった。音のない世界にボクの息を吐く音がこだます。
空を見上げる。惚れ惚れするような星の海に息をのむ。そうだ、写真撮らないと。
パシャリ。最新のスマホはこんな真っ暗な湖でもちゃんと夜空を撮影してくれた。
「……戻るか」
このままずっと見ていたいけど、いいかげん寒くなってきた。なでしこみたいに風邪でも引いたらめんどうなことになる。
「戻った……よ」
テントに入る。元気な相方の姿はなく、代わりに寝袋にくるまった芋虫が床に転がっていた。
「すぅ……すぅ……」
寝息を立てて眠りこける綾乃。時間はまだ9時前だというのに完全に眠っている。
「今日はいっぱい走ったもんね」
眠った綾乃を起こさないようにバーナーの火を消し、テントのジッパーとベンチレーションをしめる。これで眠るまでの時間くらいは暖かくすごせるだろう。
一応持ってきた薄手のトラベル用の毛布もかけておくか。
「今日は楽しかったよ、綾乃」
眠りこける綾乃に毛布を被せてつぶやく。
「ふぁぁ、ねむ」
寝る準備はすんでいる。ボクももう寝よう。すでに広げていたマットの上に寝袋を敷き、音を立てないように中に入る。
ハクキンカイロに火を入れて寝袋の中に放り込み、吊り下げたランプを引っ張る。視界が闇に包まれた。
今日はいろいろなことがあった。まさか綾乃がついてくるなんて思ってなかったけど、おかげで楽しい時間をすごせた。
明日はいよいよ琵琶湖一周だ。今日と違って150キロしかない。せいぜいのんびり走るとしよう。
「たのし、かった……なあ」
ぬくぬくした暖かさに包まれて意識が朦朧としていく。
「あ、りんに、らいん……しない……と……」
意識が闇に沈んでいく。
今夜はぐっすり眠れそうだ。