まず初めに感じたのは、冷たさだった。
まるで、シャーベット状の氷水が顔に張り付いたような、そんな冷たさだ。
ボクはこの冷たさをよく知っている。
「……朝?」
ぼんやりとした意識が冷たい空気で覚醒していく。寝袋のジッパーを下ろしてのそのそと起き上がった。
「ふぁ〜 よく寝た」
テントの布の向こう側はまだ真っ暗だった。でも、どこか新鮮な匂いのする空気が朝だとボクに教えてくれた。
「5時半か」
腕時計のバックライトを起動して時間を確認。うん、いつもどおり時間ぴったり。
「さむ」
テントの冷気にあてられ思わず身震い。まあこれでも野宿に比べればなんてことないんだけどね。
「ヒーターつけよ」
ライトを引っ張って灯りを点けて、インナーテントの入り口とベンチレーションを開きバーナーとヒーターを準備する。
コックを開くとシューっとガスが放出されて、点火スイッチを押すとボウッと青白い炎が立ち上った。
コッヘルに水を汲んでヒーターの上にかける。
「あったかぁ〜」
真っ赤に光るヒーターに手を近づけると、焚き火とは違うじんわりとした暖かさが手と身体をあっためてくれた。
波の音と風の音しか聞こえないテントに、バーナーの音がこだます。
どうせだしコーヒーでも入れるか。荷物から道具を一式取り出して豆を挽く。
ガリガリガリガリ、ハンドルを回すたびに黒っぽい粉が容器の中にたまっていく。
静かな時間。一人だけの至福の時。
よく、コーヒーは豆を挽くのが面倒だという人がいるけど、ボクはこの時間が好きだ。たぶん、求めているものが違うのだろう。
早すぎず遅すぎず、一定の速度でハンドルを回す。しばらく回していると、唐突にハンドルから手応えが消えた。
ミルのネジを回して容器に溜まった粉をドリッパーに注ぐ。縁を指で叩いて粉をならす。
ぶくぶく音がする。沸いたみたいだ。火を止めてマグカップに熱湯を注ぎ、そのお湯をさらにケトルに注ぐ。
これで湯ざましは十分。マグカップにドリッパーをセットして粉にお湯を乗せるようにそっと注ぐ。
きっかり20秒待って抽出を始める。
抽出されたコーヒーと、注ぐお湯が同じ割合になるように、注ぐ早さを調整。
もくもくとした白い湯気に乗って。焙煎された豆のフルーティーな香りがテントの中に立ち込める。
コーヒーというのは本当に奥が深い。
湯温、抽出速度、粉の荒さ、使う道具。
人それぞれにこだわりがあって、同じ豆を使って同じ道具を使ったとしても、同じ味には決してならない。
ある意味じゃ、キャンプと似たようなものかもしれない。
外でテントを張ってご飯を食べて寝る。
字にすればたったこれだけのことなのに、そこに至るまでの過程が本当に千差万別だ。
とにかく安くすませる人、ありとあらゆる道具を持ち込んで家にいるよりも贅沢に寛ぐ人、料理に情熱をかける人、そもそもテントすら使わない奴。
あ、それはボクか。
まあとにかく色々な考え方やり方があって、どれが正しいとか間違ってるとかじゃなくて、それこそ人それぞれ。
そんなふうに自由だからこそ、ボクはキャンプを好きになったのかもしれない。
そんなことを考えながら、できあがったコーヒーをすする。すっきりとした苦味。そしてその奥にある微かな甘み。
うん、今日もおいしいコーヒーを淹れられた。
「ずず……うま」
キャンプ場で飲むコーヒーってなんでこんなにおいしいんだろう。家となにも変わらないはずなのにね。
「リン、そろそろ起きたかな」
フライシートを開いて外に出る。太平洋で冷やされた冷たい風が身体を包み込む。
「さむ……」
わざわざこんなところまで来て寒い思いをして、あったかいコーヒーをすする。
言うなればセルフマッチポンプ。
けど、そんな非合理の塊が楽しくてしかたがない。
不安や寂しさ、身の毛もよだつような冷たい空気。
そんなネガティブすらスパイスになってポジティブに変わっていく。
旅は大好きだけど、キャンプも同じくらい大好きだ。リンや千明たちがあそこまで入れ込む理由もよくわかる。
「あとちょっとで初日の出か……あ、リン起こさないと」
たしか6時までにはキャンプ場から少し離れたところにある海岸で日の出を見るって昨日言っていたのを覚えている。
今はもう5時40分。リンのテントからはなんの物音もしない。これたぶん寝てるな。
疲れてるだろうし、寝かせてあげたい気持ちもあるけど、寝てたら起こしてくれってリンに頼まれてるし、起こすとしますか。
「リンー、朝だよー」
テントのジッパーをそっと下げてテントの中に顔をつっこむ。
「……すぅ……すぅ」
寝袋に包まって芋虫みたいになったリンが小さな寝息を立てて転がっていた。
「リン、もうすぐ日の出だよー」
しーん……
反応なし。高ボッチ行った時も思ったけど、リンってもしかして朝弱いのかな。
いや、慣れない海沿い走ってつかれてるだけか。
「リン、リン」
テントの中に入って寝袋の上からリンの肩をそっと揺らす。
スタイルがいいからあんまり小さく見えないけど、こうして触ってみるとやっぱちっこいよなあ。
と、そのちっこい子よりもさらにちっこいボクが思うのだった。
「よる、ごはん……くえなくなっても……しらないからなぁ」
寝言だ。あれかな、クリキャンの時の夢でも見てるのかな。楽しかったもんね。
「ふひひ」
スマホをパシャリ。寝顔をこっそり撮影。
もうちょっと見ていたい気もするけど、いい加減起きてもらおう。
「リン、リン、もうすぐ日の出だよ」
リンの肩がピクリと動き、目をしょぼしょぼさせてボクを見てくる。やっと起き──
「ん〜 あと5分……」
なかった。なんてベタな……じゃなくて。本当に起きてくれないと困る。
「……しょうがないな」
スマホでユーチューブを開いてお気に入りの中から一つの動画を再生。音量はもちろんマックスで。
ブウォンブウォンという、金属を叩いたような独特の爆音。
ヤマハ・RZ250のエキゾーストサウンドがムーンライトテントの中で大反響する。
「うぉっ!? な、なんの音!?」
「あ、起きた。おはよー」
「え、なんて!?」
ブウォンブウォン鳴ってるせいでお互いの声が全然聞こえない。再生を止める。辺りがしんと静まり返った。
「おはよリン、あけましておめでと。リンが起きないから、もう初日の出終わっちゃったよ」
「あ、うんおはよ……うぇ!? ほんと!?」
半目だったリンの目がくわっと開いて寝袋から飛び起きる。
そして、テントの入り口の隙間から見える空を見てボクにジトーっとした目を向ける。
「……って、外真っ暗じゃん」
「うそだよー」
ぽかっ。そんな音がしそうな感じでリンがボクの頭を叩いた。ちなみにまったく痛くなかった。
「犬山さんの真似すんな」
「ふひひ、びっくりした?」
「したわ。めっちゃしたわ。本当は何時なの?」
「5時45分。初日の出は7時だから今から準備すれば大丈夫だよ」
「あ、もうそんな時間なんだ。ごめん起こしてもらって。着替えるから待っててもらっていい?」
「うん。あ、コーヒー淹れるねー」
「おねがい」
「はーい」
敬礼の真似をしてテントから出る。東の空が少しだけ明るくなっている。
もうすぐ日が昇る。新しい一年が始まる。
「さっきの爆音なに?」
「ユーチューブのお気に入り動画」
「……大丈夫?」
なにが!?
ビーノのテールランプが、赤い尾を引いて暗がりの道路を駆けていく。
東の果ての空はほんの少しだけ明るくなっていて、これから始まる新しい年の幕開けを告げていた。
『なんか、むこうより全然あったかいよな』
「山梨寒いもんねー」
千明たちは今ごろ初詣かな。甘酒おいしいだろうなあ。あとで買っとこ。
『海沿いとか風すごかったけど、双葉は平気だった?』
「ボクのバイクはタンクにしがみつけるから、そこまでじゃなかったかな」
下半身全体でしがみつけるバイクと座るだけのスクーターじゃどうやっても安定性に差が出るんだろう。
作られた目的が違うからどっちがいいってわけでもないけど、走ることをメインで考えるならやっぱりバイク一択だ。
『そうなんだ。わたしスクーターだから最初振り落されるかと思ったな』
「いきなり突風が吹いて、気づいたらセンターラインギリギリだったってこともあるから、気をつけてね」
カーブでバンクしてる時に突風が吹いて、強制的に垂直に戻させるのやめてほしい。ほんとに怖いから。
『こわっ。わたしも免許取ったら双葉とかアヤちゃんみたいな原付バイク買おうかな』
「楽しいよー原付バイク。ギア操作めっちゃ忙しいよ〜」
ちょっと遅くなったら3にして、すぐに4に戻して、坂になったら2にして、ビーちゃんに乗っていると、左足が本当に忙しい。
パワーバンドが狭いから、状況に応じて適切にギアを入れないとすぐに流れに置いていかれる。
けど、それが乗りこなしている感じがして楽しい。
『マニュアルか……なんかめんどいな』
「じゃあカブとかいいんじゃない? あれなら自転車みたいな感じでギア変えられるよ。オートマの免許で乗れるしね」
『え、そうなの?』
「うん、だってあれ手動のクラッチないもん。今ならクロスカブとかハンターカブとか新車で手に入るし、けっこういいんじゃない? 荷物もいっぱい積めるし、悪くないと思うよ」
『カブか……ちょっと考えてみよっかな』
リンはなんとなく将来SRとか乗りそうな気がするけど、カブに乗ってるリンも見てみたい気がする。
『ま、高校出るまではこいつでいいや』
風切り音の向こうでリンがそう言った。
ちょっと優しげな声色。リンもきっと、ビーノのことを大事に思っているんだろうな。
「やっぱり、自分の乗ってるバイクが世界で一番のバイクだよね」
『……ちょっとわかるかも』
「だよね」
ギアが入りづらくても、エンジンがかけづらくても、坂道でパワーがなかったとしても、ボクにとって世界で一番のバイクは、このビーちゃんなのだ。
たぶん、どのバイク乗りもそう答えるだろう。
非合理で見栄っ張りで走ることしか頭にない。
バイク乗りは、けっきょくそういうどうしようもないバカしかいないのだ。
『あ、見えてきた』
ウィンカーを出したビーノが小道の中に入っていく。この先が福田海岸。リンが選んだ初日の出スポットらしい。
どんな日の出が見られるのかな。楽しみだな。
「よし、到着っと」
すでに何台もの車が停まっている砂利の駐車場の隅にお互いのバイクを停めてエンジンを切る。
熱々のエンジンが出すパチパチという音を聞きながらヘルメットを脱ぐ。
「さむっ」
しんと静まり返った世界。防風のために植えられた松の木が、潮風でカサカサと揺れる。
「この先?」
「うん」
リンの後について暗がりの砂利道を歩く。
暗くてわかりづらいけど、よく見たら松ぼっくりけっこう落ちていた。風で飛ばされたのかな。
「リン知ってる? 松ぼっくりって食べられるんだって」
「そうなの?」
「うん、ジャムにするんだってさ」
「それ、うまいの?」
「けっこうおいしいらしいよ。見た目もラズベリージャムみたいに真っ赤だったし」
「へぇ、どんな味なんだろ」
「なんか作った人の感想だと、新築のログハウスの味だってさ」
「なにそれ」
「ボクもわかんない。今度作ってみようかな。できたら毒見お願い」
「ぜったいやだ」
話しながら歩くと、開けた砂浜に出た。海岸だ。
一面に広がる灰色の砂浜。
太平洋のはるか彼方から押し寄せる波が灰色の砂とぶつかって泡立ち、また海に帰っていく。
「そういえば、向こうもう雪降ってるんだってね」
ボクは昨日ラインでみんなとしたやり取りを思い出してリンに言った。
「なでしこのやつ、めっちゃテンション上がってたな」
「浜松じゃ雪降んないだろうしね」
今ごろ雪だるまでも作ってるのかな。いや、今は配達の時間か。
そうして踏みごたえのない砂を歩いていると、砂浜の向こうに小さな鳥居が見えてきた。
よく見ると、周りにはけっこうな数の人たちが浜の向こうの太平洋を眺めていた。
「リン、すごいところ見つけたじゃん」
法事にはお寺にお墓参りに行って、新年には神社にお参り。クリスマスにはみんなでパーティーをするくらいの信仰心しかないけど、この光景はなにか感じるものがあった。
が、しかし──
「「じー」」
チャリティー賽銭箱……
鳥居の下に置かれた賽銭箱にデカデカと貼り付けられたプリント。
なんか……なんだろう。もっとこう、風情とかそういうの、考えないんだろうか。
「まあ、日本っぽくていいんじゃない?」
「そういう問題なのか?」
「わかんない」
でも、こういう適当な感じって嫌いじゃない。変に荘厳な雰囲気にされるより、これくらい俗っぽいほうが親しみやすい。
「邪魔になるし、離れよっか」
「だな」
鳥居から少し離れたところで日の出を待つ。もうあと10分もしないうちに日が昇るだろう。
もうすぐ、新しい年が始まる。
「ほんと、今年……もう去年か。いろんなことあったなあ」
リンがしみじみと呟いた。
リン、なでしこ、綾乃、斉藤さん、鳥羽先生、リンのお母さんとお父さん、新城さん……
たった二ヶ月でこれでもかってくらいの出会いがあった。
本当に実りのある一年だった。
「不思議だよね。リンとなでしこと出会ってから、まだ二ヶ月しか経ってないって」
「そっか、まだ二ヶ月なのか」
たった61日。日数にすればそれだけ。けど、たったそれだけの時間でいろんなことが変わった。
友達ができた。好きなものが増えた。
つまらないと思っていた日常が、少しだけ楽しくなった。
これから先どんなことが起きるかはわからないけど、この思い出は一生、ボクの心に残るだろう。
それはそれは、色鮮やかな思い出になるに違いない。
水平線の向こうが燃えるように光っている。
あと少し、ほんの少しで日が昇る。
まだ。
まだ。
まだ。
「……ぁ」
誰かが呟いた。その時だった。
目の前が眩い光で覆われる。
赤、オレンジ、白。地球のいろんなものをごちゃ混ぜにして、一つのガラス玉に閉じ込めたような、そんな綺麗な輝きが世界を明るく照らしていく。
日が昇る。新しい年が始まった。
「あけおめ、リン」
「あけおめ、双葉」
にっこり笑って互いの拳をぶつける。
ぽすん、綿の入ったリンの手袋が、そんな音を立てた。
ピコン! スマホが鳴る。そうだ、みんなにも言わないとね。
双葉:あけおめー!
今年はどんな一年になるのかな?
「じゃ、帰るか」
その言葉に無言でうなずいてバイクに戻るために歩き出す。帰ったらすぐに荷物を片付けて出発しないと。
「……あ」
リンがつぶやいて立ち止まる。視線の先に目を向けるとなにやら人だかりができていた。
よく見ると、櫓のような建物から人がなにか投げていて、それを集まった人が必死にキャッチしようとしている。
「餅投げじゃん」
「あ、そういうことか」
……
…………
………………
無言で顔を見合わせる。
「「勝負だー!」」
同時に駆け出す。ちなみに負けた。
「よしっと。これで準備かんりょー」
買い替えたばかりのネットで荷物をきつく縛っていく。
「もう行っちゃうの?」
リンがちょっと名残惜しそうにボクを見る。
日も昇ったばかりの朝のキャンプ場で、ボクは出発の準備をしていた。
心地よい太陽の光がボクの身体を包み込む。今日はきっと気持ちよく走れるに違いない。
「もっとゆっくりしてけばいいのに……」
「ごめんね。こればっかりは性分だからさ」
リンがキャンプをせざるをえないように、ボクも旅をせざるをえない。
そういうふうに生まれてきてしまったのだ。
「じー」
「そ、そんな目で見ないでよー!」
ちょっと心が揺れてきちゃったじゃないかー! どうしよ、やっぱ残ってリンと一緒に帰ろっかな。
って違う。ボクは旅をしにきたんだ。
「いくからね! ほんとにいくからね!」
ボクの頑なな態度にリンも観念したのか、肩をすくめて微笑む。
「……わかった。道、気をつけなよ」
「はーい」
「ついたらちゃんと連絡しろよ」
「わかった!」
「ガソリン足りなさそうって──」
「もう、わかったってばー!」
リンのジトーっとしたプレッシャーに負けないように、ビーちゃんのキックペダルを蹴り飛ばす。
ブルルンと音がしてすかさずアクセルを煽る。
やかましい金属音が鳴り響いてマフラーが煙をぺぺぺと吐き出す。
忘れ物なしっと、チェックアウトもすませたっと。よし、出発だ。
「じゃ、またねー」
「あっ……」
名残惜しそうな顔をするリンを一瞥してビーちゃんを発進させる。
目指すは京都。清水の舞台がボクを待っている!
「いくよー! ビーちゃん!」
2ストロークの元気なエンジン音が新年の道路にこだます。
しばらく走っているとポケットのスマホが震えた。メール?
ウィンカーを出してビーちゃんを路肩に停める。
綾乃:あけおめー!
双葉:あけおめー!!
綾乃:リンちゃんから聞いたよー 今浜松の近くいるんだってね
綾乃:迎えにいくから弁天島のコンビニ集合なー
え、あの……旅……
用語解説
ヤマハ・RZ250
ヤマハが2ストローク全盛期の80年代に発売したバイク。80年代のレーサーレプリカブームを生み出すきっかけとなった。
パワーバンド
エンジンが最も効率よく力を発揮できる回転域。2ストロークエンジンはひたすらエンジンを回さないと力がでない。
クロスカブ・ハンターカブ
ホンダ・スーパーカブをベースにある程度のオフロード性能を付与したカスタムモデル。1日に5台は見かける。