2-1
日の沈んでいく国道138号を時速50キロくらいで流していく。
エンジンの回転に身を任せ、緩やかな右カーブを切り抜けていく。
ミラーをチラ見、後続車はなし。いまこの瞬間だけは、この道路はボクのものだ。
さらに回転数を上げる。スピードメーターはすでに振り切っていて、何キロ出しているのかわからない。
そもそもこの子のメーターは実際の速度よりも10キロ以上サバを読んでいるせいで、正確なスピードがわからない。
乗り始めた時、制限速度では走っているのに、何故か全ての車に煽られて不思議に思いスマホのGPSで調べてはじめてわかったことだ。
一部の界隈じゃこの手のメーターをハッピーメーターと言うらしい。
確かに知らないうちはハッピーでいられるかもしれない。
「でも、このさいどうでもいいけどね!」
S字を切り抜け左のヘヤピンコーナー、アクセルを戻しリアタイヤにかかっていた荷重を抜く。
ブレーキペダルを軽く踏んで減速。振り切っていたメーターの針がぶるぶる震えながら下がっていく。
クラッチを握りシフトペダルを踵で蹴り飛ばす。
ガコンという衝撃とともに3速に切り替わりクラッチを戻す。
リアタイヤのトラクションを感じながらアクセルを軽く吹かし、重心を思い切り左に傾ける。
近づくアスファルト、傾く世界。身体の下に向かう遠心力を感じながらコーナーの出口に顔を向ける。
最初は怖くてハンドルと地面ばかり見ていたけれど、気がついたら怖くなくなっていた。
人はそうやってちょっとずつ成長していくのだろう。
コーナーが終わる。アクセルをさらに吹かしながら身体の力を抜くと、遠心力によって車体が自然と真っ直ぐになっていく。
クラッチ、シフトペダルを踏み込む。
4速、クラッチをギアに噛みつかせ白煙を撒き散らしながら車体を加速させていく。
今度は右のヘヤピン。しかもさっきよりもきつい。
シフトダウン、減速。
コーナーに差し掛かる直前、ボクはシートに跨っていた身体を少しだけコーナーの内側に向けて突き出した。
車体を傾ける。同時に右膝を思い切り開き、身体を道路に投げ出した。
宙に浮かぶ身体をハンドルを握る両手と車体に引っ掛けた左足だけで支える。
さっきよりも大きく傾く車体。スレスレの地面。ブレーキペダルがアスファルトに擦れ、時折ガリガリと音を立てる。
ハングオン、コーナーを早く曲がるためにレーサーたちが生み出したテクニックだ。
ちなみに公道でやる必要は全くない。ぶっちゃけ速度大して変わらないし。でもかっこいいからやってしまうのだ。
コーナーが終わり身体を元に戻す。ハングオンは個人的にこの瞬間が一番危ないと思っている。
意図的に崩したバランスを戻すわけだから危なくないわけがない。間違ってシフトダウンしてリアがロックしかけた時は死ぬかと思った。
ヘヤピンを抜けると今度はタイトなワインディングの連続。右へ左と重心を動かしバイクを操っていく。
ブレーキポイントを間違えればガードレールに激突するため、一瞬たりとも気は抜けない。
前輪後輪ともに強めに効くように調整しているとはいえ、ビーちゃんはしょせん原付。普通のバイクのブレーキほど制動性は得られない。
ここは今までに何人ものライダーの血を吸ってきた峠。少しの油断が命取りになる。
でも、それがたまらない。
このギリギリを攻める感覚がボクの動物的本能を刺激してやまないのだ。
まあ、そんなこと周りに言ったらまた大垣さんに中二あつかいされるから秘密だけど。
右のコーナーを切り抜けると、ちらほらと家が見えてきた。そろそろ目当ての山中湖が見えてくるだろう。
「あ、見えた」
長い直線の先、木々の向こうに広大な水面が沈み始めた太陽を反射してキラキラと輝いている。
山中湖、富士五湖の中で一番の面積を誇る広大な湖。日本でも三番目に標高の高い湖らしい。
葉がすっかり抜け落ちた並木道をYB-1で駆け抜けていく。落ち葉がタイヤに巻き上げられ宙を舞う。
山中湖の標高は980メートル。日は出ているとはいえ、山特有の突き刺すような寒さがボクの身体を痛めつける。
ゴーグルから下の鼻と口が冷気でもげそうだ。ネックウォーマーで口元を覆ってはいるがこれじゃあはっきり言って焼石に水、真夏日の空冷エンジンだ。
革製のグローブに包まれた指先はもはや辛うじて神経が繋がっているといった状況で、自分の指というよりもバイクを動かすためのマニュピレータと化している。
というか、そうでも思い込まないと寒すぎて耐えられない。
「電熱グローブほしいよー」
ちなみにハンドルカバーをしたら負けだと思っている。
あんなおじいちゃんの原付みたいなものビーちゃんにつけたくない。というか転んだ時危ない。
と、そうこうしているうちに旭日丘交差点に到着。
右折してすぐ目の前にある旭日丘湖畔緑地公園の駐車場にバイクを止める。
エンジンを切ると、さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返り、風と木々の騒めく音だけが辺り一面に鳴り響く。
セピア色に染まり始めた世界で、ただ一人息を吸う。新鮮な冷気が鼻の穴を刺すように通り抜け、縮み上がった肺を満たしていった。
「さ、寒かった」
火を消したばかりのエンジンから聞こえるパチパチという音を聞きながら、両手を揉みしだいて少しでも暖を取ろうとする。
気温はだいたい4度くらいだろうか。息が白くなるほどではないけど、それなりに寒い。
「あ、自販機だ!」
道路を挟んだ向かい側にあるビルの端に自販機を発見。
ヘルメットを被ったまま小走りで横断歩道を渡り自販機に直行。財布を取り出して小銭を出そうとする。
「て、手が動かない……あ、100円落ちた」
かじかんでうまく動かない指のせいでお金を落としたりしたものの、なんとかホットココアをゲット。
「あつ、あつつ! あ、あったかい」
熱々の缶を両手で何度も握ったり首筋に当てたりして暖かさを堪能する。
寒い季節のバイク乗りにとって、この瞬間はまさに至福の瞬間だと思う。
「あ、そうだ。湖見ていこ」
プルタブを開けて暖かいココアで身体を癒しながらふとそんなことを思った。
駐車場に戻ってヘルメットをバイクに引っ掛けて、公園に向かって歩き出す。
湖畔に沿うように生えているちょっとした林を通りぬければ、そこは前方180度一面に広がる銀色のパノラマが広がっていた。
湖岸は絶えず緩やかに水と土のラインを変化させ天然のグラデーションを形作り、澄み切った青い空を茶色い稜線が切り裂いていく。
まさに大自然が生み出した巨大な一枚絵だ。
「やっぱりここは何回見ても綺麗だなあ」
もう何回も走っている道なのに、何回見ても飽きることがない。
どれだけ指がかじかんでも、どれだけ身体が氷のように冷えきろうとも、ボクがバイクに乗ることを止められない理由がここにはある。
「いちおう写真撮っとこ……ん?」
コートのポケットからスマホを取り出すと、着信が2件入っていた。ここまで3時間くらい乗りっぱなしだったから気がつかなかった。
「犬山さんと、斉藤さん?」
犬山さんはまあわかるとして、斉藤さんはなんだろうか。
「とりあえず犬山さんに返信しておくか」
あおい:今日もバイクでどこかいっとるん?
3時間も前のメッセージだ。変な心配かけてないといいんだけど。
双葉:ごめん、ずっとバイク乗ってたから気がつかなかった。今ここにいるよ
カメラを起動して湖にむかってパシャリ。犬山さんに宛てて送信。すると、一分もしないうちに返信が返ってきた。
あおい:やっと返信きた! またどっか遠く行ってしもうたと思って心配したやろ!
双葉:ごめん、次から気をつける
あおい:まあちゃんと連絡してくれるんならそれでええんよ
双葉:はーい
あおい:にしても双葉ちゃん、今山中湖におるん? もうすぐ暗くなるし帰る時気ぃつけてえな。特にトラックには要注意や
双葉:ありがとう、気をつけるね
あおい:追伸、お土産期待しとるで
双葉:えぇ……
あおい:嘘やで
双葉:ありがと
あおい:ええで
なんだこのやりとり……まあいいや、次は斉藤さんに返信するか。なんだろう、志摩さんがバイクで聞きたいことでもあるのかな。
斉藤:こんにちは! 今日はバイクでどこかに出かけてるのかな?
双葉:ごめんなさい、ずっとバイク乗ってたから気がつかなかったです。今山中湖にいます。
さっき撮った写真を斉藤さんにも送信する。ほどなくしてピコンという通知音がなり返信が返ってきた。
にしても、年頃の女子高生はどうしてこうも返信が早いのだろうか。それにくらべてこのボッチときたら。
斉藤:へぇ、山中湖かー 遠くまできたねえ
双葉:めちゃくちゃ寒いです
斉藤:まあ、バイクだもんね。風邪ひかないように気をつけてね
双葉:ありがとうございます
斉藤:そう言えば、リンも今日、本栖湖でキャンプしてるみたいなんだけど、よかったら顔だしてあげたら? ここにいるみたいだよー
送られてくるキャンプ場の住所。
こ、この人、なんの躊躇もなく人の個人情報晒したぞ。本当に遠慮しない関係なんだなあ、なんかすごいや。
双葉:わかりました。余裕があったら寄ってみます
斉藤:じゃあ、車に気をつけてねー あと、同い年なんだし敬語とか使わなくてもいいからね
双葉:うん、わかったよ
ライン越しですらわかるこのコミュ力……斉藤さん、なんて恐ろしい子なんだ。どっかのクソザコ女子高生にも見習ってほしいものだ。
ピコン!
着信だ。なんだろう。
斉藤:双葉ちゃん! 気をつけてネ!
メッセージと一枚の写真。そこに写っていたのはなんとふわっふわのチワワだった。
か、かわいい……斉藤さんのペットなんだろうか。抱きしめてもふもふしてみたい。
「それにしても、本栖湖かー」
この時期にキャンプってなかなかガッツがあるなあ。いやまあボクも野宿してるし人のこと言えないけどさ。
どうしよう、行ってみようかな。
どっちにしろ今日は300号走って家に帰る予定だったし。
でもいきなり押しかけても迷惑だろうし、どうしようかな……
「いいや、行ってから考えよう」
とりあえず未来の自分に押し付けていくスタイル。いやまあ実際今考えても仕方ないし。
腕時計を見る。もう4時20分だ。すでに日もかなり傾いている。あと30分もしないうちにこの辺りは真っ暗になるだろう。
夜の峠攻めも悪くない。そろそろ行くとしよう。
バイクに戻りヘルメットを被り直す。冬の冷気でバイクもすっかり冷え切っている。こういう時はエンジンがかかりにくい。
燃料タンクしたの燃料コックに手を伸ばし下を向いていたコックを右に捻る。
こうすることで燃料が常時燃焼室に供給されることになり、ガソリンへの点火が成功しやすくなる。
ガソリンが完全にエンジンに行き渡るまでだいたい30秒くらい待ってからキックペダルを展開する。
チョークを捻って混合比を調整。ペダルを二、三回踏んで踏みごたえのある位置で止める。
「お願いだからかかってよー」
バイクには跨がらず立ったままハンドルを握り全体重をかけて思い切り踏み込む。
エンジンが一瞬だけブルンと唸りすぐに黙り込む。
予想通りエンジンはかからなかった。ビーちゃんは寒いといつもこれだ。ボクと違って寒がりなんだろう。
チョークを一回戻し、しばらく待ってからもう一度チョークを捻ってペダルを踏み込む。
さっきと違う、明確な手応え。この機を逃さずすぐさまアクセルを思い切り吹かす。
マフラーから白煙を吹き出し息を吹き返すエンジン。単気筒の心地よいトコトコ音が寒空の山中湖にこだます。
さぁ、出発だ。
「うへぇ、さすがに暗くなってきたな」
国道138号を走り富士Qハイランドのある吉田市を通り抜け、富士山北部、139号に入る。
街を通り抜けてしまえばそこはもう峠道だ。
しばらく山道を進めばまばらだった街灯はいつの間にかその姿を消し、果てしなく広がる黒一色の森をヘッドライトの黄色い灯りだけを頼りにバイクを進めていく。
ミラーを見ればそこに映るのは全てを飲み込む暗闇だけ。まるで闇がボクを食べようと真後ろまで追ってきているような、そんな錯覚すら感じるほどの果てしない暗闇。
こうして夜の峠を走っていると、普段何気なく使っている灯りがいかにありがたい存在であるのかが身にしみてわかる。
おまけにボクのバイクのヘッドライトは原付用の貧弱なハロゲンだ。
気休めにワット数の高いバルブを使っているけれど、それでもこの暗闇を前にしてしまえばそんなものはなんの慰めにもならない。
いっそのことLEDにしてしまえば問題は解決するのだろうけど、基礎設計が40年以上前のビーちゃんでは色々と難しいだろう。
それになによりLEDはかっこよくない。バイク乗りにとって、納得は理屈に勝るのだ。
「志摩さんよくこんな道自転車で走れるなあ」
志摩さんがどうやって本栖湖に行ったのかは知らないけど、どのルートから行こうとも結局峠道を走らなきゃいけない。
それにキャンプするというからには当然キャンプ道具も積まなきゃいけない。どれだけ軽くしてもそれなりの重さになるだろう。
想像するだけで疲れてくる。志摩さんってやっぱり体育会系なのだろうか。
「ボクはやっぱり野宿でいいや」
そんなこんなで暗闇を走っていると、山道の向こうから村の灯りが見えてきた。あと少しだ。
本栖と名付けられた信号を右に曲がり国道300号に入る。
真っ暗闇の並木道を走りトンネルを通り抜けると左側に湖が見えてきた。
「本栖湖だ……」
タールのように黒く暗い水面が、夜空に浮かぶ青白い月を蜃気楼のように映し出す。
この湖は富士山が綺麗に見えることで有名らしいけど、視界の端にちらちらと映る富士山は雲をかぶっていて、いまひとつパッとしなかった。まあ、そう都合よくはいかないか。
走りながらチラリと腕時計を見る。オートライト搭載のGショックはこんな状況でもしっかりと傾きを検知しボクに正確な時間を教えてくれた。
5時47分、危なくないようにスピードを落として走っていたからか、思っていたよりも遅い到着になってしまった。
今から志摩さんのところに行っても迷惑なだけだろう。
そもそも会ったところでコミュ障のボクがいったい何を話すというのだろうか。
「道でそれっぽい人に会ったら会釈しておけばいいよね」
そうだ、それがいい、そうしよう。と、いつも通りのクソザコムーブをかますボク。しょせんボッチはこの程度の度胸しかないのだ。
それにしても……
「と、トイレに行きたい……」
生理的不快感から発生する身震い、バイクが左右に揺れる。寒空の下でのツーリングと山中湖で飲んだココア。けっこう前からボク我慢メーターは限界値に達していた。
「そういえばこの先のトンネル前の公園にトイレあったよね」
たしか前に行ったときは有料だった気がするけれど、今はそれどころじゃない。
人としての評価は地に落ちているボクだけど、女としての尊厳だけは捨てたくない。
ギアを一段下げる。急上昇する回転数。速度と回転数が頭打ちになったところでシフトアップ。さらに加速していく車体。
2ストロークエンジン特有の高回転での加速でトイレまで一直線に進む。
「い、急げビーちゃん!」
「ま、間に合った……」
トイレの出口で手を拭きながら心の底から安堵のため息をつく。もちろん利用料の50円は募金箱の中に入れておいた。
あれから飛ばしに飛ばして展望公園のトイレまでたどり着いたボクは、トイレ横の駐車場にバイクを滑り込ませ大急ぎでトイレに駆け込み最悪の事態を回避することに成功した。
「か、間一髪だった……」
次からはもっと早めにトイレに行くようにしよう。さすがにこの歳でお漏らしは嫌すぎる。冬のバイクでココアは要注意。心に刻み込んでおこう。
「うわ、エンジンかけっぱじゃん」
とんでもない角度で止めてあるビーちゃんに呆れる。急いでたとはいえいくらなんでもこれはないでしょ。人が来なくてよかった。
「あれ? 自転車止まってる」
今になって気がついたけど、トイレの前に自転車が止まっていた。赤いミニベロだ。
一瞬志摩さんの自転車かと思ったけど、こんなところに止める理由が思いつかないので、多分不法投棄か何かだろう。マナーの悪い人もいたもんだ。
まさかとは思うけど辺りを見渡す。いちおうこの向こうが斉藤さんが言ってたキャンプ場のはずだけど……
「ま、さすがにいないか」
当たり前だけど志摩さんらしき人影は見当たらなかった。
そもそもキャンプ場は向こうにあるキャンプ場の管理事務所のさらに先にあるし、トイレに行くとしても普通はわざわざここまで歩いたりしない。
そのことに残念だなという気持ちと、鉢合わせにならなくて安心したという一見矛盾するけど、ボッチにとってはごくごくよくある感情が湧き上がる。
「それにしても寒いなあー そろそろこの服じゃ厳しいか」
いちおうPコートの中にダウンベストを着込んでいるけど、ありあわせでしかないからやっぱり限界がある。
どこかで冬装備を調達しないとな。そんなことを考えながらバイクを道路に出す。
シートに跨ってなんとはなしにメーターに目をやると、内蔵された豆電球に照らされたオドメーターがそろそろ1万6千キロに達しようとしていた。
ボクが乗り始めた時は1万キロちょっとだったから、もう6千キロも走ったことになるのか。
「そろそろオイル継ぎ足さないとなあ」
あれ意外と高いんだよあ。そんなことを考えながらクラッチを握り込んだ。その時だった。
「……声?」
誰もいないはずの本栖湖に声が聞こえた。ヘルメットとエンジンの音でわかりづらいけれど、確かに声だ。それも女性、おまけに泣き声だ。
しかもかなり近い。
「え、嘘……」
心臓を握りつぶされたかのような緊張が全身をほとばしる。え、マジ? や、やばい、早くここから離れないと。
そう思った矢先だった。ボクは気がついてしまった。声の主がどこにいるのかを。
泣き声はボクの右から聞こえていた。それも、ほとんど真横。あ、これ本当にやばいやつだ。
「えぐっ、ぐすっ」
泣き声が近づいてくる。
身体は緊張でガチガチに固まっているはずなのに、首だけが誰かに掴まれているかのように勝手に右に動き出す。
そしてボクはそれの姿を見た。
「ぐすんっ、えぐっ、うぅっ」
手を伸ばせば届く距離。生前の恨みを吐き出すかのように、滂沱の涙を流す女の影が立っていた。
影と目が合う。
「ぎゃ……」
真っ白になる頭。膨大な感情が心の中を埋め尽くし、膨れ上がり……
「あ、あの──」
爆発した。
「ぎゃああああああああああああ!!」
フルスロットルでアクセルを吹かす。
飛び散る白煙、唸るエンジン。けれど、いくらアクセルを捻ってもバイクはちっとも前に進まない。
「なんでなんでどうして!?」
「あ! ま、まってよぉー」
や、やばい、近づいてくる。は、早く進めよ!
あ、そうだニュートラルのままだった! 半狂乱になりながらシフトペダルを思い切り蹴り飛ばす。
1速、クラッチを勢いよく離す。そう、離してしまった。
問、1速フルスロットル状態で半クラッチもせず動力をチェーンに伝えるとどうなるでしょうか。
「え? う、うわぁああああっ?!」
答、ウィリーします。
前輪がものすごい勢いで持ち上がり、そのまますごい勢いで進み出す。
「う、うわ!! やばいやばい!!」
「わ、わぁあ!?」
「うるさいなあ、なんだよもう……って、うぇええ!?」
なんか新しい人増えたけど、そんなことよりどうしよどうしよどうしよ!? そ、そうだ! アクセル戻さないと!
真っ白になる意識のなか、思い切り捻っていたスロットルを元に戻す。
ガッコンとフロントタイヤが地面に叩きつけられ、フォークオイルがその衝撃の大半を吸収する。
「ぐうぇ」
同時にエンジンがガタンと音を立てて沈黙する。本栖湖に再びしじまが訪れる。
「た、助かった……」
目にかかっていたゴーグルをヘルメットに押し上げて呼吸を整える。今のは冗談抜きでやばかった。本当の意味で生命の危機を感じた。
「し、死ぬかと思った……」
「わわ、だ、だいじょうぶ!?」
後ろからそんな声とともに誰かが駆け寄ってくる。息も絶え絶えに後ろを振り向けば見知らぬ女の子が血相を変えてボクに詰め寄ってきた。
「バイクがグオーンってすんごいことになってたけど怪我は?! どこも痛いとこない? きゅ、救急車呼ぶ? それとも警察!?」
「あ、あの大丈夫なんで……」
「ス、マホスマホ! ってなんでトランプしかもってないのー?!」
目の前の人のおかげでだいぶ落ち着いていきた。
自分よりパニックになっている人がいると、冷静になれるって本当だったんだ。
「お、お姉ちゃんに電話しないと! ってスマホないんだった! ど、どうしよー!」
「だ、大丈夫ですか! って、あれ?」
遅れて駆け寄ってきたもう一人の持っていたランタンで闇に包まれていたお三人の顔があらわになる。
うちの一人はボクもよく知っている人だった。それも昨日あったばかりの人だった。
「こ、こんばんはー」
「……山中さん? なんでこんなとこいるの?」
志摩さんのごくごく当たり前の疑問が本栖湖に虚しく吸い込まれていった。
「え、え? どゆこと?」
ただ一人、状況を理解できない女の子が顔をキョロキョロと動かしていた。
用語解説
電熱グローブ
グローブの内部に電熱線を内蔵したグローブ。外部電源に繋げば真冬でもぬくぬく。便利だけど肝心の電源の取り付けが面倒。