16-1
「そういやお前ら、バイト代出たら何買うか決まったか?」
放課後の校庭。千明が買ってきたタープと青空の境目をぼんやりと眺めていると、千明がそんなことを言い出した。
そういえばもうそろそろそんな時期か。
あの楽しい正月が終わり数日が過ぎ、また学校に行く日々が始まった。
今日もボクたちは、いつものように野クルに集まり、いつものように他愛もない話をしていた。
「わたし、ついにアレ買います!」
「おお! あのランタンか!」
「ええなあ、今度キャンプする時見してえや」
「うん!」
ランタン……前カリブーに行った時ほしいって言ってたコールマンのガスランタンか。夜の湖畔とかで使ったらさぞ風情があるに違いない。
ボクもいいかげん百均の豆ランプから卒業したいな。けど、あれはあれで地味に使いやすいんだよなあ。
まあしばらく保留でいいか。
「あおいちゃんは?」
「わたしは椅子や! リンちゃんみたいなローチェア買うで!」
「あたしはハンモック。それとできれば暖房器具も欲しいよなー クリキャンでロリ子のストーブ見てからめっちゃ気になっててよ」
「あれほんまあったかかったわあ。たしかにテントあっても中寒いし、ええかもなー」
三人が思い思いに自分の買いたいものをあげていく。ボクはなに買おうかな。
「双葉ちゃんはやっぱビーちゃんやろ?」
「え、なんでわかったの! ボクまだなにも言ってないのに!」
「いや、部室に来るなり早々バイク雑誌広げて唸ってたら誰だってわかるだろ」
「あ、そういえばそうだった」
「なになに! なに買うの!」
「駆動系とかだいぶボロいし、そろそろ全部交換しよっかなって」
リアスプロケットはもちろん、チェーンにブレーキシュー全部総取っ替えだ。
難易度は高くないとはいえ命に関わる部分だから、しっかり調べて準備しないとな。
「工具も足りないからそれも買って……」
「双葉ちゃん、もしかして全部自分でやるの?」
「そうだよ。お店に頼んだらめちゃくちゃ取られちゃうしね」
せっかく久しぶりに給料がもらえるのに、お店に頼んだら赤字になってしまう。
「へぇ、なんかすごいね」
「そんな難しい場所じゃないし、工具さえあれば誰でもできるよ」
実際難易度的には自転車に毛が生えたレベルだ。
ビーちゃんのタイヤ周りの構造はカブにそっくりだから資料にも事欠かない。ちゃんと事前準備さえしておけばなんとでもなるだろう。
「みんな自転車のパンク修理自分でやるでしょ? そのレベルだよ」
「いや、やらんけど」
と、千明。え、やらないんだ。
「わたしもやったことないなぁ」
「あおいも……なでしこは?」
「わたしはお父さんにやってもらってるよ」
三人ともやったことないのか……
まあ、興味ない人にとってはそんなもんか。自分でやったほうが安いんだけどなあ。
ちなみにボクは、そもそも自転車屋に持っていくことすらできなくて泣く泣く自分で整備していたらいつの間にかできるようになっていただけである。
だって自転車屋のおじさん怖いんだもん……
「ロリ子の意外な……いやべつに意外でもなんでもないな。特技は置いとくとして、リンと恵那はなに買うんだ?」
千明がずっと端でコーヒーをすすってたリンと斉藤さんに話かける。
そう、今日は珍しくリンたちも野クルに遊びにきているのだ。
「わたしは……とくに欲しいものないし、次のキャンプ資金かな」
「わたしはもう注文しちゃった。テントなんだけどね。ほら、こういうやつ」
斉藤さんがスマホをボクたちに見せる。
スマホの写っているテントはつくりもしっかりしていてすごく使いやすそうだった。
いいなこれなんて名前なんだろ。
「え、ドギーテント?」
「ドギー? わんこ?」
ということは、人間用じゃなくて犬用ってこと?
「人入れるサイズやないし、どう見てもわんこ専用やな」
「吊り下げ式ドームテント……入り口は付属のポールでタープにも……これ、下手なテントよりよっぽど凝ってるぞ」
リンがスマホを覗きながら息を呑む。たしかに、野クルの980円テントなんか足元にも及ばない豪華さだ。
「値段は……1万円!」
なでしこが読み上げた値段にボクたちは揃って目を見開いた。
「恵那、お前なんかすごいな」
なんだか斉藤さんのちくわにかける情熱を垣間見た気がする。
「ふっふっふ、褒めるでない褒めるでない」
「ふっ、この犬バカめ」
「そんなこと言っちゃってー リンも見たくないの? このテントでくつろぐちくわ」
ちっこいテントで毛布や寝袋に包まれてくつろぐちっこいちくわ……
「なにそれすごく見たい!!」
まるで魂の叫びとも言うべき大きな声が夕方の校庭に吸い込まれていく。
……
…………
………………
ちなみに声の主はボクじゃない。なでしこでもない。
千明でもあおいでもましてや斉藤さんでもない。
「な、なな……」
まあわざわざ言うまでもなくリンなんだけどね。
たぶん心の声が溢れちゃったんだろう。恥ずかしいのか顔を真っ赤にしてプルプル震えている。
「あははは! リン溢れちゃってる! 溢れちゃってるよー!」
そんなリンを見てお腹を抱えてゲラゲラ笑う斉藤さん。鬼だ……鬼がいる。
「前々から思ってたけどよ。恵那ってけっこう鬼畜だよな」
「せやな……」
「あ、あはは」
「………殺せー!」
冬の寒空にソロキャンガールの魂の叫びが吸い込まれて……いったりはとくにしなかった。
「あー面白かった。リンもだいぶ丸くなったよねー お母さんは嬉しいわ」
「斉藤、後で覚えとけよ」
「……あれ、リンちゃん図書委員は行かなくていいの!?」
なでしこが思い出したかのように急に大声をあげる。言われてみればたしかにそうかもしれない。
「あ、言ってなかったっけ? 司書の人に頼んでちょっと減らしてもらったんだ」
なんで減らしたのかは、あえてここで聞く必要もないだろう。今ここでボクたちといることが答えだ。
「えへへ、そっか〜」
そして、その意図を理解できない人はここにはいない。ボクたちの間にどこかにこやかな空気が流れる。
「おうおう、このまま野クル入っちまえー」
その空気を逃さす千明が勧誘。これあれだ。その場のノリで押し切ろうとしてるな。
「めんどいからパス」
が、そこはリン。一切の躊躇なく千明の勧誘はばっさり断る。
「ちぇ、頑固なソロキャンガールだぜ」
「ボクはこのままでもいいと思うけどなー」
一緒にいなかったら仲間じゃないってわけじゃない。どこにいたって心が繋がっていればそれで十分だ。
「だってよー 人増えたらもしかしたら部室もらえるかもしれないんだもーん!」
「くねくねすんのやめいや」
「でもアキちゃんの言うとおり部室はほしいよね」
あれはあれで秘密基地感があって嫌いじゃないけど、こうも人が増えてくるとさすがに厳しい。
「せやなあ、どう考えてもあのスペースに6人入るのは無理やろなあ」
「縦に6人で並べばいいんじゃない?」
斉藤さんがまた適当なことを言う。でもそれなら入れないこともないか。だいぶ無理あるだろけど。
「それどうやって話すんだよ」
リンが聞く。
「うーん、伝言ゲーム?」
「えらいシュールな光景だなおい」
「ていうか、特定の誰かのところで話が致命的に捻じ曲がる未来しか思い浮かばないんだけど……」
あおいとかあおいとかあおいとか。
「「「「「じー」」」」」
「みんなしてわたしのこと見るのやめいや」
無駄話、馬鹿話。楽しい時間はあっという間にすぎていく。
ふと空を見上げる。西の空に浮かぶ太陽はどんどん赤みを増してきていた。
時計を見る。そろそろバイトの時間だ。いかないと。立ち上がってお尻の汚れをはたき落とす。
「じゃ、ボクバイトあるから先に帰るね」
「もうそないな時間か。じゃあ気ぃつけてな」
あおいとみんなに手を振り走り出す。赤く染まり始めた校庭に、ボクの影が細長く伸びていた。
あ、そうだ。立ち止まって振り返る。
タープの下でくつろいでいるみんなの姿はもうすっかり小さくなっていた。
でも、このくらいの距離なら平気だろう。大きく息を吸う。
「また明日ねー!!」
手を振り回し叫ぶ。いつもどおりの挨拶。いつもどおりの日常。
だからみんなもいつものように手を振ってこう言ってくれる。
「「「「「またねー!」」」」」
ってね。
「なあ双葉ちゃんって、旅の時の寒さ対策どないしてたん?」
またべつの日。
いつものように野クルに集まっていると、あおいが雑誌を読みながらそんなことを聞いてきた。
正月も終わり、冬もピークに達しようとしている時期。あおいの言うとおり寒さ対策は冬キャンをする上で一番大事なことだ。
「寒さ対策かぁ。とくに大したことはしてなかったかな」
「これからますます寒うなるやろ? うちら本格的な冬キャンするの初めてやし、参考にしたいんよ」
「たしかに、どうやってるのかは気になるな。あんだけバイク乗って寒い思いしてるのにロリ子いっつもぴんぴんしてるし」
あおいの言葉に千明がうなずく。自分で言うのもなんだけど、この中で一番旅慣れしてるのは事実だ。
なにせ中2の夏からほぼ毎週どこかに行っていた。大抵のトラブルは経験済みだ。
「ほんとに大したことはしてないよ。身動きができるギリギリまで着込んでるだけ」
「野宿してたんだよね? 夜とかどうしてたの?」
なでしこが聞いてくる。
「こればっかりは慣れとしか……強いて言うなら風の吹くところで寝ないとか、標高が高いところはなるべく避けるとかかな。まあそれはテントがあるから大丈夫か」
他にもトイレで寝るだとかその辺で段ボール拾ってきて囲いを作るだとか、いろいろあるけどそこまでいくとただの痩せ我慢大会になるので言わないでおこう。
「あとは……」
「あとは?」
「寝ない、かな?」
夜走れば渋滞もないし寒さもやり過ごせるし一石二鳥!
……
…………
………………
「まあ、そりゃそうだろうけどよ……」
「うちらにはちいと難易度高いなぁ」
「あ、あはは……」
「だよねー」
やっぱりボクのやり方はストロングスタイルすぎて参考にならなかったみたいだ。
リンと綾乃にも散々おかしいって言われたしなあ。
便利なんだけどな。昼夜逆転走法。
「まあわかってるだろうけど、本当に気をつけてね。ボク一回低体温症になりかけたことあるからわかるけど、ほんとにやばいから」
しかもそういう時にかぎって判断力が鈍るから危ないのだ。
あの時はゲラゲラ笑いながらやばいやばいって言ってたけど、思い返してみると本当にやばかった。
あの時のボクって頭のネジダース単位で飛んでたんじゃないってくらいぶっ飛んでたよなあ。
「だ、大丈夫だったの双葉ちゃん!」
「うん。大丈夫じゃなかったから公園の多目的トイレにこもってやりすごした」
「「「あぁ……」」」
3人の視線の温度が下がる。知ってた。だから言いたくなかったんだよー!
「そ、それでどうしたの?」
「寝ると死ぬから朝までずっとトイレで歌ってた」
おかげで歌がちょっとうまくなったのは秘密。
「あ、寝ないってそういうことやったんか」
「なんか、想像するとめちゃシュールだな」
「た、大変だったね……」
三者三様のリアクション。共通してるのはみんな顔が引き攣っていること。
ゆるゆるキャンプを楽しんでいる3人にはちょっと刺激が強かったか。
「ま、まあボクの昔話は置いといて、あとはこういうの使うとかかな」
制服の裾に手を突っ込んでハクキンカイロを巻いているベルトを外す。
「……小銭入れ?」
「カイロだよ。ほら触ってみなよ」
なでしこのとんちんかんな回答をスルーしつつカイロを差し出す。
「わぁ、めっちゃあったかいね〜」
「それちょうど今ビバークに載っとったわ。ハンディウォーマーっちゅうやつやろ? うちのおばあちゃんも使うてるで」
「なでしこ、まだ全然あったかいでしょ? これ学校行く前に燃料入れたっきりなんだよね」
「マジか。すげえ燃費いいんだな」
「満タンまで入れれば丸一日くらいは持つよ」
「燃費って、双葉ちゃんこれガソリン入ってるの?」
燃料と聞いてなでしこが少し険しい表情を浮かべる。たしかに、ボクも使う前は危ないんじゃないかって思っていた。
「ううん。入れてるのはベンジン。それに燃やしてるわけじゃなくてただの化学反応だから全然危なくないよ」
「へぇ、そうなんだー」
「めっちゃ暖かいからオススメだよー」
「ふぅーん……」
ボクのお腹をじっと見つめるなでしこ。どうしたんだろう。あとそろそろカイロ返してほしい──
「ひゃっ!?」
突然なでしこがボクの制服に手を突っ込んでお腹に手を当ててくる。
「ほんとだ。ぬくぬくだ」
感心したようにボクのお腹をさするなでしこ。さわさわと摩られるせいで妙にくすぐったい。
「な、なでしこくすぐったいって」
助けを求めてあおいのほうをチラ見する。
「……あ、ほんまや。なんかこたつに手突っ込んどるみたいやな」
なにを血迷ったのか、あおいまでボクのお腹に手を入れてきた。やばい、ほんとにくすぐったい。
「へぇ、こんなにあったかくなるんだ……」
「あはは! や、やめてー ち、千明助け──」
「ほほう。こりゃあ極楽だな」
千明の奴。どさくさに紛れてボクのカイロ自分のお腹に巻いてやがる!
けっきょく、このあとボクは3人が満足するまでお腹を触られたのであった。
「綺麗だね」
「えへへ、でしょー」
ゆらゆらと揺れるガスランタンの炎の向こうで、なでしこが笑顔でそう言った。
「家でゴロゴロしてたら急にライン来てなにかと思ったけど、こういうことだったんだ」
今日はバイトもなく、やらなきゃいけない宿題とかもなかったので、のんびりゲームでもしようかと思った矢先のことだった。
まあ、なでしこの家で遊んだりするのは大して珍しいことでもないので驚くことでもなんでもない。
「急に呼び出してごめんね。せっかく買ったんだし双葉ちゃんにも見てもらいたくて」
なでしこが自慢したくなる気持ちもよくわかる。これはたしかにいいものだ。
なんていうか上手く言えないけど、焚き火を眺めている時と同じような安心感がある。
こういうのを見るとボクもほしくなってきちゃうなあ。
「これで次のキャンプがますます楽しみになったね」
「うん!」
にっこりと笑うなでしこにつられてボクも笑い返す。
二人で黙って揺れる炎を眺める。心地の良い沈黙。ボクはこういう時間が大好きだ。
「それでね、双葉ちゃんに聞きたいことがあるんだ」
そんな沈黙を破って、テーブルの向こう側に座ったなでしこがなにやら物思いふけるような表情でそんなことを言った。
「うん? どうしたの?」
「ソロキャンって楽しい?」
「ソロキャン?」
テーブルの真ん中に置かれたガスランタンのゆらゆら揺れる炎がなでしこの瞳に反射する。
「うん。最近気になってるんだ。まだやるって決めたわけじゃないんだけどね」
「へぇ、いいじゃん。でもどうして急に?」
ボクの知るかぎり、なでしこはどちらかというとみんなで仲良くするのが好きな子だ。
だから、そんななでしこがソロキャンというボッチ趣味の極みみたいなことをやりたいと言い出すのは少し意外だった。
「浜名湖で双葉ちゃんとアヤちゃんが行ったあと、リンちゃんにいろんなキャンプの話聞かせてもらったんだ」
「そしたら気になったと」
「うん。それで双葉ちゃんもよく一人でキャンプしてるって言ってたからちょっとお話聞いてみようかなって」
「まあボクの場合はキャンプっていうか旅だけどね」
ソロキャンは実のところしたことがなかったりする。なんだかんだ言っていつも誰かしらいた。
そう考えると、最近全然一人旅してないなあ。またどっか行きたいなあ
「というか、キャンプならリンに聞いたほうが早いんじゃない? ボクよりもずっと詳しいでしょ」
「あとでリンちゃんにも聞くつもりだよ」
あ、元から総当たりのつもりだったんだ。それなら納得。
たしかに一人の意見よりもいろんな人の意見を聞いたほうがいいのは言うまでもないか。
それにしてもソロキャンの魅力か……正直考えたことなかったな。
「なにが楽しいか、か。うーん……」
改めて考えてみると難しい質問だ。楽しいことは間違いないんだけど、ゲームとかご飯みたいに明確にこれって言えるものがないから、なんとも表現しづらい。
「……なんて言えばいいんだろ。一人旅とかソロキャンもそうなんだろうけど、すごく自由なんだよ」
クソザコ脳みそをフル回転させて浮かび上がったのはこの2文字だった。
なにが一番楽しいかとなると、やっぱり自由なのが一番楽しいだろう。
「もちろんいいことばかりじゃないけどね。辛いこともいっぱいあるし、なにかあっても簡単に助けとか呼べないし」
「だよねー」
お互いに本栖湖で立ち往生しかけた経験があるから、一人の怖さは身に染みてわかる。
誰もいない山奥のど真ん中でトラブルに見舞われる恐ろしさはそこらのホラー映画とは比べ物にならない。
でも怖いからっていってやらないのはあまりにももったいない。
「でもね、楽しいこととか嬉しいこととか、寂しいこととか辛いこととか、一人ってそういうの全部ひっくるめて独り占めできるんだ」
「独り占め……」
「綺麗な景色も、おいしい食べ物も、楽しかった思い出も、ワクワクするような冒険が全部自分のものにできるんだよ」
みんなと分かち合うことも大切なことだとは思うけど、人間はそんなに真面目な生き物じゃない。
「それって、なんかすごくワクワクしない?」
言ってしまえば宝物は独り占めしたくなるってことだ。
「ワクワク……」
「なでしこも経験あるんじゃない? 引っ越した時一人で本栖湖見にいったでしょ? その時どう思った?」
「……すっごいワクワクした」
「ソロキャンとか一人旅って、そういうのがずっと続くんだよ」
友達も家族も、周りにいる人たちが誰も見たことないような景色をたった一人で堪能する贅沢。
知らない景色、知らない風、知らない匂い。誰のものでもない自分だけの宝物。
一人っていうのはなにも悪いことばかりじゃない。
一人じゃ見えないものがあるように、一人じゃないと見えないものもあるのだ。
「それに、寂しいって意外と楽しいよ」
もっとも、これに気がついたのはなでしこたちと出会ってからだけどね。
「リンちゃんもおんなじようなこと言ってた……ソロキャンは寂しさも楽しむものだって」
「まあ、けっきょくやってみるのが一番だよ」
百聞は一見にしかず。百見は一考にしかず。百考は一行にしかず。
ネットで調べたって、動画を見たって、得られるものはほんの少しだ。
なにごとも実際にやってみなくちゃ、行ってみなくちゃわからない。
考えてみて、調べてみて、準備して、試してみて。
うまくいけば嬉しいし、失敗すればどうすればいいか頭を捻る。
そういうことを何度も何度も繰り返し、自分だけの冒険を作り上げていく。
それが楽しくて楽しくてしかたがない。
指先一つで誰とでも繋がれて、未知なんてものはなくなってしまった世界だけど、ちゃんと目を向ければ冒険はいろんな場所に転がっている。
あとはそれに気がついて、飛び出すか飛び出さないかだけだ。
「せっかくバイトも決まったんでしょ? できることだってずっと増えたんだから、楽しまなきゃ損だよ」
成長して背が伸びれば高いところに手が届くように、大きくなるにつれてできることは増えていく。
子供の時は憧れるだけだったことが、叶えられるようになっていく。
夢は夢じゃなくなる。
そうやって叶えた夢を糧にして、また次の夢を見る。
「まあ、そんな感じ。どうかな? ちょっとは参考になったらいいんだけど」
「うん! ありがと双葉ちゃん! わたしやってみるよ!」
なでしこが瞳をキラキラと輝せて大きくうなずく。どうやら決意はかたまったみたいだ。
ちょっとだけ心配だけど、まあなでしこならきっと平気だろう。
「あ、そうだ。この前なでしこが見たいって言ってた旅先で撮った写真、持ってきたよ」
椅子の下に置いていたリュックから分厚いアルバムを出すとなでしこが目を椎茸みたいに輝かせ身を乗り出した。
「あ、見たい見たい!」
「わたしも見たいわ〜」
突然間延びした声がして振り向く。廊下に続くドアが開いていて、桜さんにそっくりな女の人がボクたちを見ていた。
「あ、お母さんおかえりー」
「静花さん、お邪魔してます」
ボクはそう言ってなでしこのお母さん各務原静花さんにお辞儀した。そうだ。あれも忘れてた。
鞄から大きめの袋を取り出してテーブルに広げる。
「あ、これもしかして」
「はい。またクッキー焼いてきました」
「やったー! 双葉ちゃんのクッキーだ!」
なでしこが今日一番の笑顔で喜ぶ。この笑顔を見ただけで作ってきたかいがあるものだ。
「いつもありがとうね。そうだ。お茶用意するわね」
「おいひぃ〜」
ってもう食べてるし。まあいつものことだけどさ。
「おいしいわよね〜」
そしていつの間にかなでしこの横に座った静花さんが、同じようにもしゃもしゃクッキーを食べている。
うん。親子だなー
ていうか足りるかな。前に持ってきた時の三倍多めに持ってきたから大丈夫だろうけど……
「いくらでも食べられちゃうよ〜」
「そうよね〜」
なんか……この前よりペース早くない? これ桜さんとなでしこのお父さんの分残るかな。
「ただいま」
またドアがガチャリと開いて、桜さんがやってきた。
「お姉ちゃんおかえりー」
「暗……あんたまたランタン付けてるの? 目悪くなるからほどほどにしときなさい」
パチンとスイッチが入れられてリビングが一気に明るくなる。うぇ、眩しい。
「あら、双葉ちゃん来てたのね。いらっしゃい」
「はい、お邪魔してます」
「双葉ちゃんがクッキー焼いてきてくれたのよ〜」
「そう」
静花さんの言葉に桜さんが短く返事して、自分の部屋に戻る……
ことはなくそのままボクの隣に座った。あ、桜さんも食べるんだ。
「いただくわね」
桜さんのメガネが怪しく光る。
「は、はい、どうぞ」
ボクが返事すると、無言でうなずいてクッキーを食べ始めた。
「……やっぱりおいしいわね」
桜さんの食べるペースが上がった。顔がすごい険しいからたぶんうまく焼けたんだと思う。
「「「……」」」
そしてもしゃもしゃクッキーを食べ続ける各務原家。飲み物とかいらないのかな。
まあいいや。ボクも食べよ。クッキーの入った袋の中に手を伸ばす。
「……あれ?」
が、あるはずのクッキーはどこにもなく、ボクの指は宙を掴むだけだった。
嘘でしょ……まさかあれだけあったクッキーをもう食べたっていうの? まだ5分も経ってないんだけど。
「おいしかったわぁ ごちそうさま双葉ちゃん」
「はぁ、おいしかった〜 ありがと双葉ちゃん」
「ど、どういたしまして……」
みんなすごくおいしそうに食べてくれて嬉しいんだけど、ボクも食べたかったな……なんて。
まいっか。元からなでしこたちにあげるつもりで焼いたやつだし。
だから気にしてないったら気にしてない。
「ちょっと」
ちょんちょんと横から袖を引っ張られる。振り向くと桜さんがボクのことをじぃーっと見ていた。
「ど、どうしたんですか?」
ボクが聞くと、桜さんがボクの前に甘い香りのするなにかを差し出してきた。
「どうせ二人が食べ尽くすだろうと思って、双葉ちゃんの分取っておいたわ」
桜さんの言うとおり、ボクの手元にはそこそこの数のクッキーがティッシュの上にまとめられていた。
「……ありがとうございます」
万感の思いを胸に桜さんにお礼を言って、クッキーをパクリ。うん。おいしい。
「「じー」」
そんなボクを見つめる二対の視線。
わざわざ言うまでもなく、なでしこと静花さんだ。気のせいかな、なんか圧がすごいんだけど。
「……簡単なやつでよかったら、作りましょうか?」
コクコクと無言でうなずく二人。しかたない。ちゃちゃっと作るとしますか。
冬真っ盛りの1月。弱まるところを知らない寒さの中、またボクたちの新しい冒険が始まろうとしていた。