【完結】ザコの旅   作:クリス

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「はい、これ」

 

 パチパチと音をたてて燃え盛る焚き火を見ていると、コップがさしだされた。

 

 差出人は志摩さんだ。ここは本栖湖のキャンプ場、ボクたちは志摩さんのテントにお邪魔になっていた。

 

 マグカップを受け取る。チョコレートの甘い香りが鼻をくすぐった。

 

「ココア、コップ一つしかなかったから二人で飲んで」

 

「あ、ありがとうございます」

 

「え、いいの! ありがとー!」

 

 ずっとバイクに乗っていたから、これは素直にありがたい。

 

「じゃあ、いただき──」

 

 湯気を立てるココアに口をつけようとして、すんでで止める。このココアが今一番必要なのはボクじゃあないだろ。

 

 マグカップを隣で焚き火にあたっている桜色の髪をした女の子に渡す。

 

「うん?」

 

「か、身体冷えてると思うから、先に飲んだほうがいいと思います」

 

 ボクは慣れているから平気だけど、この子はそうじゃないかもしれない。

 

 焚き火で暖まっていても、やっぱり中から暖めるのが一番効率がいい。

 

「ほんと! ありがと! いただきまーす」

 

 女の子はマグカップを受け取ると勢いよくココアを飲み始めた。

 

 なんか、すっごい美味しそうに飲みなあ。

 

「ぷはっ〜! 甘くておいしいーね! はいどうぞ!」

 

「あ、はい」

 

 女の子からマグカップを受け取って、まだまだ熱々のココアを身体の中に流し込む。

 

「あ、あったかい……」

 

 山中湖でも飲んだけど、やっぱり缶よりも粉で入れたココアのほうが断然美味しい。

 

 気がついたらまだそれなりの量があったはずのココアはすっかり空になっていた。

 

 そうやってほっと一息ついて、焚き火を眺めていると、未だに騒めいていた心が落ち着きを取り戻していく。

 

「で、そっちが今日山梨に引っ越してきて、自転車で富士山見にいったけど、疲れて横になって気がついたら真っ暗だった、と」

 

「えへへ」

 

「えへへじゃないよ」

 

 改めて志摩さんの説明を聞くとこの子すごいことしてるな。新天地初日で富士山までくるってとんでもない行動力だ。

 

「で、こっちが、泣きついてきたこの子にびっくりして思い切りウィリーした、と」

 

「はい、一言一句事実です……」

 

 羞恥心のあまり顔を手で覆い隠す。

 

 そう、あの幽霊の正体は隣で焚き火にあたっているこの子だったのだ。

 

 あんな思いっきり叫んでウィリーして、しかも相手はただ迷子になって助けを求めてきただけの女の子って……

 

「死にたい……」

 

「し、死んじゃダメだよー!」

 

「大袈裟すぎだろ。それにしても、すごいウィリーだったね。怪我とかしてない?」

 

「うん、ボクもバイクもなんともなかったです」

 

 衝撃はサスペンションが吸収してくれたし、変な話だけどすごい綺麗にウィリーしたおかげで怪我一つなかった。

 

 バイクもフルスロットルでクラッチを繋げてしまったけど、駐輪するために一度エンジンをかけた時には問題なく動いた。

 

 さすがはヤマハ、メイドインジャパン万歳。

 

「ボク? そっか、ならよかった」

 

「さっきはほんとにごめんね?」

 

「いきなりパニックになったボクも悪かったんでいいです。それよりも、貴方のほうは大丈夫?」

 

 そう、ボクは別に問題ない。バイクが壊れているわけでもないし、あとは家に帰るだけだ。

 

 ここから家のある南部町までは国道を使えばだいたい40キロくらい。バイクなら特に問題になる距離じゃない。

 

 だからボクなんかはどうだっていい。問題はこの子だろう。

 

「そ、そうだった! ど、どうしよー!」

 

「来た道戻って帰ればいいんじゃない? 下りだからすぐだと思うよ」

 

「む、無理だよぉ! 超怖いよぉ!」

 

 さっきまで走ってきた道を思い返す。たしかにあの暗闇を自転車の貧弱なライトで進むのは下手なホラー映画よりもずっと怖いだろう。

 

「じゃあ、家に電話は?」

 

「スマホ忘れました!」

 

「マジか……じゃあわたしの貸してあげるから家に電話して迎えにきてもらいなよ」

 

「電話番号わかりません!」

 

「……自分の電話番号は?」

 

「同じく記憶にございません!」

 

 おい、どうすんだよこれ。やばい、志摩さんがすんごい面倒臭そうな顔してる。

 

 あ、そうだ!

 

「あ、あの──」

 

 ボクが言おうとした言葉は、突如辺りに鳴り響いた不気味な音でかき消された。

 

 ま、またお化け!?

 

「えへへ、安心したらお腹すいちゃって……って、なんで立ち上がってるの?」

 

 違いました。は、恥ずかしい……今日は厄日だ。

 

「あ、そうだ」

 

 志摩さんが手をポンと叩くと、キャンプの荷物からカップのようなものを取り出した。

 

 焚き火にあてられカップの正体があらわになる。

 

「カレー麺でよかったらあるけど」

 

「え! くれるの!? あっ、でも……」

 

 女の子の顔が一瞬嬉しそうに輝く。けど、すぐに曇ってしまった。そして、もうしわけなさそうにボクのことをみた。

 

「ラーメンって三人分ある?」

 

「ごめん、今日は二つしかもってきてない」

 

 もうしわけなさそうに謝る志摩さん。謝るも何も志摩さんは何も悪くない。

 

 いきなり押しかけたのに嫌がりもせず焚き火を貸してくれてココアをくれただけでも十分すぎるくらいだ。

 

「あの、ボクは山中湖で食べたんで大丈夫です」

 

 嘘だ。本当は昼に軽食を取ってからまだココアしか飲んでいない。

 

 でも、ボクなんかよりこの子のほうがよっぽど不安だろうし、ここはご飯でも食べて一息ついたほうがいいと思う。

 

「そっか、じゃあそれなら」

 

 そう言ってコッヘルに水を張ってバーナーに火をつける志摩さん。

 

 あれボクのほしかったSOTOのシングルバーナーじゃん。いいなあ……

 

「そういえば、さっきも不思議だったけど、あっちの焚き火で沸かさないんだね」

 

「焚き火だと温度低くて時間かかるし、煤で真っ黒になるから基本的に使わないかな」

 

「すごい! なんだかプロみたいだね!」

 

 たしかに、今までのやり取りを思い出すと、志摩さんはいかにも場慣れしているって感じだった。

 

 昔からこうして一人でキャンプをしているのだろうか。なんかすごいなあ。

 

 そうこうしていると、コッヘルの水がぶくぶくと沸騰しはじめ、志摩さんがカップ麺の蓋を開けて中にお湯を注いだ。

 

 あとは3分待つだけだ。

 

「そういえば、山中さんはなんで本栖湖に居たの?」

 

「えっと、ボクはツーリングです。それで、斉藤さんが志摩さんがここでキャンプしてるって教えてくれたんでちょっと寄ってみました」

 

 ただし顔を見せるとは言ってない。文字通り寄るだけのつもりだった。

 

「あ、あいつ……」

 

 うわぁ、やっぱり言わないほうがよかったかな。ボクのせいで斉藤さんと志摩さんの仲が悪くなったらどうしよう。

 

 まあ、その時はボクが土下座でもなんでもしてなんとかしよう。

 

「ライダーさんなんだー かっこいいなあ」

 

 原付乗りはライダーと言ってもいいのかな。でも、いちおうビジネスバイクだしライダーでもいっか。

 

「まだ乗り始めて四ヶ月くらいしかたってないですよ」

 

「へぇ、けっこう最近なんだね。それで山中湖まで行ったんだー それから本栖湖までって、めっちゃ遠くない?」

 

「そう? たったの100キロですよ?」

 

「普通に遠いよー!」

 

 横で聞いてた志摩さんの顔がちょっとひきつった。あれ、100キロって近所だよね? 違ったっけ。

 

「あ、そういえばまだ二人の名前聞いてなかった! わたし、各務原なでしこ、15歳、高校一年生!」

 

「えっと、志摩リン」

 

「山中、双葉です……」

 

「リンちゃんに双葉ちゃん! よろしくね!」

 

 もうナチュラルに名前呼びだ。各務原さん、なんて恐ろしい子なんだ。斉藤さんとまた違う意味で凄まじいコミュニケーション力だ。

 

 斉藤さんが老成されたコミュ力なら、この子はナチュラルボーンって感じ。

 

「そういえば、リンちゃんと双葉ちゃんって知り合いみたいだけど、同じ学校だったりするの?」

 

「そうだよ。クラスは違うけど」

 

「あれ? でもリンちゃんと同じ学年で双葉ちゃんがバイク乗ってるってことは、双葉ちゃんもしかして無免許運転?!」

 

「そこは普通高校生だろ」

 

 焚き火を囲んで楽しくお喋り。誰かとキャンプなんてしたことないけど、こんな感じなのかもしれない。

 

 マシュマロ焼いたりバーベキューしたり、絶対楽しいんだろうな……

 

 焚き火の匂いに紛れてカレーのいい匂いが鼻をくすぐった。そろそろ3分たったか。

 

 ほんとにお腹空いてきたなあ……

 

「志摩さん、ボクちょっと向こうに行ってきます」

 

「あ、うん」

 

 焚き火から離れ一人湖岸に向かう。あの二人なら仲良くやれるだろう。ボクはお役ごめんだ。

 

 美味しい美味しいという声をバックに一人富士山を眺める。ボッチはこうして一人でいるほうが似合っている。

 

 と、中二ムーブをかますボク。

 

「曇ってて、全然見えないや」

 

 ちょうど富士山を覆うように雲が被っていて肝心の富士山は下から半分しか見えない。

 

「今度5合目まで走ってみようかな」

 

「うーん、やっぱり曇ってて見えないね、富士山」

 

「うわっ!」

 

 いつの間にか横にいた各務原さんに驚いて飛び退く。

 

「あれ、どうしたの双葉ちゃん」

 

「も、もう食べたんですか?」

 

「ううん、違うよ。はい!」

 

 その声と一緒に差し出されたのはコッヘルに注がれたカップ麺だった。

 

「これって?」

 

「双葉ちゃん、さっきわたしのカレー麺見てたからもしかしてお腹空いてるのかなーって思って。あ、ちゃんとお箸つける前にわけたから大丈夫だよ」

 

 だから一緒に食べよ? そう言って、各務原さんがボクの手を引っ張った。

 

 ラーメンの注がれたコッヘルを溢さないようにしっかりと持ちながら、各務原さんの背中を見る。

 

 ボクより少し大きいだけなのに、その背中はずいぶんと大きく見えた。

 

 そのあと食べたカレー麺は、今まで食べたラーメンの中でも文句なしに一番美味しかった。

 

 

 

 

 

「それで、なでしこはどこからきたの?」

 

 三人でカップ麺を平らげひと息つく。

 

 日が沈み切った本栖湖はさらに寒さを増してきたが、志摩さんが気を利かして焚き火の勢いを強くしてくれたので、特に問題はなかった。

 

 焚き火ってこんなに暖かいんだな。

 

「ここからずっと下の南部町ってところだよ」

 

 南部町、奇しくもボクが住んでる家も南部町にある。

 

「あ、あの、ボクも南部町に住んでます」

 

「そうなの! やったー! 一緒だね!」

 

 これでいつでも遊びに行けるね! とボクの手をとってまるで自分のことのように喜ぶ。え、もうそこまで考えてるの。

 

 って違う。そうじゃない。ボクはさっき言おうとしたことをもう一度言う決心をした。

 

「そ、それで提案なんですけど」

 

 自転車で帰れない最大の理由は何か。それは暗すぎることだ。

 

 急なカーブに突然横切る動物。峠道は見通しのよさが安全に直結する。逆に言えば見通しさえよければ交通量の少ない峠はそこまで危なくないのだ。

 

「ボクが麓まで先導するから自転車で帰りませんか?」

 

 だから、その問題さえ解決してしまえばあとは走るだけ。そしてその問題の解決手段は駐車場でボクを待っている。

 

「え、いいの? あ、でも……」

 

 各務原さんが後ろを振り返る。そこにあるのは一面の闇。まあ、人がいたとしても怖いものは怖いか。

 

「大丈夫、ボクがついてるから。ちゃんとゆっくり行くしバイクのヘッドライトなら全然暗くないから」

 

 連絡手段がない以上、これ以上の最善策はない。いずれにしろいつかは帰らないといけないのだから、もうこうするしかない。

 

「わたしもそれがいいと思う。山中さん、お願いしてもらってもいいかな」

 

「うん、わかった」

 

「り、リンちゃんまで、そ、そうだよね、行くしかないよね。トホホ……」

 

 ちょっとかわいそうだけど、こればっかりは本当にしかたがない。各務原さんには悪いけど、今回だけは我慢してもらうしかない。

 

「富士山曇ってて見えないし、寝過ごして真っ暗になっちゃうし、災難だよぉ」

 

 ふと、背中から優しい光が差した。木々や草花が銀色に輝きだす。

 

「……なでしこ、後ろ」

 

「もう、聞いてよ奥さんって……うん?」

 

 志摩さんがボクたちの後ろを指さす。振り返る。

 

「見えないって、あれのこと?」

 

 そこには、月に彩られ銀色に輝く富士山があった。

 

 ラメを散りばめたかのような冬の星々。粉砂糖のような雪化粧。その横で輝く銀色の月。

 

 全てが完璧で、全てが美しい。思わず息を呑む。

 

 各務原さんが立ち上がった。

 

「あ、お姉ちゃんの電話番号覚えてた」

 

 そして唐突にそう呟いたのであった。

 

 

 

 

 

「うちのバカ妹が本当にお世話になりました!」

 

 そう言って各務原さんのお姉さん、桜さんというらしい。が、深々とボクと志摩さんに頭を下げた。

 

「えへへ、ごめんねお姉ちゃん」

 

「えへへじゃないでしょが! ほら! あんたも頭下げる!」

 

 呑気に笑っていた各務原さんも、隣から伸びてきたお姉さんの手によって強引に頭をさげさせられた。 

 

 あのあと電話番号を思い出したと言った各務原さんは、志摩さんから電話を借りて無事に家族と連絡を取ることができた。

 

 それから1時間もしないうちに水色の大きなSUV、名前は忘れちゃったけどけっこうレアなやつがやってきて、中から血相を変えた各務原さんのお姉さんが現れた。

 

 そこから先は見てのとおりだ。

 

 何はともあれ無事に迎えがきて本当によかった。

 

 バイクの先導だって絶対に安全というわけでもないしね。車で帰れるのなら車を使うにこしたことはない。

 

「あの、これお詫びです。二人でわけてください」

 

「あ、はい」

 

 ボクと志摩さんにそれぞれビニール袋を手渡す。中を見るとキウイが山のように入っていた。

 

「あんた出かける前携帯忘れんなってあれほど言ったでしょうが! このすっとこどっこいが! おら! とっとと乗れこのブタ野郎!」

 

 前から聞こえるアグレッシブな罵声をBGMにキウイを持ち帰る算段を立てる。

 

 うん、これならギリサイドバッグに入りそうだ。

 

「それと双葉ちゃん、だったかしら」

 

 そんなことを考えていと、各務原さんを車に積み終えた桜さんがボクに話しかけてきた。

 

 改めて見るとすごい美人だ。すらっとした体型に長い黒髪。黒縁の眼鏡がよく似合っている。

 

 同じ眼鏡なのにどうしてこうも違うのだろうか。やっぱり値段が違うのだろうか。

 

「は、はい、なんですか?」

 

「うちのバカ妹から聞いたんだけど、思い切りウィリーしちゃったって本当?」

 

 ぐ、ここで黒歴史を掘り起こすのはやめてほしい。でも、相手は純粋に心配しているだけだろうし……

 

「う、はい……スロットル捻っても進まなくて、あれっと思ってギアいじったらロー入っちゃって」

 

「ウィリーしたと」

 

 あれ、なんか各務原さんのお姉さんの様子がおかしいぞ。俯いてるし、心なしか肩震えてない? てか笑ってない?

 

「ふ、ふふ、ロー入ってウィリーしちゃったのね……」

 

「お、お姉さん?」

 

 ほんと、いきなりどうしたんだろ。なんか心配になってきたんだけど。

 

「はっ!? ご、ごめんなさい、なんでもないわ。それよりも怪我とかしてない? もし何かあったらすぐに連絡してちょうだい。うちの妹に世話させるから」

 

「あ、ありがとうございます。でも本当に大丈夫なんで」

 

 世話って何させるつもりなのだろうか……いや、まあいいや。

 

「そ、ならよかった。それで、たしか貴方も南部町に住んでるのよね? 今から帰るところ?」

 

「はい、あのバイクで帰ります」

 

 ボクはそう言ってSUVの隣に停めているビーちゃんを指さした。そんなボクの言葉に桜さんの表情が少しだけ曇る。

 

「あの道、街灯もほとんどなくて真っ暗だし、よかったらわたしの車で先導するから一緒に帰らない?」

 

 別に慣れているから大丈夫なんだけどな、どうしよっか。

 

「わたしもそれがいいと思う。山中さん慣れてるみたいだけど、やっぱ危ないし」

 

「うんうん! 一緒に帰ろー!」

 

 志摩さんといつの間にかまた外に出てた各務原さんにまで一緒に帰ることを勧められてしまった。

 

 先に行くまで待つ理由もないし、ここは素直に好意に与らせてもらおう。

 

「わかりました。すいませんお願いします」

 

「やったー! じゃあ家まで一緒だね」

 

「あんたはなんで車から出てんのよ! とっとと乗りなさい! いいかげん帰るわよ!」

 

「あ! お姉ちゃんまって引っ張らないで!」

 

 お姉さんの制止を振り切った各務原さんが何か紙切れのような物をバイクに乗ろうとしているボクと志摩さんに手渡した。

 

「はい、これわたしの番号! さっき電話したときにお姉ちゃんに聞いたんだ!」

 

「あ、うん」

 

「リンちゃん! カレー麺ありがと! 双葉ちゃん送ってくれるって言ってありがと! 今度はちゃんと三人でキャンプやろうね!」

 

 またねー! と、最初のころの泣きじゃくっていた姿はどこへやら、すっかり元気を取り戻し手を振りながら車に戻っていく各務原さん。

 

 なんか自然と三人でキャンプやる流れになってたけど、まあいいか、もう会うこともないだろうし。

 

 車のエンジンがブルンと音を立ててかかる。ボクも帰るか。ヘルメットを被ってキックペダルを展開する。

 

「志摩さん、ぼ、わたしもこれで帰ります。さっきはありがとうございました」

 

「ううん、別にいいよ。こっちも一人だったらパニックになってたかもしれないし」

 

 冷静な志摩さんにかぎってそんなことは起こらないと思うんだけどなあ。

 

 でも、一人であの泣きじゃくる各務原さんに遭遇したら志摩さんでもやばかったかも。あれ、本当に怖かったし。

 

「じゃあ、行きます」

 

 キックペダルを踏み込みエンジンをかける。

 

 あれだけ無茶させたけど、そんなことじゃへこたれないと言わんばかりに一発でエンジンがかかるビーちゃん。

 

「あ、それと!」

 

 どうしたんだろう。ゴーグルをかけながら志摩さんに振り向く。

 

「気のせいだったらいいんだけど、無理してわたしって言わなくていいと思う。そういうのって人それぞれだし、あと敬語とか使わなくていいよ。同い年でしょ?」

 

 あれ、なんで知ってるの? 

 

 って、そういえばさっきからボクって言っちゃってた気がする。ウィリーで気が抜けてたのかなあ。

 

「わかりま……うん、わかった」

 

「双葉ちゃーん、もう出発しても大丈夫かしらー?」

 

 運転席の窓から顔を出した桜さんに手を振って答える。SUVのウィンカーが発進の合図を示し、車体が進み出す。

 

 それに合わせてボクもスロットルを回す。今度はウィリーなんてしない。

 

 リーンアウトで限界まで車体を倒し最小限の旋回半径でUターン、車を追いかけてスロットルを回す。

 

 ミラーに映る手を振る志摩さんに向かってボクも左手で手を振る。

 

 これで一件落着か。本当無駄に疲れた。

 

 

 

 

 SUVに先導され約1時間。ついに南部町までたどり着いた。そろそろボクの家のある路地にたどり着く。

 

 赤信号で止まったSUVに横付けすると、運転席の窓が開いて桜色と黒色の頭がこちらを向いた。

 

「あの! ボク、こっち右折なんで! ここまでありがとうございました!」

 

「じゃあここでお別れね。車に気をつけてね!」

 

「おやすみー! また三人でキャンプしよーねー!」

 

 手を振って答える。青になる信号。バイク特有のシグナルダッシュでSUVより先に前進する。

 

 今日は本当にいろいろなことがあった。変わった女の子との出会いに、夜の富士山、そしてカレー麺。

 

 ミラーをチラ見。死角に入った車はもう見えなくなっていたけれど、きっと各務原さんはこっちを見ているんだろうなと、根拠もなくそんな確信を抱いた。

 

 ボクも早く家に帰ろう。お腹も空いたしね。カレー麺半分だけじゃやっぱ足りないよ。

 




用語解説

SOTO
新富士バーナーの保有するブランド。どの商品も高水準にまとまっていて、登山ガチ勢のドイツでの受賞経験もある。シングルバーナーで迷ったらこれ買っておけば正解。けど高い。

水色のSUV
日産がかつて生産していたラシーンという車。かなり人気だったらしく専門のショップがあったほど。桜のラシーンはヘッドライトや内装などが純正と異なる。おそらくカスタムパーツ。

ロー入ってウィリー
だるま屋ウィリー事件で検索。なまら怖かったよ。

リーンアウト
身体をバイクが曲がる方向とは逆に傾ける走法。小回りする時にとくに有効。

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