20-1
「ち、千葉、ですか?」
2月、放課後。まだまだ寒さが続く校庭で、鳥羽先生がボクのひと言に目を丸くした。
3月に控えた伊豆キャンの打ち合わせの最中のことだった。
「はい、伊豆行く前にちょっと行ってこようと思いまして」
あそこらへんは冬でも比較的暖かいって聞くし、ひとっ走りするにはうってつけだろう。場所によっては寒いらしいけど、沿岸部なら比較的暖かいはず。
まあなんにせよ、ここよりはずっと走りやすいに違いない。
「ちょっとって距離ではないような……ちなみにどこまで?」
「ざっくりとしか決まってないですけど、フェリー乗って房総半島行って銚子くらいまでは行こうかなって思ってます」
あそこは房総フラワーラインをはじめとして、ツーリングの名所として有名だ。
キャンプ場もそこそこあると聞いたけど、今回の目的はツーリング。キャンプはたぶんしないだろう。
「ちょ、銚子って、かなり遠いと思うんですが……」
どこか懐かしさを感じるリアクション。そういえば、鳥羽先生ってボクがよくツーリングに行くの知らないんだっけ。
「せいぜい400キロ弱なんで、なんてことないですよ」
南部町から久里浜まで約150キロ。そこからフェリーで金谷港に渡り200キロちょっと。
帰りは東京経由で帰るとして、総走行距離は約650キロ。
往復1000キロにも達してない。やろうと思えば日帰りでも行ける距離。ボクにとってはいつものツーリングの範疇だ。
「よ、400……」
ボクが言うと鳥羽先生がなんだかげっそりとした顔で天を仰いだ。この反応なんか懐かしいなあ。
「鳥羽先生。この子昔からこうなんで、あんま深く考えんといてください」
「そういやロリ子去年も琵琶湖行ってたもんな……なんかもう慣れたわ」
「あと、リンと浜松にいるボクの友だちもついてきます」
関西弁とメガネのあんまりな言い草をスルーしつつ今回の旅の道づれ……もとい同行人を伝えると、「えっ」と驚く声が聞こえた。
「リンちゃんも行くの!?」
なでしこが目を丸くする。綾乃がついてくことには疑問を抱いてないのはこの際気にしないでおこう。
そういえば綾乃、この前も伊豆のほう行ってきたとか言ってたっけな。どうせなら一緒に行けばよかった。
「うん、ついてくつもり」
「おぉ、やるねえリン」
「がんばってね! リンちゃん!」
「なんとか死なないようについてってみる」
「くそっ、手遅れだったか………」
「聞こえてんぞ千明。まだ大丈夫だから」
さっきからなんかさんざんな言われようだなあ。まあいいけどさ。いつものことだし。ていうかまだってなんだろう。
「志摩さんまで……二人とも、本当に行くんですか?」
「はい、2月の終わりの連休に行ってくる予定です。だよね双葉」
「うん、そうだよ。って言っても連休まるまる使うわけじゃないけどね」
「そういや行きと帰りにアヤちゃん泊まるとか言ってたっけ」
リンの質問にうなずく。綾乃だけ浜松から来るのでちょっと遠い。だから行きと帰りにボクの家に一泊していくことにしたのだ。
なしくずしにリンまで泊まることになったのは予想外だったけど。そういうのもたまにはありだろう。
「えっ、アヤちゃんこっち来るの!?」
「うん、そうだよ。フェリー間に合わないしね。なでしこも来る? 夜の11時くらいに行けば会えると思うよ」
「行く行く! わぁー! 楽しみだなー!」
幼馴染との思わぬ再会に目を輝かせるなでしこ。最後に会ったのって正月か。もうひと月経ったのか。元気にしてるかな。
「にしてもフェリーなんて出とるんやな。東京方面から千葉行くのってアクアラインだけかと思っとったわ」
「東京湾フェリーですね。三浦半島と房総半島を結ぶ定期便です。私も妹と一緒にキャンプしに行ったときに乗りました」
「船旅かぁー! いいなぁ、あたしらも行きてーなー!」
「アキちゃんはその前にテストなんとかしよーねー」
「うぐっ、そうだった……」
「お二人も勉強のほうは大丈夫なんですか?」
鳥羽先生が聞く。テストがある日は月末。ちょうど旅から帰ってきたらすぐだ。教師としてはごく当たり前の心配だろう。
「はい、もちろん。ね、リン」
とはいえ、そこらへんも当然抜かりはない。今回も心配するようなことはなにもないだろう。
「はい、それなりに自信はあるつもりです」
リンもボクや恵那、なでしことしょっちゅう勉強してるしたぶん大丈夫だ。
「そうですか。ならいいのですけど……」
まだちょっとだけ納得してないといった様子の鳥羽先生。しばらく考え込むように目を伏せたあと、やがて諦めたかのようにため息をついた。
「その……くれぐれも無茶だけはしないでくださいね。たしか山中さんも志摩さんも原付でしたよね? そのお友達のかたも含めて、事故にだけは本当に気をつけてくださいね」
3月には伊豆も待っている。絶対無事に帰ってこよう。せっかくの楽しいキャンプなのに、ボクたちだけいなかったら意味がない。
「「はい!」」
「ついたらちゃんと連絡してくださいね」
「「はい」」
「それと、ちゃんとご家族の方にもちゃんと報告するように」
よほど心配なんだろう。ほんといい先生だよなあ鳥羽先生って。でもちょっと心配しすぎなのは、気のせいだろうか。
「あと──」
長い……
それから、約5分ほど先生の注意は続くのであった。
「よろしいですか? 二人とも」
「「は、はい……」」
や、やっと終わった。
「よ、よーし! そうと決まれば房総半島の名物とか調べとこうぜ。そうすりゃあたしらのお土産も……ぐへへ」
「あ、ごめん千明。伊豆も控えてるからあんまりお金使いたくないし、お土産はまた今度ね」
「ぐへへ、お土産がいっぱいずら…………まじで?」
「まじで」
「……まじか」
がっくりとうなだれる千明。そんなにお土産期待してたのか。
さすがにかわいそうだし、ちょっとくらい買ってこようかな。ピーナッツとか。
「まあまあ元気だしなって。伊豆で豪遊するんでしょ?」
恵那が千明の背中をポンポンと叩く。この二人、いつの間にかすっかり仲良しになってるし。
「ふふふ、それじゃあ話を戻して伊豆キャンの計画を立てましょうか。みなさんどこか行きたいところはありますか?」
「あ、先生。うちの妹も連れてっても──」
キャンプ、そして旅。二つの冒険が始まろうとしている。
新しい景色、新しい風、新しい匂い。新しい冒険。そんな未知を思い浮かべるだけで、ボクの胸は期待に膨らむ。
どんな旅が待ってるのかな。
ピンポーン!
玄関のベルが鳴る。来たみたいだ。パタパタと玄関に駆け寄ってドアを開ける。見慣れた黒髪と桜色の髪の友だちがドアの前でボクを見ていた。
「双葉ちゃん! 遊びにきたよー!」
「ど、どうも……」
いつもどおりのなでしことは打って変わってモジモジしながらどこか恥ずかしそうなリン。
そういえばリンってボクの家に来るの初めてだったっけ。
「いらっしゃい! 入って入って〜」
「は〜い」
「お、おじゃまします……」
そんな二人をリビングに通す。なでしこがいるのはいつもどおりだけど、リンがいるのがなんだか不思議だな。
「でか……」
「リンちゃんもそう思うよね。わたしも初めて来たときびっくりしちゃったよ」
「もしかして、双葉ってお嬢様的なやつなのか……全然見えないけど」
「あ、リンちゃんリンちゃん! 双葉ちゃん家ね! お風呂もすっごい広いんだよ! あとで3人で一緒に入ろ!」
「いや、温泉じゃないんだから……てか3人も入れるのか」
「二人とも、ずっと立ってないでこたつ入ろーよ。お茶出すよ。あ、なんか食べる? プリン作ったばかりなんだー」
「わはぁ! プリン! 食べる食べる!」
こうして、まず初めにリンとなでしこが来て……
「久しぶりー」
「お疲れ、綾乃」
夜11時。予定通り綾乃が到着。相変わらず元気そうでなにより。
「あ、アヤちゃんだ! アヤちゃーん!」
リビングのほうからなでしこがパタパタと駆け寄ってくる。そして、そんななでしこについてくるようにリンも歩いてくる。
「人の家なんだから走るなって……あ、ひさしぶり、アヤちゃん」
「お、なでしこにリンちゃんも。久しぶりー」
「わぁ、本物だ。本物のアヤちゃんだぁー!」
「あはは、近いってなでしこ」
満面の笑みで綾乃にじゃれつくなでしこ。なんていうか、飼い主が出張から帰ったときの犬みたいな感じ。尻尾があったらぶんぶん揺れてそう。
「……ワンコだな」
「ワンコだね」
「もう大変だったよー すぐそこのくせにめっちゃ渋滞しててさー」
「えへへ、そうなんだぁー……ん?」
綾乃となでしこが仲睦まじくする様をリンと二人で眺める。嬉しそうに話している二人を見ると、ボクも嬉しくなってくる。
「あ、双葉、お風呂借りていい? 身体冷えちゃってさー」
「うん。もちろん」
「あ、わたしも一緒に入るー!」
「さっき入ったばっかりだろ」
「じゃあ四人で入っちゃう? ていうか、入れるの?」
綾乃がボクの家の大きさに驚いたりして、時間は過ぎていった。
ちなみにお風呂はみんなで入り直した。さすがに湯船に四人は窮屈だったけど。
「金谷ついたらそのまま沿岸に沿って走って……」
リビングのソファに腰掛けながらスマホで明日の計画の確認をする。
「あれ? まだ起きてたんだ」
声がして振り返る。湯上がりで火照った顔の綾乃がボクを見ていた。
「ちゃんと寝ないとちっこいままだぞー」
「はいはい」
綾乃がボクの隣にドスンと座り込む。湯上がりからそこまで時間が経ってないからか、まだシャンプーの匂いが漂っている。
どうでもいいけど綾乃の髪からボクと同じシャンプーの匂いがするって、なんか不思議な感じ。
「二人は?」
「二人なら部屋でぐーぐー寝てるよ。とくになでしこは綾乃が来るまで眠いの我慢してたみたいだし」
「べつにそこまでしなくてもいつでも会えるのにねー」
「それだけ綾乃が特別ってことだよ。ちょっとうらやましくなっちゃうな。ボクそういう幼馴染とかいなかったし」
「はぁ、しょうがないやつだなぁ……」
綾乃の口元が、嬉しそうに綻んだ。
「で、双葉はなにしてるの? もう寝ないとまずいでしょ。明日早いんでしょ?」
「予定の確認。もう覚えてるんだけど、一応ね」
「真面目だなー えっと、11時に久里浜ってところでフェリーに乗るんだよね?」
「うん。11時25分のフェリーに乗る予定。だから遅くても5時には出発しないといけないかな」
「へぇ、思ってたより余裕あるじゃん」
「この時期はいつもより便が多いみたいなんだ。で、港についたら房総半島ぐるっと周って九十九里通って銚子にある海水浴場で一泊」
「九十九里ってあれだよね。日本で一番大きい砂浜」
「あれ? 一番大きいのって鳥取砂丘じゃなかったっけ?」
「あそこって砂浜なの?」
「さぁ……まあそんな感じ。大した距離じゃないし、ちょっとした観光だよ」
「だね。あ、お母さんが味噌ピーナッツ買ってって言ってたから、行きか帰りにお土産屋寄ってっていい?」
「わかった。で、帰りなんだけど、東京通って富士山内回りして──」
「東京っ! 東京通るの!!」
ものすごい勢いで詰め寄ってくる綾乃にびっくりする。あんまりにもすごい勢いで詰め寄ってきたので鼻がぶつかりそうになる。
「わっ、ど、どうしたの?」
「だって東京だよ! 東京タワーだよ! スカイツリーだよ! スクランブル交差点だよ!」
「ボク行ったことあるけどそんなに──」
「絶対! 絶対寄ってこー!」
テンションを抑えきれないと言わんばかりに横に座るボクの膝と肩に手を乗せ、垂れ気味の目をギラギラと輝かせている。
「時間には余裕あるし、大丈夫だけど……行く?」
「やったー! 東京だー! 双葉大好きー!」
「はいはい」
「もう、てきとーだなー でさでさ──」
弾む会話。あれを見たい。あそこに行きたい。そんな話をしながら目の前に広がる未知に胸を膨らませる。
夜は過ぎていき、そして……
まだ日も昇らない早朝。夜と見紛うばかりの暗い空。吐いた息が白く凍るような寒い空気の中で、ボクたちはそれぞれのバイクの前に立っていた。
「ふぁあ〜 じゃあ、みんな気をつけてね〜」
半分寝ぼけているなでしこが、ふらふらしながら言った。
本人に起こしてくれって頼まれたから起こしたけど、やっぱり寝かせてあげておいたほうがよかったかな。
「なでしこ、冷蔵庫におにぎり作ってあるから食べていいからね」
「はぁ〜い」
「え、双葉、戸締まりとかどうするの?」
リンが当たり前と言えば当たり前のことを聞いてくる。
「あ、大丈夫暗証番号教えてあるから」
「おい、それでいいのか」
「いいんじゃない? わたしもなでしこに家の合鍵とか渡してたし」
「お母さんもいいって言ってたし、いいんじゃないかな? ていうか、むしろお母さんのほうから教えておけって言ってたし」
「……そ、そういうもんなのか?」
「ボクもよくわかんない」
たぶん、本当はあんまりよくないと思う。でもまあ、なでしこだしいいや。そろそろ行かないと。
「二人とも、準備はいい?」
「オッケーだよー」
「わたしも大丈夫」
荷物の締め付けもバッチリ、充電器も財布も持った。ガソリンとオイルは満タン。タイヤの空気も入れたばかり。
ここでするべきことはなにもない。あとは行くだけだ。
ヘッドセットを耳にはめ、ヘルメットを被る。顎紐を締める。
シートに跨る。
キーを差し込んでスイッチをオン。右のウィンカー、左のウィンカーよし、ブレーキランプもよしと。
クラッチ、ブレーキ、問題なし。燃料コックを捻り30秒ほど待ってからチョークを引く。
キックペダルに足をかけ何度か踏む。ピストンが圧死点に来たところでいったん止める。
「行こうか。ビーちゃん」
蹴り飛ばす。ピストンが回り、キャブレターによって空気と混ぜ合わされたガソリンがシリンダーの中に噴射され、プラグの火花に引火。爆発する。
燃焼と排気、吸気と圧縮を交互に繰り返し、トコトコと回りだすエンジン。
チョークを戻しアクセルを煽る。スロットルを回すたびにブウォンブウォンとエンジンが唸り、マフラーが白煙を吐き出す。
エンジンの鼓動に合わせて微かに点滅するヘッドライトとメーターランプ。
キュルキュルと鳴るセルモーター、力強く唸る4ストエンジン。2台のヤマハと1台のホンダが、そのエンジンの音を鳴り響かせる。
焼けたオイルの匂い。燃えたガソリンの匂い。甘く焦げた匂い。旅立ちの匂い。
「なでしこ、行ってくるよ」
「お土産楽しみにしててねー」
「行ってくる」
「いってらっしゃ〜い。ついたら写真送ってね〜」
眠そうななでしこに手を振ってウィンカーをつける。
カチカチと点滅するランプが日の出まえの薄暗い町をオレンジに染めた。
後ろを向く。リンと綾乃も同じようにウィンカーを焚いていた。カチカチ、カチカチ、カチカチ。それぞれ微妙に違うウィンカーの音がヘルメット越しに頭の中で鳴り響く。
クラッチ、ギアペダルを踏む。軽い衝撃とガコッという音と共にギアが1速に変わった。
アクセルオン。回りだすエンジン。ハンドル越しに伝わるエンジンの振動が突き上げるようなものから痙攣のような震えに変わっていく。
吹き出した白煙が、ヘッドライトに照らされて視界の端に漂う。
クラッチを離す。進み出す車体。肌に感じる風と共に、薄暗い世界が回りだす。
トコトコと走り出す車体。そんなボクに続くようにビーノとエイプが走り出す。
51cc、99cc、49cc。それぞれ違うエンジンが、それぞれ違う音を奏で、それぞれ違う煙を吐き出し、それぞれ違うタイヤで進み出す。
スロットルを戻し、クラッチを叩きながらシフトペダルを踏み込みシフトアップ。
2速、3速、4速。ギアを上げるたびに風が強く流れていき、身体を冷たく包み込む。
朝焼けすらこない暗がりの早朝。しっとりとした風の匂いを嗅ぎながらボクたちは走り出す。
『さぶっ』
『アヤちゃん大丈夫?』
『うん、平気。ちょっと寒くて驚いただけ』
薄闇を行く三つのテールランプ。12ボルトの淡い光が、暗がりのアスファルトを照らしていく。
空を見る。東の空が微かに赤く染まっていた。もうすぐここにも日が昇る。
『あーあ、早く春にならないかなー』
綾乃が言った。
「なるよ、必ず」
そんな旅だちの朝。
「必ず、ね── くしゅんっ!?」
『しまらねー』
『あはは、それでこそ双葉って感じ』
「うるさい。うぇ、鼻水出てる……」