網の上で魚の焼けるいい音がする。風が吹くと、サバ特有のちょっと臭みのある濃厚な香りが漂ってきた。
醤油をちょろっと垂らす。網の上に溢れて、焦げた脂と醤油のいい匂いがする。
「うわぁ、めっちゃおいしそう……」
覗き込んできた綾乃がサバの香りに目を細めた。
「そっちはどう?」
「あとちょっとで全員分焼き上がるよー」
綾乃の手には3つの割り箸に突き刺さったおにぎりが握られていた。表面には醤油ダレが塗られていて、ところどころ焦げて黒くなっている。
「コンビニのおにぎりバーナーで焼いて焼きおにぎりにするなんて、よく思いついたね」
「ツーリングに行った先でよくやってるんだ。ごめんねーこんな適当で」
「キャンプのご飯なんてそんなもんだよ。わたしだってちょっと前までカレー麺ばっかだったし」
「リンはまだいいよ。ボクなんて菓子パンだけだよ」
「……それ、平気なの?」
リンがちょっと心配したような目で見てくる。
ボクが旅先でちゃんとご飯食べるようになったのってリンと仲良くなる前だったし、知らないのか。
「……カロリーは取れるよ」
「カロリーしか取れないの間違いだろ」
「そうともゆー」
ふざけて返事する。ランタンに照らされたリンの表情が険しくなった。ほんとリンって心配性っていうか、おかん気質だなあ。
「言っとくけど、もうしてないからね」
「それならいいけど……」
「リンちゃん、味噌汁どんな感じ?」
綾乃と一緒に首を上げて、リンが煮込んでいるコッヘルを覗き込む。
味噌汁だ。アジのいい匂い。よく見ると、汁の中にアジのお頭が見え隠れしている。南房総の道の駅で買ってた干物だろうか。
「そろそろだな。刻みネギを入れて……できた」
それぞれできあがったものをテーブルの上に並べていく。味噌汁、ご飯、焼き魚。旅先とは思えないくらい豪華なメニューだ。
うん、これ絶対おいしいやつだ。
「あーもうお腹空いたー! 早く食べよー!」
「だな」
「うんうん」
「「「いただきまーす」」」
夕闇に染まる九十九里をバックに、ささやかな晩ごはん。
まずはご飯から。焼きおにぎりから割り箸を引っこ抜いてひと口。
焼き立てのおにぎりはサクサクで、噛むたびに醤油の味が染み出してくる。ちょっと焦げた醤油の苦味がアクセントになってすごくおいしい。
「……おいしい!」
「……うん!」
「ふひひ、だろー」
綾乃が自慢気に笑うのもよくわかる。これぞ焼きおにぎり。ボクも今度やってみよう。
よし、次はサバだ。箸を手に取って紙の皿に乗せた身を口に入れる。うん! こっちもおいしい。
脂の乗った塩気の効いたサバ。たまらず焼きおにぎりを頬張る。やばい、これめっちゃうまい。いくらでも食べられる。
「サバ2枚しかないんだからあんま食べすぎるなよ……うん、うまい」
ひと口、またひと口と食べていると、リンから苦情がきた。そうだった。
大きいのを買ったつもりだったけど、3人で突いていくとあっという間になくなっちゃいそうだ。
「もっほかえはよはったねぇ」
なに言ってるかわからない綾乃をスルーして味噌汁にいく。コッヘルに注いだリン特製の味噌汁をすする。
「……うまっ」
口の中いっぱいに広がるネギの香りとアジの出汁。一回焼いてあるからだろうか、ほのかに香ばしい。
「はぁ……」
ほっと息をはく。ほんと、味噌汁ってどうしてこんなにほっとするんだろうね。
「うまい……なでしこに感謝だな」
ボクと同じようにほっと息をはきながらリンがぼそり。
「なでしこがどうしたの?」
「行く前になでしこに干物使ったいいキャンプご飯ないかって聞いたら、焼いた干物で味噌汁作るとおいしいよって教えてくれたんだ」
このレシピ、なでしこが教えたのか。どうりでおいしいわけだ。
「骨も頭も入れてるから、出汁がすごい……」
「味噌汁に入れてもうまいなんて……ふっ、アジなやつだぜ」
……
…………
………………
綾乃もボクも、そしてリンもなにも言わなかった。というより、なにも言えなかった。
唐突にブッ込まれたオヤジギャグ。しかも、めちゃくちゃつまらない。
こういうとき、なんて言えばいいんだろうか。とりあえず味噌汁をひと口。
「おいしいね……」
「……うん」
なんとも言えない微妙な空気。気のせいだろうか、最近リンがだんだんポンコツになってきているような……
まあ、ここは同じポンコツのよしみとして流しといてあげよう。これもまた優し──
「ぶふっ、あははは! アジだから味って……リンちゃん!」
「わ、忘れろぉ!」
だいなしだよ。
青とも橙とも紫とも黒とも表現できない、まさに夕闇としかいいようのない空をぼんやりと眺める。
風の音、波の音、砂の音、通り過ぎていく車の音。そしてボクたちの息遣い。
大きな音や小さな音、いろんな音が寄り集まって一つの音の塊となり耳を騒がす。
静かではない。だけど、なぜだかボクはとても静かに感じた。それはたぶん、ボクたち以外に人がいないからなんだと思う。
「なんかいいね。こういうの……」
綾乃がつぶやいた。ボクはうなずいた。
世界が滅びてボクたちだけが生き残ったとしたら、こんな景色を見ることになるんだろうか。
砂と海の世界はすごく寂しいけど、不思議とどこか心地よい。かなうことなら永遠にここにいたい、そんな風にすら思ってしまう。
なにかするわけでもなく、昼が夜になっていくさまを見続ける。
「おいしかったね。ご飯」
「味噌汁おいしかったなー 帰ったらあたしも作ってみよ。リンちゃん、あとで作り方教えてよ」
「わかった。て言ってもめっちゃ簡単だけどね」
会話が終わり、再び静けさが訪れる。
太平洋の空の果ては驚くほど暗く黒いけど、不思議と怖くはなく見ているとどことなく安心する。
「この海の向こうってなにがあるのかな?」
なんとなく思ったことを口にしてみる。
「うーん、アメリカとか?」
「その前にグアムとかハワイじゃない?」
どうでもいいけど、グアムとハワイってどっちが日本に近いんだろう。
「向こうでも、ボクたちみたいに海を眺めてたりするのかな」
たしかアメリカ西海岸の時差は17時間。今は5時過ぎだから向こうは朝の10時くらいか。
ここからじゃ見えないけど、海の向こうにも人がいて、ボクたちとは違う景色を見て、ボクたちとは違う空気を吸って、ボクたちとは違う暮らしをしている。
そこではきっと、こことはなにもかもが違っていて、それを想像すると胸の奥底から、表現できないなにかがこみ上げてくるのがわかった。
「行ってみたい?」
隣に座ったリンが、まるで心を読んだみたいに聞いてきた。
「え、なんでわかったの?」
知らない間に声に出てたのかな。ボクが聞くと、リンはこっちを見て微笑んだ。
「そういう目、してるよ」
「……お見通しだね、リンは」
決して長くはないけど、深い付き合いだ。
ボクだってリンの顔を見れば考えていることはだいたいわかる。リンだってボクの顔を見ればわかるんだろうな。
「顔に出やすいもんねー双葉って」
「そんなに出やすいかなー?」
ボッチ時代は無口無表情がデフォだった気がするんだけど。変わったんだろうか。
「ほら、今もめっちゃ眉毛下がってる」
海の向こうに思いをはせ、なんてことない話をする。そんな楽しい時間。
けど、楽しい時にかぎって時間はどんどんと過ぎていく。来た時はまだオレンジだった東の空もいつも間にか黒く染まっていて、空の彼方には星々がぼんやりと輝きはじめていた。
「来てよかったな……」
誰かがつぶやいた。たぶん、リンだと思う。
でも確かめる必要もない。なぜならここにいる全員が同じことを思っているに決まっているからだ。
「写真、撮ろうよ」
そんな思い出を少しでも形に残したくて、ボクは二人にそう言った。
「そうだな」
「そういや九十九里来てから一回も集合写真撮ってなかったっけ。撮ろ撮ろ」
ちょうどいいところに骨ぐみだけになったライフセーバー用の監視塔があったので、スマホを立てかけタイマーセット。
カウントダウンにそってチカチカと点滅するスマホのライト。早く行かないと。
「双葉、早く早く!」
「わかってるよー」
ダッシュで二人に駆け寄って、リンを中心に3人で肩を組む。
「なんでわたしが真ん中なんだよ」
「リンちゃんが真ん中ならちょうど背の順になるし」
「絵的にアヤちゃんのほうが……あ、そろそろだよ」
点滅の間隔がどんどん短くなっていく。そろそろだな。
「一たす一は?」
「「「にー!!」」」
フラッシュが焚かれる。どんな写真になったかな? スマホを回収して撮った写真を確認する。
「暗過ぎて海なんも見えねー」
リンの言うとおりちゃんと写ってたのはボクたちと砂だけ。なんとなく想像はついてたけど、案の定ちゃんと撮れなかった。
「スマホだし、しょうがないよ」
「バイト代貯まったらカメラ買おうかな……」
最近は安い一眼レフとかもあるし、ありかもしれない。帰ったら調べてみよう。
それにしても……写真に写った自分たちの姿を見る。
「「「めっちゃ目瞑ってる……」」」
暗いところにいきなりフラッシュ焚いたからびっくりしちゃったんだろうか。
「あ、よく見たら双葉目半開きになってる」
「あ、ほんとだ。気持ち悪」
「リンちゃん、めっちゃいい笑顔だけどすんごい目瞑ってるね」
「綾乃とか、両目瞑って肩組みしてダプルピースとか完全に変な人じゃん」
「「「ぷっ」」」
耐えられずに吹き出す。ボクたちの笑い声が人気のない砂浜にこだます。まあこれはこれでいい写真かもしれない。
ボクは笑いながらそんなことを思った。
「そろそろ行く?」
ひとしきり笑ったあと涙目になった綾乃が思い出したかのように言った。
時計を見る。もうすぐ6時だ。ご飯を食べてすっかりまったりムードになってたけど、ボクたちはまだ旅の途中なのだ。
「あとどんくらいだっけ?」
「こっからだとだいたい50キロかな」
「なんだ、そんだけか」
なんてことないようにつぶやくリン。
ここにくるまでに300キロは走っている。それに比べれば50キロなんて散歩みたいなものだ。ようやくリンもわかってきてくれたみたいで少し嬉しい。
「じゃ、ぱぱっと行っちゃおっか」
「「おー!」」
駐車場に向けて歩き出す。旅ももうじき終盤だ。残り50キロ。頑張るとしますか。
「…………50キロはそんだけじゃねえだろ」
「「ふふふ……」」
靄のかかった夜の道をヘッドライトの明かりを頼りに走っていく。息を吸うと、靄の中にかすかな潮の匂いがする。
たぶんこの靄は舞い上がった海の波が作っているんだろう。前に夜の海辺で寝泊まりしたときも同じようものを見た。
街灯の明かりが靄に乱反射して滲むように光輝く。見ている分には綺麗だけど、視界が悪くなるから十分に気をつけないといけない。
ちょっと前まで街だった景色は今ではすっかり港に様変わりしていて、電灯の明かりに照らされた何隻ものヨットが黒いシルエットとなってボクの視界の横を過ぎ去っていった。
ヨットハーバーを通り抜けると、電灯の明かりに照らされて砂浜が見えた。よし、写真で見た通り。ここに間違いない。
「ついたよー」
後ろの二人にそう言って、ビーちゃんを隣接した駐車場に停める。
シートから降りてヘルメットを脱ぎ、潮の香りを思い切り吸い込みながら身体をほぐしていく。
銚子マリーナ海水浴場。山梨からはるばる370キロ。ボクたちはついに目的の場所にたどり着いた。
時計をちらりと見ると9時を指していた。出発したのは朝の5時だから、計16時間走ったことになる。
「うーん、楽しかったー!」
一日でこんなに走ったのは久しぶりだ。やっぱバイクに乗るからにはこれくらい走らないとね。
久しぶりだったからけっこう疲れたけど、すごく充実した1日だった。
「おつかれー二人とも」
しーん……
返事がない。あれ、どうしたんだろう。恐る恐る二人を見る。うん、二人ともちゃんといる。
「リン、綾乃?」
あ、倒れた。
バタンキュー、言葉にすればたぶんそんな感じでリンと綾乃が駐車場にくたばった。二人ともピクリとも動かない。まるでしかばねだ。
って、実況してる場合じゃないよ!
「だ、大丈夫!?」
慌てて二人に駆け寄る。よかった息はしてるみたいだ。
「な、なげぇよ……」
と、リン。
「さ、さすがにこれはわたしでも……がくっ」
力尽きる綾乃。でもよく見ると右手がサムズアップの形になっていた。なんだ、余裕あるじゃん。
相当疲れてるのか、二人とも駐車場に突っ伏したまま指一本動かそうとしない。
うーん、これどう見てもテントジャンケンしようとか言える雰囲気じゃないよね。
「テント、3人一緒でよかったら張っておこうか?」
答えはわかりきっているけど一応聞いてみる。といってもまともに動けるのがボクだけなので、どうあがいてもボクが張るんだけどね。
「「お願いします」」
即答だった。そりゃそうだ。
テントの天井でランタンの明かりがゆらゆらと揺れる。テントの向こうでは波が砂に打ち付けられる音が絶えず鳴り響いていた。
狭いテントの中を這いながら前室で燃えているバーナーのコックを締め、ヒーターの勢いを弱めていく。
室温計とかはないけど、たぶん18度くらいはあると思う。すごくあったかい。なんならインナーだけになってもいいくらいだ。やっぱこれ買って正解だったなあ。
「……ぬくい」
「ごくらくじゃぁ……」
と、床に転がっているかつてリンと綾乃だった寝袋の芋虫どもがつぶやいた。
駐車場の目の前にある浜辺にテントを張ってからずっとこんな調子だ。
「大丈夫? 二人とも」
「身体が動かねえ」
「リンちゃんと同じく」
ほぼ丸一日走りっぱなしだったし、こうなるのもしかたない。ボクも乗りはじめたころはこんな感じで突っ伏してたっけなあ。
ちょっと悪いことしちゃったかも。
「ごめんね。無理させちゃって」
初っ端から370キロ近くはまずかったかもしれない。せめて300キロにするべきだったかも。
「いいよ。行きたいって言ったのわたしだし。アヤちゃんは大丈夫?」
返事がない。
「アヤちゃん?」
「…………えっ!? あ、うん、おいしかったねー」
「なんの話だよ」
どうやら寝てたみたいだ。
よく考えたら綾乃は浜松から来てるわけで、600キロ近く走ってるのだ。なんだかんだいって一番疲れてるんだろうな。
「めっちゃ疲れた……もう動けないずらぁ」
「あれ? アヤちゃん行く前余裕とか言ってなかったっけ?」
ちょっと挑発するようにリンが言う。出発する前と比べると、リンもずいぶんと遠慮がなくなった。
「ごめんなさい調子乗ってました。300キロくらいなら走ったことあるから全然余裕かと思ったけど全然そんなことなかったよ……」
「しょうがないよ。綾乃だけ浜松から来てるんだし」
「なんか、一ヶ月分くらいバイク乗った気分。もうしばらく乗らなくてもいいかも」
「めっちゃわかる」
旅の興奮の余韻が残っているのか、ワイワイってほどじゃないけど話が盛り上がる。
「あ、そうだリンちゃん。地図見てみなよ」
寝袋にくるまっていた綾乃が、身体を横に向けてリンに話しかける。
「地図?」
「いいからいいから。騙されたと思ってさ」
たぶん、あれを見せたいんだろう。ボクは綾乃と琵琶湖に行ったときのことを思い浮かべた。
「……まあ、いいけど」
眠そうな目を擦りながらリンがのそのそと起き上がりゴソゴソとスマホを探し出す。
「あれ……スマホどこぉ?」
そう言いながら自分の胸元をずっと探し続けるリン。普通に話してたから気が付かなかったけど、リンもかなり寝ぼけてるみたいだ。
「さっき自分で荷物の中入れてたでしょ」
「んー? そうだったっけ?」
「ボクのスマホ使う?」
「うん……ありがと双葉」
ボクからスマホを受取ったリンがゆらゆら揺れながら画面をいじる。もう眠くて眠くてしかたないんだろう。
「……こんな遠くまで来てたのか」
淡々としたセリフ。けど、そのひと言に込められた感情はひと言では言い表せない。
「ほんとに日本の端っこいるんだな……」
リンの瞳が揺れる。眠そうな目がどんどん見開いていく。
「家、遠っ……」
「ふふっ、驚いた? わたしも初めて琵琶湖行ったとき同じこと思ったよ。ほんとにこんなところまで来ちゃったんだなって」
「……うん。なんか全然現実感ないけど……」
ボクにはリンの気持ちがよくわかった。自分が遠くに来たのはわかっている。けど、現実感がまるでない。でも、地図を見れば自分はたしかに遠くにいる。
「ほんとに来たのか……」
そして理解する。自分が遠くに来たことに。
「夢みたいだな……」
「ちがうよ。リンが自分の力でここまで来たんだよ」
山を越え、海を越え、誰の力も借りずにこんなところまで走ってきた。
リンはボクについてきただけかもしれないけど、ここまで来たのは間違いなくリン自身の力だ。
「これでリンちゃんもわたしたちと同じヘンタイの仲間だね」
「その言い方はないでしょー 綾乃だって距離ガバのくせに」
「誰のせいだと思ってるの。誰の」
「さぁ? どっかのちっこくてメガネかけてて一人称ボクのクソザコのせいじゃない?」
「あはは、こんにゃろーめ」
笑いあう。ランタンの明かりで浮かび上がった黒いシルエットがゆらゆらと揺れる。
誰もいない銚子の海。風の音が鳴り響く砂浜で、ボクたちの笑い声が鳴り響く。
「……ふっ、たしかにヘンタイ、だな」
リンはそんなボクたちを見て、それはそれは満足そうにはにかんだ。
砂浜と駐車場を隔てる階段に腰かける。
「さむっ」
身体を撫で付ける潮風に思わず悲鳴を漏らす。暗闇の奥にうっすらと見える砂浜には黒い波が絶えず押し寄せて、また海に戻っていく。
波の音に耳を澄ませながら空を見上げると、靄の向こうにうっすらと星々がまたたいていた。
「けっこう見えるんだなあ」
クリキャンの時に見た星とは比べ物にならないくらい弱い光だけど、それでもボクにとっては十分だった。
「楽しかったなぁ……」
星を眺めながら今日一日を振り返る。
高速道路みたいな134号。フェリーから眺めた浦賀水道。どこまでも続くフラワーロード。まるでべつの世界に来たみたいな九十九里。あれは本当にすごかった。
美しいなんて言葉は陳腐だけど、どの場所もボクの目には輝いて見えた。キャンプも大好きだけど、ボクが一番好きなのはやっぱり旅なんだと改めて思った。
「あ、そうだ。鳥羽先生に連絡入れないと」
すっかり忘れてた。心配してないといいんだけど。スマホを出して先生に電話。1コールもしないうちに電話が繋がる。
「もしもし、山中です」
『や、山中さん? ほんとに山中さん?』
「はい、野クルの山中双葉です」
ボクが改めて名前を言うと、スピーカーの向こうからひどく安心したようなため息が聞こえた。
『よかった。志摩さんからも全然連絡がないから心配してたんですよ!』
「ごめんなさい。すっかり忘れてて」
『もう! ほんとに心配したんですからね! それで、銚子には無事に着いたんですか?』
「はい、テント張ったんでもう寝るだけです。明日になったら帰ります」
『そうですか……帰りもかなり遠いですし、東京は交通量もかなり多いので、ほんとにほんとに気をつけてくださいね』
顔を見なくても、先生が本気でボクのことを心配してくれているのがよくわかった。ほんとボクたちにはもったいないくらいの顧問だよ。
「はい。ありがとうございます」
こんないい人を悲しませるわけにはいかない。無茶も無謀も絶対にしないようにしないと。
『それにしてもバイクで銚子ってすごいですね。妹にも話したらすごく驚いてました。ツーリングが趣味なんですか?』
「はい。小さいころ女の子がバイクで旅する小説にハマってて、それから知らない場所に行くのにすごく憧れるようになって」
『それってもしかして……』
先生が本のタイトルを口に出す。まさにボクの好きな小説だった。
「え、先生も知ってるんですか?」
『はい。わたしも好きなんですあれ。今でも全巻持ってますよ』
「へぇ、そうなんだ……ちなみにどの話が一番好きですか?」
『どれも好きなんですけど、強いて言うなら人の心がわかる国の話が──』
思いもよらないところで同じ作品のファンに出会って外だということも忘れて盛り上がる。
ただひと言連絡入れるだけのつもりだったのに、気がつけば5分くらい話し込んでしまった。
「ごめんなさい話し込んじゃって。じゃあそろそろ切りますね」
『すいません。わたしのほうこそ。楽しくてつい話し込んじゃいました。明日、本当に気をつけてくださいね。なにかあったらすぐ連絡してください。ではおやすみなさい』
「先生も、おやすみなさい」
『あ、山中さん! 一つだけ気になったんですけどもしかして山中さんが自分のこと僕って──』
「おやすみなさーい。お土産買ってくるんで楽しみにしててくださいねー」
『あ、ちょっ』
電話を切る。危ない危ない。黒歴史をほじくり返されるところだった。もうリンのときのようにはいかないぞー
「さむっ、戻ろ」
立ち上がってテントに向かう。ランタンはついてるけど人影は見えない。もう寝ちゃってるかな。起こさないようにしないと。
大きな音を立てないようにそっとテントの中に入り込む。予想通りリンと綾乃はもう眠っていた。
「うぅ、さむさむ」
リンと綾乃の間に敷いてある寝袋に潜り込む。カイロ入れてたおかげでぬくぬくだ。
「えへへ、あったかいなぁ」
「誰と話してたの?」
「うひゃ──」
口から飛び出そうになった叫び声は、あったかい手で遮られた。
「しー」
リンがボクの口に手を当てながらジェスチャーする。
反対側に首を向けてみると、綾乃が寝息を立てて眠っていた。胸の位置で寝袋がわずかに上下に動く。かなり深く眠ってるみたいだ。
「ありがと」
起こさないように小声でお礼を言う。
「疲れてるみたいだし、寝かせてあげよう?」
ささやくようにリンが言う。リンの言うとおりだ。一番疲れてるだろうし起こしたらかわいそうだ。
「ていうかリン、起きてたんだ」
「外で話し声がして目が覚めた。誰と電話してたの?」
「鳥羽先生に到着したら連絡するように言われてたから」
「あ、忘れてた。ごめん双葉」
「ううん。ボクも忘れてたし。それより聞いてよリン。先生もあの小説好きなんだって」
綾乃がうるさくないように、お互いに見つめ合いながらひそひそと話す。
「あの小説って……あぁ、あれか。へぇ、だからあんなずっと話してたんだ。あんまり長話してたから風邪ひくぞって言いに行こうと思ってたわ」
「あはは、ごめん。つい話し込んじゃってさ」
「意外だな。鳥羽先生そういうの好きなんだ」
「まさか先生があんなに知ってるなんて思わなかったよ。また話したいなあ」
「ふぅーん……」
ランタンの光に照らされたリンの顔がちょっとだけ険しくなった。
「ん? どうしたの?」
「なんでもない……」
セリフと口調が合ってない。
そういえば前にも似たようなことがあった気がする。ずっとボッチだったせいでこういうのよくわかんないんだよなあ。今度あおいに相談してみようかな。
「リン?」
「……双葉」
「なに?」
「帰ったらさ、その本わたしにも貸してよ」
「全然いいけど。リン読んだことあるんじゃなかったっけ?」
たしか中学のときハマったとか言ってた気がする。
「べつに……また読みたくなっただけ」
ただ読みたいだけにしてはなんか様子が違う気がするんだけど……まあいいか。
「そっか。どうせ帰りにボクの家寄るし、そのとき貸すよ」
「……ありがと」
それだけ言うとリンは寝返りを打ってボクに背を向けた。やっぱり様子が変だ。
「双葉って、けっこう鈍いよな」
「え? え? どういうこと?」
唐突に言われたひと言に頭がはてなマークでいっぱいになる。ボクが鈍い? むしろけっこう敏感なほうだと思うんだけど。
「……べつに、なんとなく思っただけ」
「あ、うん。そっか」
会話はそこで途切れた。静まり返ったテント。聞こえるのは波のさざめきと綾乃の寝息だけ。
ちょっと気まずい空気。ボク、なにか気に触るようなこと言っちゃったのかな。
「今日はさ、その……ありがと。連れてってくれて」
不意にリンが絞りだすようにつぶやいた。
相変わらず背を向けているせいで顔はわからないけど、声を聞けば本気で言ってるのがわかった。
「めっちゃ疲れたけど、めっちゃ楽しかった。見たことない景色いっぱい見れたし。原付でこんな遠くまで行けるなんて思ってもなかった。それに アヤちゃんとも、もっと仲良くなれたし」
背を向けたリンの声はすごく楽しそうで、それを聞いてるとボクも嬉しくなった。
「ツーリングって、楽しいね」
「そっか。えへへ、よかった。また行こうね」
「うん……けど、やっぱりわたしが一番好きなのはキャンプだな。今日一緒に走って思い知ったわ。双葉こんなことよく毎週できるな」
「ボクもリンと同じこと思った。キャンプも好きだけど、やっぱりボクが一番好きなのは旅なんだって」
「似たものどうしって……やつか……」
「ふひひ、そっくりだね。ボクたち」
お互い一人好きの変わり者。
リンはキャンプが好きで好きでしかたなくて、ボクは旅が好きで好きでしかたない。結局のところボクたちの違いはそれくらいだ。
「……だな」
リンはひと言つぶやくと、再びボクに顔を向けてきた。とろんとしたすごく眠そうな目がボクを見る。
「ふたばぁ……」
舌足らずな声がボクを呼ぶ。
「なあに?」
大きなあくび。リンの瞼がどんどん閉じていく。
「こんどは……いっしょに、きゃんぷ…………いこう……な」
そして閉じられる瞼。
ほどなくして、リンから小さな寝息が聞こえてきた。寝ちゃったか。
「……うん。行こうね」
返事はない。でも、わざわざ言葉にしなくたってリンはわかってるだろう。
二人が寝静まり、聞こえてくるのは寝息と波の音だけになった。静かな時間。一人だけの時間。
「……そろそろ寝よ」
二人ほどじゃないけど、ボクだってくたくたなのだ。実をいうともう眠くて眠くてしかたない。きっと今夜は朝までぐっすりだろう。
灯りを消して横になる。
二人用のテントに無理やり3人で入ってるせいで、寝袋ごしにリンと綾乃の体温が伝わってくる。でも全然不快じゃない。
心地よい疲労に身を任せ、目を閉じる。意識が沈んでいく。
長いようで短い旅も、もうじき終わりを迎えようとしていた。
「おぉー」
犬吠埼。水平線の遥かかなたで燃え盛る朝日に歓声をあげる。
一晩ぐっすり眠ったボクたちは朝一で出発し、最後のしめに3人で日の出を眺めていた。
大海原に太陽がキラキラと反射し、白い灯台がオレンジに染まる。
「さーて、日の出も見たしあとは東京見て帰るだけだー!」
あれだけ昨日疲れた様子を見せてたのに、すごく元気そうな綾乃。そんなに東京行きたかったんだ。今度一緒に行こうかな。
「なんかめちゃくちゃ長かったはずなのに、こうしてみるとあっという間だったな」
リンが言う。あ、ついにリンもボクたちの仲間に入ってくれたのかな?
「リンもやっぱそう思う?」
「と、思ったけど気のせいだったわ」
「ほんとは気のせいじゃないくせにー」
綾乃が茶化すように言うと、リンはぷいっと顔を背けた。相変わらず素直じゃないなあ。
「あ、せっかく東京寄るんならついでに奥多摩湖──」
「「絶対やだ!」」
「えー」
「えーじゃねえよ。殺す気か」
「さ、さすがにそれはわたしもちょっと……あ、あはは」
ダメか。今の二人ならもしかしてついてきてくれるかなって思ったのに。まあいいや。
3人で東の空に昇っていく朝日を眺める。なんてことない朝日なのに、なぜだかすごく綺麗に見える。
「帰ろっか」
冒険は終わった。あとは、家まで無事に帰るだけ。
「だね」
「そうだな」
朝日に背を向けて、3人で一緒に歩き出す。
「今度いつ行く?」
「気がはえーよ」
「今回は双葉たちについてったんだから、次はわたしにつきあえよなー」
「じゃあ次は静岡だな」
「あれ? リンちゃん気がはえーっていってなかったけ?」
「聞こえなーい」
「あはは」
帰ろう。そして、帰ったら疲れたって言い合いながら旅の思い出を語り合うんだ。そうだ。なでしこにも自慢しよう。千明にも、恵那にも、あおいにもだ。
きっとすごく楽しいだろうな。
「あ、バイクだ」
綾乃がつぶやく。顔を向けると、バイクが一台ボクたちのほうに走ってきた。
あの人も朝日を見にきたのかな。ていうかあのバイクどっかで見たような。あのフォルム。たしかトライアンフの……
そうこうしているうちにバイクがボクたちの前で停まった。ライダーが降りてヘルメットのバイザーを引き上げる。
「え? おじいちゃん!?」
リンが目を見開いて声を上げた。
その言葉にはっとして改めてライダーの顔を確認する。
「リン……もしかして、リンなのか?」
リンのおじいさん……新城さんが驚いた顔でボクたちを見ていた。
「あ、うん……え? おじいちゃん、なんでこんなところにいるの?」
「キャンプの帰りに朝日でも拝もうと思ってな」
そういえばリンがいろんなところキャンプしてるって言ってたっけ。ここにいてもなんも不思議じゃないのか。
「それよりもリン。まさか……ここまで原付で来たのか?」
「そうだよ」
間髪入れずにリンが答えると、新城さんはますます驚いたような表情になった。
「そ、そうか……よくやるな。遠かっただろうに」
「死ぬかと思った」
「軽口が言えるなら大丈夫だろう。それでそっちの二人は、双葉さんに……」
「お久しぶりです」
「どうやらまた孫が世話になったみたいだな。そっちの君はたしか……」
「あ、土岐綾乃です。リンちゃんと双葉の友だちです。正月に浜松で会いましたよね」
「そうだったな。思い出した。自己紹介が遅れてすまない。新城っていうもんだ。聞いての通りリンの祖父をやらせてもらっている。まさか君も浜松から来たのか?」
「はい。すっごく楽しかったです。ね、二人とも」
「そ、そうか……あそこからここまでずいぶんと離れてる気がするんだがな……」
「ちょっと遠かったですけど、走ってみたら意外とすぐでしたよ」
綾乃のひと言にあんぐりと口を開けて驚く新城さん。この人のこんな表情見るの初めかも。
「近ごろの若いもんはすごいな……」
「いや、わたしたち双葉についてきただけだから。おかしいのは双葉だけだからね。誤解しないでねおじいちゃん」
なんかサラッとひどいこと言われた気がするけど黙っておこう。
「双葉さん……」
なんとも言えない表情の新城さんがボクを見る。
「はい?」
「その……なんだ。気持ちはわかるがほどほどにな」
「あ、はい」
自重しろってことだろうか。うん。気をつけよう。次行くとしたら片道300キロ以内とどめておこう。
「双葉、次は16時間ぶっ続けで走りっぱみたいなことにならないようにしろよ。ほんとにマジで死ぬから」
「わかってるよ。せめて半日に収まるようにしとく」
「休憩なしなら400キロ走れるとか言うなよ」
「ソウダネー」
「棒読みやめろ」
「冗談だよ。300キロくらい」
「それなら許す」
「…………これはもう手遅れかもしれんな」
朝日が照りつける犬吠埼に、新城さんのぼやきが吸い込まれていく。
こうしてひとつの旅が終わり、また新しい旅が始まる。
旅は、冒険は、終わらない。次の旅はすぐそこで待っている。今度は伊豆だ。
どんな旅が待ってるんだろうか。考えるだけでわくわくしてくる。
けど、まずはその前に家に帰りたい。もうくたくただ。 ご飯を食べて、お風呂に浸かって、暖かいベッドに横になろう。それはそれは気持ちよく眠れるに違いない。
だから帰ろう。ボクたちの街に。
「いや、300キロってどう考えてもおかしいだろ……」
「「ふふふ……」」