奥浜名湖展望公園。バイクのヘッドライトで照らされた駐車場の東家をそっと覗く。
「人は……よし、いない」
こういうところはたまに先着人(主にホームレスの人。あと酔っ払い)が寝ていたりするから気をつけないといけないのだ。
ボクはあくまで他所者、キャンプ場と違ってお客様じゃない。
誰よりも下の立場にいることを忘れてはいけない。それを忘れて傲慢に振る舞えば、ツケは自分に返ってくる。もう職務質問はこりごりだよ。
けど、ここは大丈夫そうだ。今日の寝床はここに決定。そうと決まれば準備は早い。
エンジンを切ってバイクのシートにネットで縛り付けていたボストンバッグと寝袋とマットを下ろす。
光源を失った途端、ボクの視界は闇に包まれた。けど慣れているのでさして問題はない。
月明かりを頼りに手探りでバッグのファスナーを開き中から百均で買った電池式の吊り下げライトを取り出す。
くっついた紐を引っ張ると、オレンジのLEDがあたり一面を照らし出した。
光量も風情も十分にあって、ボクはこれが気に入っている。電池の持ちがかなり悪いけど、旅で使う分には気になるレベルじゃない。
ライトの紐をハンドルに引っ掛け東家の真横まで押していく。野宿をするときはできるだけバイクと距離を詰めるのがおすすめだ。
盗難やいたずら対策でもあるし、何より何かあった時にすぐ逃げられる。キャンプ場みたいに管理なんてされてないので何があったって不思議ではないのだ。
バイクに引っ掛けたライトを頼りに荷物を東家のテーブルに置き、ネットで二千円で買った折り畳み式のウレタンのマットを引き伸ばす。
安くてコンパクトで気に入っているけど、使っているとどんどんウレタンが萎んでくるので、ある程度使ったら買い換えないといけない。
ちなみにこいつも三代目だ。いつかエアマット欲しいな。
マットを敷いたら袋に押し込まれていた寝袋を広げる。
コールマンの化繊シュラフ、ボクの持っている旅道具の中で唯一のブランド品で、中学の時になけなしの貯金を叩いて手に入れた。
ちゃんとしたメーカーの製品だけあって性能は折り紙付きで、マイナス10度までなら耐えられる保温性を持っている。こいつに何度助けられたことか。
性能は文句ないけれど、どう頑張ってもかさばるので、いつかはダウンのシュラフを手に入れたい。ま、だいぶ先の話になるだろうけどね。
これでもう準備は八割整った。ここまで5分もかかってない。
野宿の利点はなんといってもこの気軽さだ。場所を選ばない。その気になればどこでだって眠れる。
時計を見る。時間はもう8時を過ぎていた。
身体も疲れているし、今日は寝てしまおう。床に敷いたマットに座りバッグからハクキンカイロとベンジンを取り出す。
いつものように上蓋とプラチナの火口を外し、漏斗を使ってベンジンを注ぎ込む。
あたりに漂うベンジンのつんとした臭い。ボクはこの臭いが嫌いじゃない。
火口を取り付けライターで炙る。使い込んで黒ずんだプラチナの綿が暗闇の中でぼわっと光った。
化学反応が始まり温かくなってきたカイロに上蓋を取り付けて、小袋に放り込む。
しばらくすればほっかほかのカイロの出来上がりだ。
寝袋の中にカイロを放り込み、バッグから乾電池式の充電器を取り出しスマホを充電する。
いつかバイクにUSBの電源を取り付けたいけれど、配線がめんどうだ。しばらくは乾電池で我慢しよう。
耳栓を耳に押し込む。周りから一切の音が消え、まるで水の中にでも入っているような感覚がボクを包み込んだ。
歯磨きとトイレは麓のコンビニで済ませた。あとは眠るだけだ。
「はぁ、疲れた」
合皮のゴワゴワしたボストンバッグを枕に横になれば、夜のしじまがボクを包み込んだ。
「おやすみ、ビーちゃん」
ライトを消す。静まり返る世界。暗闇にボクの意識だけが漂う。
ボクはこの瞬間がたまらなく好きだ。
寂しさや寒さ。ちょっとの不安や胸の高鳴り。
月の意外な明るさ、顔に張り付く冷気、足元で感じるカイロの暖かさ。ここに来るまでの思い出。
その全てがボクだけのものになる。
どんなに、しんどくても、どんなに危なくても、ボクは旅をやめられない。
この圧倒的な自由を知ってしまえば、他のどんなことだって窮屈に感じてしまうから。
「今日も、いろんなことがあったなあ……」
海を眺めながら走った国道150号。展望台から眺めた浜松の夜景。綾乃と一緒に食べた餃子。
「餃子、美味かったなぁ......」
疲れに身を任せ、瞼を閉じる。シュラフの暖かさに身を任せていると、だんだんと意識が薄れていく。
「明日は……綾乃と会って……うなぎパイ買って……」
意識が闇に吸い込まれていく。眠い、ただ眠い。今日は疲れた。
朝、目を覚ましたボクは食べ残しの菓子パンを朝食代わりにし、マットを片付けるとすぐに公園を後にした。
山を降り、湖岸の高速道路沿いを走り一般道からでも入れるサービスエリアに入る。
残り半分を切っていた燃料を補充し、自販機で買った缶コーヒーを啜り、朝焼けの空をぼんやりと眺めながら暇な時間を過ごす。
朝日に染まる浜名湖が、まるでオレンジジュースのようで、少しだけおいしそうに見えた。
時間はまだ7時前だ。することもなく、ただ時間だけが過ぎていく。ボクはこういう時間がなんとなく好きだった。
ポケットのスマホが震える。
ラインだ。スマホを見る。志摩さんからだ。そういえば各務原さんとキャンプ行ってたんだっけ。
リン:おーい、生きてるかー
双葉:ごめん、死んじゃった
リン:な、なんてことだ。遅かったのか......だからあれほど言ったのに、バカな奴め
双葉:嘘だよー生きてるよー
まだ7時にもなってないのにこのノリのよさ。
図書室でいつも変な本読んでるみたいだけど、それが関係しているのだろうか。ボクも今度借りてみようかな。
リン:あっそ、こっちは起きたらなでしこがテントに入り込んでた。眠いからまた寝る
双葉:おやすみー
リン:そんで、今日いつ帰ってくんの?
双葉:お土産買って少しゆっくりしてから出発だから、たぶん夜になるかな
リン:轢かれるなよー あとお土産ケチったらなでしこに秒で食い尽くされるから気をつけろよ。あいつ、昨日一人で餃子鍋の餃子40個くらい食べたからな
40って……ボクもめちゃくちゃお腹空いてて30個くらいが限界なのに。あんな細い体のどこに入るんだろう?
双葉:わかった。志摩さんもお土産楽しみにしててね
リン:りょー
やり取りを終えスマホをしまう。少し前まではこんなふうに誰かと自分のことを共有することなんてなかった。
まだまだ慣れないけれど、自分の楽しんでいることを誰かに話せるのは、なんていうか悪い気分じゃなかった。
それからまたしばらくぼーっとしていると、またラインの通知音がなった。今度は綾乃からだ。
綾乃:おーい、生きてるかー
双葉:綾乃もか
綾乃:どうしたの? まあいいや。今どこー?
双葉:浜名湖のサービスエリア。高速下の小道まっすぐ行った先の駐輪スペース。
綾乃:りょーかい、今行くから待ってろよー
それから、1時間ほどサービスエリアの中をぶらぶらしていると、綾乃から連絡があった。
駐輪場に戻ると、ビーちゃんの横に青いエイプが止まっていて、綾乃がキョロキョロと辺りを見回していた。
「綾乃ー」
手を振って居場所をアピールする。
「あ、いた。やっほー」
手を振る綾乃に近づく。昨日と比べると、ちょっとだけ元気がない。なんていうか眠たそうだ。
どうしたんだろう。ちゃんと寝れなかったのかな。
「眠いの?」
「そっちが元気すぎるんだよー なんでバイクで散々走り回って野宿もしてるのにわたしより元気なのさ」
ジト目で訴える綾乃。こればっかりは慣れているからとしか答えようがない。
「そんで、双葉はこれからどーするの? お土産買ったらもう帰っちゃう?」
「うーん、お土産はここで買えるし、家も夜までに帰ればいいだけだから、もう少しぶらぶらしていこっかな」
とはいえ、ぶらぶらすると言っても行きたいところも思いつかない。下調べもしないでノリで出発した弊害ってやつだ。
「ふぅーん……じゃあさ、温泉とか、行かない?」
「温泉?」
そういえば道を走ってる途中、やけに温泉の看板が目に入った。でも、温泉って妙に高かったりするんだよなあ。
「温泉かぁー」
あんまりお金も使いたくないしなあ。綾乃にはもうしわけないけど、ここは心を鬼にしてビシッと断らないとダメだよね。
「と、とけるぅ……」
断れませんでした。
熱い温泉が全身を包み込む。昨日から走りっぱなしでバキバキになった身体が熱いお湯でときほぐされていく。
「ご、ごくらくだぁ」
浜名湖のサービスエリアからさらに20キロほど先にある温泉施設で、ボクはお湯に溶けていた。
冷え切った身体にこれは反則だ。しかもこれで800円なんだから全然OKだよ。
紹介してくれた綾乃には感謝しかない。
「あれ〜? さっきお金もったいないから行かなーいとか言ってなかったっけ?」
「いってたっけ〜 どうでもいいよ〜」
「だね〜」
二人してお湯に溶けていく。気持ち良すぎる。
営業してすぐだからか、人気もほとんどない貸切状態だし本当に天国にいるみたいな気持ちになっていく。
「にしても、こんな早くからバイク乗るのなんてわたし初めてだよ。双葉はいつもこんなことしてんの?」
「うん、いつもは5時とか遅くても6時くらいには出発してるかな」
キャンプ場と違って公園とかは朝になれば普通に地元の人とかが来てしまう。迷惑をかけないためにも、野宿は早寝早起き即時撤収が鉄則なのだ。
「ほんと元気だなあ双葉は。わたしは早起きするだけでもつらいよ」
「野宿は中学の時からずっとやってるからね。もう慣れちゃった」
たしか最初に外で寝たのは中二の夏だったはず。もうずいぶん昔のことのように感じる。あのころは大変だったなあ。
「ほんとよくできるよね。外で寝るのとか怖くないの?」
その目は理解できないという感情で溢れかえっていた。
こんなにも純粋に疑問をぶつけられたのは初めてかもしれない。
「うーん、最初は怖かったかな。やっぱいろいろ考えちゃうからね」
「それなのにやるんだ。なんか変なの」
まあ、本当にそのとおりだから何も言い返すことができない。
何時間、下手したら十時間以上もバイクに揺られ、夏は暑さと虫刺され、冬は寒さ、野宿は寝るためのハードルがかなり高い。
キャンプと違って安全も保証されないから気を張らなきゃいけないし、お金も切り詰めるからご飯もろくに食べられない。
はっきり言って、こんなことを好き好んでする人なんて相当な変人だろう。
「たしかに最初は怖かったよ。でもね、すごくワクワクするんだ」
そんなリスクを冒してまでボクが旅をするのはなぜか。それは、ワクワクするからだ。
どうしようもないくらいワクワクするからだ。
「ワクワク?」
「旅をしてるとさ、見える景色がどんどん変わってくるんだ」
脳裏に浮かぶのはこれまでの旅の数々。色褪せることのない鮮烈な思い出たち。
大事な大事なボクだけの宝物。
「スロットルを回すたびに、知らない景色が目に飛び込んできて、ちゃんと見る前にまた新しい景色が飛び込んで、それが何回も何回も続くの」
街が畑になり、畑が森になって、そして海になる。
冷たい風は、暖かい陽射しに変わり、凍りつくような雨になって、淀んだ曇り空は澄み切った青空に変わり、降り注ぐ太陽は優しく照らす月になる。
「まわりを走ってる車のナンバーの地名がね、だんだん知らない地名になっていくんだ」
地名ひとつひとつに住んでいる人がいて、ボクの知らない景色を見て、ボクの知らない空気を吸っている。
「それを見るのが楽しくて楽しくてしかたがなくて、いつも胸がザワザワして叫びたくなる。ああ、ボクは遠くに来たんだって」
世の中にはこんなに楽しいことが溢れているのに、家で縮こまっているなんて我慢できない。
「綾乃の言うとおりたしかに怖いよ。旅先で何かおきたらって考えることもある。でもね」
「でも?」
息を吐いて肩まで湯に浸かる。これを言うのはちょっと恥ずかしいけれど、まあいいか。
「でも、一歩踏み出さなかったら、ボクはこうして綾乃と温泉に入ることはできなかったんだ」
新しい景色、新しい空気、新しい出会い。
旅に出なければ危ない目には合わないかもしれない。けど、旅に出なければそれを見ることはできない。
だからボクは何度だって旅に出る。ここじゃないどこかに行くために。
「双葉……」
湯気の向こうにある綾乃の目が揺れる。きっとのぼせているのだろう。熱いしねここ。
「って、なに言ってるか全然わからないよね」
肩をすくめて笑う。温泉に浸かったテンションで変なことを言ってしまった気がする。
「うん、全然わかんないや」
綾乃が笑ってそう言った。
「ひどっ」
わかっていたけど、面と向かって言われるとちょっと辛い。
「けど、すごく楽しそうなのはよくわかった。なでしこもきっとおんなじ感じなんだろーね」
「各務原さん?」
「最近ちょっと遠くに行っちゃったような気がしてたけど、双葉の話聞いてたらなんとなくわかった気がする」
親友のことを語る綾乃の目は、昨日とは違ってどこか清々しさのようなものを感じた。
「きっと、あの子も本気で楽しめることに出会えたんだろうね」
綾乃の心境にどんな変化があったのかはわからないけど、きっとそう悪いことではないはずだ。
「楽しいことがあるとさ、人生って一気に変わるんだ。各務原さんもきっとそうなんだよ」
ボクにとってのそれが旅だったように、各務原さんにとってはそれがキャンプだったのかもしれない。
「いいなあ、旅。わたしもしてみたくなっちゃったよ」
ただよう湯気のもやもやをぼんやりと眺め、綾乃はつぶやいた。
「バイクに荷物積んで、野宿は嫌だからホテルにでも泊まってさ」
さらっと野宿否定された。いやまあ、これが普通の反応なんだろうけど。
「のんびり国道走って、温泉入ったり、美味しいもの食べたり、それでいつか山梨に行ってなでしこに餌付けして双葉にご飯奢らせるんだ」
「そんなの、いくらでも奢ってあげるよ。もしこれたらだけどね」
「それ覚えとけよー 言っとくけど、わたしはグルメだからなー」
綾乃がのぼせ顔で笑う。
浜松から山梨までたったの150キロだ。意外と早くその時は来てしまうかもしれない。
「忘れない、忘れない」
だから、その時が来るまでにお金を貯めておこう。そしてうんと美味しいものをご馳走しよう。
「双葉、まだ時間ある?」
持ち込んでいた腕時計を見る。時間はまだまだ余裕がある。ボクは無言でうなずいた。
「なら、旅の話もっと聞かせてよ。どうせいっぱいあるんでしょ?」
「いいよ。何から話そうかなー そうだ、夏に琵琶湖まで行った時の話しよっかな」
「え? び、琵琶湖!?」
いきなり滋賀県の湖の話が始まって困惑している綾乃をよそに話を続ける。
「あの時は大変だったなあ。日焼け止め忘れて腕真っ赤になったり土砂降りで着替え全滅したり──」
自分の好きなことを話せるのが、こんなにも楽しいなんて知らなかった。
それもこれも全部、本栖湖でボクがウィリーしなければなかったのだと考えると、少しはあの黒歴史も認めてあげてもいいのかなと思った。
と、一瞬だけ考えて、結局黒歴史は黒歴史でしかないと我に返った。
危ない、のぼせておかしなことを考えるところだった。
こうして、ボクの浜松での時間はどんどんと過ぎていった。
そして──
「じゃあ、ボクはそろそろいくね」
バイクに跨る。これからまた150キロだ。疲れは十分とれたから楽勝だろう。
温泉で温まった頭の上からヘルメットを被る。奥までしっかり被り、顎紐をしめる。
「うん、なでしこ食べすぎんなよーって言っておいて」
「わかった。そっちも元気でね」
「また来る?」
綾乃が期待するようにボクを見た。少しは寂しいと思ってくれているのかな。だとしたら嬉しい。ちょっと恥ずかしけど。
「うん、来るよ。その時はちゃんとツーリングしようか」
しっかりと頷く。友達との約束は守らないといけないからね。
「わかった。約束だからね!」
頷いてゴーグルを被る。
お別れの時間だ。ちょっと寂しいけど、いつだって会いに行ける。
だってボクはバイク乗りだから。
キックペダルを蹴飛ばす。エンジンが震え、マフラーが白煙を吐き出す。
二、三回アクセルを吹かし冷えたエンジンを温める。
宙を舞うオートルーブの焦げた匂い。旅立ちの匂いだ。
クラッチを握りシフトペダルを踏み込む。アクセルを吹かす。エンジンが唸る。
ウィンカーを出す。クラッチを離す。
進み出す車体、離れていく綾乃。ミラーごしに映る姿に手を振る。
「あんま来るの遅いとこっちから行っちゃうからなー!」
エンジン音に紛れて聞こえた言葉に向けて、もっと大きく手を振る。
道路を走る。さあ帰ろう。ボクの街へ。
「はい、これ浜松のお土産」
あの騒がしい旅が終わり、一夜明けた月曜日。ボクはさっそく浜松でのお土産を野クルのみんなにあげていた。
「わー! うなぎパイ! しかもナッツ入りのやつだ!」
「へぇ、うなぎパイってそないな種類もあるんか」
「これすっごい美味しいんだよねー ありがと双葉ちゃん!」
「綾乃に各務原さんの好物だって聞いて買ってきたんだ。喜んでくれたみたいでよかったよ」
ちゃんと各務原さん対策で24個入りのを買ってきた。これできっと大丈夫なはずだ。
志摩さんと斉藤さん用のも買ったせいでけっこうな出費になってしまったけど、各務原さんのすごく嬉しそうな笑顔が見れたから別にいっか。
「綾乃ってロリ子が送ってきた写真に写ってた子だよな」
「うん! 土岐綾乃ちゃんっていうんだ。わたしの幼馴染なの」
「すっごいいい子だったよ。一緒に餃子食べたり温泉入ったり、ほんと楽しかったなー」
あの夜食べた餃子は本当に美味しかった。思い出したらまた食べたくなってきた。
「ええなー しっかり旅してて。うちらもそろそろ冬キャンせんとなあ」
「だよなー もう部員も四人になったんだし、キャンプしたいよな」
キャンプかあ。ボクはどうしようかな。貯金はあるけど無駄遣いできるほどあるわけじゃないし……
やっぱバイトしないとダメかなあ。しょうがない、探すか。
うぅ、働きたくないでござる。
「ボクはまた綾乃とツーリングにでも行きたいなあ。あの子のバイクすごいかっこいいんだよね」
「綾乃……綾乃……」
いつの間にかうなぎパイを食べていた各務原さんの食べる手が止まり、何か考え込むようにブツブツ呟きだした。
というかうなぎパイもう四個目か。早いな。
「双葉ちゃん!」
「な、なに? 各務原さん」
うなぎパイを食べていた各務原さんが突然顔を覗き込んできて、ボクは驚いた。
「わたし、なでしこだよ!」
「うん、知ってるけど」
いきなりどうしたんだろう。各務原なでしこ、さすがに部員のフルネームくらいは覚えている。
クラスメイトの名前? なんのことかわからないなあ。
「だ、か、ら! なでしこ、だよ!」
ムスッとした表情で繰り返す各務原さん。だから知ってるって。いったいどうしたんだろう。
疑問に思っていると、横から袖を引っ張られた。振り向くと、犬山さんがボクに向かって小さく手招きをしていた。
なんだろう。
「双葉ちゃん、たぶん名前で呼んでほしいんやと思うで」
犬山さんの耳打ちにボクは全ての謎が解けた。
そういえばボクはずっと綾乃のことを呼び捨てにしていた。対する各務原さんはずっと苗字のままだ。
ボクにとっては当たり前のことだけど、考えてみればちょっとよそよそしいかもしれない。
どうしよう。名前で呼んじゃってもいいのかな?
「むー」
各務原さんは相変わらずうなぎパイを食べながら、表情だけムスッとさせてボクを見ている。
ええい! もうどうにでもなれ!
「な、なでしこ」
恥ずかしさを押し除け各務原さん改めなでしこの名を呼ぶ。なでしこの目が見開く。
「ふ、双葉ちゃん、わたしの名前!」
一瞬だけ驚いたように口を開き、少ししてまるで花が咲いたようになでしこの顔が笑顔になった。
「って、呼んでもいいかな?」
うぅ、自分から言うってこんなに恥ずかしいのか。顔が熱いのは暖房のせいじゃないだろう。
「うん……うん! いいに決まってるよ! 双葉ちゃん!」
満面の笑みのなでしこが一気に距離を詰めてくる。ちょ、ち、近いって!
「な、なに? なでしこ」
「これからも、よろしくね!」
名前を呼ぶ。ただそれだけのことなのに、離れていた距離がぐっと近くなった気がした。
心がポカポカと暖かくなっていく。なんか、遠慮していたボクが馬鹿みたいだ。
そんな時だった。
「「じぃー」」
ふと、横からそんな声が聞こえた。
振り向く。犬山さんと大垣さんが、なんか表現しづらい目でボクをじぃっとと見つめていた。
「ど、どうしたの? 二人とも」
なんか怖いんだけど。え、ボク何かしちゃった?
「別に、なんでもないで。お土産ありがとうなー」
じゃあなんでそんな冷凍イカみたいな目で見てくるんですか?
「ああ、別に気にすんな。うなぎパイ、もらっとくぞ」
いや、そんな筆舌につくしがたい表情でうなぎパイ食べながら言われても……
「犬山さん? 大垣さん?」
二人とも無言で食べてないでなにか言ってよ! サクサクサクサク怖いって!
そ、そうだ。なでしこ! なでしこに助けを求めよう!
「な、なでし──」
「やっぱうなぎパイはナッツ入りだよね〜!」
ダメだ聞いちゃいねえ。
もしかして、名前で呼べ的なやつなの?
え、今になって? って言ったら何されるかわからないからやめておこう。
ああもうしょうがない! 一人呼んだら二人も三人も変わらないよ!
「あ、あおい、ち、千明……」
二人の名を読んだ瞬間。張り詰めていた空気が霧散した。こ、怖かった。
「うむ、よろしい」
「名前で呼ぶだけなのに、えらい時間かかったなあ」
感慨深げにそういう二人。もしかして、ボクが名前で呼ぶのをずっと待ってくれていたのかもしれない。
ちょっと悪いことしちゃったかなあ。これから気をつけよう。
「とりあえず、うなぎパイでも食べよっかな」
気を取り直すために箱に手を伸ばす。どんな味がするんだろう。楽しみだな。
「あれ?」
けれど、ボクの指先は箱の底を虚しくつつくだけに終わった。
箱を見る。中はすでに空だった。おかしいな、さっき開けたばかりなんだけど……
「あっ」
もしかして……なでしこのほうを見る。そこには残酷な真実が待っていた。
「ん? どうしたの双葉ちゃん」
きょとんとした顔でボクを見るなでしこ。足元には無数のうなぎパイの空袋!
導かれる結論はただ一つ。
「え、もう全部食べちゃったの?」
「えへへ、美味しくてつい」
あのボク食べてないんだけど。なでしこ恐るべし!
「おいしかったー! 双葉ちゃん、ありがとう!」
……まぁ、喜んでくれたならそれでいいか。
別に食べたかったとか思ってない。思ってないったら思ってない!
用語解説
コールマン
アウトドアブランド。比較的リーズナブルな商品が揃っている。
ハクキンカイロ
別名ハンディウォーマー ベンジンとプラチナの化学反応を利用して熱を得る昔からあるカイロ。おっさんのパッケージが目印。
オートルーブ
ヤマハが販売している 2ストロークエンジン用のエンジンオイル。青緑色をしている。煙が少ない。