ここはトレセン学園の保健室。朝4時半の目覚ましに起こされ、仮眠室から出てきた俺は、すぐさまパソコンを立ち上げ、メールチェックを始める。
医師会からの連絡や、トレセン学園と提携している病院からの連絡を手早く処理し、必要であれば返信を返していく。
それが終わったら、今度は各トレーナーからのメールを確認していく。担当のウマ娘の体調やトレーナ自身の体調や健康診断など、様々な相談が送られてくるのを一つひとつ目を通していく。
そして粗方スケジュールを組み、予定を立てるころには、日は昇り、静謐に包まれた学園も目覚め始めてきた。
俺は椅子から立ち上がり、欠伸と伸びを一つ。背骨が小気味よく乾いた音を鳴らし、俺の頭にあるウマ耳はピクリと動いた。腰から力なく垂れさがる尻尾は、尻の埃を払うが如く左右に大きく揺れた。
グルル……と低回転のエンジン音のような音が腹からして、空腹を知らせてきた。時計を見ると食堂がそろそろ開くころだ。今日の朝ご飯は何にしようかと考えながら開いていたノートパソコンを畳むと、ミディアムヘアーの髪を揺らし足早に食堂へと向かった。そして寝間着姿のままだと気が付き、駆け足で保健室に戻った。
いつもの白衣姿にゴールドシチーから貰ったブルーライトカット眼鏡を掛け、一番乗りで食堂についた。
「おはよう。おい、これから食事か?」
食堂のメニュー表を見ていると後ろから声を掛けられた。振り返ると同期であり、トレーナーとして名を轟かしている東条ハナがいた。
「ああ、ハナさん。おはよう。当直明けで腹減ってさ、今日もパソコン相手に色々やらなきゃいけない仕事があるから、朝からがっつり食おうかと」
「そうか、なるほど。……一緒に食事をとってもいいか?相談したことがあるんだが。奢るぞ」
「マジかよ。んじゃご馳走になるかな。フライ定食、ごはん特盛で」
「わかった、席とっていてくれ」
「はいよ」
思わぬ幸運にスキップしそうになるが、さすがに自重してテイオーステップで席まで向かった。
食事を受け取った後、ハナさんが俺の顔をまじまじと見て唐突に言ってきた。
「お前、眼鏡なんて掛けるのか?」
「あ?ああ、これな。ブルーライトカット眼鏡って奴だ。シチーの奴が使えってうるさくてな」
モデルやっているゴールドシチーが、時にはマネージャーと一緒になって事あるごとに新作や流行りの女性服を着させようと迫ってくる。いつもは逃げ切るのだが、この前は捕まってしまい鼻息荒く
まぁ、メガネはデザインも機能性も良いので使っているが。服だけは勘弁願いたい。
俺は母親であるウマ娘の血をかなり濃く受け継いだせいか、何故か性別は男なのにウマ娘のようにウマ耳と尻尾も生えている。
ヒトの耳もあるが、赤ん坊の頃の大きさで成長が止まったままなので、それを隠すために髪の毛も伸ばしている。その為、見た目もどちらかと言うと女性寄りで、よく生徒のウマ娘と外出すると、野郎どもからナンパされることが多い。その度にウマ娘の身体能力を遺憾なく発揮し、裏拳を死なない程度に叩き込んできた。
野郎共、玉蹴られないだけありがたく思えよ。
「ああ、あいつか。いつだったかな、メイド服持ったあいつに追いかけられた事が――「それ以上はいけない」……はいはい」
黒歴史をしゃべりだすハナさんを黙らせ、周りを見ると何名かのウマ娘がこちらに耳を向けているのが分かった。小さく舌打ちをして、威嚇すると一斉に耳が元の方向に戻ったので改めて聞いた。
「それで?何、相談って?」
とりあえず腹減ったので、揚げたてのホタテのフライに齧り付き咀嚼して、味噌汁で流し込む。うむ、旨い。
「私の担当のウマ娘のことなんだが」
「ええ」
俺は頷きながらエビフライに食らいつく。oh、デリシャス。あっ、話は聴いてますよ?
「うちにはサイレンススズカというウマ娘が所属しているのは知っているな?」
「もちろん。めちゃくちゃ早い子じゃないか」
いつだったか選抜レースで6バ身差くらい開いてゴールしたのを覚えている。すごい奴が中央に来たと思ったものだ。それより米旨すぎて芝生える。
「そうなんだがな、あの子にトレーニングをしているんだがな、最近調子が悪くてレースで結果が出せてないんだ」
「ふむ、ちょっと調べてみますか」
とりあえず俺は一旦箸を止め、携帯を取り出して、ハナさんが定期的に送ってくるトレーニングメニューを見てみた。先行の走り方にあったトレーニング法で、これと言って怪我をするようなスケジュールでもない。休みもしっかり取ってある。
「特にこれと言って問題は無いなぁ。ん、先行?ふーん」
スズカの走りは先行より逃げの方がいいと思ったが、そんなことより胡瓜の浅漬けしょっぺえな。もうちょい塩抜け。減点3。
「お前はどう思う?」
「どうって、スズカの走り方か?」
「ああ」
「まぁ、あの子のレースを全部見たわけじゃないからハッキリ断言できないけど、俺がトレーナーだったら逃げっていうか、差を大きく開けてぶっちぎる大逃げの方がいいんじゃないか?最後のコーナー辺りで一息ついて最後の直線で再加速。ただデメリットあるけど」
そう伝えるとハナさんは黙ってしまった。そして箸を止めてまっすぐこちらを見て聞いてきた。あー、こりゃ内心おどけてる場合じゃないな。
「そうか、ならウマ娘の医療に携わってきたお前に改めて聞くぞ。その走り方でこの世界長くやっていけるか?」
「いや、ある日突然ぼっきり逝くね」
俺は即答した。気持ちを切り替える。
「速さを求めて誰にも追いつけない場所へ逝ったウマ娘を俺はこの学園の誰よりも見てきたよ」
「…………そうか。そうだったな、すまない」
俺は何とも無いように話したが、自然に声も低くなってしまった。何だか申し訳なって目線を下げると表情が強張った。テーブルに写る自分の影を見るとウマ耳が後ろへ軽く寝ているのが分かった。これは不機嫌な気持ちの時にやってしまう癖だ。
無意識とは言え、ハナさんには申し訳無いことをしてしまった。
以前俺は、ハナさんと沖野君、そして黒沼さんと南坂君と地方研修に行き、そこで練習中のウマ娘の故障に立ち会ったことがある。俺はすぐ手当てに向かったが――まぁ俺たち同期の苦い思い出だ。ハナさんにあの事を思い出させたかも知れない。
「こっちこそごめん、気にしないでくれ。俺の答え方も悪かった。……まぁ、ハナさんの考えも分かる。逃げじゃなくて先行の走り方を出来れば怪我をする可能性は少しは減るだろう。才能だけに頼るんじゃなくて、基本的な走り方を身につけて勝ちなさいって。極端なことを言えば大差を着けなくてもハナ差で相手より先にゴールすれば勝ちなんだから。そのこともちゃんと説明したんでしょ?」
ハナさんもそうだが、沖野君も黒沼さんも南坂君もそれぞれのトレーニングの方針はあるが、ウマ娘が大怪我をしないように気を配っている。
最低でも週1でトレーニングの詳細をメールで俺に報告して、俺もそれを見てアドバイスだったり、定期的に検査をしたりと協力はしている。
残ったキャベツの繊切りをかっ込みお茶を飲み干す。こんな話をしているのでさっさと残った食事を食べ終えてしまいたかった。
「ああ」
「んで、なんか言われた?」
「いや、スズカはおとなしい性格でな、疑問に思ったことは聞いては来るが、感情的になって食って掛かってくることはない。私も話し合いはしているが、どうも手ごたえ無くてな、お前に頼みたいんだ」
この言葉を聴いて俺は頷いて言った。
「なるほど。スズカからすれば自分の走りをしたいだろうしな。けど色々考えて我慢しているんだろうな。……分かった、俺に任せてよ」
そういうとハナさんは柔らかな笑顔で言った。
「すまない。頼むよ」
「ハイよ。メシご馳走さま、ありがとう。お先に失礼~」
俺も笑顔で返してさっさと席を立ち上がり、ハナさんに手を軽く振って食堂を後にした。
私は走るのが好きだ。全力で走って走って誰もいないゴールを突破するのが好きだ。あの感覚を味わいたくて東条トレーナーのもとで練習を重ねた。
自分の中から無駄なものが無くなりレースで勝つために必要な体が仕上がっていくのが感覚的に理解していた。
レースに出ればいつも一着。これなら私はいつまでもこの景色を見られる。そう思っていた。
ある日トレーナーが言った。逃げではなく先行で行こう、と。トレーナーは心配していたのだ。このままでは足に負担がかかり、いつか大怪我をしてしまうと。
私は走り方を変えた。そしたら勝てなくなっていった。最初は慣れていない走り方だから仕方がないと思ったが、何度も何度も負けると自信が無くなっていった。
自分の周りにウマ娘がいると、第四コーナーを回った際、ごちゃごちゃしているのが嫌で、呼吸が苦しくなり走りに集中できなくなって負けるのだ。
「はぁ……」
「何溜め息ついているのだ貴様は」
お昼休みに食堂でテーブルに座ってため息を吐いていると、エアグルーヴが隣に座ってきた。
「エアグルーヴ」
「最近落ち込んでいるようだからな、気になってはいたんだが。私で良ければ相談に乗るぞ」
「えっと、そうかしら?」
私は恥ずかしくなって誤魔化そうとするが、エアグルーヴは溜め息交じりに言った。
「全く、スズカは隠し事が下手だな。そんなに私が頼りないか?」
「えっ?そ、そんなことはないけれど。もう、意地悪ね」
「フッ。いや、すまない。それで何を悩んでいるんだ?」
普段冗談を言わないエアグルーヴが見せた冗談に少し心が救われた私は悩みを全て吐き出した。彼女は私が話し終えるまで黙って聞いてくれた。
「そうか。うむ、スズカの悩みも分かったし、トレーナーの考えも理解できたのだがな」
「私は思いっきり走りたいのだけれど、トレーナーは私の未来を考えて指導してくれているから、我が儘言うのも嫌なの。私はどうすれば良いのかしら?」
私がそう呟くとエアグルーヴは少し考えて言った。
「なら、あの人の力を借りるしかないな」
「えっ、あの人?」
聞き返した私にエアグルーヴは微笑んで聞いてきた。
「時にスズカ。保健室に世話になった事があるか?」
「保健室?いいえ……無いわ」
私はそんなに大きな怪我も病気もしたことがないから行ったことは無い。ただ予防接種や健康診断で保健室の先生は何度か会ったことがある。背が高くて、鼻筋は通っていて大きな瞳にくっきりとした二重。黒いウマ耳に艶のある長い尻尾。
そう伝えたらエアグルーヴは俯いて笑いを堪えていた。
「なにがおかしいの?」
「いや、スズカがそう評価しているのが可笑しくてな」
「そう?私だって綺麗な人は綺麗って言うわよ?」
「ふはは!そうか。んんっ、まぁ簡単な話さ。保健室に行って相談してもらえれば良い。先生はウマ娘の体に熟知しているからな。怪我の不安は専門家に聞くのが一番だ。私も会長も、あの人から色々と相談して貰ったものだ」
「そうなの?でもそうね、怪我のことは専門家に聞くのが一番ね。ありがとう」
少しエアグルーヴの発言に引っかかるものがあったが、それよりも保健室の先生に興味が沸いた。
私は立ち上がると保健室に向かうべく席から立ち上がった。
「ああ、そうだ。先生によろしくと伝えてくれないか?忙しいと思いますが、偶には生徒会室にお茶でも飲みに来てくださいと」
エアグルーヴの突然の敬語に驚いた私は、思わず言った。
「分かったわ。それにしても珍しいわ、貴方が敬語を使うなんて。トレーナーには滅多に使わないのに」
「たわけ。そのくらい弁えているさ」
ムスッとした表情のエアグルーヴが可笑しくて、私はつい笑ってしまった。
そして向かった保健室。保健室と言うよりは、診療所と言った方が正しいのかもしれない。ドアの前に立ちインターホンを鳴らす。暫くして「開いてますよ」と声がしたので中に入った。
「いらっしゃい、サイレンススズカ。よく来たね」
そう笑顔で迎えてくれた先生はやっぱり綺麗だった。