日も暮れ、日中の暑さも下がり涼しい夜。俺は白衣からジーパンと白シャツとラフな格好でトレセン学園の寮まで歩いていた。
基本的に寮の中はウマ娘のプライベートを守るため原則トレーナーや職員は立ち入り禁止だ。まぁ最もウマ娘達が体調崩した場合、俺は診察のために何度も寮内に入ったことはあるが。
だからと言って今さら顔パスで入るわけにはいかない。
トレセン学園に働き始めた頃に、生徒たちには「先生はウマ娘だから入って良いです」とか言われ。ふざけんな、俺は男だぞ!と言っても、どうやら心が男のウマ娘とか思われて相手にして貰えない。
流石に股間を見せつける訳にもいかず困っていると、むしろ先生に女の子の魂を取り戻す!と一部のウマ娘達が化粧品やら女性服やら持って追いかけてくるようになった。
しかも一部トレーナーまで「男の娘って萌えるよね」と参戦して現場のウマ娘に作戦指示を出す始末。
その結果、『先生は男性派』と『先生はウマ娘派』と『先生は絶滅危惧種の男の娘派』の三つ巴の討論大会が何故か開催され、『とりあえず前に尻尾(意味深)あるか確認せねば!』と一致団結したところをたづなさんに壊滅させられたらしい。
後日この話を聞いて困惑したが、まぁこれも学生の青春だなと思うことにした。決して現実逃避ではない。
なんだかんだ騒いでも実行してくるヤツいなかったしな。
そんな魑魅魍魎の住みかであるトレセン学園の寮は学園と道路を挟んで真向かいにあり、そのうちの栗東寮に向かった。
寮の玄関には寮長のフジキセキが腕を組んで待っていた。
寮の門限が8時までなので大方見廻りとスズカの見送りといったところか。
予め寮長のフジキセキには事情を説明してあるので問題ない。
「やあ、先生。こんばんわ」
「ああ、こんばんわ。スズカはまだ来てないか」
「もう少しで来ると思うよ。女の子のなんだから身嗜み整えるのに時間が掛かるよ?先生も心当たりあるでしょ?」
いたずらっぽい笑みを浮かべそう言うフジキセキに俺は苦笑で返す。そういえば去年のファン感の時にこいつはゴールドシチーとヒシアマゾンと一緒になって俺を押さえつけ、メイクをしてきたな。
俺もウマ娘の同等の力はあるが、流石に本気で暴れれば怪我をさせてしまうし、そして何より尻尾をニギニギされると力が抜けて抵抗すら出来なくなってしまう。
『先生は可愛いから思いっきり最新のメイクをしてあげる!』
『シチーふざけんなって!あ゛っ、おまっ人の
『ほらほら、ヒシアマ姉さんのマッサージ受けてみな!』
『ふふ流石に3対1は勝負ありかな?』
『バカ野郎!勝つぞお前!……アーッ!!♀』
…………心当たりというか嫌な思い出なんですが。ニマニマ笑うフジキセキに手刀を落とす。
「コラ、大人をからかうんじゃありません」
「あいた。ふふ、しかしラフな格好も先生は似合うね。このままジャケット羽織ってヒール履けば休日のOLって感じになるね。シチーに写真送っても良いかな?」
「まったく勘弁してくれ」
俺は降参するように両手を挙げて言った。フジキセキは面白そうに笑うと、冗談だよと言った。
「ふふふ、ゴメン。……ああ、来たようだね」
キセキが振り向くとそこには学園のジャージを着込んだスズカがいた。
「先生!お待たせしました!」
「いや大丈夫だ。さて走りに行こうか」
スズカが靴を履き替えるのを確認して外へと振り替える。
そんな俺にフジキセキは微笑を崩さず言ってきた。
「可愛いポニーちゃんに変なこと教えないでね、先生?」
いたずら好きなフジキセキにどう返せば良いか少し迷ったが、少しばかりの仕返しと俺は近づいてフジキセキの両頬を両手で挟み込み、顔を近付け少し低めの声で囁いた。
「ふぅん?それなら君なら変なこと教えても良いのかな?」
「えっ……?ふえええっ?!」
顔を真っ赤にして狼狽えるフジキセキを見て俺は満足して両手をキセキから離す。
「なんてな。背伸びするのも良いが、相手を考えないと喰われちゃうよポニーちゃん?さぁスズカ行こうか。……スズカ?」
スズカを見ると彼女まで顔を真っ赤に染めて固まっていた。
やれやれ刺激が強かったか?
「ス ズ カ !」
「あっはい!い、行きましょう」
固まったままのフジキセキを放置して俺はさっさとターフへ向かって歩き始めた。
――せんせーのばか。
そんな呟きが微かに後ろから聴こえたが子供の敗北宣言と思うことにした。
トレセン学園のターフに着くと美しい夜空が輝いて見えた。
芝の上でスズカに準備運動と柔軟をしっかりさせて向かい合った。
「さて、やるか」
「はい!お願いします!」
スズカは明るく笑顔で答えた。
「といっても今日はトレーニングと言うより遊びだ。とりあえず、一時間好きに走って良いよ」
「へっ?好きにって、……好きに?」
スズカの間抜けな答えに俺は笑って言った。
「ふふふ、そうだ」
「でも好きに走るってどうすれば良いのかしら?」
考え込むようにスズカは言うのを見て俺は優しく語った。
「スズカは駆けたかったのだろう?ターフを晴れやかに。チームの皆のように」
「はい」
スズカは返事をした。元々走りの才能は誰よりもあるスズカだ。理屈で言うより感覚で教えた方が分かるだろうし、そして何より今のスズカに必要なのは楽しく走れる環境だ。
「何も考えることはない。そして駆けるだけ駆けたら治るさ」
スズカはジッとこちらを見たままだ。俺はスズカに発破を掛けるため声を張り上げた。
「さぁ、晴れやかに行け!自由に走れる時に走れない奴がレースで駆けれると思うか!」
「わかりました!先生行ってきます!」
スズカは振り替えるとターフを力強く駆け出した。
――――何も考えることはない。
先生はそう言った。
でも駆け出しても色々と考えてしまう。レースの事、練習の事。そして先生の用意してくれたこの時間の事。
第2コーナーを過ぎ、全力で走る。息が切れ、口のなかに血の味がする。まさか!切った?
私は第3コーナー手前で立ち止まり、口を腕で拭った。血なんて着いていなかった。
「スズカ」
膝に手を着いて呼吸を整えていると、後ろから先生の声がした。
「先生速いですね。もう追い付かれちゃった……」
「何言っているの?律儀に追いかけるわけ無いでしょ?柵越えて横切って来たんだよ」
「ふぇ?……あっ!うふふふっ!」
自分の間抜けさに思わず笑ってしまった。
「先生は何も考えることは無いと言ったじゃないですか。それがなかなか出来なくて、息上がってしまいました」
言い訳みたいなことを言った私を心の中で恥じた。
「良いじゃん、好きに走れって言ったんだし。何も気にしないで良い」
先生はそう言うとその場に座り込んだ。先生の一言でなんだか力が抜けて、私もそれに倣って座ることにした。
「先生、どうして走ると肺から血の味がするんでしょうか?」
ふと思った事を先生に聞いてみた。せっかくだから聞いてみよう。先生なら何でも答えてくれる気がする。昔から気になっていたが、誰にも聞いたことが無かった。
「ん、それはね、人間は呼吸しているだろ?それは肺に空気送り込んで血液で酸素を供給するためだ。そして走ると血液がどんどん巡って呼吸に血の匂いが混ざって口から息を吐きだすと血の味がするように感じるのさ。まぁ体が元気な証拠みたいなもんだな」
「成程、そうなんですね」
先生とたわいもない話をすると、どうしてここまで落ち着くのだろう。ここまで素敵な女性になるにはどうしたらなれるのだろうか?色んな考えが沸いてくる。
「先生やっぱり私には無理みたいです」
「ん、何が?」
「考えないで走るのが、です。先生といると色々疑問とか考えが沸いてきます」
私がそういうと先生は笑顔で言った。
「そう?なら、色々答えてあげようか?ちょっと歩きながら」
先生は立ち上がると手を私に差し出した。
「はい」
私は手を取って立ち上がった。
夜のターフをこうして歩くのは初めてだった。先生はのんびり歩きながらポケットに手を突っ込みまっすぐ前を見ていた。偶に見せる男性のような仕草にドキッとした。
「さぁなんでも良いよ気になることがあれば」
ふわりと髪を揺らしてこちらを見る先生に再びドキリとする。これがギャップ萌えってものなのかしら?
「ええっと、先生はトレーナーにはなろうと思わなかったのですか?」
変な考えを誤魔化すために聞いてみた。トレーナーの資格を持っているならやろうと思えばやれるはず。
「思わないな、というかウマ娘のトレーナとか見たことある?」
「……無いですね」
「だろ?いるにはいたんだが、色々と問題でね。ウマ娘のトレーナの指示で走るといつかはこう思うのさ『そんなに言うならあんたが走れ』ってね。女と女の戦いだ、うまくいかないんだよ。この手の相談は何回も聞いたよ。だからやらなかった」
私は黙って先生の話を聞いていた。
「それよりも私は自分の体に興味を持っていた。『何でこんなに怪我をするのだろう?病気になるんだろう』って。心臓の手術2回、脊髄手術1回。盲腸手術に骨折で足の骨に針金を巻いた。胸から背中まで傷だらけだったから、私はこう思った。『医者の言うことを真面目に聞いていたら死んでしまう。それなら自分で自分の体を管理できるようになりたい』って」
先生の言葉には重みがあった。聞いているだけで胸が苦しくなってくる。
「そうして必死に勉強して、やっと医者の監視のない日常生活ができるようになったのは丁度18歳の時かな?大学に進学して、ひょんな縁でたづなさんや秋川理事長に出会って、トレセン学園に来たんだ」
先生はぽつぽつと言葉を紡いだ。
「私はね、小学校中学校と通ったことが無い。病院暮らしが当たり前でね、しかもこちとら天涯孤独の身。色んな人の支えがあって高校は通信教育で卒業資格を取った。だから学生生活なんて経験したことが無い。大学は行ったけど一人で勉強してたし、誰とも遊ぶことなんてなかったからな。だから学生と関わって、なおかつ自分の医者としてのスキルを活かせる保健室の先生をやったのさ」
私は何も言えなかった。自分の将来を先生みたいに真剣に考えていないことに気が付いた。
「……辛くはなかったんですか?」
「辛かったかな?まぁ過去のことを気にしても何も変わらない。それより私は今に命を懸ける。それだけだよ」
落ち着いて話す姿を見て、すぐ横にいるのに先生が遠くにいるように感じた。エアグルーグが尊敬している理由が分かった。
――
トレセン学園のスクール・モットーは先生のためにあるんじゃないかと思った。
「先生は強いですね」
私はぽつりと呟いた。
「そうかな?」
「そうですよ、女性として尊敬します」
「そうか…………って、はぁ!?」
先生が素っ頓狂な声を出したのに驚いた。何かおかしなことを言っただろうか?
「スズカお前なんて言った?」
先生が私の肩をつかんで聞いてきた。ちょっと怖い。
「先生は強いですねって」
「違うそこじゃない」
「えっと、尊敬しています」
「なんで尊敬してるの?」
「えっ……同じ女性として」
「ヌッ!」
先生は奇妙な呻きを上げると頭を抱えてしゃがんでしまった。
「んあぁぁぁああ!どうしてっ!くっ、またっかぁ……!おのれ三女神めっ!ゆ゛る゛さ゛ん゛!!」
「えっ!?えっ!?」
私が慌てていると暫くしてため息を吐いて下からジト目でこちらを向いて先生は低い声で言った。
「スズカぁ、君知らなかったのか?」
「何が、ですか?」
「私は男だ」
「へ?」
「お と こ」
「おこと?」
「なんでや。いいか、俺 は お と こ だ」
……。
…………。
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………………………………。
「噓でしょぉぉおお!?」
血の香りのする絶叫がターフに響いた。