アークナイツ Weg zur Erlösung 作:水面 透
第一問 Who am I ?
暗い。とても暗い。
そこは全てを黒く塗りつぶしてしまったかのような闇に覆われていた。
人はひとりも見当たらない。この世界にはぼくだけしかいない。虚しさと寂しさだけがこの世界を覆いつくしている。
なぜぼくがここにいるのか、まるで見当がつかなかった。それどころか、自分が何者だったのかということすら思い出せない。自身の記憶もまた、この闇のように黒く塗りつぶされてしまった。
だが一つだけ覚えていることがある。それは自分には
ぼくは探した。しかしどこにも出口は見当たらない。
「──」
ふと、頭上から声が聞こえた。見上げると、墨で染めたような空から蜘蛛の糸のような一筋の光が漏れ出ていた。
「こっちへきて……。あなたはここにいてはいけない……」
暖かくて、どこか冷たい女の声。なぜだろう。ぼくはその声を聴いたことがある。懐かしさが全身から込み上げてくる。
思わず手を伸ばした。すると自分の身体が深い水から這い出るように天へ昇っていく。
そして互いの手が重なり合う。僕は必死にその手を握り締める。
顔をあげ、彼女を見た。綺麗な白い髪。しかし差し込む光の眩しさのせいで顔はよく見えなかった。
彼女は告げる。
「さぁいきましょう……。また一緒に──」
雑音が混じり、最後はうまく聞こえなかった。聞き返そうとするが、その前に眩い光がぼくの視界を覆いつくした。
* * *
目を開けると、今度は穢れを取り払ったかのような白い天井が目に入った。
適度に柔らかいベッドから身を起こすと、腹から痛みをよこしてきた。患者用の病院衣の中を見てみると、鳩尾に何かの刃物に突かれたような傷跡が残っていた。
部屋は無菌室のようで、壁も、床も、そして透過ガラス越しに見える通路も真っ白だった。
何故ここにいるのか、自分にはよくわからなかった。ここがどういう場所なのかさえも。
「おはようございます、コードネーム・ドクター」
すると天井から声が聞こえてきた。女性の声を模した優しく無機質な機械音声。
「
強化ガラスに情報が投影された。そこには自分のコードネームと、今の精神状態を表す少し濃い青色が表示されている。
「きみは誰だ」
ドクターは天井に向かって問いかけた。
「
「ここがロドス・アイランドという場所なのか?」
「はい、そうです」と〈PRTS〉は返答する。「あなたは一週間前──十二月二十三日に、チェルノボーグのとある医療研究施設にて倒れているのをアーミヤCEOらに発見されました。そしてそこから救助され、いまこの閉鎖病棟区画で一時隔離を行っています」
思い出した。自分が黒い棺桶だらけの施設で目覚め、ウサギ耳の女の子に助けられたことを。
そして外に出ると、多くの人間が殺される凄惨な現場に遭遇し、そこから脱出するために犯罪者と交戦したことを。
あれから、一週間が経ったのか。
「そうだ、早くここから出ないと……」
そう小さく呟くと、胸の奥で何かが燃え上がるのを感じた。彼らを何としても止めなければならない。これ以上、罪を犯させないために。
「〈PRTS〉」
「はい、なんでしょう」
「ぼくは早くこの部屋を出たい。やらなくちゃいけないことがあるんだ。どうやったらここを出ることができる?」
すると速攻で返答が返ってきた。
「あなたの復帰は目覚めてすぐの予定となっております。13:00ごろに復帰のために職員の一人が面会に来る予定です」
「わかった、じゃあそれまで待てばいいんだな」
「はい。三十分前になったらドローンが到着しますので、それまでしばらくお待ちください」
そして天井から機械の声は止んだ。
面会室もまた純白に彩られていた。
患者と面会人との間は透明なガラスで仕切られていて、まるで囚人になったみたいだな、とドクターは思った。
そこにはボロボロの黒い外套をまとった女性が既に座って待っていた。部屋が白いせいか、その黒さは唯一の汚れのように目立つ。
「
穏やかに、優しく、女性は語りかけてきた。
「とくに問題はありません。腹は少し痛みますが……」
とドクターは腹をさする。
「そうですか、それは良かったです」
女性は優しく微笑む。その顔に、なぜか見覚えがあった。だがどこで見たのかは思い出せない。
施設から目覚める前の記憶はすべて失われていた。自分がどこで生まれ、どう育ったのか。それすらも忘れてしまっていた。
かすかに覚えているのは、誰かと約束をしたことだけ。
とりあえずはそんな疑問を頭から排除し、ドクターは肝心なことを質問する。
「すぐに復帰できると聞いたんですが、本当ですか」
「ええ──ああ、申し遅れました。わたしは医療オペレーターのシャイニングと申します。今日からあなたの復帰支援のために肉体・精神面において補佐を担当させていただく予定となっております」
シャイニングという女性はそうにこやかに自己紹介をした。しかしドクターはその名前に違和感を持った。彼女はそんな名前ではなかった気がする。
「……どうかなさいましたか?」
しばらく黙っていると、シャイニングが心配そうに見つめてくる。
「いや、あなたの名前が、ちょっとおかしいなって……」
「わたしの名前は本名ではなく
そういえば、〈PRTS〉も最初はコードネーム・ドクターと呼んでいた。助け出されたときに全員が〈ドクター〉と呼んでいたので、うっかり本名だと勘違いしてしまった。
なら、ぼくは一体誰なんだろうか
「復帰支援のための心理状態把握のために、これからあなたにいくつか質問をさせていただきます。よろしいですか?」
「え……あっ、はい」
物思いに更け込んでるあいだにシャイニングが問いかけたので、少し驚いてしまった。
「では、始めますね」
あなたの名前と生年月日を教えてください──ドクターです。それ以外はわかりません。
あなたの出身地はどこですか──わかりません。
なにか、印象に残った出来事は覚えていますか──チェルノボーグの事件現場以外は、特に。
どう感じましたか──人が無残に殺されてて、許せなくて、何として彼らを守らないとって思いました。
「なるほど、そうでしたか」
うんうんとうなずき、黒く小さな手帳にメモを取っていく彼女。ずっと微笑んでいるが、金色に輝く目は観察者のように冷たく、鋭かった。
「最後に一つ、質問してもいいですか」
「どうぞ」
そして、彼女は決定的な一言を口にする。
「
「それは……」
その質問に、ふいに何かが呼び起こされたような気がした。ドクターはシャイニングの顔をじっと見つめる。整った綺麗な顔立ち、何色も寄せ付けない白く綺麗な髪、そして山羊のような白い角。どこかで見たことがある。いったいどこで──。
「ああああああッ!」
突如、脳裏に激痛が走った。あのとき助け出された時と同じ、記憶と記憶の間で摩擦が起こったような感覚。それを抑えようと、ドクターは必死に頭を抑え、爪を頭皮に食い込ませた。
「大丈夫ですかっ」
シャイニングはすぐさま席を立ち、労わるように強化ガラスに手を置く。
「大丈夫、無理に思い出す必要はありません。落ち着いて、深呼吸を……」
言われたとおりにドクターは深呼吸をする。ゆっくりと息を吐くたびに痛みは少しずつ和らいでいく。近くにいた介護ドローンが寄り添うように近づいてくる。
そして頭痛が完全に収まると、ドクターは困惑のまなざしで彼女を見つめ、
「
一瞬、シャイニングが目を見開いた。
「先ほど申し上げた通り、わたしは──」
「いえ、そうじゃないんです」ドクターは口調を正す。「なんとなくですが、あなたからは懐かしさを感じるんです。昔、どっかで会ったような……」
もしかしたら、あの暗闇の世界にあらわれた女性はこの人かもしれない。暖かくもどこか冷たいその雰囲気は、夢の中で出会った彼女にも感じたから。
「その人は、いったいどんな人物だったか覚えていますか」
「あなたと同じような、とてもやさしい人だったと思います」
「そのほかには何かありますか」
「えっと……」ドクターはしばらく考え込み、「あと憶えているのは、その人とはある重大な約束をしているということでしょうか……」
「その約束とは、いったいどんな内容ですか。答えられる範囲でかまいません。教えていただけませんか」
ドクターはまたかぶりを振り、
「わかりません。ただ、それはとても大事なことで、絶対に忘れちゃいけないことなんです。思い出せるなら、何としても思い出したい」
「それは、とても大切な約束なのですね」
「はい」
メモを取り終えたシャイニングはそこで質問を切り上げ、パタンと手帳を閉じる。
「これで復帰前の
「そうですか……、よかった」
職務をおこなうことで改善可能──それを聞いて、ドクターは胸をなでおろした。もし復帰できないと判断されたら、あの約束を果たせなくなってしまう。それが心配だった。
「それでは、部屋に戻って着替えをしてきてください。わたしは閉鎖病棟区画の入り口で待っていますから」
それだけを告げると、シャイニングは面会室を出ていった。それに続いて、ドクターも医療ドローンに付き添われながら面会室を後にした。
部屋に戻ると、フード付きの黒いレイドジャケット、上下黒のスーツ、白いワイシャツ、そして白衣が置かれていた。あそこで目覚めた当初はボロボロだったが、どれもしわ一つなく綺麗にたたまれていた。おそらくすべて新品だろう。
裾を通す。全て自分にぴったり合った。白衣は今は着ないので右腕に掛けるように持ち、そのまま部屋を後にする。
通路を歩くと、関門のように立ちふさがる気密性の扉が見えた。ドクターは服以外に貰った腕時計型の携帯端末を右横の認証デバイスにタッチする。するとプシュッという空気の漏れる音とともに、扉は左へと流れるように開いた。その先は一般区画となっているらしく、閉鎖病棟区画とは違い、壁や天井には白以外の塗装が使われていた。
扉のすぐ近くでシャイニングが立っていた。面会室にいたときとは違いフードを被っていたため、表情の冷たさに拍車がかかっている気がする。
「お待ちしておりました」とシャイニングはフード越しでにこやかに微笑む。「では改めまして、わたしはあなたの職務補佐をさせていただきます、医療オペレーターのシャイニングと申します。よろしくお願いします」
そう彼女が手を差し伸べてきた。白く美しい手。それをドクターは握ろうとする。
『──』
すると突然、視界にノイズが走り、目の前にいる人物が小さな女の子の姿に変わった。服は黒を基調とした高級なゴシックロリータを身に着けている。顔面は黒く塗りつぶされていたが、なぜか少女が冷たく微笑んでいるのがわかった。差し伸べられた綺麗な手。それを握ってしまうと、もう後には戻れないような気がした。
「大丈夫ですか?」
その問いかけにドクターはハッとなった。いま視界に移っているのは少女ではなく、自分よりやや身長の高い大人の女性だった。
「いや、大丈夫です」とドクターは無理に微笑む。「よろしくお願いします、シャイニングさん」
ドクターは差し伸べられた手を握った。ほどよく冷たい感触が肌に伝わる。
「ちなみに、わたしに対しては敬語を外してもらって構いませんよ」とシャイニング。「あなたはわたしの上官でありますし、それと変な気づかいは心の負担になるでしょうから」
「いいんですか?」
「ええ、構いません」
「じゃあ遠慮なく」
「それと」とシャイニングは忠告する。「あなたはわたしの上官であり、命令を下せる立場にあります。しかし同時にわたしのクライエントでもあるため、こちらの指示にも従ってください」
「わかった」とドクターは頷いた。
「では今日はここまでです。本格的な職場復帰は明日からになりますので、それまで部屋でゆっくり休んでください。部屋までは介護ドローンが送ってくれます」
「わかった。じゃあまた明日」
「はい。また明日」
互いに手を振り、間もなく到着したウサギを模した介護ドローンとともに、ドクターは自室へと向かう。その時に見たシャイニングの顔は、幻覚で見た少女のように冷たく微笑んでいた。
案内された自室は、広めの部屋だがあまり物が置かれておらず、何だか殺風景な印象だ。
しかし、本棚にはびっしりと資料が敷き詰められていた。一番多いのが精神医学や心理学に関する本や論文。次に多いのが法学。それ以外は小説が入っていた。
机には一台のノートパソコンと三つの写真立てが置かれていた。ドクターは写真立ての一つを手に取る。そこには黒いスーツで正装した、同じ顔をした二人の黒髪蒼眼の少年と、その間には豪華な椅子に座る角を生やした白髪金眼の少女が写っている。少女は満面の笑みを浮かべている。まるで二人の執事を侍らせた無垢なるお姫様であるかのように。
ドクターは写真に写る少女を凝視する──やはり、とてもよく似ている。シャイニングという女に。
そして、おそらく隣に写っているのは自分なのだろう。
この写真から見える不可解なことは二つ。一つは真ん中に写る少女の名前。二つ目はなぜ自分が二人もいるのかということ。
(まるで複製みたいだ)
一瞬そう思ったが、二人の表情が違うことにドクターは気が付いた。一人は堂々としており、もう一人は緊張した面持ちで写真に写っている。
「──ッ!」
また頭痛だ。記憶の糸の間に火花が散る感覚。キリキリと痛むが、前のような激しい痛みにはなっていない。
痛みが治まると、もう一度その写真を確認した。
きっと、彼らは兄弟か何かなのだろう。ドクターはなんとなくだがそう思った。だがどちらが自分で、自分が兄なのか弟なのか。また兄──または弟──の名前が何なのかはまだ思い出せない。
自身は一体何者なのか。あの少女の名前は何なのか。そして彼女と交わした約束がいったいどんな内容だったのか。その答えは、まだ深い闇の中にある。