店内へ熱気が入り込むほどに随分と暖かな夜の事である。
誰かに誘われるような夢によって目を覚ました私は、その不可解な意識の覚醒に首を傾げた。
「うーん?」
耳を澄ませるが何も音はしない。誰かが眠りを邪魔したわけでなく、森近さんもまた眠っているようだった。
気を取り直して再び眠りに入ろうとするが……どうにも寝付けない。気分転換に少し歩くか。
草履が地面を踏むたびに、しゅるりと僅かに擦れた音を立てる。現代社会と違い、幻想郷の夜は本当に暗い。注意深く歩かなければ、たちまち香霖堂の商品に蹴っ躓いて怪我をするだろう。
そんな事を考えながらも、私はここ最近の事を思い返していた。
春が訪れてからは寝つきがどうにも悪い。幻想郷では様々な異変が相変わらず起きているが、眠れなくなる異変とかもあるのだろうか。
しかし、眠れない事が不快なわけではない。虫の知らせとも違う。そう、まるでそれが――――。
――――どさり。思考を邪魔するように、なにやら重い物が地面に落ちたかのような音が店の裏から聞こえてきた。
その音で、私は香霖堂の裏に桜が見事に咲き誇っていた事を思い出す。まさかとは思うが、夜桜を眺めに来たのだろうか。ここの桜は殆どの者が知らないため、香霖堂に訪れた客の誰かに違いない。
古来より桜の魔力は人も妖怪も狂わせる。『美しい桜の下には死体が』なんて不吉な噂話もよくあるが、それは桜の魔力を恐れた誰かの恐怖の象徴だ。
桜を見るためだけに、人々も妖怪もどこからともなく集まってくる。
美しい花。ただそれだけのために、桜を育てる者は木が枯れない事に腐心するようになる。木を育てて、その姿を見てやろうと思っていたはずが、いつの間にかその下僕となってしまうのである。
なんと恐ろしい。しかし、何よりも恐ろしいのは、それでもいいと感じてしまう事である。世界には様々な魔力を持った植物がいるが、人々を操る事に長けた桜の魔力はどれだけ強大なのであろうか。
そして、今宵は誰がその魔力に操られたのやら。
好奇心に押されて、私は何かに導かれるように静かに外へと歩き出した。
◇ ◇ ◇
綺麗に輝く満月、いや十六夜の月か。薄い雲が光を遮って、ぼんやりとした灯りが外を照らしていた。
私は息を潜めて店の物陰に隠れて様子を探る。店員なのに微妙に怪しい動きをしているが、そんな小心者が私だ。
見つめる先には予想通りというか、予想外というか、幽霊のように白い桜の下に誰かがいた。
遠目でもわかるほどに派手な服。装飾過多な傘から僅かに見えるのは、ナイトキャップ型の帽子と深紅のリボン。
香霖堂の客であり、謎の大妖怪でもある、八雲紫という名の少女がそこに佇んでいた。
彼女について詳しく知る者は誰もいない。付き合いの長い霊夢さんですら、その素性は知らないらしい。
私が知っているのは、彼女の能力で幻想郷の結界を維持している事と、香霖堂に訪れては貴重な燃料と引き換えに外の世界の物品を持ち去る、いわゆる取引先のような存在である、という事の2つだけである。
香霖堂を知っている以上、彼女が夜桜を見に来ているのは何ら不思議ではないが――――。
彼女の様子をじっと物陰から伺っていると、まるで最初から知っていたかのように彼女はこちらに振り向いた。
「あら? 貴方も桜を見に来たのかしら?」
距離があるにも関わらず、彼女の声がやけにはっきりと聞こえた。
その質問に答えるために私はおそるおそる近寄っていく。緊張するのも仕方ないだろう。なんてったって、彼女は妖怪の中でも最も得体の知れない妖怪なのだから。
近付くにつれ、白桜の下にいる八雲さんの姿がはっきりと見える。
若々しい素顔。服装や立ち振る舞いに目を瞑れば、そこらの少女と同じと言っても過言ではない。――――もちろん、独特の雰囲気と瞳の鋭さが妖怪だと自己主張しているため、見る者が見ればすぐに気付くだろうが。
「いえ、私はどうにも寝付けなくて。それで歩いていたら、八雲さんを見かけただけです」
「あら。夜更かしは駄目だわ。夜は妖怪の時間。人間にとって危険である事を理解しているのかしら?」
「もちろん。しかし、家で過ごすだけならば。夜なのに眠らない。そんな日があってもいいとは思います」
「ふぅん。ああ、夜と言えば、貴方は最近の里に現れる怪異についてご存じ?」
「怪異? それは前に新聞に載っていた、人間の足を売る老婆とかいう妖怪の事ですかね」
『文々。新聞』に載っていた記事を思い出して尋ねると、彼女はわざとらしく泣き真似をして、口を開いた。
「しくしく。――――妖怪と怪異を一緒にされるなんて悲しいですわ。妖怪は幻想の存在。現れた怪異は幻想未満、たかだか仮想の存在なのですから」
妄想・空想・予想・仮想・幻想。物事には存在強度の違いがある、とは森近さんの談だ。
「つまり、今回の異変は妖怪が引き起こしたものではないと?」
「ええ。同じ姿、同じ行動をする怪異が各地で同じ時間に発生しているんだもの。それも不安定な姿でね。妖怪は同一種族で近しい特性を持っても完全な同一ではない。その理由は、っていけない。長々と話し過ぎてしまったわ」
私に語りかけながらも何かを納得した彼女は、自らの口元を扇子で隠して話を続ける。
「怪異は同じ存在が複数存在する。妖怪は厳密には存在しない。だから、違いますわ」
「人間の里では、そのような存在が複数体も現れていると?」
「里に現れている怪異は先触れよ。これからは各地で様々な怪異、例えば人面犬とかが登場するでしょうね。どう? 貴方はこれらの怪異に心当たりは無いかしら?」
私に尋ねる八雲さんの面持ちは不気味で、誰かを探しているようであり、何かを隠しているような、どうにも胡散臭い様子であった。
「心当たりですか? 急に言われても……」
答えられずにまごついていると、八雲さんはくすりと笑い、踵を返す。
「わからないのなら構わないわ。その怪異達は『都市伝説』と外の世界では呼ばれているそうよ。貴方が何かを思い出したらいいわね」
そう言って、彼女は自らの能力で生み出した空間の亀裂、スキマへと身を放り込み、瞬く間に姿を消した。
◇ ◇ ◇
八雲さんとの邂逅を終え、さっさと眠ろうと香霖堂の入り口へと向かう。
すると、「こつり」と小さな感触がして、私の頭に何かが落下してきた事を感じとった。下を見ると、ぶつかった何かはころころと地面を転がって、やがてぴたりと止まる。
「はて、何が落ちてきたのでしょうか?」
疑問に思い、地面に屈んで近づいてみると、そこにあったのは…………シオマネキの大きな右鋏であった。
「どうしてこんな場所に蟹の鋏が? ファフロッキーズ現象でもあるまいし」
ファフロッキーズとは、本来あり得ない場所に水棲生物が落下してくる事を指す。もっとも現在地が幻想郷である事を考えれば、発生しても何ら不思議ではないのだが。
シオマネキの鋏を拾い上げてみると、身が入ってないようで、叩くと「こつこつ」と甲殻類特有の軽くも頑丈な音が聞こえてくる。
ついでに、より詳しく見るために、拾ったシオマネキの鋏を月の方向に掲げてみるか。
――――雲の隙間から漏れ出た月光が、蟹が持っていた色合い、紅白の柄を強調する。それだけでなく、見覚えのある妖精の影が正面から近付いている事も浮かび上がらせていた。月の光の妖精、ルナチャイルドさんだ。
「こんな所で奇遇ね。名無しさんも月の破片を探しているの?」
「月の破片?」
「既に持っているじゃない。その蟹の鋏。今日の夜に拾ったんでしょ?」
ルナチャイルドさんが指で示した先には、シオマネキの鋏があった。これが月の欠片?
「確かにそうですけど、どうしてわかったんですか?」
「満月の次の日、十六夜の夜には外の世界の品が落ちてくるの。それらは全て月に関連していて、満月を構成した何かが削られたものよ。だから月の破片。自宅のコレクション用に集めているから、できれば譲って欲しいんだけど」
「いいですよ。これが何の役に立つのかは知りませんが」
特に愛着もないガラクタなので渡してあげると、月の羽を震わせてルナチャイルドさんは喜んでいた。しかし、ふと表情を変えて、疑問を呈する。
「そういえば、蟹がどうして月の欠片なのかしら」
「ああ、それはですね。月には兎の他に蟹も住んでいるからですよ」
「へぇ、そうなんだ。でも、鋏だけなのね。中身も入ってない空っぽで変なの」
「ええと。理由は確かあったはずなんですが、ちょっと思い出せないですね」
最近はどうにも忘れっぽくなっている気がする。外の世界で必要な知識でもなく、幻想郷で必要な知識でも無いから不思議ではないのだが。
――――ぎちりぎちり。
二人で考え込んでいると、不愉快な音と共に近くの空間が歪みだした。隣にいたルナチャイルドさんが顔を青褪めて震えている。
空間が裂け、目玉が渦巻く裂け目から飛び出してきたのは――――先程の八雲さんだった。
「あら? お邪魔しちゃったかしら。ごめんなさいね」
思わず安堵の息を漏らす。もっと心臓に優しい登場方法は無かったのだろうか、と愚痴を漏らしたらまずいので、気を引き締めて口を閉ざす事にする。
一方、八雲さんはというと、こちらの気持ちを知ってか知らずか、呑気に話しかけてきた。
「さっきの話の中で伝え忘れた事がありましたの。貴方が未来で暮らすのは外の世界? 人間の里? それとも、この香霖堂で生活を続けるのかしら?」
「それは記憶が戻ってからでは駄目でしょうか」
「構わないわ。でも、その時のために今から考えていてね。なんて言ったって――――」
――――もうすぐ貴方自身が気付いてしまうのですから。
聞き逃してしまいそうなほどに小さな声で、確かに八雲さんは呟いた。
「え? 八雲さん?」
その真意を問う前に彼女の姿は煙のように消え去った。聞き間違いでなければ、八雲さんが私の何かに関わっていそうなのだが。
そういえば、隣にいたはずの妖精さんが静かだ。彼女だったら悲鳴を上げていそうなものだが。
横を向くと、そこには片方だけの靴が落ちていた。ちょっと離れた所では、転んで地面と抱き合っているルナチャイルドさんの姿が見えた。
私が推測するに、八雲さんの妖気に恐れをなして、急いで離脱しようとするも失敗。といったところだろうか。
「大丈夫ですか」と声をかけて、土と葉っぱに塗れた彼女を助け起こす。
やや涙ぐんだ様子のルナチャイルドさんであったが怪我はなかったらしい。お礼を言いながらも、大事そうにシオマネキの鋏を抱えているようだった。
その光景を見て、私は蟹について思い出す。ああ、そうだ。そうだった。
「ルナチャイルドさん、どうして蟹の鋏だけが落ちてきたのか。わかりましたよ」
「それって本当?」
「ええ。蟹はですね。月に住んでいるのに月の光を恐れているんですよ。月夜の蟹っていうんですけどね。中身が無いのは、蟹が月の恐怖に痩せ細った証拠。鋏だけが残っていたのは、蟹が恐怖に耐えかねて、自分の鋏を自分で切ってしまったからでしょう」
「なるほどね。でも、どうして今頃になって思い出したの?」
「それは――」 「それは?」
「申し訳ありませんが――――言えません」
下から私を見上げる、ルナチャイルドさんの純粋な好奇の瞳が今は心苦しかった。
逃げ出した彼女に理由を言うわけにはいかない。
それはたぶん。蟹のような彼女を怒らせてしまうから。
世の中には、何事も言わない方が良い事もあるのだ。