ここのところ最近、彼女──朝田詩乃は変に憂鬱であった。そろそろBoBの開催日が近付いているにも関わらず、GGOにログインしていない事態が続いている。何故かと問われればあの時のヴァー・ヴィーの発言からなのは間違いない、だがいつもならさっさと誰かの言葉など忘れている筈なのにヴァー・ヴィーの言葉だけが頭の中で反響していることに戸惑う。
1人で強くなれやしない。それもそうだ、シノンというプレイヤーはヴァー・ヴィーとの関わりによって彼女が知らなかった強さを手に入れることが出来たのだから。CQCや接近戦の腕も、スナイパーとしての立ち回りも、冷静かつ的確に事を運ばせる術も、体捌きや基礎訓練の重要性も全て彼から教えられたもの。それらは全て事実であり現実、だが彼女はヴァー・ヴィーの言葉を思い出して否定する。
確かに強くなれたのは彼の教導によるものだ。けれど彼女は1人で生きていける力を、自分だけで生きている術を身に付けなければならない。あの日からそう誓ったのだ、自分の運命が決定づけられたあの日の出来事からそう学んだのだ。誰にも頼らず1人で、強く。
「っ────」
そう考えれば考えるほど、彼の言葉がフラッシュバックみたく思い出される。今更何だというのだと彼女は思う、ヴァー・ヴィーはGGOで知り合ったとはいえ結局のところ赤の他人だ。自分の考えに対してとやかく言われる筋合いはない、それに彼自身も同じことをやっていたのだから口を出せる立場ではない筈だと考える。だがどうやっても彼の言葉は消えない、彼の存在が消えない。
得体の知れない初めての感情に翻弄されるのは嫌だと思いながら、彼女は外出用の防寒着を着て少ない荷物を持って外へと出かけた。今はこの浮かされた熱のような考えから少しでも解き放たれたいと、一刻も早く彼の言葉を忘れたいと願って。
街へと出歩けば普段と変わらぬ景色が彼女の視界に映し出された。地元よりも汚れているように感じる空気、塩素消毒された臭いのある水道水、皆同じような歩幅で歩き流れが速く多い人の波、本性を隠した上っ面を見せ合う関係性。もはやこの光景さえも見慣れてしまった自分も世の中というものに流されていった結果なのだろう。そう思いはしたが特に何か感傷に浸るわけでもなく、どちらかといえば嫌気がさしているのだろう。自嘲気味に口角を上げた。
ふと近くで子どもの声が聞こえてくる。“おかあさん”とまだ舌足らずな喋り方は愛嬌なのだが、そんな親子を見ていると彼女は目を背けたくなる。心の中に居る弱い自分が羨んだ言葉を紡いでしまいそうで。その場を颯爽と離れようとした矢先、不意に誰かにぶつかり僅かに後ずさった。
「あうっ」
「おっと、大丈夫かい?」
彼女が声のした方へと見上げれるとサングラスにニット帽を被った、無精髭を生やしたどこか害の無さそうな男性。身長は175あるかないかといった辺りで最近のチャラついたような男よりかは低めの印象がある。心配そうな様子を浮かべながら目の前の男性は訊ねたが、今の彼女は誰かに心配されたくないらしい。
「大丈夫ですから、私はこれで」
スタスタと歩いていきどこか行く宛ても無いままその場から離れていく。今はどうしてもヴァー・ヴィーのことを思い浮かべたくない、思い出したくもないから。
残されたその男性は疑問に思いながらも、後ろから掛けられる聞きしった声の方に振り向いた。自分のことを師匠と呼んでいる睦希亮司の方へと、ついでに男の目には睦希の持っている豪華そうな紙袋に入っている物へと視線が映る。
「やっ、睦希君」
「師匠、こんな所で合流するのも珍しいですね」
「そうだねぇ……それは?」
「あぁ、これ師匠への手土産にと」
紙袋から中身を取り出すと、瓶に入った日本酒であった。銘柄には
「酒アリじゃないと話せないこと?」
「いえ、これはお土産なので特に関係はありませんね。今日は師匠の胸を借りて兜の緒を締めたくて」
「ああそういえば、そろそろなんだっけ」
「ええ、当日はご迷惑をかけてしまいますが引き受けて下さってありがとうございます」
「ま、確かに俺ん所が一番安全だしね」
2人は漫談しながら共に歩き始めた。来る日に備えるのも大事だが、時にこうした交流もまた自分の世界を形成するのに必要なことである。
場所は変わって埼玉県川越市、現代ではあまり見かけることの無い剣道場が併設された家屋の2階。その一室に桐ヶ谷和人は居た、時刻は7時を過ぎている頃で誰しもが夕食を食べ終えるぐらいの時間だろうか。実際彼は既に夕食を食べ終えているが、今はそれよりも自室のベッドに寝そべりながらスマホに打ち込んだある電話番号を見ていた。
あの時睦希から手渡された彼のものと思われる電話番号が打ち込まれた状態のスマホの通話ボタンを押そうか、いややっぱり菊岡の方に連絡しようかと悩み、かれこれ30分は経過しようとしていた。何か女々しいなと思いつつもコミュ障にとってほぼ初めての相手と話すことは結構勇気が要るのだと自己完結し、ベッドから起き上がろうとした。
「おにいちゃーん、ちょっと良いー?」
そのタイミングでノックと同時に彼の妹の声が聞こえた。それにびっくりしてスマホを掴んでいた手を離してしまい、お察しの通りスマホは彼の顔面と衝突する羽目になった。
「
「えちょ、おにいちゃん大丈夫!?」
「だ、だいじょぶ……ちょっとスマホが」
鼻頭を押さえちょっとばかり悶える。その一因となった妹である桐ヶ谷直葉は少々罪悪感を感じながら、和人のもとへと歩み寄る。ただここで少し誤算が発生した、先程ぶつかった時のスマホ画面は電話番号の入力を行うものであり、当然そこには通話ボタンもある。ここまでくれば分かると思うが、彼の鼻頭とぶつかった先は運良くその通話ボタンであったため──
『はい、睦希です』
「!?」
「あ、やべっ」
睦希の声が彼のスマホから発せられることになる。慌ててスマホを拾い耳へと持っていって図らずとも通話する結果となり、多少慌てながらも和人は睦希と話す。先程兄のスマホから知らない声の人がしたことで、何故か直葉の方が一番驚いてフリーズしていた。
「あ、もしもし。桐ヶ谷です先日お会いした」
『ああ、お前さんか。何か相談事でもあるか?』
「えーっとその……」
未だにフリーズして動かない直葉を見やり、今から自分が言うことをあまり聞かれたくない内容であるため、彼女に背を向けさせゆっくりと押し出して部屋から出ていかせた。ドアを閉めてひとまず溜め息を吐くと、睦希が声をかける。
『大丈夫か?』
「え、あー大丈夫です。ちょっと妹が部屋に居たので」
『そうか……で、何か話したい事でも?』
「そのー……あー、何て言えばいいか」
『ゆっくりで構わん。そこまで気短ではないんでな』
「ありがとう、ございます?」
『礼を言われる事でもないんだがな』
ゆっくりと、睦希の言葉に甘んじてその通りに頭の中で言いたかったことを彼は組み立てる。自分の覚悟を彼に伝えるために。
「その……俺、アイツの提案を受けようと思います」
『……菊岡のか?』
「はい」
『何故か聞いても?』
「俺なりに考えたんです、この提案を俺自身はどうしたいのかを。確かにまだ……あの頃の恐怖や後悔は引き摺ってて、心のどこかで2度と関わりたくないって思ってた。でも──でも、このまま見て見ぬふりをして不特定多数の誰かが傷付けられるのも嫌だって気付いたんです」
『……そうか』
「それに、あの笑う棺桶が事件に関わっている以上、アイツらと対峙した事のある俺が責任もって、奴らを止めないとって。だから」
『待った』
言いかけていた言葉が止められる。電話越しに睦希の溜め息が聞こえたあと優しげな声色で彼に寄り添うように語りかける。
『……お前さんがサバイバーだと聞いた時、そして菊岡の話をしていたお前さんを見ていた時、もしやその笑う棺桶とやらと一悶着あったのだろうとは想像できた。確かにお前さんの言う通り、“自分が関わったのだから今後も関わらなければならない”という思想に間違いだと苦言はしない。変なイチャモンも付けはせん。だがな、それを自分一人の責任と思うな』
「!」
『奴らとお前さんの確執がどういったものか、俺には予想することしか出来んがな……そんな重たい責任をお前さん1人に背負わせようとするほど俺は薄情にはなれん。勝手に責任を背負おうとする大馬鹿者を見捨てることもな』
「…………」
『お前さんは事を1人で済ませようと考えるな、1人で背負おうと考えるな。今こうして電話越しだが、頼れる大人というヤツが居るんだ。少しはお前さんの重荷を背負わせてほしい……悪いな、話を遮ってしまって』
「いえ……ありがとうございます」
先日初めてあったばかりの関係性ではある。だがそれでも睦希という人間は誰かが苦しみの道へと向かうことを良しとしない人間であることが、桐ヶ谷和人の心に染み渡るように理解できた。
「……お願いします、睦希さん。俺と協力してください」
『その台詞は本来こちらから言うべきなのだがな……あい分かった、その願い承ろう』
そうして彼らは当日、BoBの予選日の予定を立てて通話を終える。どこかスッキリした様子で部屋から出ようと扉を開けると、直葉と母の桐ヶ谷翠に聞き耳を立てられていたことが分かる。ゆっくりと扉を閉めた和人は羞恥心のままに部屋中で悶えた。