彼女は逃げていた、脇目も振らず走っていた。走って気が付けばシノンの目の前にあったのは慣れ親しんだヴァー・ヴィーの店、彼女自身なぜここに来たのかも分からないがとにかく逃げた先がこの場所であった。あの時ヴァー・ヴィーの隣には全く知らない誰かが居て、どこで誰と関わろうと彼自身の自由であり勝手なのは分かりきったはずなのに、彼女の心には虚しさだけがあった。
言語化できないこの感情が一体何なのか知る由もなく、ただただ煩わしさだけが募っていく。シノンの頭の中はヴァー・ヴィーに何をどうしてほしいのだろうかという膿のように溜まり続ける考えが熱を帯びて彼女を蝕んでいく。それを振り切りたい一心で総督府の方に足を進めようとしたところで、聞きなれた声が彼女を呼び止めた。
「あら、シノン。久しぶりね」
「……イクス」
ホーム側から出てきていた銃士Xは彼女のどこか焦燥した表情に何かただ事では無い雰囲気だと悟り、一緒に総督府へと向かうことを提案した。断る理由のないシノンは彼女の同行を許し、総督府までの道のりの間にあの2人に何があったのかを銃士Xは訊ねた。そこでヴァー・ヴィーが知らない女性プレイヤーと一緒に居たことを聞かされた彼女は、あとで彼に一言物申そうと決めつつシノンの発言である事に気付いた。気付いたというよりもどちらかといえば下世話な妄想に近いものと思われる。
「恋?」
シノンが噴き出す。突然何を言い出すのだと睨んだがあっけらかんとした様子で銃士Xは言葉を続けた。
「いやぁ、そんなにVが気になって気になってしょうがないのは何処からどう見ても恋煩いのそれっぽいわよ」
違うと言葉にしたかったが何も言えなかった。否定したいはずなのに否定しようとしなかった。彼女の心に、記憶にヴァー・ヴィーを消したいと思っても消えない。へばりついた錆のように鬱陶しいと思っている筈だ、その筈だと彼女は決めつける。
とはいえそんな様子を見せていては銃士Xからしたら図星だと思われるのは明白で、人の恋路を暖かく見守るのかと思いきや今度は彼女も何故か悩み始めた。それもそうだろう、銃士Xと
そうして各々悩みながらも総督府の入口前にまで着いた2人、そろそろBoBの受付終了時間まで10分前なのだが突然車のエンジン音が周囲のプレイヤーの耳に入った。勿論それには彼女らの耳にも入っておりそのエンジン音のする方を見ると上り坂の道路から勢いよく見慣れたマローダーが飛び出してきたではないか。
宙を漂っていたマローダーが着地しドリフトしながら総督府入口前近くに着地すると運転席からヴァー・ヴィーが疲れた様子で降りてきた。後部座席の扉を開けて工具箱をその手に取って入口の方を見やると彼女らと視線があった。彼が何かを言おうとしたところで、助手席の方から女にしか見えないアバターのキリトも少し疲れた状態の姿を現れる。
シノンも銃士Xもこのキリトの事情をよく知らない、だが完全に女にしか見えない容姿且つ全く知らないプレイヤーが助手席から降りれば、ヴァー・ヴィーが手を出したと思われても何ら不思議ではない。ゆっくりと銃士Xの手がヴァー・ヴィーの肩に置かれ不穏な笑顔を彼に見せていると、悟ったような表情のあとこれらの事情を総督府の方で説明することを約束して受付会場に向かったのだった。
「え、男!?」
「そうだ。男だ」
べしべしとキリトのプレートアーマーを叩きながらそう言ったヴァー・ヴィー。説明してもあまり信じて貰えなかったので実際に確認させると大層驚いていた。苦笑するキリトに漸くといった様子の疲れた表情のヴァー・ヴィー、キリトのアバターをまじまじと見つめる銃士Xに内心安堵したものの何を考えているのかと変な思考を消すシノンという場が出来ており、ここを中心とした賑わいがそこにあった。
「いやぁ、シノンから聞いたけどナンパじゃなくて良かった良かった」
「俺にそんな度胸ないんだが」
「ごめんて。あとで埋め合わせするからさ」
「……で、イクスはどうしてここに?」
「んー? 聞くまでもないでしょ」
「……一応聞くが、正気なんだな?」
「ええ、もちろん」
一瞬キリトが驚いた様子を見せたものの、ふとヴァー・ヴィーの発言に疑問を抱いた。その彼は息を一つ吐き銃士Xを見つめながら言う。
「……なら十二分に気を付けてくれ、それだけだ」
「分かってる。シノン、行きましょ」
「……ええ」
銃士Xはシノンを連れて受け付け端末の方へと向かっていた最中、ヴァー・ヴィーはキリトの方を見やって受け付け端末の方を指さし早く登録した方が良いと受け付けへと促す。
「良かったんですか、ヴァー・ヴィーさん」
「構わん。イクスの奴も事情は知ってる分住所を書くことは無いだろう」
「でも彼女の、シノンの方は」
「上手く話す。もしくはイクスの方から話してくれるか、まぁどちらにせよ人の決めた事に色々と茶々入れるのも違うしな」
以前のでかなり心にキタのだろう、どこか遠くを見るように総督府の天井を見上げた。そのあとキリトを受け付けへと再度促すと、彼も受付端末の方に向かっていった。
天井を見上げている間、ヴァー・ヴィーはツェリスカから聞いていたことを思い出す。もしもヴェンデッタがBoBに参加した場合についてのことだが、彼の予想は当たっていた。そして今後予想されるBoB
程なくしてキリトと銃士X、シノンがヴァー・ヴィーのもとにやって来た。声をかけられ目を開くと3人の姿が映り、そのうちシノンだけが渋々といった雰囲気で彼の元に来ているのが分かる。ヴァー・ヴィーもシノンの方を見やって若干前傾姿勢になりながら話し始めた。
「シノン」
「…………」
「先日は、不躾なことを言ってしまったことを謝罪したい。謝っても許されん事は承知だが、すまなかった」
「……別に、もう良いから」
頭を下げたヴァー・ヴィーから距離をとるようにその場から離れていくシノンに銃士Xは付いていく。まだ許してもらえていないのだろうと結論じみた予想を立てながら、一つ息を吐いたあとアイテム欄からシガレットケースを取り出し、そこから1本の葉巻を取り出して先端を切り火をつけた。
ぽっ、ぽっと短いスパンで空気を送りながら葉巻から煙を出させつつ彼は口内で煙の味を、飴玉を転がすようにして味わっていく。そんな彼の様子を伺いながらもキリトは周囲を警戒しておりどこか忙しない様子を垣間見せる、とはいえそんな様子をあからさまにとまではいかずとも、ヴァー・ヴィーが気付いて鬱陶しいと思うぐらいの警戒状態である。豪快にキリトの頭に手を置いてそのまま大雑把に撫で始めた。
「わ、ちょ」
「そんなに気張るな阿呆」
「いやでも」
「少なくともここに居るプレイヤーはGGOに並々ならぬ熱意を持って大会に挑んでいる。お前さんと俺は違うやもしれんが、変に目的意識を掲げて相手を軽んじるような真似をしてはならん」
「っ……!」
「少なくとも奴さんは明日の本戦で仕掛けてくる。それまでの警戒は大人の仕事というやつだ、お前さんはこの大会に参加者と同じ熱意を持って戦いへと挑んでこい」
「……色々、ありがとうございます」
「構わんさ。どうせな」
キリトの頭から手を離し、もう片方の手で葉巻を口から離し煙を吹き出す。宙に浮かんで霧散していく煙を眺めながらヴァー・ヴィーは自嘲気味に内心で呟いた。今も、そしてこの前の事も含めたものに対して──どの口が言っているのだろうか、と。
そんな事を考えてるとは知らないキリトはふとヴァー・ヴィーにある事を訊ねた。この総督府で密やかではあるものの、聞き慣れない、恐らくプレイヤー名について何か知っているのでは無いかと。それがもしや死銃と何かしら関係があるのかと。
「あの、ヴァー・ヴィーさん。さっきから聞こえてくるヴェンデッタって、誰の事なんです?」
「……ん、あぁ。ヴェンデッタか、俺の仕事仲間だ」
「仕事仲間?」
「そして第1回BoB優勝者の片方でもある。初の大会で2人のプレイヤーが優勝した異例が起き、その名が広まっていった」
「じゃあ、この大会にヴェンデッタが出てくるんですか?」
「ほう、出るのか彼奴」
「それはどういう意味で?」
「奴は人前に出ることを極端に拒む。俺以外のプレイヤーはまずお目にかかる事さえ至難とまで言われるほどにな」
「ヴァー・ヴィーさんは会えるんですか」
「まぁな。大きな声で言えん仕事依頼の仲介屋が俺、実行が奴という関係性でな…………言っておくが現実で殺人をするといったものでは無いぞ」
「成程……そのヴェンデッタって人、かなりの実力者なんですね」
「そうだぞ。下手に躊躇していると殺られかけた程にな」
「戦ったことあるんですか?」
「昔な……と、抽選が行われるようだ」
既に受け付け時間が終了して少し経った頃、電光掲示板に対戦表が映し出される。キリトとシノンはFブロック、銃士XはCブロックの出場となっており誰もが注目するヴェンデッタは────シード枠での出場になっていた。