シノンはその声を聞いた事がある、今までGGOをプレイしてから一番よく耳にしていて誰の声であるかを憶えている。彼女に教示し、今まで培ってきた技術の数々を彼から教わったのだ。狩りの時も、普段の時もいつも紫煙をくゆらせ、へにゃりと柔和な笑みを浮かべていた彼と、目の前に居る最強の声が同じであることにシノンは戸惑いを隠せなかった。
「V……?」
「ああ、お前がよく知るVだ」
キリトも驚いている。何せあのヴァー・ヴィーとヴェンデッタが同一人物、全く違う雰囲気を醸し出していた2人を使い分けられるのかといった分析結果に対して。今この場で感情が溢れだしかけているシノンは、ゆっくりと腕を掴んでいる手の力を弱めていく。それでも目の前の彼は彼女に向き合い続けた。
「必ず帰ってこよう。いつもの葉巻をふかして、いつもの様にやって来るお前さんを、いつもの様に迎えよう。──だからそれまで、俺の帰りを待っていてほしい」
優しく握られた手の温もりと、聞き慣れたいつもの声がシノンを安堵と一抹の不安に駆らせる。それらの感情が混じった涙を流しながら、自らを彼の体へと引き寄せた。胸元まで来たシノンを何の戸惑いもなく受け入れて、彼はゆっくりと両腕を腰と頭へ回して抱きしめた。仮想の肉体で感じる熱は、今この時だけは本物のように感じられた。
シノンの視界にアラームの表示が映し出される。だが今この時、それは無粋なものとして直ぐに“いいえ”を押して彼に自分の望みを伝えた。彼もまたそれに応える。
「……帰ってきて」
「ああ」
「必ず、帰ってきて……」
「ああ……」
「絶対に、死なないで……!」
「無論だとも」
シノンが顔を上げる。レンズ越しの彼の目は見えないが、そんな事はお構い無しに彼女は目を閉じて自ら唇を合わせた。キリトはすぐ視線を逸らした。
ゆっくりと名残惜しいように顔を離したシノンは、彼の頬に手を添えて最後に告げる。
「待ってるから……あなたが帰ってくるのを」
「承知した。必ず帰ってこよう──お前という女神に誓って」
回していた両手を解き、外していたガスマスクの下半分を取り付けてヴェンデッタは洞窟から出ていく。外に出てから彼はシノンの方を振り向いて頷いたあと、洞窟から走り去っていく。残されたキリトは完全に気まずい様子であったが、シノンはそんな事お構い無しに自分の手を下唇に添えてなぞる。仮想世界で味わったその温もりが彼女の心に多幸感を覚えさせた。
「……あげちゃった」
恋に落ちた乙女の呟きがひとつ、誰にも聞こえない声で囁かれた。
砂漠地帯を駆け抜けるヴェンデッタは、洞窟からかなり離れた所まで来ると足を止める。次のサテライトスキャンまであと3分、恰好の獲物である自身を釣餌にして待っていると彼は左へと避ける。後ろから来ていた電磁スタン弾が空を過ぎ去り、すかさずM110A1 CSASSを装備して何も無いはずの場所へ目掛けて撃つ。
砂を蹴る足音と同時に、銃弾は硬い何かに当たってぶつかった物の正体を明らかにさせる。ステルベンが所持していたAWM L115A3が壊れた状態で出現し、何も無い空間にザッピングのようなものが映し出されると透明になっていたステルベンが姿を現した。
1度ならず2度までも攻撃を避けられカウンターをもらったステルベンが髑髏面からヴェンデッタを睨みつけた。しかしヴェンデッタはM110A1 CSASSをしまい、歩いてステルベンの元へと近付いていく。怒りと殺意、ヴェンデッタは目の前のプレイヤーから発せられる感情の波を感じ取りつつも、きわめて冷静に正面に立つ。
「何の、つもりだ」
「お前の前に立っているだけだ、小僧」
「そんな、意味では、ない……!」
怒りが更に増長されていったことが分かるほどに、ステルベンの声に怒気が含まれていく。挑発としてはまあまあといったところだと、ヴェンデッタは頭の隅で思う。
「1度、ならず、2度も! お前は、攻撃を、避け、今度は、何の装備も、なく! おちょくって、いるのか!?」
「お前如きに銃なんぞ使わずとも勝てるからな、殺人犯。殺意も視線もダダ漏れの状態で避けられない方が難しいまであるぞ」
「貴様ァ……ッ!」
「それとだ──現実をおちょくってるお前には言われたくないな。ステルベン」
ヴェンデッタの声にも若干の怒気が発生した。拳を握り締める力が強まり、彼の声色は冷酷と称するに値するものへと変化していった。
「お前に何があったのかは知らん。お前の身にどのような理不尽が舞い込んだのかは想像もつかん、だが自らに降り注いだ不幸を撒き散らすように、他人を殺すことは絶対に許されざる行為だ……それを分かっているのか、お前は」
「知った、ことか……! 偽物の、力を、振りかざした奴等を、粛清して、何が悪い?! 本物の、力を、知らしめる事の、何が悪い?!」
「……どうやら話の通じる余地は無いようだな、小僧」
「黙れ……! 俺は、死銃! 偽物の、力を、振りかざす者に、裁きの鉄槌を、下す! デスガ──」
「その口を閉ざせ、童ァッ!」
瞬間、空気が震えるほどの音量をもった声が響く。まるで質量を持ったかのように重く感じられたその一声は、想像もつかない程のプレッシャーをこの中継を観ている全ての人間に与えた。無口かと思われたヴェンデッタは今まさに、静かに激昂していた。
ゆっくりと両手を顔の左右をガードできる位置にまで上げて、再度指を順番に折り畳んで拳をゆっくりと強く握りしめた。ガスマスクに隠された瞳は、眼前に居るステルベンに向けて怒りの熱を帯びていく。仮想の拳が軋むような感覚をヴェンデッタは感じていた。
「どうやら今の貴様に何を言っても通じないのなら、1度完膚なきまでにその腐りかけた性根を潰さねばならんようだな」
「黙れ、偽物がッ!」
ステルベンは激情し、レイピアを装備しヴェンデッタに向かって吶喊していく。仮想世界ではステータスの影響を受けて、素早く避けようのないその一撃はいとも容易く避けられ、ステルベンのレイピアを持つ手を素早く威力のある掌底で内側へと曲げることで、その手からレイピアが離させた。落ちていく切先がステルベンの太腿にダメージエフェクトを発生させる。
すかさずヴェンデッタは右手を握りしめ股関節から肩甲骨、肩へと流れるように連動させ回転させた拳で髑髏面ごと顔面を殴り付ける。タクティカルグローブで加味された一撃は、ステルベンの髑髏面を割って顔まで貫通するように伸びていきそのアバターを砂の地面に叩き付ける事が出来た。
倒れたステルベンへ向けて間髪入れずにストンピングをするも、転がって距離を取られていく。とはいえ砂地を勢いよく踏みしめたことでその顔に細かい粒子の砂が襲いかかる。それにより視界へのデバフが追加されたステルベンは急いで砂を払い落とす。今この瞬間にもヴェンデッタは近付いているものだと思い、急いで距離を取って逃げた。しかしデバフが解除されると目の前には何の構えもしていないヴェンデッタが居る。
「今度は、なんだ……?!」
「貴様にチャンスをやろうと思ってな」
ステルベンは言葉の意味が分からなかったが、すぐにヴェンデッタが提案を出してくる。
「お前の言う本物の力とやらを、俺に向けてぶつけて来いと言っているのだ」
「何だと……貴様、ふざけてる、のか?!」
「本気も本気だ、お前が本物と称する力とやらを俺に向けてみると良い……もっとも、そんな力なぞ存在しないことがすぐに証明されるがな」
ヴェンデッタは右手人差し指で自身の心臓あたりを軽く叩いて示す。ここを狙えと、暗にそう言っているのだ。激情に呑まれているステルベンは怒りのままにホルスターからある銃を取り出して、銃口をヴェンデッタへと向けた。
トカレフ T-33、中国では
「殺す殺すころすころすコロスコロス殺してころしてコロシテ殺してやる……!」
「しっかり狙え、小僧。今からお前の信じていたその力は無情な現実によって無意味であると、お前の目に映るのだからな」
「ッ───ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!」
叫び声とともにステルベンの握るトカレフ T-33から1発の銃弾がヴェンデッタの心臓あたりの位置へと着弾する。衝撃に身を任せるようにヴェンデッタは砂地に倒れていき、彼のアバターと砂がぶつかる音のあと静寂が訪れた。
【トカレフ T-33】
旧ソビエト連邦、フョードル・トカレフが設計しトゥーラ造兵廠によって製造された自動拳銃。単にトカレフとして知られているこの銃は、本来必須である安全装置すら省略した徹底的な単純化設計によって生産能力の向上と撃発能力の確保を目的とした銃であり、過酷な環境下においても耐久性の高さを発揮した。
1980年代以降には中国で生産された本銃が多数密輸され、暴力団などの発砲事件にしばしば使用された事で一般人にもその存在が広く知れ渡った。