※※ 注意 ※※
本作品は、米澤穂信先生原作『いまさら翼といわれても』の内容に言及しています。
ネタバレの苦手なかたは自己責任を了承のうえでお読みください。
第1章『じゃあ暇ね』
※ ※ ※
『昨日の夢は、今日の願いであり、明日の現実である』という言葉を残したのは誰であっただろうか。
しかし、電話向こうの里志いわく『願望と、それを突き詰めた先にある現実は反目しあうのが世の常さ。平和を
「じゃあなにか? 俺がこうやって平和で
「それは明日のホータローのみ知ることさ」
口の減らないやつだ。俺は電話を切ろうと思ったときだった。
「ありがとう、ホータロー」
「うん?」
「
それを聞いて、俺はつい一週間ほど前の件を思い出す。
神山市主催で行われる江嶋合唱祭、その直前に千反田えるが失踪した。
「古典部の一員としてお礼が言いたかったんだ。じゃあこれで切るよ。最近、神山市内の公共交通機関の歴史と
俺はなにも応えず、そのまま電話を切った。
平和で安寧とまではいかなくても、できれば波風の立たない日々を過ごしたい。ならば現実が反目しても、そこまで大仰なことにはなるまい。
カレンダーを見れば夏季休暇も残り一ヶ月を切った8月6日。今日は父親は帰ってくるのが遅くなると言ってたし、姉貴は姉貴で昼過ぎに鼻歌まじりにどこかに出かけて行った。つまり今夜、自宅には自分一人。目を向けたテレビでは笑みを浮かべたアナウンサーがこう一言。
「今夜から一週間ほど、ペルセウス流星群が見ごろを迎えます。12~13日にかけて極大を迎え、多い時には1時間で30個以上の流星が見れるかもしれません」だそうだ。流星群を桜前線かなにかと勘違いしていている節があるが、そんなもんかとリビングの窓から眺める。
薄暮の気配をのぞかせる茜色の空に、きらりと輝く一筋の光。色は白に淡い青。
なんとまあ、本当に流星が見れるとは。
だが残念、まさか本当に見れるとは思っていなかったので願い事もせずに終わってしまった。まあ仮に願えたとして肝心の中身が「残りの夏休み、波風立たないで終わりますように」程度だ。それならなにも流星に時間外労働を強いる必要もない。
潔く窓を閉め、さて今夜の夕食は何にしようかと冷蔵庫に手をかけたときだった。
電話が鳴った。
また里志のやつかとナンバーディスプレイ覗き込むも、知らない番号だ。里志でもないし、伊原のものでもない。
『もしもし、奉太郎?』
姉の
おや。姉貴も携帯電話を持っていたが、しかし番号が違ったはずだ。
『いま、友だちの携帯電話借りてかけてんの』
「自分のどうしたんだよ」
『家に忘れた。ねえ奉太郎、近くに巾着袋置いてない?』
電話のすぐ脇に目をやる。そこには金糸で刺繍の施された白い巾着袋が置き去りにされていた。
「あるぞ」
『どこに?』
「電話のすぐ脇」
受話器の向こうから小さい舌打ちとともに『やっぱりか』の声。少し間を置いた後、姉貴はこう続けた。
『奉太郎、あんたこの後に予定ある?』
「夏休み真っ最中の男子高校生だぞ、わざわざ言わせるなよ」
『なにすんのよ?』
「夕飯の献立を考える」
『じゃあ暇ね。悪いけど、その巾着袋の中に私の携帯電話が入ってるの。だから
"
神山市東部に"
行政区分で言えば神山市ではある。しかし陣出が陣出であって神山市でないように、柚之木町もまた柚之木町であって神山市でもない、というのが一般認識だろう。
その柚之木町では、毎年8月6日に"
なにを奉っているのか、七夕なのになぜ8月6日に行われるのか、俺はそれについてよく知らない。しかしただひとつ確かなことは、それがどこでも行われる地域の小さなイベントの1つではなくかなりの規模で行われること、そして市内外の知名度も高くこのための観光客数も馬鹿にならない、ということだった。
俺は受話器を肩で挟みながら腕組みして考える。柚之木七夕の会場までの道のりをだ。
直線距離こそ4~5kmほどだが柚之木町は平野部というより山間部、自転車で向かうのは
正直、気は乗らない。しかし、この後の予定といえば「夕食の献立を考える」と「それを食す」しかないのも事実。しかも相手が姉貴、断れば後が怖い。ここはおとなしく従うことにしよう。
「いまから向かえばいいか」
『さすが我が弟。じゃあ神社の鳥居の前で待ってるから』
そう残すと、通話はすぐに断ち切られた。
電話脇に置いてきぼりを食らった巾着袋を手に取ってみる。白を基調にしたシンプルなデザインだが、ところどころ金糸で動物が刺繍されている。よく見れば細部にわたって精緻な造りになっており、そこらへんの廉価品とは明らかに違う。振ってみると何かこすれる音がするので、携帯電話以外も入っていることが判る。が、かといって開けて中を確認しようとは思わない。さっさと用事を済ませよう。
とりあえず羽織っていた上着の胸ポケットに市バスの乗車カードを忍ばせ、家を出ることにした。
さっきまでの茜色をした薄暮が、今は藤色の宵の口になり始めていた。停留所に備え付けの時刻表を確認するとバスが来るまでまだ時間がある。しょうがないので長椅子に腰掛けると、建付けの悪い金具が小さく音を立てた。
それにしても、と一人ごちながら里志との通話を思い返す。
神山市主催の江嶋合唱祭、その一件を里志はこう言っていた。『江嶋合唱祭の千反田さんのことだよ。ホータローが助けてくれたんだろう』と。
それを
周りから見るとあの一件は「俺が千反田を助けた」ように見えるのか。
……ふん。
湿気を帯びた夏夕特有の匂いが鼻をつく。どうもこの匂いは好きになれない。
乗るバスを間違ったと気づくのは、もう少し時間が必要だった。
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