第2章『柚之木七夕へ』
※ ※ ※
山に囲まれた柚之木町は中心を"
自らの過失を棚に上げ他人の、こと実弟の遅刻には滑稽なまでに厳しいのが我が姉である。"柚之木神社前"というバス停に到着し、急ぎ足で鳥居に向かおうと思った。が、それができなかった。
人、人、人の波だったのだ。
まず神社境内の巨大な特設ステージと観客が目を惹いた。マイクを持った司会者の必死な語彙がスピーカから放たれていて、すでにステージ上ではなにやら各組のパフォーマンスが行われている。そしてそれを取り囲むような観客のごった返し。
加えて、もう太陽の
随分と賑やかだな。それが正直な感想だった。
そう、ここまでだったらどこにでもあるただのお祭りだ。しかし柚之木七夕が、そのただのお祭りでない理由が一瞬でわかるものがそこにあった。
神社の目の前を流れる大千賀川、そこを横切るように渡してある"白く太い縄"が見えた。近づいて見てみると
なるほど、これは「
今度は出雲大社もかくやと思えるほど、注連縄の太さが目についた。目測ではあるが、直径が俺の膝から腿の高さくらいはあるかもしれない。
また、その注連縄が用意されている場所もおかしい。神社の本殿拝殿の社ではなく大千賀川の右岸から左岸まで貫くように、地面に横たわっている。その両端はどこにつながっているのだろうと眺めると、川を挟みこむように屹立する両岸の丘の上に括りつけられている。
太く、そしてやけに長い注連縄を地に降ろしたままでは不便で仕方がないだろうに。ましてや一般道まで塞いでしまっては通行の邪魔だとは思ったが、よく目を凝らしてみると注連縄の両端には大きな重機が待機してあるのも見える。おそらくあれを使って巻き上げて、いずれ注連縄を宙に浮かせるのだろう。
高さは20~30mほどはあり、「丘」よりも「山」がと表現するのが適切なのかもしれない両岸。その左岸と右岸を結ぶ、長さは優に100mを超えるだろう注連縄。
それを想像すると、さすがの俺もため息が漏れた。「なんと壮大な」という意味合いよりも、「いったい何のために」が色濃いだろうが。
おっと、こんなことしている場合ではない。早く鳥居に移動しなくては。
そう思ったものの人の波は遅々として動かない。しょうがないので拙速は諦めてせめて巧遅でと預かっている巾着袋を落とさないように握りしめ、目的地を目指すことにした。
ようやくの思いで鳥居の足元にたどり着く。大して動きまわっていないはずなのに、額にはうっすら汗が染み出ていた。
さて姉貴は、と周囲を見回してみるもののその姿は見えない。他に鳥居らしきものはない。姉貴も遅刻かとも思ったが、それはこの場を離れてもいいという免罪符にはならない。汗を拭いながら、周囲の柚之木七夕参加者に目をやった。
子どもを連れた保護者、近所の小中学生の集団、大学生や社会人の男女。誰も彼も浴衣を着て楽しそうにしている。
かと思えば、柚之木七夕の関係者らしき人間も多く散見する。少しくすんだ赤い法被を着ている壮年男性が
こう見回してみると私服でたたずんでいるのが自分一人で、どうも異邦人が紛れ込んだ気がしてならない。なんとも尻の座りが悪く、鳥居の陰に身を隠そうと思ったときだった。
人ごみのなかの一人の男の子が視界に入った。
小学2~3年生くらいだろうか。アニメのキャラクターがプリントされたTシャツ、紺色のハーフパンツとプロ野球のキャップ、左手にメモ帳で右手には短冊を携え、辺りをきょろきょろ見回しながら歩いていた。しばらく視線で追っていたが、すぐに人波の中に消えていき見えなくなった。迷子だろうか。
まあ、氏子に泣きつけば保護者も見つけてくれるだろう。
しかし、どうしてその子が視界に入ったのだろうか。動きが挙動不審だったせいもあるかもしれない、あるいは浴衣でなく私服であった同属の憐れみを感じただけかもしれない。
大粒の汗が首筋をたどったので、詮索はそれで止めることにした。
日の入りをとうにすぎても、気温はさほど下がらなかった。発汗は止まらず、しかしすぐに用事は済むだろうと財布もろくに持ってこなかったので水分補給もできない。手水でも飲んでやろうかと思っていたときだ。
今度は知った顔が目の前を通りかかった。
「千反田か?」
俺の声に反応したのか、その肩は大きく震えたようだった。ゆっくりと、しかしどこか脅えたような表情がこちらを向いた。やはり千反田えるだった。
「折木、さん?」
小さく弱々しく、鳴り響いているスピーカにかき消させるような声を少し不思議に感じた。
「……折木さん、どうしてここに?」
「姉貴の命令だ。お前はお仕事か?」
千反田は社交界に
と、そこで気がついた。もし来賓として呼ばれたのであれば、神社の社務所にでも通されているはず。だとしたら千反田がここでうろついているのは少しおかしくないだろうか。
それにその服装だ。正装とまではいかなくても、それ相応の服装が求められるはず。しかしいま目の前にいる千反田の服装は、薄手のTシャツに白地の肩掛け、デニム生地の七分丈。フォーマルというよりもプライベートに近い。千反田もそれに気づいたのか「ああ」と、少し寂しげな表情を浮かべる。
「確かに柚之木七夕に来賓として呼ばれたことは何度かあります」
「今回は違うのか?」
「……父には」
そこで一旦言葉が途切れた。俯いた千反田の表情には困惑とも少し違う感情が混じっていた。
人々の喧騒に混じって生暖かい風が吹いた。
「父には、今回の柚之木七夕には来なくてもいいと、そう言われました」
「……それは、この前の江嶋合唱祭の件のせいか」
千反田はかぶりを振ることはない。ただ「どうでしょう」と続ける。
「もしかしたら、それもあるのかもしれません。あるいは千反田家の跡継ぎのことを考えなくてもいいと言った手前もあるのかもしれません。父が何をもってそう発言したのかわかりませんが、今日わたしは柚之木七夕という神事に携わる義務を
今まで千反田家の一人として招かれる立場として、内側からしか見たことのなかった柚之木七夕です。一度でいいから立場も関係なく外側から楽しんでみたいと、そう思っていたんです」
千反田の視線は祭り会場を向く。そこには千反田家のことも、ましてや江嶋合唱祭のことも、何も知らないひと達の喧騒で溢れている。
「どうだ、初めての柚之木七夕は?」
「……神社の人たち、町役場の方たち、地域住民から地元企業の皆さんが力を合わせて企画運営し、毎年素晴らしい催し物として輝いている柚之木七夕です。それが嘘でないことは自分がよく知っているはずなんです。でもどうでしょう、どうしても心の底から楽しいと思えないんです。
置いてきぼりとも、疎外感とも違います。なんと言いますか……」
「うん?」
「勿体ない、が近いのかもしれません。初めての光景がすでにどこか色あせて見えるような、思っていたのと少し違うような、そんな気がするんです。ここで
俺はなんと声を変えてよいか判らなかった。そもそもなにか声をかけるべきだったのか、それも判らなかった。喉の渇きすら忘れていた、そんなときだった。
不意に近くから携帯電話の着信音がした。
どこからだろうと見回すと、なんてことはない。俺が持ってた姉貴の巾着袋の中からだ。
俺の視線とともに、千反田の視線は自然と巾着袋に集まる。さすがに無視するわけにもいかず、巾着袋から着信音を発している携帯電話を取り出す。いつも姉貴が使っている、年代ものの携帯電話だった。
血縁者とはいえ、他人の携帯電話。しかもそれがあの姉貴のものだ。さてどうしたものかと思案していたところ、着信者の名前が出るであろうディスプレイには大きくこう書かれていた。
『奉太郎出ろ』と。
顔を上げれば、千反田も不思議そうにそのそのディスプレイを見つめ、次に俺の表情を伺ってくる。嘆息一つ、俺は「ご指名だ」とつぶやいて通話ボタンを押す。
『やあ我が賢弟。この電話に出るってことはきちんと私の命令に従ったってことね』
「今どこにいるんだよ姉貴、とっくに神社についたぞ」
『そう、そのことなんだけどね』
わざとらしく演技がかった声、嫌な予感しかしない。
『やっぱりその巾着袋、要らなくなったわ』
「……は?」
『だから家に持って帰って』
理不尽というのは来ることを拒めない、拒めないからこその理不尽。自分が忘れものして持ってこいと言っておいて、いざ持ってきたらやっぱり要らない、要らないから持って帰れ、とな。戦国時代なら一揆が起こる悪政だぞ。通話口の向こうの姉貴は続ける。
「さすがにわざわざ持ってきてくれて悪いからね、巾着袋の中に入っている道具は全部好きに使っていいわよ。でも携帯電話だけはだめだだかんね。あと巾着袋は絶対に汚さないこと。じゃあお願いね」
それが
「とても、賑やかな、お姉さんですね」
ああ姉貴、褒められてると思っていいぞ。
もう何をするわけではないが、とりあえず巾着袋の中身を確認する。しかし、
「なんだこれ」
その中身は大したことはなかった。まず摘まみ上げたのは折りたたみ式の市バス時刻表。次にどこでも売っている廉価品の青い水性ペン。600円分ほどの硬貨が入っている小さながま口、そして手元には携帯電話。
本当になんだこれ?
時刻表にも水性ペンにもガマ口にも恨みは無いが、どうみても貴重品とはいいがたい。これを持ってこさせて姉貴は何がしたかったのか。
……まあいい。もう終わったことだ。事後の反省は不可欠であるが落胆はただ精神エネルギーを浪費するだけ、非生産的は俺の欲するところではない。時刻表と水性ペンと携帯電話を巾着袋に戻し、残ったガマ口から小銭を何枚か取り出す。
「千反田、のど乾かないか? 一本おごるよ」
近くの出店で売られている
「どっちがいい」
「本当に、よろしいんですか?」
「持ち主の意向に沿ったまでだ。感謝されることはあっても、祟られることはない」
「じゃあ、りんごジュースのほうで」
ジュースの壜を千反田に渡したときだった。遠くの方でスピーカの音量が上がった。次いで特設ステージ司会進行役の「それでは空をご覧ください!!」という声が大きく響いてきた。つられるように自然と空を見上げる。
先程まで地に下ろされてあった大注連縄は照明器具や
あれほど太く逞しく見えた大注連縄も、地上十数メートルの高さまで登ればこれほどまでに細く、一本の白い線になった。墨を流したような夜空に浮かぶ一本の白線は、さながら長く尾を引いた流星にも見えた。
千反田に渡したリンゴジュースの壜を、自分の持っている壜で小さく叩く。
「
「ええ、
俺は壜のふたを取り外し、オレンジジュースを喉に流し込む。甘みよりも酸味が強く感じられ、ようやく喉の渇きが癒えた気がした。
「柚之木七夕の起源はご存じですか?」
湿気過多な夏場にはそぐわない涼しげな千反田の言葉に、俺は「浅学なもんでな」と応える。
「りんごジュースのお礼だと思って訊いてください。
町の中を横断する大千賀川の両岸には小高い丘のような山が続いていて、そしてその頂上に2つの岩が並んでいます。折木さんには見えますか?」
千反田はそれぞれの山の頂を指さす。その先には確かに小さな岩が右岸と左岸に1つずつ見え、そこに大注連縄が括りつけられていた。
「上流を背にして右岸にある岩を"
葉を茂らせた笹の木も、願いを込めた短冊も用いず、代わりに毎年8月6日に女岩と男岩の間を大注連縄で渡しそこに
「しかし五穀豊穣といい、8月の七夕祭りといい、やっぱり旧暦と関係があるのか」
「そのようです。
"七夕"という文化の発祥は中国と言われていますが、そもそもそれが何に由来するのか、いつから日本で始まったのもなのか、諸説こそあるものの歴とした見解が存在するわけではありません。ただ1695年に書かれた『
同様に柚之木七夕の始まりも定かではありません。ですが2つの岩を七夕岩と呼び、そこに注連縄を渡し五穀豊穣を願い始めるようになったとのは随分古いと父に聞いたことがあります。1746年の古文書には『此つな年中も切れずにあれば、秋世の中、吉と此の野人共悦ぶ事』とありますし」
「現代語訳で頼む」
「『この注連縄が一年中切れなかったら、秋にはみんなが喜ぶことになる』といったところでしょうか。現代でこそ飽食の時代ですが、その昔はいかに食料を確保するかが死活問題でした。
そんな柚之木七夕も時代とともに、その役目を変えていきます。
農業技術が培われ食料供給が安定し始めてくると、彼らの関心が五穀豊穣から
さらにそこから時代が進めば、右岸の女岩をこと座の"ベガ"に、左岸の男岩をわし座の"アルタイル"に、そしてその間を流れる大千賀川を"天の川"に見立てるようになりました。注連縄の太さもそれまでは3寸あまり、およそ直径10cmほどだったものが次第に太く見栄えのいいものに変わっていき、また飾り物も女の子が生まれたら
現在では無形民俗文化財となり、神山市では数少ない観光資源として運用されてるといったところです」
「なるほど」と思うと同時に「合理的でもある」と思った。時代背景が変われば人々の願いも変わるだろうし、願いが変われば奉り方も変わるというのは至極当然のことだろう。
「ただなんだろうな。当初の五穀豊穣の祈りから文化的行事へ、文化的行事から大衆娯楽に変遷しているのは、どこかうらさびしい部分でもある気もする」
「それは否定できませんね」
千反田はくすりと小さく笑った。
ふと俺は氏子の動きが目についた。どうも様子がおかしく、少し慌ただしくなっているのに気づく。
「何かあったのか?」
「どうやら誰かを探しているみたいですね」
この人ごみの多さだ、迷子が出ても不思議じゃない。そこで、ふと思い出した。
迷子、か。
「千反田、柚之木七夕は笹の木を用意してそこに短冊を吊るすってことはしないって言ったよな?」
「ええ。基本は五穀豊穣を占うまじないのようなものですから」
「それは有名なことなのか? つまり柚之木七夕では笹も短冊も用いないってことをだ」
「神山市民にとっては一般常識レベルだと思います。最近では柚之木七夕当日には臨時バスも運行されるくらい有名な催し物ですから」
俺は顎に右手を添えて思い出す。
「どうかしましたか」
「悪いが氏子から迷子の特徴とか聞き出せないか?」
千反田の持っていた壜ジュースが、その動きを止めた。代わりに視線だけをせわしなく動き回る氏子に送った。
「千反田?」
「……ええ、その程度なら大丈夫だと思います」
その程度なら?
どうもニュアンスがおかしいが、今は置いておこう。
「じゃあ、お願いしてもいいか。俺よりもたぶんお前のほうが聞き出しやすいと思うんだ」
氏子の元へ駆けていった千反田は、少しして帰ってきた。
「やはり子どもを捜しているようです。小学校2~3年生くらいの男の子のようですよ」
「服装は判るか?」
「確か、上はアニメのキャラクターがプリントされたTシャツ、下は紺色のハーフパンツ。あとプロ野球のキャップを被っていたとか」
ふむ、じゃあ間違いない。俺が腕組みしていいると、千反田は不思議そうにこちらの顔色をうかがってきた。
「あの折木さん、どうしてその子のことを?」
「おそらく俺は、その迷子を見てる」
鳥居の前で姉貴を待っているあいだ視界に入ってきたあの子だ、服装もあっている。
「小学2~3年生ならまだ小さいはずです。早く保護者の方と会えるとといいですね」
「……どうかな」
俺の含みを持った言葉に気づいたのか、千反田は訝しみながら視線をこちらに送ってくる。
「どうしてですか。ただの迷子ではないんですか?」
「迷子は迷子だだろう」
「なら」と続く千反田の言葉を、俺は遮る。
「その男の子が保護者と合流することはおそらくないだろう。なにしろ、保護者のほうが柚之木七夕に来てないからな」
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