「二乃、いつまでそこにいるの。早くおいで」
不意にエントランスの扉が開いたかと思うと、眩しく光る照明に照らされながら、首に相変わらずヘッドホンをぶら下げた三玖が出てきた。
「あ、フータローも居たんだ」
三玖は俺に気づくと、いつもと変わらない、冷淡な瞳で俺を見ながら言う。
「ちょうど良かった。明日だけど」
「三玖!」
二乃は、三玖の言葉を遮るように、三玖の手を引きながらエントランスへと向かっていった。
「帰るわよ」
「でもまだ話が…」
「いいから!」
二乃はそんな会話を繰り広げながら、俺の方を向いたかと思うと、何故か頬を赤く染めながら、数秒間見つめられた。俺がそんな二乃に気づき、視線を合わせた時には、既に三玖と一緒にエントランスの中に入ってしまっていた。
(まだ好きなわけじゃない…。ほんのちょっと…気になってるだけだから…多分…)
もう深夜。部屋は電気を消しているから、もう真っ暗。
あたしはベッドの上で、何も無い空虚な天井を見つめながら、この感情と戦っていた。
(よし!決めたわ。あたしは別にあいつの事なんか好きじゃない!)
結論に至った。
(気になってるだけ!)
半分納得し、半分反対しながらも、この結論に至った。今は、この位の感情で留まった方が良いと思った。
奥手の恋愛はあたしらしくないから。
『9月30日、日曜日。いよいよ本日は東町で花火大会がありますね』
(日曜日…。俺はこの日をずっと待っていた)
俺は、1人机の上に置かれた、目も眩む程大量に置かれた紙に、英文を綴っていた。
(今日は丸一日休み!五つ子の事は忘れて、思う存分勉強できる!)
暴走機関車の如く動いている手が、不意に止まった。
「お?」
「この公式、教科書には載っていないが、あいつらに教えた方がいいな」
「それに、この問題もよくできてる。これなら四葉でも理解できかも」
「くくく…この問題は三玖が喜びそうだ」
「って、何やってんだ俺ー!」
そう叫びながら、俺は畳の敷かれた床に、仰向けに倒れ込んだ。
「立派な家庭教師か!!」
脳裏には、五つ子達が浮かび上がる。俺を縛るように。
(あいつらのせいで勉強が進まねぇ…。居なくても俺の邪魔をするのか…)
心の中で文句を吐き捨てながら、再度体を起こし、机と向かう。
転がる鉛筆を手に取り、ノートを埋めようとした時だった。
ピンポーン
甲高いインターホンが、俺の邪魔をするかのように鳴った。
多少苛立ちながら、玄関へと向かう。眉を少しひそめ、睨みつけるような視線で扉を開ける。
そこに立っていたのは、呆けた顔をしている五月だった。
俺に気付いたかと思うと、その大きな瞳を、さらに大きく開かせていた。
俺は冷たいドアノブを、そっと内へ引いた。扉の閉まる音が、静かな玄関に空しく響く。
「なんで閉めるんですか!開けてください!」
扉を強く叩いてくるので、もう一度扉を開ける。
「すまん。つい反射で…」
眉間に皺を寄せ、頬を膨らませながら睨んでくるので、軽く謝っておく。
「そういえば、お前はうちを知ってるんだったな…。何これドッキリ?」
何故、家にやってきたのか分からない五月に戸惑ったのか、意味の無い言葉を述べる。
「ええ、あなたにお渡しするものが…」
「ただいまーって、あ!」
五月の言葉を遮るように、らいはが玄関に現れる。
らいはは、その尻尾の様な黒いちょんまげを、空間へ靡かせた。
無邪気な笑顔を、五月へと向けて。
「五月さん、いらっしゃーい」
五月を家にあげ、小さいちゃぶ台の前に座らせる。五月と向かい合うような形で、俺とらいはは座る。
ちゃぶ台の上には、3つのお茶が並んでいた。
透明なコップは、涼しげに氷を漂わせながら。
「外で渡すものでもないので」
そう言って五月は、美しい白色をしたショルダーバッグから、『給与』と達筆に書かれた封筒を出した。
俺とらいはの前に堂々と置かれた『給与』に、らいはが少しながら高揚しているのが伝わってきた。
「父から預かった、上杉君のお給料です」
「すごーい頑張ったね」
両手で無邪気にクラップするらいはに、俺は冷静に次の言葉を述べる。
「と言っても、今月は2回しか行ってないし、期待しない方が…」
手に取って厚みのある封筒を、ざらついた感触に指を滑らせながら開いた。
俺の指の先にある諭吉は、俺を哀れな目で見つめていた。
「1日五千円を五人分」
「計2回で五万円だそうです」
さぞ当たり前かのように言う五月。
その言葉が耳に流れる度、俺は身を震わせていた。今まで見た事もない額の金に、緊張で手汗が止まらない。
「お兄ちゃんの手汗で諭吉さんがシワシワに!」
気付けば、諭吉はシワシワになっていた。
諭吉を持っている俺の左手の感触は、水に浸けた紙を持っているかのような感触だった。
「お母さん、お兄ちゃんがやりました」
そう言ってらいはは、引き出しの上に置かれた、今はもういない母の写真に向かってそう言った。
俺はその間も、目の前の大金に釘付けだった。
「すげぇ…これなら借金もあっという間に…」
しかし、脳を過ぎった思考が、金を受け取るのを遮った。
「受け取れねぇ」
「え?」
机の上に、再度置かれた封筒に、五月は間抜けな声を出し、その小さな口をぽかんと開けていた。
「確かにお前たちの家に2回行った。だが、俺は何もしてねぇ」
五月の表情が、一瞬張り詰めるように硬直した。
「そうでしょうか。セクハラ、してたじゃないですか」
しかし、すぐ様表情を崩したかと思えば、五月は子供の様に言った。
「お兄ちゃん?」
「あの誤解は解けただろ!」
らいはが怒りの目で見つめてきたので、誤解を晴らす。
「何もしてないことはないと思いますよ」
その時、五月の表情は、一瞬何かが綻ぶように、柔らかな笑顔になった。
「あなたの存在は、五人の何かを変え始めています」
その宝石のような瞳で、俺を見つめる五月は、まるで母親の持つ優しさを感じられた。
「…五人って…」
俺がふと呟くと、五月は顔を赤面させ、俺から視線を逸らすように顔を俯かせ、とんでもない早口で言葉を述べた。
「間違えました!四人です!と、とにかく返金は受け付けません!どう使おうがあなたの自由です!」
目の前に差し出された茶封筒を前に、俺は腕を組みながら金に使い道を考える。
数十秒、瞳を閉じながらに導き出された答えは。
「らいは、何か欲しいものはあるか?」
らいはへの贈り物。
普段は来ることの無い街中。辺りは人の声や、車のエンジンの音で騒然としている。
らいはへの贈り物がある、空へと聳え立つ高い建物を見上げながら、建物へと踏み入れた。
ゲームセンター。
俺は果たして、1度でも足を踏み入れたことが有るだろうか。流石にあるが、記憶にはさっぱり残っていない。
店内は、ゲーム筐体の音と、人々の声で、頭の中が掻き回されるほど騒がしかった。
「わー!こんなところがあるんだ!」
今まで見た事のない、輝かしさに目を丸くしながら言うらいは。
そんならいはを見ると、普段は自身も心を踊らせて楽しむことが出来るのだが…。
「なんでお前も来てんだよ…」
横に立っているのは五月。
五月は、俺から恥ずかしそうに視線を逸らした。
「仕方ないでしょう…」
――私、ゲームセンターに行ってみたい!
――五月さんももちろん行くよね?
――ダメ?
脳裏には、五月へ寂しげな表情を作りながら、ゲームセンターへ誘うらいはが思い出された。
「断れよ!」
「断れませんよ可愛すぎます!」
「分かる!」
2人でそんな馬鹿なやり取りをしていると、少し離れた場所かららいはの声が聞こえた。
「お兄ちゃんこれやろ!」
そう言って指差す小さな人差し指の先には、超人気の太鼓リズムゲームがあった。
「ふっ。こんなゲームで満足できるんだから、まだまだ子供だな」
そう言いながらも、俺の瞳は温和に垂れていて、口角も微かに上を向く。
「ちょっとは付き合ってやるか…」
――おかしい
「今の衝撃で落ちないのは物理の法則に反してる!あと1回あれば…」
「お兄ちゃんもうやめとこ!」
まるでどちらが兄で妹か分からない。
子供のように騒ぐ俺に、五月は引き気味な瞳で見つめてくる。
「五月!まだ玉は残ってるだろ。あれを狙え!そして不正を暴くんだ!」
次は射的ゲーム。熱く指示を出す俺に、五月は少し困惑した顔で言う。
「私ですか…」
そう言いつつも、五月の腰から首程まである射的銃を手に取ると、右手の指をトリガーにかけながら、右肩へと柄の部分を当てて固定する。
「そう言われても、あんな小さな物…」
「だから照星に合わせて飛距離を計算してだな…」
左目を閉じ狙いを定める五月の側へ寄ると、俺は構えられている銃を支え、一緒に狙いを定める。
黒い前髪に隠されよく見えないが、何故か視界の端で、五月の頬が赤く染っているのに気付いた。
何故か無性にそれが気になり、気が散ってしまった俺は、思わず制御を誤る。
「わぁっ!?」
標的を大きく外れたコルクは、景品棚に当たり大きく弾かれたかと思うと、俺の右頬を直撃した。
「いってぇ!」
まさかの攻撃に大きく体を仰け反らせてしまう。
真隣にあった五月の唇と俺の唇が、あわや接してしまいそうだったが、余りに勢い良く俺が顔を逸らしてしまったので、ファーストキスが五月…という事態は何とか免れた。
「あはははは」
恐らく俺と五月の状態が良く見えていなかったであろうらいはは、腹に両手を置きながら愉快に笑っている。
チラッと五月の顔を見てみると、一瞬の出来事でさっきの緊急事態は把握出来ていなさそうだった。
「よし、次行くか」
何も無かったかのように振る舞い、次のゲームを探しに行く。
「あの…大丈夫ですか…?すいません…まさかああなるとは…」
五月申し訳なさそうに言うが、俺は表情ひとつ変えず、無事を伝えた。
「このぐらい大丈夫だ」
その後も3人で楽しい時間を過ごし、そろそろ帰るかと切り出す。
「付き合わせちゃって悪かったな」
五月は犬のようにキョトンとした顔で振り向いた。
「らいはには家の事情でいつも不便かけてる。本当はやりたいことがもっとあるはずだ」
はしゃぐらいはは、何時もよりも一層輝いた笑顔を、魔法のように振り撒いていた。
「あいつの望みは、全て叶えてやりたい」
「お兄ちゃん、五月さん」
ふと、らいはが俺達を呼ぶ。
「最後に3人であれやってみたいな」
らいはの指差す方向にあったのは…。
「プリクラ?」
五月が、少し声を震わせながら言った。
「そ、それよりあっちの方が楽しそうだぜ」
俺も声を震わせながら、違うゲームを指差す。
不意に肩に伝わる柔らかい感触。
「全て叶える…でしょう?」
「……」
「五月さんもお兄ちゃんも笑顔で!」
『3…2…1』
「なんかこれ、家族写真みたいだね!」
その後、プリクラに落書きなどをしながら五月と弄りあったりしていると、らいはが俺達にプリクラを渡してくる。
「一応貰っておきます…」
「お兄ちゃんもありがとう」
不意に、らいはへと視線を移す。
「一生の宝物にするね!」
その最高の笑顔は、人生で何度拝むことが出来るだろうか。こんな所で、見ていいものなのだろうか。
「五月、今日は来てくれてありがとうな」
辺りはもう夕焼けに包まれている。空は、綿菓子の様な雲が、悠然と漂っている。
「結局日曜日が潰れちまった…。いや、まだ夜がある」
「お前らも夜は勉強しろよ」
「…あ」
五月が、何か忘れ物を思い出したかのように言った。
「私はここで…」
そう不自然に笑顔を浮かべながら、五月はこの場を去ろうとする。
「なんだよ怪しいな。宿題は済ませたのか?」
そう俺が追いかけると、五月は焦燥しながら言い放つ。
「わー!ついてこないでください!」
「お兄ちゃん」
らいはが俺を呼ぶ。
「五月さんが4人いる」
らいはの指差す先には、綺麗に、二乃、三玖、一花、四葉が並んでいた。
臙脂色に染まる空から、色鮮やかに浮かび上がるような着物姿の4人が。
「集まったし早くお祭り行こうよ」
「デート中にごめんねー」
「五月!なんでそいつと居るのよ!」
「わー!上杉さんの妹ちゃんですか?これから一緒にお祭りに行きましょう!」
「でもお前ら宿題は…」
「ダメ?」
俺の日曜日は潰れた。