もしもジョージ・オーウェルがウマ娘の怪文書を書いたら 作:ryanzi
四月の晴れた暖かい日だった。時計が十三時を打っている。
ウィンストン・スミスは心地よい風を浴びながら、トレーナー寮のガラス製のドアをくぐる。
玄関ホールはにんじんと常に清潔に保たれているマットの匂いがした。
部屋は奥の方にある。静脈瘤性の潰瘍もないのでうきうきと歩ける。
トレセン学園はウマ娘だけでなく、トレーナーの健康も維持しているのだ。
歩いている途中で、同僚の部屋がちらっと見えた。また閉め忘れたに違いない。
その部屋には一枚のポスターが貼られていて、
スーパークリークがあなたを見守っていまちゅよ~
というキャプションまでご丁寧に付いていた。
同僚の名はサイムという。彼はすっかり赤ん坊同然になってしまった。
自室に入ると、朗々とした声がレースの様子を伝えていた。
普通にテレビの電源を付け忘れていたのだ。普通に消した。
どこぞの独裁国家と違って、テレビの電源くらい当然のように消せるのだ。
もちろん、自室にあるテレビに監視機能など付いていない。
ウィンストンは窓辺に移動して、春風を浴びる。
どちらかと言えば小柄で華奢なからだつき。
髪はまばゆいブロンドで、生まれつき血色の顔色をしていたが、
高品質の石鹸と切れ味の良い剃刀と冬の間に塗っていたクリームでさらに健康的だった。
仕事は高給だから、こういうのは簡単に揃えられるのだ。
空を見上げると、ドローンがトレーナー寮をかすめるように降下し、
しばしアオバエのように空中に留まったかと思うと、再び弧を描いて飛び去る。
どのウマ娘かは知らないが、こうやってトレーナー寮の窓を覗きまわっているのだ。
しかし、パトロールはたいした問題ではない。
〈そろぴょい警察〉だけが問題だった。
どれほどの頻度で、〈そろぴょい警察〉が監視しているのか、わからなかった。
誰もが始終監視されているということすらあり得ない話ではない。
日本ウマ娘トレーニングセンター学園――ウマスピーク*1では〈トレセン〉と呼ばれる――
それは視界に映る他の対象とは驚くほどかけ離れていた。
巨大なピラミッド型の建築で、白い大理石をきらめかせ、
上空三百メートルの高さまでテラスを何層も重ねながら、聳え立っている。*2
その白い壁面に優雅な文字によってくっきりと浮かび上がった学園の三つのスローガンは、
ウィンストンの立つ窓辺から余裕で読むことができた。
うまぴょいは平和なり
自由はうまぴょいなり
うまぴょいは力なり
ウィンストンは急に向き直った。すでに物静かな楽天家の表情になっていた。
部屋を横切って小さいが最先端のキッチンに入る。
仕事場をこんな昼日中に抜け出てきたので、食堂での昼食を犠牲にしてしまった。
そして彼は百も承知だったが、キッチンには黒糖パン以外、食料はない。
冷蔵庫から橙色の液体の入った瓶を取り出す。
無地の白ラベルに、〈ヴィクトリー・ニンジン〉という文字が書かれていた。
それをティーカップに注ぎ、一気に飲み干す。力が湧いてくるような気がした。
いかなる理由からか、この部屋には深いくぼみがあった。
おそらく、ここに書棚がはめ込まれる予定だったのだろう。
このくぼみは隠れるのにはちょうど良かった。窓からも見えない。
そして、いま引き出しから取り出した本もまた、この行動を思いつく結果となった。
寡頭制うまぴょい主義の理論と実践 エマニュエル・ゴールドシップ
思い黒色の本だった。いかにも素人っぽい造本であった。
表紙に著者名とタイトルがあるが、その印刷は少しばかり不揃いのように見える。
だが、めくってみれば格別美しい本だった。
実はもともと滑らかなクリーム色の白紙だったが、そこに彼の担当バの絵を描いたのだ。
そろぴょい本が買えないのなら、自分でそろぴょい本を書けばいいのだ。
自由市場ではこうした白紙の本が売っているのだ。
彼の担当バはナイスネイチャだった。可愛い。
彼のやろうとしていること、それはそろぴょいを始めることだった。
違法行為ではなかった。というか、トレセン学園ではもはや法律が一切なくなっている。
だがもしその行為が発覚すれば、うまぴょいか最低二十五分のわからせになることは間違いない。
もし、人の脳内をページで例えれるなら、彼の頭の中の文章はこうなっていたことだろう。
ペンが滑らかな紙の上を遠慮なく思う存分動いたような、大きく整った文字で――
ナイスネイチャはかわいい正妻ウマ娘
ナイスネイチャはかわいい正妻ウマ娘
ナイスネイチャはかわいい正妻ウマ娘
ナイスネイチャはかわいい正妻ウマ娘
ナイスネイチャはかわいい正妻ウマ娘
そろぴょいはうまぴょいを伴わない。そろぴょいが即ちうまぴょいなのだ。
なんやかんやで賢者モードになった彼は考える。
正しいのは自分なのだ。トレセンが間違っていて自分が正しい。
明白なもの、馬鹿げたもの、そして性なるものは守らなければならない。
自明の理は真実、死守するのだ!
未成年とうまぴょいしてはならないし、その法律は変わらない。
そして、彼はこう呟く。
「自由とは自分の愛バでそろぴょいできる自由である。
その自由が認められるならば、他の自由はすべて後からついてくる」
「やっほー、愛バでそろぴょいできて気持ち良かった?」
彼は飛び上がった。ウィンストンの内臓は氷と化したかのようだった。
その声はくぼみに掛けてあった版画から聞こえてきた。
それは前にナイスネイチャからプレゼントされたものだった。
ドアが弾き飛ばされる。ナイスネイチャがくぼみの中に入ってきた。
「なんか難しそうな本だったから中身確認してなかったけど、油断大敵だねー」
ウィンストンは正座した。人生の中で一番きれいに。
「すまなかった」
「謝る必要なんてありませんってば」
ナイスネイチャは本をめくると、赤面した。
「・・・ネイチャの可愛さを完全には表現できなかった。
それでも、その絵はぼくの最高傑作なんだ」
「ちょっ・・・恥ずかしいですってば・・・」
「それでは、ぼくはちょっと外の空気を吸いに行くよ」
だが、腕を強く掴まれる。
「はいはい、逃がしませんよっと」
「許してくれ」
「だから謝る必要ないって」
彼女はウィンストンをひょいっと抱え上げ、ベッドに優しく置いた。
そして、彼に覆いかぶさるような体勢をとる。
「ネイチャ」
「なにかな、トレーナーさん」
「愛してる」
「・・・アタシも」
彼女は赤面する。
ウィンストンの言葉に偽りはなかった。
それでも彼は不安だった。本当に自分みたいな男でよかったのか?
「・・・でも、ぼくは三十九歳になるし、もっといい男性が・・・」
そう言いかけたところで、ネイチャが遮る。
「気にもならない。じゃなきゃ、こんなことするわけないじゃん」
彼はその可愛らしく、慈愛に満ちた顔を見上げた。
ああ、頑固な身勝手さのせいで、この情愛溢れる胸からなんと遠く離れていたことか!
でももう大丈夫だ。万事これでいいのだ。そろぴょいは終わった。
彼は自分に対して勝利を収めたのだ。彼は今、ナイスネイチャを愛していた。