自由すぎる画家の話 作:カーネーション
或る昼のこと
起きた時から降る雨は、時間が経つにつれてさあさあと勢いを増していく。
ミホークはつまらなそうな顔で、未だ暗い窓の外を見ていた。
相変わらず酷い雨だ。晴れるかと期待していたが、まだこの調子では今夜まで続くだろう。
偉大なる航路にあるクライガナ島。シッケアール城にて。目の前の色あせた緑のカーテンに明らかに装飾ではない黒い紋様があるのを気にもとめず、窓に近づいて今度は遠くを見つめる。
崩落した家々が淀んだ空気の中、白い雨に打たれて死んだようにジッと群れていた。大きな骸のようだった。遠くに聞こえるノイズをBGMにしても、モノクロに染ったその景色はどこを切り取っても単調で、退屈で。それをまたつまらなそうに睨(ね)めつけて、彼はため息をついたのだった。
暇潰しにどこぞの海賊船でも切ろうか、強者を求めて長旅をしようかと思っていたが、この雨では、海もかなり荒れているだろうな。
残念だが今日はここに居るしかないらしい。
昼食の後、皿を洗い、手早くカトラリーを片付け終え、ミホークは廊下に出た。白いブラウス1枚では少し肌寒かった。
「スン」
小さく鼻を鳴らす。しっとりとした冷たい空気の奥に、微かにこびりつく血の臭いがした。瞼の裏に、この場にあっただろう緋色の惨状が容易に想像できる。どうも、一・二年という月日で戦争の跡というものは消えないらしい。
それでも噎せ返るほどの鉄錆と腐った臭いがしないだけ、マ、来た時よりだいぶマシだ。と彼は目を細めた。
横を見れば、石造りの廊下は黒いヴェールを被せたように薄暗い様相で、窓から入る青白い光が、屋内をぬらりと照らしていた。
いつもの雨の日の数倍、暗く、陰鬱で、ジメジメしているように思える。
(不愉快だ。)
同じ景色でも曇りならどれほど良かっただろう。
それを気に留めるぐらいに彼は少し機嫌が悪かった。
雨音が長い廊下の向こうの暗闇に反響し、反響し、そして消えていく。
ミホークは歩き出した。退屈を凌げる何かを探すために。
ずうっと続いているくぐもった雨音の中で、自分の足音だけがいやに鮮明に響く。淡々と歩く彼の目はいつもと変わらない。鋭く、鮮やかな琥珀色を湛えていた。
しかしまぁ、よく降る雨だ。
先ほどからザーザーと騒ぎ立てていて、どうも落ち着かない。
何となしに見た窓の向こうは雨で白く霞んでまともに見ることすら叶わず、濁ったガラスに彼の退屈そうな顔が薄く映るだけ。
すらりと前に向き直る。彼の首にかけているロザリオみたいな小刀が、白灰の光を受けて小さく光った。
そして彼はまたつまらなそうに、つま先で床を無意味にコンと蹴った。
「クァ」
小さく欠伸をひとつ。
このまま昼寝も考えたが、そういう気分でもない。酒を飲むにも早すぎる。どちらかといえば戦いたい気分だった。
と、なれば。この衝動を解消すべく起きて何かをしなければなるまい。
角を曲がって階段を降りてその先をまた曲がって。すっかり見慣れてしまった廊下には、まぁ当然ながら何か面白いものがあるはずもなく。単調な歩幅で歩いていれば彼が暇を持て余すのは必然だった。
(退屈だ。)
アイツが利き腕を失ってから3年。
好敵手がいなくとも強者に挑め続ければ良いと思っていた。
しかし、あの日から自分の情熱は時々褪せるようになった。上に君臨する者を見上げると、時折まだ見ぬ頂点を取った先のことを考えてしまうのだ。
ーーもしなったとして、俺は、そこからどうするのだろうか。
上に近づくことへの興奮を他所に、彼の考えはどこか冷めていた。
力を求めて張り合う者が減っていくのがとても虚しく感じたのだ。それは彼が戦いを好むだけでなく、強さを求める真っ直ぐな求道者だからだった。
このまま己に敵う者が居なくなって、望んだ頂点の玉座に座ったとしても、自分の世界にはこの崩落した国のような、死に絶えたハイイロしか映らなくなるのでは無いだろうか。今日のように退屈で、つまらない日々が続くだけになりはしないだろうか。
強さに盲目になっても、ふとしたときに渇望が影を差す。考えれば考えるほど、紙にインクを垂らすようにじわじわと黒い感情が広がる。
もし、あの男が利き腕を失っていなかったらとさえ考えてしまう。
窓についた大粒の水滴が、跡を断つことなく下へのろのろ落ちていく。
ーーあの男としっかりと決着を付けていたら、このようなことも割り切れていたのだろうか。
そのたびに彼は目をつぶり、頭をふいと振って、ありもしない空想はするだけ無駄だと考えを終わらせるのだ。今は先を考えず、ただ頂を目指すだけでよいではないか。と
何を背負い、強さの果てに何を望むか。
鷹のような目が、振りかざした刃のようにぎらりと光った。
窓のない廊下で聞こえてくる雨音は、サラリと静寂に溶け入っていて、先程とは一転して心地のよいものだった。
彼は無意識に眉間に入れていた力をふっと抜いた。
(雨……雨か。何か覚えがあるような。)
目線を転がして、先程の思考を捩じ伏せるように、頭の隅から記憶を引っ張り出していく。
「ァ。」
ふと、旅の途中で聞いた話を彼は思い出した。
(たしかワノ国では、こんな雨は…篠(しの)突く雨。や、風が強いものは飛雨(ひう)と言うのだったか。)
言葉を頭の中で転がしピタリと立ち止まる。細く鳴く雨音が、瞼を閉じれば自分を包んでいるような心地になってくる。
広大な深藍の凪が心の中でしんと広がる。高低様々なノイズが心に溶けるのを感じて、そっと目を開き、息を吐いた。
「嗚呼。」
少し驚嘆して、或いは納得して。小さく声が上がる。
見据えた廊下が、光が入っていないにも関わらず、何故か彼には先程のモノトーンよりずっと色彩豊かで新鮮に見えたのだ。
翡翠の光が、彼のアンバーの双眸の上で瞬いた。
どうしてそう名をいちいちつけるのか気になっていたが、なるほど。
名前を知った彼には、この煩い雨に一種のフゼイというものがあるようにも見えた。"飛ぶ雨だなんて。"と少し愉快にさえ思えてくる程に、名前をつけるということには意味があるのだな。
そう感じて、ゆっくり瞬きをする。
降りしきる雨の中。水音の合間に、ベベンという音一つ。遠いワノ国の音(ね)が近くで鳴った気がして、ふっと微笑した。((それでもまだ無表情に近いが。))
そう考えれば、窓を叩いていた雨の音は、奇妙にもこの話を聞いた時と似通っているような……
はて、どんな奴から聞いたのだったか。
窓の外、水灰色の雲の向こうを見つめ、たっぷり3秒動きを止める。
風に揺られてだらりと動く雲から光が差すことは無かった。ただ雨音が、漠然とした既視感を植え付けるだけだった。
まァ、スグに思い出す必要はないだろう。
ミホークはそう心の中で独りごち、窓から目を逸らした。
カツ、コツ、カツ、コツ。石造りの床を踵で叩けば硬質な音が返ってくる。遠くで雷鳴ひとつ轟き、ミホークの黒い影が伸びた。
立ち止まる。雨はびゃーびゃーとしっちゃかめっちゃかに声を大きくしていて、そこで彼は段々と雨の音がハッキリと聞こえてきていることに気がついた。
音のする部屋に入れば、目線の先では小さな窓がガラリと大きく開いていて、ビュウビュウと吹き込む白雨が霧みたいになっていた。どうやら閉め忘れていたらしい。
道理で先程からうるさいわけだ。
ミホークは舌打ちをする。せっかく上がってきた機嫌がまた降下してしまった。
窓をバタンと閉め、大きな水たまりを遠回りして。ジットリ濡れ落ちた前髪を彼は鬱陶しそうに払いのける。
(このまま鬱々としていても仕方がない。いい加減、何か暇つぶしになるものを探すとしよう。)
ーーとはいえ、これからどうするか。
なんの目的もなく玉座の間に来たが、見渡す限り殺風景な部屋には、当たり前だが娯楽となりそうなものはこれっぽちも無い。いくら耳をすませど聞こえるのは先程から雨の音ばかり。
「ン?」
いや、先程とは少し違った。ザーザーという音の中に、微かに聞き覚えのある呻き声がする。この辺りに住む、ヒューマンドリル共の声だ。
何となく気配を探ってみれば、玄関の方に集まっているらしく、数は多い。
彼は目を細める。
おかしい。この城のあたりにヤツらは来ない筈だというのに。
(あのときの仕返しにでも来たのだろうか?)
彼は一応、小刀がかけてあるのかを確認し、階段を飛び降りて、少し駆けて玄関へと向かう。彼の靴が音を立てる度、ヒヒたちの声はどんどん大きくなっていく。
しかし、殺気も、こちらに入ってくる様子もない。
よくその声を聞いてみれば、奴等の声は島に来た時のように低い威嚇の唸り声ではなかった。甲高い、キーキーとしたもの。
まるで焦っているかのような声だった。
眉間にグッと皺を寄せる。
いやきっと、そう感じるのは気のせいだ。そうでなくとも、そんなこと、普段なら気にかけることでもない。
そう、気にすることではない。と、ミホークは頭の中で反芻する。
なのに、己の勘が警鐘を鳴らしている。どうも彼は先程から、心臓の裏が撫で上げられるような、薄ら寒く嫌な心地になるのだ。
ーーどうして走る?
行かなくては、行かなくてはならないから。
ーー何故?
呼ばれているから。
(待て、何かおかしい)
どうしてヒヒの声だけで俺は向かおうとしている?どうして俺はそれに焦っている?どうして呼ばれていると感じた?
ーー俺は、何に呼ばれている?
それを自覚して、背筋が粟立つ。久方ぶりに感じた、未知に対する小さな恐怖。
しかしなれどもそんな思考を置き去りにして、彼の足は動き続ける。走らなければならない。走らなければ、間に合わなくなる。そんな意味不明で本能的な義務感に駆られて。走る、走る、走る。
ミホークが駆けるには廊下は短く、彼が玄関に到着するのには1分もかからなかった。
ギィと赤錆びた蝶番が鳴く。大扉を開けると、やはりヒヒたちはそこに居た。しかしいつにもなくなにか戸惑った様子で、キイキイ喚いて鎧で覆われた手足をわたわたさせている。それを見たミホークはその鋭い目を大きく見開いた。
正確には、彼らのうち1匹が持っているモノを見て、驚愕したのだった。
それは、薄汚れてはいるが鮮やかな赤い毛の塊。彼には見覚えのある幼子だった。
ではなぜ、彼ほどの人間がその存在に気づかなかったのか。
答えは簡単。その幼子が衰弱し、見聞色で気配を感じ取れないほど、意識が薄くなっていたからだった。
ヒヒの手から幼子を受け取ると、その体はぐっしょり濡れていて冷たく、息も浅かった。気力がないのか震えてすらいない。
「おい」
声をかけても返事はない。目を縁取るまつ毛は、その下に影を落とすばかりだった。
「おい」
少し声が裏返る。青白い唇は小さくハッハッと浅く息をするだけでなにも言いはしない。だらりと垂れた腕はピクリとも動かない。冷や汗が頬を伝う。
「おい!」
普段静かな彼が出した突然の大声に、ヒヒたちはビクリと肩を揺らす。しかしそれでも幼子の小さい耳には届かない。揺さぶっても、揺さぶっても、何も言わない。
これは非常に、非常にまずいな。
「チッ」
彼は大きく舌打ちをする。しかし脳内は実に冷静だった。
(意識無し。子供にしては低すぎる体温。ずっと雨ざらしの中に居たのだろうか。あの男がここに来て挨拶も無しに、しかも愛娘を放ったらかしにするとは思えない。)
ふわり海水の匂いが鼻をつく。驚いて、思わず顔を顰めた。
(……まさか、海から流れてきたのか?ここの辺りに来たという噂はないから間違いなくあの船とは距離があるはず。しかも息に乱れがない故、溺れた訳では無いだろう。だったらどうやってここに……いや、どうだっていい。原因はさほど重要ではない。とにかく今は状況確認が優先だ。)
彼がそう思った時だった。
鈴の音が耳元で聞こえた。
「カハッ」
急に時間が動き出したかのように、幼子は息を吐き出した。目をぎゅっと瞑り、背中を丸め、ゴホゴホと空気を吐くように咳き込む。顔を赤くして、苦悶にゆがめ、汗をだらだらと滝のように流して。
そして、うっと小さく呻いて、またぷつりと糸が途切れたように眠りについた。
「……」
あまりに突然の出来事に呆然とする。腕の中で火をつけたように起こった熱を感じて、ようやくミホークはハッとした。
幼子は先程と打って変わって、林檎のような頬で、苦しそうに息をして震えている。
「おい、聞こえるか」
その声に瞼をぶるぶる震わせて…幼子はやっと目を開けた。
「あ……れ……たかのめさん……どうして」
「目が覚めたか……いい、喋るな。寝ていろ。」
苦しそうに目を細め、ぐったりとまた幼子は目を閉じた。
辺りは水を打ったように、変に静まり返っていた。
何故か、そうふと、違和感を感じて空を見上げる。
「あ」
白く細長い雲が彼方へと流れていくのが見える。
青空が広がっていた。
ルビを()で表しているのはなんとなくです