袖ヶ浜鎮守府の作法   作:佐伯美鈴

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 捷号作戦の後に軍を離れ、ライターとして活動する「珍しい苗字の女性」の「しーちゃん」。
 近所のカレー屋の店主「れーかちゃん」とも仲良くなり、穏やかな日々を過ごしていたが、ついに世界の艦娘・海軍戦力の総力を挙げた最後の決戦となる「決号作戦」発動の日が訪れる。作戦発動を迎えた人々。それぞれの届かない思い。


⑥決号作戦「前夜④ クロスロード」

【2023年3月7日 広島市佐伯区役所内 召集事務所兵事課】

 はい、じゃあ軍籍手帳を拝見します。あと免許証かなにか…はい、ええどうも。おっと…ああ、すみません。見ての通り左手があまり利かないもんで、もたもたしちゃって申し訳ない。砲弾の破片が腕に入ってましてね、寒い時期はつっぱっちゃうんですよ。もうちょっと暖かくなればだいぶマシになるんですが…。ええ、ええ、捷号作戦のときバギオにいましてね。そのときにね。でも今から手術するにも金はかかるし、ついそのままになっちゃって。寒い時期は娘がさすってくれるんですが…え?はいはい、来年小学生ですよ。かわいい盛りですが、そのうち生意気になるんでしょう。まあそれはおいといて…。

 さて、えーと、海軍後備中尉 神々廻舞…漢字とかはこれで間違いないですね。1種幹部候補生6期…艦娘隊付勤務…艦娘隊だったんですか?その後サンフェルナンド輸送司令部付…うーん、そうか…うう、なるほど。はい、いま確認印を捺しましたんで、これで点呼召集そのものは済みました。

 で……ほんとにいいんですか「これ」。さっき会議室でやった講習は聞きましたよね?説明ありましたよね?あなたがいま出した「これ」は軍への現職復帰届です。私がこれをここで受領したら、あなた現職復帰で次の作戦では間違いなく前線行きです。

…あのですね、ここから先はあんまり大きな声じゃ言えないんですが、次の作戦はかなり大規模なものらしくて、もう予備役も後備役もお構いなしの大動員がかかってます。さっき同じ部屋で講習を受けた人たちは、みんな来週には入営して、すぐに部隊編成が始まるって話です。

 うう…ここからは役所の兵事係って立場を離れて、私という一人の人間の話として聞いてください。さっき軍籍手帳を見ましたけど、あなたが現職を離れて後備役編入された理由は「健康上の理由」って書いてありましたよね。これだったら現職復帰届さえ出さなければ、動員義務の対象にはなりません。もう前線に行くしかない他の人とは違って、神々廻さんは行かなくたっていいんですよ、別に。

 なあ…あんた、ちょっとだけ、ちょっとだけ話を聞いてほしいんだが、うちにも娘がいるんだよ。だから、あんたみたいな若い娘さんがわざわざ戦場に行こうってのは見てらんないんだよ。「健康上の理由」ってあるけど、精神的なものでしょう、これ。わかりますよ。俺だってあのときサンフェルナンドからサ号船団で撤退したんだから。

 ありゃあひどかった。俺はあのとき陸軍の工技兵でバギオの兵器修理廠にいて、命からがらバギオから退却して、サンフェルナンドから輸送船に乗ったんだ。最後はひどかったですね。俺は負傷兵で、しかも工技兵だったから早めに船に乗せてもらえたけど、ただの歩兵とか輜重のやつらは、艦娘隊やら航空やら特業の兵科が先だっていうんで、なかなか船に乗せてもらえなかった。しまいには無理やり乗ろうと押し寄せた兵隊たちに、憲兵と将校が拳銃を空に向けて威嚇射撃して…。でも俺、見ましたよ。船が出航する直前には水平に撃ってた。ちょうどあんたみたいな若い女の将校もいたけど、ブルっちまって、撃ってるやつらの足元で頭抱えて泣いてましたよ。ようやく出航したあともひどい空襲でしたね。機銃掃射の弾丸が飛び込んできて、兵隊でいっぱいの船室内をぐるぐる跳ね回るんだもの。いっそのこと爆弾の直撃ですっきりやってくれって思いましたよ。神々廻さんは?…へえ、宗谷丸ですか。俺の乗ってた船は午後遅くにやられて、お菓子の箱がつぶれるみたいにバリバリ音を立てて船がばらばらになって、海に放り出されたあと、運よく流れてきた畳の上に乗れたときには一人になってましてね。でも助けなんて来るわけないって、これでもうお終いだと思って畳の上にひっくり返ってたら、夜遅くに艦娘さんが見つけてくれて、畳ごと陸地に引っ張ってくれてね、それで助かったんです。きれいだけどなんだか暗い顔した艦娘でね。名前を聞いて、それで国に帰ってきたあと生まれた娘にその艦娘の名前をつけた。ほら、うちの子の写真見てみます? 「ひらと」って名前です。変な名前でしょう、はは。

 話がずれましたね、そんな戦場だったんだもの、精神やられて現職離れた人はいっぱいいます。だからあなたが行かなくたって、別に誰も何も言いやしませんよ。いくら特業兵科の艦娘隊経験者で引く手あまたっていったって、あなた一人が行く行かないで全体の戦局なんかに影響ないでしょ。次の作戦は総力戦ですよ。昨日俺が面接した少佐ですが、今の仕事はコンビニの店長です。今週までコンビニ店長だった大隊長と保険の営業やってた中隊長とタクシー運転手だった小隊長といっしょに最前線に行くことになるんだ。ほんとだよ。兵事係の俺が実際にひとりひとり見たんだもの。そんな部隊をあてにした作戦なんて、どういう結果になるかずいぶん分かるじゃない。

 もうひとつお教えしましょうか。この現職復帰届を出したら、あなた自動的に一階級進級で大尉です。理由分かりますか? 上からの達だと「あえて現職復帰を望んだ勇士の救国の衷情に応えて」だそうですが、俺たち役所の人間はすっかりわかってますよ。「二階級特進」だと事務手続きが面倒なんです。だから手間を省くために、先に一階級進級させておこうってことですよ。そうに決まってます。

 ねえ、だから俺は兵事係としては言っちゃいけないんだろうけど、よしときなよ。助かる命をわざわざ捨てに行くこたないですよ。ねえ聞いてますか、神々廻さん。

 なあ、ほんとに聞いてるんですか、神々廻さん。あんた、あんた、なんでさっきからずっと、そんなに嬉しそうに笑ってるんです?

 

 

 

【2023年3月7日夜 広島県内 ミニFM局】

 さあ午後8時になりました。Sunset streetの時間です! わー!どんどんパフパフ~。盛り上がらないね、いつものことか。まあいいか。マイクの前でこれから2時間、みなさんと、そしていい音楽といっしょに過ごします。いやーすっかり春ですね。春と言えば花粉症なんだけど…え?違うって、いやいや花粉症なんてもう季語みたいなもんでしょ。それでね、ここ海の近くなんですけど、僕ここに引っ越してきてから急に花粉症が治ったんですよ。海の近くだとなんか花粉の飛び方とか違うんですかね? もうさ、ティッシュの消費量が違うんですよ、今までと、ぜんぜん。あ、ディレクターがもう曲に行けって怒ってる。オープニングで花粉症とかティッシュの話はダメだって。はい、じゃあ今日の一曲目……。

 

 はーい今日の1曲目でしたー。なんかもう海!って感じの曲ですよね。海!夏!疾走感!みたいなね。最近やっと海辺でもちょっと遊べるようになってきたし、深海棲艦も瀬戸内海ではもう見ないって話で、海水浴場も今年の夏には再開できそうなんて話もあるもんね。でもさあ、戦争のせいで海水浴場の思い出がない若い人たちには、夏の海でモテようとする男子の悩みとかわかんないだろうね、もう。もはやおじさんの昔話。

 よし、じゃあ次のリクエストです。お便りはラジオネーム「華麗なるカレー」さんから。

『はじめまして』 はいはいはじめまして。『私は小さなレストランをやっていて、いつもこの番組をお店で聞いています』 ありがとう!でもこんな番組流してたらお客さん減っちゃわない?大丈夫かな。『最近すごく心配していることがあります。最近お店でいっしょに働きだした人がいるのですが、仲良くおしゃべりできるようになっても、その人はいつも心がどこか遠くにあるみたいで、そのうちふらっとどこかへ消えてしまいそうな、笑顔でいてもどこか無理して笑っているような、そんな感じがします』 ふむふむ。『戦争でつらい目にあったからなんだろうなっていうのはなんとなくわかるんですが、なにか自分がしてあげられることはないのかなとか、私がもっときちんと気持ちをわかってあげられたらいいのにとか、最近はそんなことばかり考えています。一日の終わりにさよならを言うたびに、明日もまたちゃんと会えるかなってすごく不安になって、「さようなら」って言葉を口に出すのが怖いんです。だから、その人が少しでも明るい気持ちになれるように、その人に届けたい曲をリクエストします』

 

 なるほどね、うーん。「華麗なるカレーさん」は優しい人なんだと思う。そこはすごく素敵だと思った。で、それで、うーんもちろん意地悪を言うわけじゃないんだけど、先に言っちゃおう、言っちゃうね。

 世の中には「どうにもならないこともある」ってこと。その、「カレーさん」にとっての大事な人の心の中にある穴?みたいなものって、今から他人がどうこうできるもんじゃないし、空いた穴自体は消えるもんじゃない。そういうもんだよ。

 けどさ、人間同士なんだもの、できることはあるよね。すっごい当たり前っていうかフツーのつまんないこと言うんだけど、「一緒にいてあげること」、それでいいと思う。僕が音楽をみんなに届けてさ、みんなといっしょに聞いてるのもそう。おんなじこと。音楽で人の心はつながるんだよ。

 カレーさん、レストランやってるんでしょ?素敵じゃん。人間なんて、一緒にテーブル囲んで、一緒に美味しいご飯食べて、で、一緒に笑ってさ。それでダメなことってなんかあるかなあ。僕ももうおじさんだから、難しいことは逆によくわかんなくなっちゃったんだけど、一緒にご飯食べて笑い合うのって、人間の根っこのところのすっごい大事なことだと思う。すごくシンプルに人間らしいこと。カレーさんの大事なその人と一緒に、それこそカレーでも一緒に食べてさ、一緒に笑って、それでいいじゃん。一緒にご飯食べて笑うこと。それから歌って踊って笑うこと。それって人間だけにできる、いちばん人間らしいことだよ。

 その人の心の穴は埋まらなくっても、そばで一緒にいてあげることはできる。それで、カレーさんの大事な人が、カレー食べてる間だけでもその心の穴のことを忘れてくれたなら、それはもうカレーさんの『勝ち』だと思う。そこでパッと手を握って離さないこと! それが大事。そこで掴んだ手を絶対離さないようにね。チャンスは一回きりだよ、たぶんね。

 なんか説教臭いおじさんみたいになっちゃったので、ここまでにしよう。そしてめんどくさいおじさんとしてついでにもう一つやらかしちゃおうか。DJとしてはやっちゃいけないことをやっちゃいます。カレーさんのリクエストを一曲先送りにして、僕の選んだ曲をお送りします……あ、ディレクターが怒ってる。こりゃまずいな。

 でもいいかい、大事なことだ。もう一回だけ言わせてくれ。

 いっしょにテーブルを囲んで、いっしょに笑って、いっしょに手をつなぐんだ。それだけで人間は満たされる。

 そうしたらそこには暗闇なんて存在しないはずだ。

 そしてカレーさんと、カレーさんの大事な人が笑ってるその場所に、僕が届けた音楽があれば言うことはない。

 この曲が終わったらいつものおバカで適当な僕になる。じゃあ聞いてほしい。

 The Beatlesで「I Want To Hold Your Hand」

 

 

 

【2023年3月12日夜 広島県呉市 呉鎮守府】

 雨はまだ降り続いている。宿舎の自室の窓ガラスに、広げた手のひらをそっと当ててみた。そして、照明を消して真っ暗にした自室の窓際で、窓ガラスの向こうに目を凝らす。

 出撃に備えて連日徹夜の改装作業を進める工廠やドックのぎらぎらした光の渦の向こう側に、窓ガラスをつたう雨滴に滲んだ街の灯が見える。呉の町を囲む山の上にちりばめられた家々の灯は、まるでケーキの上にちりばめられた銀色のアラザンの粒々みたいに見える。

 うん、秋雲さん我ながらなかなか詩人じゃん。

 椅子の上で足を組みなおし、A3のスケッチブックに向き合って、左手の鉛筆を握りなおす。今日はペンタブって気分じゃないんだよね。今日は秋雲さんの絵描きとしての出発点、鉛筆とスケッチブックで描きたい気分なのさ。

 知ってる人たちの顔を、描ける限り描いていく。夕雲型のみんなも、陽炎型のみんなも。こういうとき秋雲さんの立ち位置は大変だあね。鎮守府の営門の衛兵も、烹炊所のおばちゃんたちも、鎮守府内のコンビニのレジのおっちゃんも。みんなみんな。みんな描く。鉛筆が止まらない。今までにないくらい最高に筆が走る。口が回る。頭の中が冴える。

 

 

 

「そうそう、この絵はね、聞いてよ。今日は鎮守府の運動場で、睦月型の子たちが集まって遊んでたのさ。よりによって缶蹴り!缶蹴りだよ、缶蹴り。なんで?って思うでしょ。大本営からの連絡参謀にくっついてきた睦月型の子が何人かいて、それで久しぶりに姉妹が全員そろったからみんなで遊ぶことにしたんだって。ほら、よく描けてるでしょ。弥生ってこんな顔して笑うんだねえ。長月は負けず嫌いだから負けるとほんとに悔しそうな顔してさ、菊月も負けず嫌いなんだけど、ちょっと優しい顔もする。みんな笑って缶蹴ってた。で、皐月が蹴った缶がロングシュートみたいに飛んでって、ほら、巻き添えで巻雲に缶が当たってひっくり返っちゃって…面白いでしょ?ここは漫画っぽく描いちゃったけど、まあいいやね。それ見て風雲が笑って、夕雲も笑いすぎて涙が出ちゃって…。初霜ちゃんも面白かったはずなのに、いつもの仏頂面でうまく笑えてない。でもちょっとだけ口の端で笑ってたから、ほら、だからそういう風に描いたのさ。ね、そうそう、初霜ちゃんときどきこういう顔するでしょ。…あ、これ? 迷ったけどね、秋雲さんのことずっと覚えてるって約束してくれたからね、いちおう描いといてあげたんだ。名前忘れたから「カレーおばさん(メガネ)」って書いといたんだけど。え?そうそうそれだ、神々廻だ。まあ書き直さなくてもいいか、このままで。

 よし!じゃあ朧はそこに座って!

 いい、そこでいいよ、はい!いい感じ。じゃあ今から最後の1ページを使った、秋雲さんの最高傑作完成の瞬間の目撃者になってもらうよ!

 ああ、別に少しなら動いてもいいよ。て言うかいろいろ話したいしさ。まあ最高に美少女に描いてあげるから心配しないで、大丈夫大丈夫。だはは。さあいっちょう描きますか!」

 

 

 

 

 

 

「こういうこと言ったら重いって思われちゃうかもしんないし、作戦の前に言っちゃいけないかもしれないんだけどさ、今だから朧に言っときたいことあるんだ。

 今回の作戦、朧と同じ隊でよかった。そこはほっとした。

 ありがとね朧、いっしょにいてくれて、ほんとありがと」

 

 

 

 

 

 

【2023年3月17日夕刻 広島県広島市西区 カレー店】

 古い喫茶店を居抜きで改装した私のお店。壁にかけられたアンティークの振り子時計の針は、もう動くことはない。あちこち修理屋さんを探して聞いてみたのだけれど、もう直せる人も交換する部品も簡単には見つからないらしく、お店の開業以来すべてを見守りながら時を刻んできたこの時計が、時計としての役割を果たすことはもうない。

 それはさておき、さあ今日は金曜日!つまりはカレーの日。そして私は今からひとつの大勝負に挑む。1時間後に始まる新メニューの試食会に臨むのだ。まさに「決戦は金曜日」というわけ。

 勝負を託すのはこのカレー。地元の食材にこだわった比婆牛使用の本格派ビーフカレー、小細工なしの正統派カレーで勝負する。これで審査員のハートを射抜くのだ…と言っても審査人はしーちゃんさんなんだけど。

 来月の月替わりメニューをそろそろ決めないといけないというのもあるんだけど、この試食会の最優先目標はしーちゃんさんのハートだ。先週呉鎮守府の一般公開に行ってから、どうにも様子がおかしい。区役所へ点呼召集に行った後は特におかしい。仕事中も集中していないし、注文ミスや連絡漏れや言い間違いも増えている。ぼーっとしているとかそういうんじゃなくて、なにか別のことに集中している感じ。はりつめた針金のようにまっすぐで固くて冷たいものが体の中に入っていて、どこか別の遠い場所をじっと集中して見ているような…うん、目が座ってるんだよね。あれじゃお客さんも怖がっちゃう…というのもあるんだけど、私が怖いのは、しーちゃんさんのまわりにまとわりつく霧のような不穏な空気、ふっと姿を消してどこかに行ってしまうんじゃないかという危うさだ。今はただ、ラジオの能天気なDJを信じよう。カレーを囲んでいっしょに食べていっしょに笑って、しーちゃんさんのハートを「ここ」に、このお店につなぎとめる。言い方は悪いけど、首輪をかけて鎖につないでしまうのだ。

 でも、なんで私はしーちゃんさんにこんなにも執着しているのか、自分でもよく分からない。もちろん嫌いではないし、はっきりいって好きだ。恋…ではないと思う。ないよね?ないはずだ。ないだろう。ないとき。なければ。

 でも大切な人だ。それは間違いない。一度も本気の笑顔を見せたことがない、家族の話もしない、むかしのつらかったことも話さない、本音は見せない、壁を作って、ひとりで納得して心を閉じ込めてる。たぶん性格も…そんなによくはない。でも初めてこのお店に来て私のカレーを食べたとき、一瞬顔がぱっと明るくなったの、私ちゃんと見てましたよ。

 これは私のワガママだ。私はしーちゃんさんの「その先」が見たい。その先の世界でふたりで同じものを見て笑いたい。別にあなたを変えたいわけじゃない、変わるべきだとも思わない。ただ一回でいい。いっしょに心から大笑いして、バカな顔見せてくださいよ。そうじゃないと私のカレーが負けたみたいじゃないですか。わかるか、おい、そこのメガネ。

 それに、しーちゃんさん、あなたはこのお店にいるべきだ。ここから離れたら、あなたは絶対に「その先」の明るい世界に手が届かない。そんな気がする。

 でも、そんなこと言ってる私も、しーちゃんさんに話してないことがある。家族のことや、むかしのつらかった出来事は内緒にしている。

 

 予備士官としてフィリピンの戦いに行って、そのまま帰ってこなかった私の姉さんのこと。

 出征する前の日に姉さんにカレーを作ってあげようとして、気合を入れすぎて大失敗したこと。

 でも、姉さんは笑いながら食べてくれて、自分の失敗に泣いてしまった私の頭をなでてくれたこと。

 そのとき見上げた笑顔が、私の中での姉さんの最後の記憶だということ。

 

 しーちゃんさんが捷号作戦、つまりフィリピンの戦いについて書いていると知ったとき、正直言うと背筋が寒くなった。姉さんの戦死公報を届けるために実家の玄関に現れた、古い道路標識みたいに無機質で背の高い海軍士官を思い出したからだ。戦死公報は一度見たきり引き出しの一番奥にしまいこんで、それ以来一度も見ていない。内容はきちんと読まなかった。いや、とてもじゃないけど辛くて読めなかった。でもそこに書いてあったいくつかの単語だけは覚えている。「ルソン島中部」「サンフェルナンド集成隊」「死守」「総員壮烈なる戦死」。同じ単語をしーちゃんさんの肩越しにノートパソコンの画面に見つけたとき、今まで感じたことのない吐き気のような恐怖を感じた。

 しーちゃんさんはフィリピンで姉さんに会ったことがあるかもしれない。あるいは姉さんの最後の状況について何か知ってるかもしれない。

 でも聞けなかった。怖かった。それを聞いて姉さんの最後を知ることと、それを質問してしーちゃんさんを傷つけるかもしれないことと、そして自分の心が傷つくのも怖かった。ずるいと言われるかもしれないけど、姉さんのことを聞いて、それでもし自分の心が壊れたら、私はそのまま砕け散ってしまう。そんな確信があった。兵隊さんというのは何千何万といるわけで、しーちゃんさんが姉さんを知っている確率なんて、宝くじに当たるのと似たようなものだ。そう自分に言い聞かせて、しーちゃんさんに姉さんの話はしてこなかった。

 自分がそんななのに、今までしーちゃんさんに「笑顔が下手」とか「本音を出せ」とかさんざん言ってきちゃったんだよな……。

 でも今日は違う。もう後悔はしたくない。傷ついた心だって隠していたくない。私のカレーと、私の本音と、今まで言えなかった秘密も、ぜんぶ見せて、みんなさらけだして、あなたを「あなたがいるべき場所」に私のワガママでしばりつけたい。重い女? その通り。束縛が強い? 上等ですよ。やったろうじゃないですか。さあ、そろそろご飯も最高のタイミングで炊きあがって準備も万端…。

 その時お店の前で車が止まる音がして、しーちゃんさんが何か話す声がごにょごにょと聞こえた。あれ、あの人車持ってたっけ? 頭の中に疑問符を浮かべたままドアを開けてお店の外に出ると、夕暮れの角度の浅い光の中で目を細めながらしーちゃんさんの姿を探した。

 

 固まった。太ももの下からすべてが急に消えたように力が抜ける。大げさではなく体ががたがたと震えだした。

 深い若草色の制帽と軍服とワイシャツに紺のネクタイ。茶色い太いベルトの右側に拳銃を、左側にはまるで似合わない短剣をさげ、少し短めの黒い革のブーツを履いたしーちゃんさんが、海軍の公用車の横に立っていた。運転席の兵隊は私の顔を見ると気まずいものを見たように視線をそらした。

「すみません、ついさきほど緊急呼集がかかりました。新規作戦の統帥が発動したんです。すぐに行かなくちゃいけません。これからせっかくの試食会だったのに、本当にごめんなさい」

 待って。待って。何言ってんのこの人。

「少しだけわがままを言って、お店に寄ってもらったんです。ちゃんと挨拶もしたかったし」

 何言ってんの。そこじゃない。あなたのわがままってそこじゃないよ、もっと別のとこでとんでもなくわがままなことしてるじゃん。

「今まで仲良くしてくれて、ほんとにありがとうございました。このお店にいるときはいつも、すごく穏やかで、優しい気持ちになれました」

 そういうとこだよ。嘘はついてないけど本音は言わない。いつものやつだ。待って待って待って。

「でも、この国の、そして世界の海の平和を守るため、たくさんの人が戦場に行かなくちゃいけません。私にできることがあるなら、そこから逃げずにしっかり向き合いたいんです」

 これは嘘だ。何言ってんだこの人、そんなこと絶対考えてないでしょ。笑顔で嘘つかないでよ。

「そして、私を待ってる仲間たちがいます。私はその仲間たちに必ず会って、そして言わなきゃいけないことがあるんです」

 嫌だ嫌だ嫌だ。なんなのこれ。「また」なの? なんで「また」私の大切な人はどこかに行っちゃおうとするの?

 どうしていいかわからない。数歩前に進んでしーちゃんさんに近づいた。そうだ、手をとらなきゃ、手を握らなきゃ。まだ行かないで。まだカレーも食べてもらってない。いや、そうじゃない。抱きしめなきゃ、今抱きしめないとダメだ。この人は行ってしまう。

 私が必死に手を差し出すと、それに反応するようにしーちゃんさんの右手がぴくりと動いた。その手は一瞬ためらうように止まった後、私が伸ばした手からするりと逃げ出し、指先をそろえて、そのまましーちゃんさんの右のこめかみに当てられた。

 行き場のない両手を差し出したまま、私はあえぐように数歩よろめいて叫んだ。

「やめてくださいよ!敬礼なんて!」

 メガネの奥で悲しく笑った瞳が見え、それから少し澄ました感じで唇の端を持ち上げたのが分かった。背後からの夕陽を浴びて優しく薄く笑った姿は影絵のようで、足元から私の方に向けて地面を這って伸びる影が、私をあざ笑うようにゆらゆらと踊った。

 今私の目の前にいるのは本当に私のよく知っている「あの人」なのだろうか? 人の形をしているだけの何か別のものじゃないのか。その考えが頭をよぎったとき、しーちゃんさんは、ぱっと私から視線を切ると、身を翻して公用車の中に消えた。

 しーちゃんさんを乗せて走り去っていく公用車の向こうに、どぎつい赤色で渦巻くように煮え立つ夕陽が見えた。あれは誰かの心だ。煮えたぎるなにかだ。私なのか?あの人のなのか?誰の心なんだ?

 

 なんなんだよう。なんでなんだよ。なんでこうなるんだよ。私がなにかしたのかよ。

 膝をついて地面を両手で叩きながら泣いた。

 この手でこんなことをしたかったんじゃない。誰かを幸せな気持ちにして、手をつないで、抱きしめるために使いたかったんだ。

 悔しくて悲しくて頭にきて、路面のアスファルトを引っ搔いて、指先から血が出た。

 どろどろと煮える禍々しい夕陽の赤色に比べて、私の血は鮮やかに赤く、命が脈打つように透き通っていた。

 ああ、私は生きてる。私はまだ「こっち」側にいる。

 

 てことは、まだ私はあきらめるわけにはいかないんだ。




 次回、世界の艦娘のほぼすべてが投入される決戦「決号作戦」が始まります。
 戦況は激戦を経て「破断界」へと向かいます。
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