袖ヶ浜鎮守府の作法   作:佐伯美鈴

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「珍しい苗字の女性」こと「しーちゃん」は、袖ヶ浜鎮守府の艦娘と共に決戦の場に向かった。
 かつてのルソンの撤退戦で交錯した「彼女」の記憶が再び手繰り寄せられる。
 迷う羊と迷わない羊たち。そんな彼らの、タラップとレールという鉄路が重なる。



⑥決号作戦「戦旅② ストレイ・シープの蛮勇」

かへらじと かねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる

 

【中突進隊左猛進隊 袖ヶ浜鎮守府隊3番艦 中型艦娘母艦第246号 神々廻 舞】

 海が沸騰している。空がうねっている。最終目標である敵中枢部、「深海棲艦湧出口」は味方が撃ち込み続ける猛烈な攻撃準備射撃の爆炎に覆われて、おおよその方向しか分からない。その弾幕を縫って、深海棲艦の大部隊が覆いかぶさるようにこちらに向かってくる。背中から寒気が這い上がり、全身がぶるっと震えた。恐怖?武者震い? 分からない。波が幾重にも重なりあうようにどっとこちら目掛けて寄せてくる深海棲艦を見て、ある光景が脳裏によみがえってきた。

 浦波ちゃんと白雪ちゃんと荒潮ちゃんを失った、ルソンの戦いの後の退却戦。脱出する輸送船に助けを求めて押し寄せ、ついにそのまま撤収できなかったサンフェルナンド港の残置兵たちの姿。それが眼前の光景と交錯し目の前が点滅する。

 あのとき私は岸壁から船に渡されたタラップのそばで呆然としていた。脱出する船団の輸送司令部付だった私は、甲板上で乗船部隊のリストの照合を任されていたが、状況はあっという間に制御不能になった。なんとか船に乗り込もうと押し寄せる兵隊たち。船側からそれを押し返す兵。双方の勢いに押され突き飛ばされ、私は大波に揉まれる木の葉のように左右に揺れていた。「乗せてくれ!まだ残ってるんだ!助けて!」岸壁の兵隊たちの叫び。「戻れ!お前たちはこの船には乗れん!」「タラップをはずせ、出航準備急げ」「まだ人がタラップの上に乗ってますよ」「かまわん、こっちからはずして落とせ。ホーサーは切れ」「また空襲が来るぞ、急げ」船上の殺気立つ声。「やめろ、押すな」「やめてくれ」船上か岸壁か、どちらからの声か分からない怒号。憲兵隊が空に向けて威嚇射撃をしても兵の波は止まらない。「秩序を!秩序を回復しろ!」「将校は拳銃抜けえ!」「威嚇射撃だ!下の海面を狙え!」拳銃を抜いた。次いで撃鉄を起こそうとしたそのとき、タラップから兵たちがどっと船内目掛けて雪崩れ込んできた。

 そのとき、ああ…誰が最初に撃ったのかは分からない。ただ、誰かがタラップの上の兵士たちに水平に発砲したのだ。人間が人間を撃つのを初めて見た。混乱の中、次々と銃声が続き、先頭の集団がなぎ倒された。人がタラップの上に倒れ、さらにその上に重なって倒れるのを見た。もうだめだった。膝から下の力が抜けて頭を抱えてうずくまった。嫌だ、嫌だ、撃ちたくない。丸まって泣いた。「おい、そこの少尉。しっかりせえ、それでも将校か」と誰かに顔面を蹴っ飛ばされて仰向けにひっくり返った。あふれ出る鼻血を手で抑えながらじたばたと床の上でもがいた。もう撃つしかないのか、いや、でも、いやだ、いやだ。

 手から取り落した拳銃を、紐を手繰って手元に戻したところで、タラップに倒れた兵たちの体の下で、私と同じようにもがいていた人と目が合った。腹を両手で抑えてじたばたしていた彼女は、半分血に染まった顔を窮屈そうにこちらに向けた。

 目が合った瞬間、相手と自分と、お互いの全身が痺れるように固まったのが分かった。目が合う、と言うより視線が触手のように絡み合った。あの、れーかちゃんと同じ顔をした黒髪の女性少尉だった。

 ついさっき、自分が助かりたいがために私を押しのけて整列の順番を変え、却ってそのせいでサンフェルナンド死守の決死隊に編入されるという破滅のジョーカーを引き当てたあの子だった。その目は濡れていた。怯えていた。そして自身を恥じていた。また、卑屈に歪んでいた。

 頭上では「撃て」「やめろ」「撃たないで」の叫び声と銃声が飛び交い、出航のために高まる船のエンジン音と海をかき回す巨大なスクリューの音がそれに加わって、私たちはすさまじい轟音の渦の中にいた。

 彼女は私を破滅させようとしたのだ。私は彼女に怒りをぶつけるべき正当な理由があった。私の心の一部は彼女の卑屈な表情に逆上して確実に彼女を憎んでいた。でも、私は彼女のせいで結局は輸送船に乗りこむ切符を手に入れたのだ。私は彼女に感謝するべきなのだろうか?…いや、それはない。そして、私の心は別の大きな感情にものしかかられた。私の心の一部は彼女の卑屈な表情にひるんで哀れみを感じていた。哀れみと、憐れみと、憎しみと。

 その瞬間、彼女が私に薄く微笑んだのを、はっきりと見た。和紙のにじみ絵のように淡く鮮やかな、指でなぞっただけで擦れて破れて消えてしまいそうなそのはかない微笑。 

 

 そのとき私の右手には拳銃が握られていて、銃口と彼女とは2メートルも離れていなかった。

 そのとき私の左手は自分の鼻血にまみれ、手の先と彼女とは1メートルも離れていなかった。

 

 私は決断した。私は彼女に向かって何かを叫んだ。そして、片手を彼女の方に力を込めて……

 

 

 

「副長!しっかりしてください!あんた艦長代理でしょ!ぼーっとしてないで命令を出してください!」

 航海士に揺さぶられて、はっとした。そうだ、指揮を執らなきゃ!

「艦の被害状況は? あと艦長の容態は?」

「通信アンテナが吹き飛んだんで今から応急線で復旧します。その他の損害は軽微、戦闘航海に支障なし。艦長は重傷ですが腹の中身は出てませんから、傷をふさげばまあ死にゃしませんね」

 ほっとする。

「前方、敵深海棲艦多数向かってくる!」 艦橋トップから砲術士の声。

「袖ヶ浜隊指揮本部からの艦娘の発進命令はまだですか?」

「なしです。あとアンテナが吹き飛んでますから現在通信不能。指揮本部の1番艦は爆煙と水柱がすごくて目視できなくて、信号灯も手旗も無理です」通信士がお手上げといった感じで口をとがらせながら言う。

 なるほど、そう来ましたか。ぜんぶ私が決めるんだ…いや、決めていいんだ。

 少し長めに息を吸って吐き、腰の帯革につけたボトルホルダーから魔法瓶を取ってふたを開けた。温かくやわらかなほうじ茶の香りが顔全体を包む。舌に刺さるような熱いほうじ茶を一口すすり、灼けるような一筋の熱量が喉を通ってお腹の真ん中に落ちていくのを感じた。

 艦橋の幹部士官たちは、こいつは戦闘中になにをやっているんだという目で私を刺した。わかってます。わかってますって、ちょっと待って。

 覚えている、忘れてないよ、あのパヤグラヴェでの楽しかった日々。浦波ちゃんが淹れてくれたほうじ茶と、酒保で手に入れたお菓子で、みんなで巡検後にこっそりやったお茶会とか、ね。

 さあ、またみんなであれをやろうね。取り返そう、みんなのあの時間を。はは。

 

 やってやろうじゃない。「再ドロップ」狙いを。

 

 私は決断した。

「前扉開け!艦娘隊は準備でき次第発艦!所定の目標を攻撃する!」

 

【中突進隊左猛進隊 袖ヶ浜鎮守府隊3番艦 中型艦娘母艦第246号 護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ】

「発進用意」の号令がかかってからだいぶ時間がたった。艦首下部の発進用デッキはいつものように狭く暗く息苦しい。上部の小さな採光用の窓からわずかにさしこむ数本の光が、スポットライトのように仲間の艦娘の顔を照らしている。

 私たちは甲板に敷かれた発進用のガイドレールに足の艤装を合わせたままぎっしり二列に並んで「発進」の号令を待つ。号令がかかれば前方の発進扉が開いて、海面に向けてまっすぐ伸びるガイドレールに沿って、艦娘が二人ずつ並んで出撃するのだ。

 艦の周辺に敵の至近弾が落下すると、衝撃波が舷側全体をどしんと叩き、艦全体がねじれるように軋む嫌な音が聞こえる。ずどん。ぎしっ。ずどん。ぎしっ。艦のエンジン音がいっそう高まり、上甲板での銃砲撃やロケットの発射音がいっそう激しくなった。五月雨が首を回して、差し込む光の先をやや不安げに、眩しそうに見上げるのが見えた。一発でも命中すれば、1000トンちょいの中型艦娘母艦なんて、一瞬で艦体が折れて沈没するだろう。今はじっと耐えるしかない。ただ、沈むにしてもこんな薄暗い格納デッキで船の残骸に挟まれてそのまま海底に引きずり込まれるのだけは嫌だ。せめて海の上で…いや、海の上でも嫌だけどさ。

 90センチ隣の電はピーナッツバターを乗せたクラッカーを口いっぱいに頬張って、怒ったような表情でバリバリと嚙み砕いている。

 目の前15センチにはジョンストンの背中の艤装があって、機銃の銃口がこっちを睨んでいる。なんだか落ち着かない。

 頭の後ろ30センチから阿武隈の声がした。

「サミュちゃん」

「なに?」

「なんか話しようよ」

 至近弾の衝撃。

「なに?聞こえない」

「なんか話して」

「いまここで?」

「アメリカ人ってこういうときでも小粋なジョークが出るんでしょ」

「私たちはすでにポスト・ジョークの時代に暮らしてるんだよ。真面目な話ならするけどね」

「興味あるのです」

 ピーナツバター臭い息を吐きながら電が加わった。目が座っている。やっぱ怖いんだね。私もだけど。

「では本日は『ドーナツの穴は存在か空白か』の著者として知られる高名な哲学者Samuel・B・ Roberts教授の講義を…」

「つまんないのです」

「じゃあジョンストンがこっちに来て初めてカップ焼きそば作ったときにお湯捨てずにソース入れてそのまま食べた話する?」

「それあたしじゃないわよ。なんで微妙なウソ入れて巻き込んだのよ」

「誰だったのです?」

「ガンビーよ」

 金属質のものが砕け壊れる騒々しい音が頭上を通り過ぎて行った。砲弾が艦の上部を右舷から左舷に突き抜け、海面に突き刺さって炸裂したのが分かった。

「あー」

「やりそうなのです」

 阿武隈がくすくす笑った。

「そんなにおかしかった?」

「これがみんなとの最後のおしゃべりになるかもしれないって思ったら、ちょっと…ふふ、なんか笑っちゃった」

「やめなよ、縁起でもない」涼風が左の前の方からぴしゃりと言った。

「ごめんね。でもあたし、去年の夏に東京湾で直撃弾受けて沈みかけたときに、あの海の底の…海の底に沈んでた感覚を思い出してから、変な話だけど少し落ち着いたというか、恐怖心が薄れちゃったっていうか…」

「やーめとけって、影が薄くなるぞ」

「逆かな。あれでなおさら自分は大丈夫って思えるようになった気がする。あたしはどこからでも帰って来れるって」

 数秒会話が止まった。

 少し遠くに至近弾が二発。近くに三発。重なる至近弾の衝撃に、ついに舷側のリベットが緩んでちょろちょろと浸水が始まった。

「でもやっぱりあたしは明るい海が好き。海の底は嫌い。だから…みんなで帰ってきたいな」

 また至近弾。今度は近い。

 みんながくすくす笑い出した。

「え、ここ笑うとこ?あたし的にはけっこうがんばって気持ちを言ったつもりなんですけど!」

 阿武隈の本気で不満げな言い方に、また少し笑いが広がって、みんなはお互いに視線を交わして頷きあったり笑顔を交わしたりした。

 電が横腹を突っついてきた。

「ここは分隊士がしめるのです」

 無茶ぶりだなあ。

 その瞬間、天井のスピーカーががなった。

『前扉開け!艦娘隊は準備でき次第発艦!所定の目標を攻撃する!』

 へえ、『深海棲艦』さん、けっこうでっかい声出せるじゃん。殺意の乗った声だよ、それ。

 

 息を吸い込む。

 腹の底から声を出した。

「さあみんな、行こう!帰ったらみんなでいっしょに晩御飯食べよう!」

 みんながいっせいに声をあげた。吶喊ではなくて…なんだろう、歓声だ。これは歓声だ。

「サミュエルらしいなあ」涼風が笑った。

「食い意地はってるんだから」ジョンストンが呆れながら笑った。

「カレーがいいかな」阿武隈。

「うちの鎮守府らしくていいのです」電は意地悪そうな顔で私に笑いかけた。

 

 重々しい音がして艦首前扉が左右に開くと、敵味方の弾幕の応酬のすき間すき間に、悲しくなるほど美しい透き通るようなサファイア色の海と空が見えた。頭上の艦首甲板の機銃と速射砲の援護射撃がヒートアップする。

 

 『艦娘隊発進!前進!前へ!』スピーカーが震えた。

 

 私たちは静かに、軽やかに、そして雄々しく海に滑り出した。

 目の前のジョンストンが発進直前に振り返り、後続のみんなにむけて凛とした声で言った。

「weigh anchor!」




 ユージン・スレッジは「with the old breed」(「ペリリュー・沖縄戦記」)において、沖縄の戦場に消えていく若い兵士のことを「本棚のまだ読んでいない本」と表現しました。物を右から左に移すように事務的に投入され、仲間の顔を覚え覚えられる間もなく消えていく兵士の無名性を詩的に切り取った、実に見事な表現だと思います。
 そのため(あるいは「だからこそ」)でしょうか。人間はその本質において、無名性にあらがおうとするのではないか。私はそう考えます。
 沖縄で戦死したジャーナリストのアーニー・パイルは、自分の記事に登場する兵士の名前の後に、住所や出身地を併記することにこだわりました。それは記事を読む本国の家族に正確に伝わるようにという配慮だったのかもしれません。が、私には戦争における兵士の無名性への抵抗のように見えます。
 このシリーズに登場する名前のない人々にも、私は意識的に「顔」と「声」と「人格」を与えています。

 別の話になりますが。最近國分功一郎氏の「中動態の世界」に刺激を受け興味を持っています。ひょっとしたら神々廻くんはこれなのではないか、と思うことしきりです。
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