しかしその内に秘めた激しい感情を知る者は少ない。
街の灯に照らされながら、榛名が「それ」と向き合う。
【2017年 秋 フィリピン・ルソン島西岸沖】
僚船が連続して汽笛を吹鳴した。敵機発見の合図だ。宗谷丸でもラッパ「対空防御」が吹き鳴らされ乗員がばらばらと配置に走った。私も略帽と鉄帽の顎紐を締め直し、宗谷丸の船橋横の張り出しに出た。「神々廻少尉、あれ」見張り員が指す方向に双眼鏡を向けると、船団の右前方の水平線に敵深海機の群れが点々と沸き上がるように現れた。
「敵機大編隊2時方向」「対空戦闘用意」「前進いっぱい」「応急班配置につけ」矢継ぎ早に号令が飛ぶ。船団の右方に占位していた第7駆逐隊は、先頭の漣が手信号を出すとにわかに機関の出力を上げ、輪形陣を取りつつ敵機の方向に向けて速力を上げた。後ろ姿がみるみる小さくなっていく。船橋上の対空見張所で誰かが声を張り上げた。「頼むぞ」
フィリピン・ルソン島西岸サンフェルナンドからの撤収部隊を満載して日本を目指す私たちの「サ号船団」はにわか仕立ての寄せ集めだ。航空援護もない船団にとって、頼みの綱はわずかな駆逐艦娘の護衛だけだ。7駆が対空射撃を始めると敵機の先頭集団が弾幕に包まれた。撃ち砕かれた深海機が海に突っ込むのが見える。だがその右から、左から、後ろから次々と敵機が現れる。距離が詰まる。
「敵機近づく」「敵機は雷爆連合」「敵編隊は右130度方向より2隊に分離、向かってくる」「打ち方用意」敵機が攻撃態勢に入る。「対空戦闘打ち方はじめ!」「テー!」衝撃が頬を揺らした。宗谷丸の船首40ミリ砲が射撃を開始し、次いで船体各所の銃座も撃ち出した。僚船も次々に対空砲火の火蓋を切る。宗谷丸に便乗していた陸戦隊の軽機関銃や小銃の射撃もこれに加わった。怯む者は斬るということか、私と同い歳くらいの若い少尉が船橋下の前甲板で軍刀を抜き放ち、部下を叱咤している。船団各船は常に敵機を後方に見るように舵を取る「後落」という回避運動を取った。練度不足の低速船団が取れる回避運動はこれしかないのだ。
40ミリ砲の連続射撃が空気を震わせ、船橋トップの機銃座からの乾いた射撃音が耳にきりきりと刺さる。海面で炸裂する至近弾、その爆風と衝撃波が船橋内に渦巻いて体があちこちに突き飛ばされる。轟音ですぐ隣にいる者の声も聞こえない。それでも船内電話の受話器に取りついて聴音室からの報告を船長に大声で逓伝する。「左45度魚雷」「右90度魚雷」飛散した爆弾の破片が飛び交う高い音が鉄帽を浅くかすめ、次いで耳のそばを通り過ぎたのが分かった。削り飛ばされた甲板の木片が服に刺さる。次の瞬間、鉄帽の上から猛烈な衝撃を感じて思わずへたり込んだ。何かの破片が当たったのだ。「少尉、しっかり」と、さっきの見張り員がかわりに受話器を取った、と思う間もなくしゃっくりのような声を立ててそのままずるずると床に崩れ落ちた。腕を取って仰向けに起こしたが、眠るような表情でもう身動き一つしない。胸に刺さった弾片がくすぶってじりじりと音を立てている。10秒前まで私がそこにいた。
戦闘開始から数分で6番船福井丸が船首に被雷した。魚雷が命中すると、福井丸はまるで人が何かにけつまずいたようにがくんとつんのめって船首を没し、その行き足のまま沈み始めた。まだスクリューが回転していたが、自分自身を海底に向けて押し込むようにあっという間に沈んでいった。おそらく魚雷命中から2分も無かったように思う。文字通りの轟沈だ。「雷跡左120度」誰かが叫ぶ。聴音室からも同じ報告だ。「おもぉかぁじ」宗谷丸は右に転舵して左後方からの魚雷を避けようとした。船橋の全員が左からの魚雷に注意を向けたとき、ふと視界の右側で何かが動いた気がした。右に顔を向けた瞬間、私はあらん限りの声で叫んだ。「右舷、高崎丸!近ぁーい!」火だるまになって炎上する8番船高崎丸が宗谷丸に向けて突進してくる。
高崎丸はすでに上部構造物のほとんどが炎上しており、船橋も全ての窓から火を吹き出している状態で、もはや操船不能なのは明らかだった。火に追われた乗船者が、5人、10人とひと固まりになって次々と舷側から海に転落するのが見えた。あの船橋にも人がいたはずだ。頭をよぎる。接近する高崎丸が大きさを増し、どんどん視界を埋める。宗谷丸の航海士は覆い被さるような姿勢でコンパスに目を落とし、「かわります、かわります」と呪文のように繰り返している。「船首かわります」次の瞬間、宗谷丸の船首は左から右にまるで手のひらをひっくり返すようにくるりと回って高崎丸を避けた。「今かわった」。隣にいた士官がうめくように言った。「うまい」。手を伸ばせば触れられそうな距離を、高崎丸の船体が右から左に通り過ぎて行った。高崎丸が前方を横切った直後、宗谷丸を狙っていた魚雷が高崎丸に命中した。高崎丸は左舷にむけてぱたりと倒れ、吸い込まれるように波間に消えた。「もどぉせえ」。
腕時計を見るが、まだ戦闘開始から10分もたっていない。船内各所から「浸水」「火災」の報告が相次ぐ。船団司令部の参謀に首根っこをつかまれ、「神々廻少尉、通信室へこれを届けろ。伝声管も電話も通じんのだ」と通信紙を渡された。「我空襲を受く」の文字がちらりと見えた。船橋を駆け降りて最上甲板の機銃座の横を通り抜けたところで視界に突然黒い幕が立ち上がって真っ暗になり、足元が消えたような感覚の後、上から落ちてきた海水の塊に押しつぶされて甲板に叩きつけられた。舷側の海中で炸裂した至近弾が船体を持ち上げたのだ。立ち上がると、そばの機銃座にいたはずの隊員が全員いなくなっている。爆風か海水に吹き飛ばされたのだ。軍刀を握りしめた腕だけがボートのダビットに引っかかっている。よろめきながら何とか通信室に転がり込み、通信長にびしょ濡れの通信紙を渡すと、「これを船長に」と受信用紙を渡された。「発:第2海上護衛隊 海防艦平戸 宛:サ号護衛船団司令部 本文『イマイク ガンバレ ガンバレ』」。胸が詰まった。すぐに船橋に取って返す。右舷の通路は死傷者で詰まって通れない。左舷側に回ってラッタルを駆け上がり、船橋に飛び込んだ。「救援が来ます」とみんなに伝えたかった。だが、できなかった。「敵機、右30度!近あーい!」誰かが叫んだ。機銃掃射の曳光弾を一瞬見た気がした。機銃弾が船橋内を跳ねまわる高い金属音。そして巨大な平手打ちに薙ぎ払われるような衝撃を感じ、何か重いものがのしかかってくる感触があった。
私が覚えているのはそこまでだ。
【1年後 袖ヶ浜鎮守府】
遠くかすかに見える袖ヶ浜鎮守府本庁舎の大時計は午前11時45分を指している。
「ひひっ、これが終わったらお昼だな!」
「うふふ…」
「佐渡ちゃん、対馬ちゃん、気を抜かないで!面舵、右30度!」
単縦陣の先頭に立つ択捉姉さんが、演習水域の中ほどでゆるやかな右へのターンに入る。先を行く3人が滑るように美しいカーブを描く。水平線が傾き、海面が右から左に流れる。11時方向に標的のブイが見えた。
「左砲戦」「目標、11時方向の標的ブイ」「1番から4番、打ち方用意」
海防艦とはいえ最大戦速だ、体感での速度は相当なものだ。海水の飛沫が顔を叩く。標的への視界が霞む。択捉姉さんは発射を号令しようとして一瞬間を置いた。体がぐうっと浮き上がる。小さなうねりに乗ったのだ。択捉姉さんは落ち着いている、波も読めている。しかし、このままでは最適な射点を逃すのでは…。
「1番、いま撃つ!」択捉姉さんの連撃は初弾・次弾ともに遠弾になった。うねりから降りる前に撃ったせいだ。
「2番、次に撃つ!」佐渡姉さんの砲撃は2発とも近弾。今度はうねりの下で撃ったせいだ。2発目は海面に弾かれて右上に跳ね上がった。
「3番、次に撃つ…」対馬姉さんは先の二人の着弾を見て修正してきた。初弾「遠」、次弾が「近」。
「4番!」ターン中に無理に体をひねっては駄目だ、かえって水平基準からのずれが大きくなる。右膝に柔らかさを意識し、同時に右肘を締める。右半身だけを下から潜り込ませ、手首の先で主砲をちょこんと出すイメージだ。「次に撃つ!」
…しまった、やってしまいました。ばらばらになった標的が空中に吹き上げられて踊っている。まさか直撃弾とは…。
無線に本部のはしゃいだ歓声が聞こえてきた。
「おお、命中じゃ」と司令の声。
「我が有効なる射弾により敵艦撃沈。これで状況終了します」、加賀さんは淡々と。
「見てたっしゅ!見てたっしゅよ!」、占守さんの弾んだ声。
「平戸さん!榛名も見てましたよ!すごいです!」
頬の産毛がざわざわとして、顔が熱くなるのが分かった。榛名さんに褒められたのだ。
でも、嬉しいと思いつつも素直には受け入れられない気持ちもある。私にとってこの基礎訓練課程は2度目なのだ、ある意味出来て当然、褒められるようなことではないのだ。私が基礎課程から再訓練を受けていることを、事情も含めて知っているのは司令と加賀さんくらい。教官も助教もおそらくは何も知らないし、姉さんたちは確実に何も知らない。そんな人たちに笑顔で褒められるのは心苦しいし、他人の言葉にひどく敏感になることもある。
「平ちゃんはほんとに優秀だねえ、マジパない!なんだか歴戦の艦娘と話してるような気になることあるよ」
「同じころの筆記の成績だと鬼怒姉絶対負けてるよね」
「お、なんだ?この流れは」
筆記も実技も優秀、内務もてきぱきと効率的。まるで「手慣れたように」。
それはまあそう、ですよ。2回目ですもん。
「平戸さん?」
「……」
「平戸さん!?」
いけない、ぼんやりしていました。
ホワイトボードに描かれた仮想の戦況図を前に榛名さんが心配そうにこちらを見ている。いっしょに講義を受ける海防艦の皆も意外そうに振り返った。
「はい、平戸です」
「平戸さんがぼんやりするなんて珍しいですね」
「はい、あ、すみません、いえ、ごめんなさい」
榛名さんはいつでも笑顔だ。私はあんなふうに迷いなく笑えるのだろうか。笑えたのだろうか。
「では、ここ、答えてもらってもいいでしょうか?」
「はい」いけない、あまり説明を聞いていなかったけど、ちゃんと答えなければ!……ん…?でもこれは……?
「…これは…問題の仮想条件が…そもそもこの態勢になっているのがまずいような……潜水艦の襲撃の可能性の低い狭い海峡内を通過するのなら、対潜警戒を厳にして之字運動で時間を浪費するより、思い切って直進するか、せめて基準航程の3割増しになる之字運動E法ではなく、15%増しで済むG法で夜明け前に海峡を抜けた方がいいと思います。海峡通過に手間取れば夜明けに海峡の出口で敵潜の待ち伏せを受ける危険がありますし、海峡内で夜明けを迎えて空襲を受けたら海峡東側の山地が対空戦闘の障害になります。むしろ急いで海峡を抜けて水深の浅い陸岸寄りに取りついて潜水艦の襲撃を避け、一刻も早くスラバヤの基地航空隊の援護下に入った方が…でも仮想条件に日時が無いので日の出の時間が分からないですから…まず…」
「スラバヤ?」佐渡姉さんが怪訝そうな顔をする。
「…?これはバリ島の西側のバニュワンギ海峡の見取り図ですよね?」
「ふえ…え…そうなんだ…?」松輪姉さんが感心したように口を開ける。
見ると、みんなが振り返って感心したような唖然としたような顔をしているのに気が付いた。択捉姉さんは目を白黒させて、榛名さんは…ああ、あれは大丈夫じゃない表情だ、呆気に取られている。
「あ…これは以前戦訓特報で見たんです…!見たような気がして…てっきりその例が出題されたのかと思って…偶然です、偶然だと思います…!」
どうしよう、みんなに気づかれたかもしれない、誰かが感づいたかもしれない、違和感を持たれるのが恐ろしい。胸が波打つ、脂汗が出る、鈍い固まりが下腹から胃の入り口に上がってくるような感覚。
「平戸ちゃん、だいじょうぶ?具合悪いの?」
休憩時間に松輪姉さんが話しかけてきた。つとめて笑顔で「大丈夫です。ちょっと疲れているのかもしれません」と答えはしたけれど、他の姉さんたちも私の様子を気にしているのが分かる。
「そういえば、ちょっと顔色が悪いかも」
私の体を気遣っているのも分かる。
「無理すんなよな、ほんと」
でも、その好意がかえって私を苦しめる。
「無理すると…危険がいっぱい…」
私はこの先もずっと姉さんたちを欺き続けるのでしょうか。
姉さんたちの優しさや心遣いを感じるたびに心が揺れる。
次の時間の講義もまるで頭に入らない。
「では、平戸さん、次のところを読んでみてください」
「……あ、はい。すみません、どこでしょうか、申し訳、ないです」
「『戦闘間艦娘一般の心得』の第七十九ですよ……では、お願いします!」
榛名さんが、気が散っている私を注意しようとして、思い直して言葉を飲み込んだのが分かった。
「はい、読みます…第七十九、艦娘は戦闘中損傷するも自ら応急の処置を施し百方手段を尽くして戦闘を続行すべし。
すうっと、講義室が急に暗くなったのが分かった。日没が近いのだ。別棟の建物が角度の浅くなった夕陽を遮って俄かに暗闇が忍び寄る。
「
机と椅子の下。暗がりに蠢く影と囁く声を感じた。
「続けてください、第八十もお願いします」
講義室の床が波立った。夜の海、暗闇の中でのたうつ、のたりのたりと重いうねり。
「第八十、艦娘は常に自ら進んで指揮官の掌握下に入ることに勉むべし。所属部隊を離るるは特に命ぜられたる場合に限るものとす」
波の音を聞いた。ざわざわと揺れる波頭。弱々しい笛の音。
「戦闘中命令を受けずして負傷者を介護、後送し或いは任務遂行後の復帰遅延するが如きは艦娘の本分を傷つくるものなり」
「て、ことはさ、榛名さん」佐渡姉さんが口をはさんだ。
「もし、任務中にえとやまつが怪我をしても勝手に手当てしたり助けに行っちゃいけないってことか?」
暗闇の中、波のうねりの間、見つめてくる目、目、目、目。
「『戦闘間一般の心得』通りに解釈すれば、そういうことになりますね。仲間が傷ついても、助けることなく飽くまで任務を遂行しなさい、と。ただ実際には…」
闇に沈んだ足元、水にふやけた白い手が暗闇から伸びてきて足首をつかんだ。
ひとつひとつは微かな囁きが、幾百と折り重なって、首筋に寄り添うように耳元で囁いた。
「助けて」
悲鳴を、上げた、ような、気がします。
低く垂れこめた雲のせいで月明かりも届かない夜の海は正真正銘の真の闇だ。敵の襲撃を警戒して、か弱い衝突防止灯だけを頼りに前進する。
(これは夢だ、あのときの夢だ。サンフェルナンドを脱出したサ号船団が救援を求める無電に応えて、船団との合流を目指したあの夜の夢だ)
雑音混じりの無線からあのときの司令の声が聞こえる。
「各、各、各、こちらツツジ。対潜警戒を厳と為せ、各艦連携し防御せよ」
「ツツジ」は私の所属していた第2海上護衛隊の艦娘母艦を示す通信符丁だ。
「ツツジから旗艦平戸、感どうか明どうか」
「平戸からツツジ、感明ともに良好」
「ツツジから平戸、針路より5度右の方向に船団がいるはずだ、何か見えるか、可能なら護衛の7駆隊と合流せよ」
「平戸よりツツジ、何も見えませ…!」
いや、見えた!死角になっていたのだ。ずんぐりとした小柄な貨物船が数隻、2時方向の小さな島の影からよろめくように姿を現した。消火できていない小さな火災が、船影をほのかに浮かび上がらせている。
「1時の方向、輸送船らしきもの数隻見ゆ!」
「ツツジより各隊、船団と合流せよ」
やっと追いついた、やっと助けられる!私は奮い立った。「今行く」「がんばれ」その言葉は嘘にならなかったのだ!指揮していた艦娘にも合流を指示しようと振り返ったとき、不自然な波頭が目に留まった。一瞬して、私はその正体に気づいた。
「5時方向、距離500!溺者多数!」沈没船の生存者だ、輪になって固まって漂流している。最初波頭だと思ったのは、わずかに雲の間から漏れた月明かりに浮かび上がった彼らの白い顔だった。
「司令!司令!漂流中の生存者です!」
私は通信符丁も忘れて叫んだ。随伴艦にも「溺者救助準備」を命じた。漂流者の数は500か、600か。右回頭の準備をする。
「ツツジより平戸、針路そのまま。船団に合流せよ」
は?
耳を疑った。
「合流ですか?でも司令、人が、人が!」
「お前たちの任務は船団の護衛だ、人なら船団の船にだってまだ乗っているだろう!救助はツツジが追及後に行う!」
漂流者が私たちに気づいた。私たちを呼ぶ、か弱い笛の音が聞こえた。転覆した救命艇の上で箒のようなものを振っている兵隊がいる。
「しかし司令、漂流者は危険な状態です!ツツジはまだはるか後方です、彼らはそれまで持ちません!おそらく昼からずっと泳いでいるはずです!」
「救助したところで収容場所もあるまい。残った船団を守るんだ!船団に合流しろ!」
「2時方向に島があります!せめてあそこまで引っ張れば…」
「くどいぞ平戸!任務を全うしろ!船団を守るんだ!」
漂流者の輪の中からこちらに向かって泳ぎ出す者がいた。私たちを見て助けが来たと思ったのだ。無理もない。
「しかし!司令…!」
「もういい!平戸の旗艦の任を解く!2番艦指揮を引き継げ!応答しろ!」
思わず2番艦を見ると、無線用ヘッドセットのコードを引きちぎって澄ました顔をしている。「故障したみたいです」
「2番艦応答しろ!3番艦、どうした!」
私は意を決した。
「平戸が命令します!総員、溺者救助!2時方向の小島に搬送せよ!」
艤装の雑具箱から曳航用ワイヤーを取り出しながら速度を少し緩める。漂流者の集団に近づきすぎると混乱が起こるので、輪の外側から徐々に救助する必要があるのだ。しかしそれでも長さ20メートル余りのワイヤーを展開すると、人々は争うように群がった。声を枯らして叫ぶ。「押さないで!ワイヤーは手で掴まずに腕に巻きつけて!」。声は届かない、人々はワイヤー目指して折り重なるように必死の形相で泳いでくる。「助けて!」絶叫が海から吹き上がる。争ってワイヤーをつかもうとする白い手の束が暗闇に浮かび上がる。限界の状況で突然目の前に現れた生存への希望。その一本のワイヤーに、人々は最後の力を振り絞って文字通り殺到した。このままでは自分も取り込まれて動けなくなる、一旦島に向かわなければだめだ。「すぐに戻ってきますから、それまでがんばってください!」。
機関出力を微速に上げる。人々が限界まで鈴なりにしがみついたワイヤーが両手に食い込み、力を込めただけで手袋が裂けて血が滲んだ。その瞬間誰かが足首をつかんだ。見ると、すでに子供もいそうな中年の兵隊が水にふやけて真っ白になった手で私の足首にすがりつき、「ああ、助かった」とつぶやくとそのまま沈んでいった。ワイヤーを支えるのに必死で手も伸ばせなかった。唇が震えた。漂流者を振り落とさないように速度を抑えて発進する。私たちを取り巻く漂流者たちの無数の目が暗闇の海上に光る。その、私を見つめる目、目、目。「置いていかないでくれ!」「まだ残ってるんだ、助けて!」「すぐに、すぐに戻りますからがんばって!」2番艦が筏を、3番艦が救命艇を曳航しようとしているのが見えた。しかし、この漂流者の数に艦娘が3人では、生存者の体力が尽きる前に全員を島まで搬送するのは無理だ。
「あっちに島があります!泳げる人は泳いで!」幸い島には砂浜があった。地引網のように生存者を引っ張り上げる。すぐに海にとって返す。力の続く限りこの往復を続けるしかない。まだ助けを呼ぶ声が聞こえる。「分隊士、がんばってください」包帯でぐるぐる巻きにされた重傷者を乗せた筏を押し泳ぎしながら島を目指す一団とすれ違った。再び人々がすがるワイヤーを島まで曳き、砂浜に引き上げ、また海に戻る。さっきの筏と再びすれ違った。人数が減っている。涙が出た。
ごめんなさい、ごめんなさい、平戸が、平戸がもっと強かったなら、もっと力があったなら―。
海軍刑法
第五十七条 抗命罪
上官ノ命令ニ反抗シ又ハ之ニ服従セサル者ハ左ノ区別ニ従ヒテ処断ス
一.敵前ナルトキハ死刑又ハ無期
二.戦時又ハ軍中又ハ戒厳地境ナルトキハ一年以上十年以下ノ禁錮ニ処ス
三.其ノ他ノ場合ナルトキハ五年以下ノ禁錮ニ処ス
第五十八条 党与抗命罪
党与シテ前条ノ罪ヲ犯シタル者ハ左ノ区別ニ従ヒテ処断ス
一.敵前ナルトキハ
二.戦地又ハ軍中又ハ戒厳地境ナルトキハ首魁ハ無期又ハ七年以上ノ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ一年以上ノ有期禁錮ニ処ス
三.其ノ他ノ場合ナルトキハ首魁ハ三年以上ノ有期禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ七年以下ノ禁錮ニ処ス
「目が覚めましたね」
ベッドから見上げる医務室の天井に、榛名さんの顔がひょっこりと割り込んできた。
そっと額に手を当ててくれている。ひんやりとした手が額から頬をなぞっていく。
「私、講義室で倒れたんですね?」
「そうですね、ちょっとした騒ぎでした」
「申し訳なく、思います」
私がベッドの上で体を起こすと、榛名さんは枕元の椅子に居住まいを正して座りなおした。いつにも増してまっすぐな瞳で私を見つめている。
「平戸さん、真面目な話をします」
「はい」体がこわばった。
「脱走しましょう」
「はい?」
「私服に着替えてください」
「え?」
「すぐに」
「ええ?」
私服に着替えた榛名さんに強引に連れられて、袖ヶ浜鎮守府の営門を出る。あまりに堂々としているので歩哨も反射的に捧げ
「こういうのは堂々とやるのが一番です!」
榛名さんは手慣れた感じで流しのタクシーを捉まえ、駅前のメインストリートの向こう、海浜公園の名前を告げた。車窓からは、とっぷりと暮れた街を彩る極彩色の光の洪水が奔流のように流れてゆくのが見える。
すれ違う路線バスの車体には予備校の広告が「自分を信じて!」の文字を躍らせている。「今日は、榛名おススメの大人のお店に行きましょう!」榛名さんは今まで見たことが無いくらい上機嫌だ。いったい何がどうなっているのか、状況に流されるばかりでまるでとっかかりが無い。すれ違う2台目の路線バスではやはり予備校の広告が「限界を決めるな!」の文字を躍らせている。
うるさいなぁ。
榛名さんの言う「おススメ」の「大人のお店」は、軍港の見える海のそばの公園にあった。木材メインの店の造りはシックといえばそうかもしれない。潮風と夜景が楽しめるというお店のコンセプトも悪くはない。野菜や海産物メインの温かなメニューは身も心も…いや、もういいですね、問題は今頭の上で風に吹かれて揺れている「お」「で」「ん」の暖簾です。屋台ですよね、おでんの、これは。
「榛名さんはこういうところによく来るんですか?」
「意外ですか?」
「意外です。榛名さんはもっと、こう大人っぽい、もっとおしゃれなお店に行くのかと思って」
「大人っぽいお店じゃないですか」
3枚目のお皿を重ねながら、榛名さんはそこだけは大人っぽく妖しく微笑んだ。
「それはそうですけど」
「おしゃれなお店もいいですけど、皆で楽しく飲んで、騒いで、単純に気分を晴らす、そういう場所は誰にだって必要です!」
「…平戸の気分を晴らす必要があると思ったん、ですね?」
榛名さんはそこで持っていたコップを一気に開けると私に向き直って折り目正しく頭を下げた。
「ごめんなさい」
私も榛名さんに向き直った。
「さっき加賀さんにお願いして聞かせてもらいました。前の鎮守府で平戸さんに何があったのか。そして袖ヶ浜鎮守府の司令が無関係なのに首を突っ込んで、平戸さんの軍法会議行きを回避させたこと。海軍刑法ではなく一般懲罰令の範囲での再訓練という処分に落ち着かせて自分の鎮守府に引き抜いたこと」
唇を噛んだ。この人に知られてほしくはなかった。
「でも、加賀さんを責めないであげてください。榛名が無理やりお願いしたんです」
でも、知られたのがこの人でよかった。
「…今でも、平戸にはよくわからないんです。あれが本当に正しい行動だったのか」
屋台の発電機の音だけが響いている。
「平戸が助けにいったことで、救われた命もあるかもしれません。でもひょっとしたら、平戸が司令の命令通りにしていれば、より多くの命が助かったのかもしれません。でも、平戸はあのとき、精いっぱい、真剣に、自分で正しいと信じられる判断をしたんです。それだけは、絶対に本当なんです!でも…誰も認めてくれなかった…!」
視界が滲んだ。涙が出てきた。誰にも言えなかった。コップ酒の中に涙が零れ落ちた。
「何が正しくて、何が正しくないのか分からなくなってしまいました。でも、でも、平戸がもっと強ければ、平戸にもっと力があったなら、榛名さんみたいだったら、平戸はもっと「正しい」選択ができたんでしょうか、平戸はいつかちゃんと強くなれるんでしょうか、平戸は…平戸は…」
榛名さんがいきなり私の手からカップ酒をもぎ取って、一気にあおった。それから勢いよくコップをテーブルに叩きつけると、立ち上がって大股で三歩ほど歩き、私に向き直ると指を突き付けて完全な酔っ払いの声で叫んだ。
「強いじゃないですか!平戸さんは!」
潮風が吹き渡って公園の木々がざわめいた。
「救ったじゃないですか!大勢の人の命を!」
公園から見える夜の海は街の灯を映してきらめいている。そのひとつひとつの灯が、急に意味を持つように感じた。暖かい、ひとつひとつ命ある灯だ。
「自分の命を危険にさらして!死刑まで覚悟して!助けに行った人が!強くないわけないじゃないですか!」
そこまで一気に言い終わると、榛名さんはまた大股で歩み寄って私を抱きしめた。
「みんな同じなんです。艦娘はみんな悪い夢を持っている。でも、それに立ち向かえる強さも、みんな同じように持っているんです。だから、平戸さんも自分の強さを認めてあげてください。そして、他のみんなにとって、榛名のためにだって、その強さは頼もしいものなんだって、わかってください」
榛名さんは一気にそこまで言い終わると、体を離してにっこりと微笑み、一升瓶をラッパ飲みし始めた。あ、この人わりとダメだ。
「あれでよかったのよね?」
ややあきれ顔の加賀が腰に手を当てて言う。
「そりゃもう、文句無しじゃ。青葉の新聞も傑作じゃ。見てみぃ、『戦艦榛名 初の朝帰り!気になるそのお相手は?』と来おった。こりゃ青葉新聞始まって以来の大スクープで、まず殊勲乙は間違い無し、ちゅうとこじゃろう。平戸も酔いつぶれた榛名を母港まで『曳航』して無事に帰還させたわけじゃけえ、こっちは殊勲甲に善行章のおまけつきってとこじゃの」
「そうじゃなくて」
「まあそうとんがるな、加賀。平戸にだって時間は必要だったじゃろ。ワシが言って聞かせても、加賀が言って聞かせても、チンちやチンと納得はせんかったじゃろう。ほれ、『
「『死なば死なむよ 君によりては』、ですか」
「そういうことよ。いっしょに刃の上を渡る覚悟、そんなまっすぐな奴の言葉の方が、しっかり届くちゅうこともあるもんよ。ワシらみたいな小細工好きにゃ、ああいうんは無理じゃ」
加賀は提督に向き直り、よく気を付けなければ分からない程度に静かにほほえんだ。
新春ライブでの森山提督を見て思いついた話です。
と言っても誰にも信じてもらえなそうな気がしますが、本当です。
実は2月5日の午前2時頃に細かいところにけっこう手を加えました。
少しは読みやすくなっているといいのですが…。