袖ヶ浜鎮守府の作法   作:佐伯美鈴

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袖ヶ浜鎮守府に着任したサミュエル・B・ロバーツだが、いまいち新しい環境になじめない。
そんな中サミュエルは炊事場での「特殊任務」を言い渡される。


④サミュエル「こっちを向いて、サミュエルさん」

サウルは千を討ち、ダビデは万を討ちたり。 サムエル前書18章7節

 

 

 

 

 

【2021年 春 アメリカ西岸沖 アメリカ艦隊】

 

 暗闇の中、携帯食のキャンディーバーを齧りながら、蛍光塗料で鈍く光る腕時計の文字盤に目を落とすと、時計の針は午前3時を指している。もうこの状態で1時間はたったかな…、状況はわからない、でも悪化してるのは分かる。

 島陰に隠れて息をひそめて待機する。僚艦たちの押し殺したような息遣いが静かに聞こえる。そして、はるか前方の水平線いっぱいにひっきりなしに閃光が走り、爆音が響いてくる。先に突入した第1から第3区隊が戦ってるんだ。でも、第3波まで突入したのに戦闘はまだどんどん激しくなってる…ってことは、うん、これはまずいね。

「5区隊から4区隊、サム、聞こえる?」

 無線からジョンストンの声が聞こえた。

「聞こえるよ、そっちは大丈夫?」

「まだ待機中だけど…、これはたぶんまずい状況ね」

「うん、押されてる。でも、やり返さなきゃ」

「当り前よ。今、伝令が1隻そっちに向かって行くのを見たわ。何か動きがあるかも、気をつけてね」

「うん、ありがと」

 

「ただちに突撃せよとの命令です。私もご一緒します。すぐに5区隊も続きます」

 真っ暗闇の中、顔も名前も分からない伝令の駆逐艦娘が言った。

「いやいやいや、無謀じゃない?」

 4区隊の旗艦がとんでもないという風に声を上げた。

「戦況は不明、まだ他にも敵がいるかもしれない、それなのにただ突撃しろって…いくらなんでも無茶だよ。いったん状況を把握してからでも…」

「敵前の開放海面でいったん発起した突撃を途中で中止する方が危険です。それに、先に突入した隊は激戦で攻撃方向を見失っているのかもしれません。私たちが突入すれば、自然に後ろから押し出されて攻撃を立て直せるかもしれません。時間が無いんです、一刻を争います!それに、夜明けには日本艦隊が来援するはずです。せめてそれまでは戦線を支えないと。戦機は今です!」

 暗くてよく見えないけど、旗艦が天を仰いだのがわかった。

 天を仰いでどうするの。天に祈ったら何が見えるの。見るのは前だよ。もういいよ、前に進もう、義務を果たそう、「Theirs not to reason why」だよ。

 旗艦が叫んだ「4区隊突撃する!前進、前へ!」

 

 

 

 

 

 そうだ。私たちはまさにテニスンの詩の通り、『死地に乗り入る六百騎』だ!

 

 機関の出力を上げる、敵はすぐこちらに気づくはずだ、とにかく距離を詰めなくちゃ話にならない。姿勢は低く、呼吸は静かに深く。主砲の安全装置を外す。旗艦が私を振り返った。私の速度性能を心配してるんだろうけど、足は引っ張らないよ、大丈夫、前を見て。前方の砲撃戦はますます激しくなっている。閃光が雲に照り映えて、まるでクリスマスのコニーアイランドの花火みたいだ。その下に地獄があることを除けば。

 

『将ハ掛れの令下す 士卒たる身の身を以て 訳を(ただ)すハ分ならず』

 

 戦場に近づいたせいで、先に突入した隊の無線通信も聞こえ始めた。私がいちばん嫌いなあの音も聞こえてくる。破壊された無線が切れる「カチッ」というあの音だ。そしてそれは味方の誰かの終わりの音だ。その後には「1番艦轟沈、2番艦指揮を引き継ぐ」とかの声が聞こえてくる。私の最後もきっと誰かの耳には届くのだろう。「カチッ」って。

 

『これ命これに従ひて 死ぬるの外ハあらざらん 死地に乗り入る六百騎』

 

 敵はこちらに気づいた。前方の海面が砲撃の閃光で緑色に煌めいた、と思った瞬間左右からも砲撃を受けた。やっぱりだ、正面の敵とは別に支援艦隊がいたんだ。弾と弾がつながって、あらゆる方向から飛んでくる。炸裂する砲弾と崩れ落ちる水柱で視界が効かない。「カチッ」。低く下げた頭の上を、砲弾がいくつも交差して飛び過ぎるのがわかる。まあ、あの時と同じだ。なんてことはないね。ガンビーたちを逃がさなくていい分、まだ楽だって言っちゃってもいい。「カチッ」。だが止まるわけにはいかない。相手が戦艦だろうとなんだろうと、懐に飛び込むのが私たち駆逐艦だ。前へ!前へ!

 

『右を望めば大筒ぞ 前も左りも又筒ぞ 共に打出す砲撃は 天に轟くいかつちの 響の如く凄まじや』

 

 左の敵駆逐艦を撃つ、その瞬間にも目は右の敵軽巡を捉えている。砲を向ける一瞬がもどかしい。全てがスローモーションに見える。頭では数手先の敵の動きまで分かってるけど、実際の動きが追い付かない。左後方から魚雷が来る、左足を上げて避けなきゃ、でも右の敵を撃つために左足は踏ん張っているのだ。間に合うか、いや間に合わせる。左足を上げる、右足を軸に体をひねって右の敵軽巡に向き直り、主砲弾を叩き込む。視界の端に敵戦艦が見えた。私の右後方を狙っている。そこには伝令に来たまま突撃に加わったあの駆逐艦娘がいるはずだ。狙われてるって伝えなきゃ。でも、私がその行動に移れる余裕はまだあと「数手」先まで来ない。せめて声が届けば…!次の瞬間、敵戦艦の砲撃が鼻先をかすめて飛び過ぎ、また一瞬して右半身に爆風と熱気を感じた。「カチッ」。吹き飛ばされた駆逐艦の艤装が海面を何回かバウンドして海に沈むのを見た。

 

『弾丸雨飛の間にも 猛り立てぞ進むなる 死地にこそ入れ鰐の口』

 

 敵戦艦は目の前だ。どこを見てるの、私はここだよ、ほら、やっと気づいた。すでに主砲弾はほぼ撃ち尽くした。最後の魚雷を至近から叩き込む…やった!…いや、しまった、頭では分かっていたのに目が見落としていた、爆炎の中に沈み行く戦艦の向こうにこっちに砲を向ける敵重巡がいた。あ、これは「数手先」が浮かばない、頭でも目でも分かった、あとはあの主砲が私に火を吹いて、それでぜんぶが終わるのだ。

 

「どいて!」

 思いっきり横から突き飛ばされると見慣れない艦型の駆逐艦娘が4隻、装甲板を掲げて文字通り躍り込んできた。私の目の前にいた敵重巡が文字通り粉砕されると、突撃路が開けた。

「大丈夫なのです?」

 優しく柔らかな声が聞こえて、肩を支えられた。

「まだ終わりじゃないわ!行くわよ!」

 元気の塊のような声が聞こえて、背中を押された。

 そうだ、まだだ。私はジョン・C・バトラー級護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ。護るんだ!戦うんだ!前へ!まだ前へ! 

 

 

 

 

 

『六百人の其中で 残るハいとゝわづかなり』

 

 

 

 

 

 夜が明けた。滲んだ血のような朝日が昇ってきて、その中を生き残った艦娘たちが帰途につく。生きて迎える夜明け、興奮も喜びも…うーん、いまいちわかんないな。

「あなた、すごかったわね!」

 さっきピンチを救ってくれた日本隊の駆逐艦娘がまた声をかけてきた。この子たちも無事だったんだ。

「あ、ありがと!」

「ほんとにすごい戦いぶりだったのです」

「ま、まあ、あんなものかな」

「ハラショー、うちの鎮守府でもあそこまで勇敢な艦娘はそうそういないよ」

「えへへ…」

「お腹減ってない?これ食べる?暁が作ったのよ」

 コンビーフ・サンド!行儀が悪いとは思ったけど、思わずひったくるようにして口に押し込んだ。

「もっとゆっくり食べなきゃ、レディーらしくないわ」とくすくす笑う。

「いやぁ、でも食べ物を食べてると『生きてる』って感じがして…えほっ!えほっ!」

「そんなんじゃだめよ、ゆっくり食べて、ほら」とあの元気な艦娘が魔法瓶からコーヒーを分けてくれた。

「あ、ありがとう」コーヒーで1個めのサンドイッチを喉の奥に流し込むと、右手で2個め、左手で3個めをつかんだ。

「まだたくさんあるけど…そんなに一気に食べて大丈夫なのです?」

「あ、大丈夫!でも、ほら!食べれるときに食べておかなくちゃ!死んだら食べれないし!」

 4人の日本の駆逐艦娘たちはちょっとぎょっとした顔をした。

 

 …変なこと言ったかな?

 

 

 

 

 

【1年後 袖ヶ浜鎮守府】

 

 部隊本部指揮班事務室の壁時計は午後1時25分を指している。

 ついに着任した日本の鎮守府、そして提督との初対面だ。さすがにちょっと緊張するなあ…でも、自分で言うのもなんだけど、私は結構努力家だし勉強家だと思う。アメリカ本土から日本への転属を内示されてから、こっちでの規則やら運用規定も含めて勉強しなおしてきた。日本語だってもともとまあまあいける。ま、大丈夫、挨拶だってちゃんと練習したし。すべてNo problem、もちろん!

 

 提督の執務室に入室する、脱帽注目の敬礼、「ジョン・C・バトラー級護衛駆逐艦、サミュエル・B・ロバーツ。配置につきました!サムと呼んでください!よろしくお願いします!」

「おお、ようきた。ねきーきんさい、ねきー」

 ううん? 何語?

 戸惑っていると、提督の隣に立っている青い袴の艦娘が表情一つ変えずに口を開いた。

「He has told you to come near.」

 ああ、そういう意味…なんでこの提督日本語の通訳されてるの!?

 

 こうして始まった袖ヶ浜鎮守府での生活。艦娘はみんな親切。一人でアメリカからやってきた私を気にかけて、みんな何かと声をかけてくれる。任務も哨戒や遠征ばかりで楽ちんだし、まずは順調と言いたいところだけど、正直苦手な人が一人いる。鎮守府の警備を担当する陸警隊の士官だ。兄弟そろって海軍士官だという目玉をギョロギョロさせた怖い顔の大尉で、しょっちゅう兵隊さんを叱り飛ばしている。

 私も初対面から叱られた。本部棟の前庭ですれ違う時に立ち止まって敬礼したら、「おい!そこの艦娘待て!お前の敬礼は違う!お前が今やったのは停止敬礼だ!停止敬礼をするのはどのような相手に対してか?」

「え?ええと…」日本に来る前に読んだ礼式令のマニュアルに書いてあった気がしたけど、そんな急に問い詰められても…。

「停止敬礼をするのは直属の団隊長、および艦旗に対してです」

 背後からの突然の声に振り向くと、メガネの海防艦が立っている。大尉に気づかれないようにすばやくウィンクをしてきた。海防艦なのに落ち着いた感じの子だなぁ。

「よし、直属の指揮系統にない上官に対しては、停止敬礼ではなく行進間の敬礼が正しい。敬礼は軍紀の基本だ、決して間違いがあってはならん。平戸、あとでこの艦娘に礼式をよく教えておいてやれ!」

 

 平戸の話だと、あの大尉は艦娘たちからは「ふぐ」って呼ばれてるらしい。顔が似てるのと、「当たるときは当たる」から。「有名なガミガミ屋だから、気にしないでいいですよ」と平戸は言ってくれたけど、やっぱりなんとなく悔しい。もう一度礼式令のマニュアルをきちんと読んでおかなきゃ…と思ってたら次の日も叱られた。

 正門近くの衛兵所の中に立っていた大尉を見かけて、こんどは歩きながら挙手注目の敬礼をしてこれなら大丈夫と思ったら、「おい!そこの艦娘待て!敬礼が違う!」なになに、今度はなんなの?

「なぜ脱帽せんのか!」

 ううん?なんで?

「今お前がいる場所はどこだ!言ってみろ!」

「衛兵所ですか?」

「違う!衛兵所は隣で、ここは衛兵控所だ!」

 あ、そうなんだ。え~、でもこれ同じ建物がふたつ並んでるようにしか見えないよ…。

「衛兵所は室外だから挙手注目の敬礼!控所は室内だから脱帽注目の敬礼だ!ぼさっとするな!」

 確かに間違えたのは私だけど…そんなぎゃあぎゃあ怒らなくても…。

「だいたいお前には昨日も敬礼について注意を与えたはずだ。「常ニ艦娘精神、内ニ充溢シ外厳粛端正ナラザルベカラズ」だ!たるんでいるからこういう間違いをする!」

 むかむか。

「お前の目はいったいどこを見ているのか。ちゃんと気を張って『前を見て』おらんから、こういう不始末をしでかすことになる!」

 むか!

 よりにもよってこの私に「前を見ていない」って?だけどこんなことで意地を張っても仕方ない。私は大人の対応でいこう!いいけど!

「すみませんでした!以後気をつけます!」

 改めて脱帽注目の敬礼をやり直す。

「よし、もう心得違いをするなよ。行ってよい」

 振り返って大尉に背中を向けたところで、ばれないように思いっきりあっかんべーをした。

 あ、正面にスタンドミラーがある。

 

 

 ものすごい怒られた。

 

 

 

 

 

 私のやらかしを聞いた提督は大笑いして「ま、二三日おとなしゅうしとれ、休暇じゃ」であとは不問。加賀は窓の方を向いてぷるぷる震えてた。

…だけどこれでいいのかな。自室のベッドで天井を見上げながらいろんな思いが心の中をぐるぐるする。私ほんとにここでやっていけるのかな。なんだかみんなつまらないことにこだわりすぎてる気がするし、かと思えば遠征任務も護衛任務もなんだかのんびりしちゃって。

「慌ててもしょうがないし、ひとつひとつがんばっていきましょ、ね?待てば海路の日和あり、って言うし、ね」

「サムちゃんも安心だね。カイロだけに!サムくないから!」

「今のはもうダジャレにもなってない気がするからあたし的にはNGです」

 遠征旗艦の軽巡たちも個性的というか…仕事はできるんだろうけど…大丈夫なのかな、ここの人たち。

 

 ノックが聞こえた。

「どうぞ」

 ドアが開くとポニーテールがぴょんと跳ねて元気な笑顔が現れた。

「ども、青葉です!サミュエルさん、時間ですよ。遅いから呼びに来ちゃいました」

「ふあ?なにかあったっけ」

「やっぱり聞いてなかったんですね、青葉と一緒の使役があったんですよ。さあ、行きましょう、すぐ行きましょう!」

 使役なんか知らされてたっけ?慌てて帽子をかぶって部屋を出る。

「使役って何やるのかな?」

「炊事場で煮物を作るんです。がんばりましょう!」

 なるほど。ううん?

 

 艦娘寮の食堂と隣合った炊事場の隅を借りて、思いもかけず青葉と二人で煮物づくりをすることになった。他の艦娘たちが忙しそうにしてるのに、こんなことしてていいのかな?と思いながら干椎茸と昆布を水で戻す。

 青葉はひっきりなしに喋りながら人参、大根、こんにゃく、蓮根、ゴボウをてきぱきと1㎝角に切っていく。

「それが終わったらそこの缶詰を開けて水を切ってください!あ、ゆで汁は捨てないで別にしておいてください」

「これ何の缶詰なの?」

「小豆の水煮です!英語だとred beanで合ってますかね?」

「ふうん!でも日本の煮物ってこんなふうに四角に具を切るんだ?こないだ食べたのは切り方が違った気がするけど」

「さすがサミュエルさんよく見てますね!普通はこういうふうには切らないです。あ、小豆は酒とみりんとしょうゆを小さじ一杯加えてボウルに入れておいてくださいね」

「はーい!」

 やがて青葉は全ての具材を鍋に入れて煮始めた。いい匂いが漂い始める。ここ数日食欲がいまいちなかったけど、少し興味がわいてきたかな?

「ちょおっと興味湧いてきました?後でちょっとつまんじゃいましょうか」

「いいの?」

「働いた人は食べていいんですよ。『労働人(はたらきびと)の、その食物を得るは相応(ふさわ)しきなり』ですよ」

 なるほど。じゃあ、

「『穀物を(こな)す牛に口籠(くつこ)をかく(べか)らず』だもんね」

 青葉が「ほう」という顔をした。 

 青葉は出来上がった煮物をタッパーに詰めて巾着袋に入れると、トートバッグに収めて私に差し出した。

「さあサミュエルさん、今度は輸送任務です。ちょっと歩きますよ」

 

 鎮守府から海沿いの道に出て、丘の方へ向かう田舎道を青葉と二人で歩いた。午後の傾きかけた陽光が海に反射して、ぎらぎらと、それでも柔らかに私たちを照らした。さっきまで鎮守府の艦娘たちひとりひとりのことをしゃべりにしゃべり続けていた青葉も、今は午後の海を見つめながら静かに歩いていた。金色に輝く海に向けた横顔の輪郭がくっきり浮かび上がり、静かに笑みさえ湛えた横顔ははっとするぐらいきれいだった。

 視線に気づいた青葉はふっと笑って「もうすぐですよ」と言って、海沿いの小さな丘を指さした。

 

 小さな丘だ。5分ほど登るともう頂上に出てしまう。

「ふわぁ…これは…」

 そこには私の腕では抱えきれないほどの大きな木が立っていた。木も立派だったけど、それよりも驚いたのは…。

「すごいでしょう?」

「うん」

 その木も含めて、周囲の数本の木に、ものすごい数のリボンが色とりどりに結び付けられていた。いや、リボンだけじゃない、スカーフ、ネクタイ、ハチマキ…。まるで花が咲いたみたい!

 青葉は持ってきた煮物を一番大きな木の根元に置くと、お腹のあたりに両手を置いて木の向こうの眩しく波打つ海を見下ろして目を閉じ、しばらくの間俯いて黙っていた。

 何をしているのかは分からない。でもこれは青葉にとってとてもとても大切な時間なんだっていうのはわかった。

 しばらくして、青葉は口を開いた。

「この木、みんなは艦娘の木って呼んでるんです」

「艦娘の木…」

「出港するとき、帰港するとき、この丘のこの木は必ず目に入るんです。いつも見送ってくれて、いつも迎えてくれる。だから、この鎮守府の艦娘たちはいろんな思いをこの木に込めるんです」

 私は目の前に垂れていた細い紐ネクタイにそっと手を触れた。先端は千切れ、ああ、血の跡がある。

「ひょっとしてこれって帰ってこなかった艦娘たちの…」

「確かに遺品もあります、でもそうじゃないのもたくさんあるんです。決意、約束、追憶、望郷、『がんばろう』『負けたくない』『生きて帰る』『忘れない』『また会おうね』。うちの艦娘たちは何かを強く思ったとき、その証をここに残すんです。」

「証…」

「青葉たちは艦娘です。心があるんですよ。心があるから何かを強く思えるんです。忘れてはいけないこと、忘れたくないことも、思う心があれば残り続ける、そう思います。だから艦娘はここに、思いの証を残すんです」

「だから青葉も、思って、思い続けて、みんなの証を残したいから、新聞を作るんです。青葉の艦隊新聞に載らない子なんて、絶対にいないんですよ。この鎮守府の誰だって、もう二度と誰からも忘れさせなんてしません」

 

『カチッ』

 

「青葉はさっき何を思ったの?」

「…この場所は、あの戦いのとき青葉が最後にいた場所とそっくりなんです。海が輝いて、波が静かで、空が青くて、山も青くて、青葉はそこで、あの戦いの最後までを、全部を見届けました」

 風が止まった。まるで時計まで止まってしまったような静けさだ。

「ガサと、いや、衣笠と初めて一緒にこの丘に来たときにこの話をしました。ガサは青葉をぎゅって抱きしめて『青葉はずっとここにいたんだね』って一緒に泣いてくれました。だから、ここに来たら青葉は思うんです。青葉が見てきたすべてを、全部を、ここで精一杯思うんです」

 

『カチッ』

 

 あの夜間突撃の時、暗闇の中、私の傍で沈んでいった伝令の駆逐艦娘のことを思った。ああ、私はあの子の名前も顔も知らない。彼女は私に声だけを残して、あの夜に、夜明けを待たずに消えた。

 私は胸元のスカーフをほどいて枝に結び付けた。そしてもう一度彼女のことを思った。

 

 ごめんね。今まで思ってあげられなくて。

 

 後ろから青葉の声がした。

「サミュエルさん。いいんですよ、前ばかり見なくたって。いいじゃないですか、後ろを見たって。そんなに悪いことじゃないですよ」

 

 そのときちょうど丘のふもとに小銃を持った1個小隊ほどの陸警隊が行進してきた。先頭に立っているのはあのガミガミ大尉だ。私たちが丘の頂上にいるのに気がついている様子はない。

「小隊止まれ」「整頓」「左向け左」

 大尉は丘に向かって向き直ると抜刀し、顔の前に柄を持ってきて軍刀を立てると

(ささ)ぁーげーえ(つつ)!」

 号令をかけて軍刀を右前方に払って止めた。

 整列した兵隊さんたちも銃を体の前で支えて捧げ銃の敬礼をした。

 青葉は「巡回のとき、いつもああしてくれるんですよ」と言いながら両手の親指と人差し指で四角を作り、そのフレームに彼らを収めた。

 長い敬礼だった。全員がぴくりともせずに丘の上の艦娘の木に注目していた。

「直れ」「右向け右」「前へ進め」

 

 青葉がうしろからそっと肩に手を乗せてきた。手に煮物のタッパーを持っている。

「これ『煮ごめ』っていって、広島のお料理なんですよ。ほんとはちょっと時期が違うんですけど、お参りの時に食べる精進料理なんです。これを食べて、お寺にお参りするんですよ」

 と言って指でつまんでいくつか口に運んでくれた。

「どうですか?」

「おいしいけど…」

「おいしいけど?」

「お肉が無いから物足りないかな」

 青葉は心から嬉しそうに笑った。

「青葉はサミュエルさんのそういうところ大好きですよ」

 

 

 

 

 

「あれでよかったと思うわ」

「ほう、加賀にしちゃ珍しゅう素直に認めてくれたもんじゃ。まあ、もともとは6駆のおかげじゃがの」

「最初はおかしかったわね。『アメリカに変な子がいる』って」

「そこで『何とかしてあげて』と言うんが6駆らしいのう。サムも、前向きでまっすぐないい子じゃが、これで少しは後ろの仲間を振り返る余裕ができりゃあの。あのままじゃ何んもかも生き急いでて、見ちゃおれん」

「目の前の食べ物を全部食べ尽くそうとする癖も、これで直ればいいと思うわ」

 加賀は提督に向き直り、優し気に微笑んだ。提督もつられて口許がゆるんだが、ふとマタイ伝の一節「凡て労する者・重荷を負ふ者、われに来れ、われ汝らを休ません」が頭に浮かび、慌ててそれを打ち消した。

 

(艦娘を救うじゃと?ワシとしたことが思い上がったもんじゃ。ワシも少々艦娘に捉われすぎとるということか)




 今回、(あくまで幣鎮の、ですが)サミュエルの性格が初めて分かった気がします。
 常に前向きな彼女は同時に刹那的であり、目の前のことに直感的に反応するあまり物事の前後関係への理解が薄く、ときに悪気の無いかわいらしい無遠慮ぶりを周囲にまき散らします。
 それでいてテニスンの詩を諳んじ、とっさに聖書の一節を引用する教養の持ち主でもあります。おそらくは、時と場合によっては平気で「理性で欲望の尻を叩く悪逆の哲学者」(佐藤亜紀「戦争の法」より)たりうる人物なのでしょう。
 なるほど、袖ヶ浜鎮守府の司令官が興味を持つはずです。そしてもしいつか「しーちゃん」こと神々廻少尉と出会うことになれば、それはおそらく最悪の種類の愉快な化学反応を引き起こすことになるでしょう。くわばらくわばら。

※作中の「敬礼」の形式は陸軍礼式令を参考に、ストーリーに都合がいいように作ったオリジナルの「袖ヶ浜礼式令」みたいなもので、実際の海軍や海上自衛隊の礼式や号令には一致していません。悪しからずご容赦ください。

※作中で引用されている詩は明治15年発行の「新体詩抄」所収の「テニソン氏軽騎兵隊進撃ノ詩」からの引用です。著作権保護期間は満了しています。
出典:国立国会図書館ウェブサイト(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/876377
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