袖ヶ浜鎮守府の作法   作:佐伯美鈴

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 元々「お使い」には気の乗らない阿武隈だったが、提督の依頼で再び「お使い」に出ることになった。その「お使い」は阿武隈にとって不可解な「The Long Walk」となっていく。
 始まりは1杯の水であり、次の始まりもまた1杯の水だった。では終わりには。


⑤阿武隈「阿武隈のためのロングアンドワインディングロード(前編)」

【2022年夏 広島県広島市西区 カレー店 その①】

 

 古い喫茶店を居抜きで開業した小さなカレー店。壁にかけられたアンティークの振り子時計は午後2時半を指している。

 昼営業のラストオーダーを終えた店内に私以外の客の姿は無く、こじんまりとした品のいい客席には、通りに面した窓から差し込む午後の陽光が、気だるげな気配を存分に注ぎ込んでいた。

「アイスコーヒーと、あとお冷もひとつ」

 白いシャツに黒のネクタイをしめ、鬱金(うこん)色の胸付きエプロンを着こなした店主は、私の追加注文に露骨に迷惑そうな表情で反応した。常連客や近所の人に「カレーのれーかちゃん」と親しまれる、商店街の明るい人気者の面影はそこにはない。

「あのね、昼の営業もう終わりなんですよー。しーちゃんさん分かってます?」

 私はとびきり愛想のいい微笑みでそれに応え、彼女は肩をすくめてため息をついた。黄色いスカーフがまとめたポニーテールが小刻みに揺れる。

 彼女は「まったく…居ついたら動かないんだから…」と独り言ちながら厨房に入っていくと、二人分のアイスコーヒーを両手に持って現れ、私の向かい側にわざとらしくため息をつきながら腰かけた。

 ひとつを私に向けて押し出し、ひとつを自分の方に引き寄せてから、ガムシロップとクリームを入れてストローでかき回す。コップの中で回転する氷がガラスに触れて小気味よい音を立てた。

「また戦争の本書いてるんです?」

 テーブルの上に私が広げていた資料とノートパソコンを、口に咥えたストローの先で指しながら、気の無い様子で言う。普段お客の前では礼儀正しく愛想もよい彼女が、私の前でだけ見せるくだけた態度だ。

「フィリピンの、捷号作戦のときのことを書いてるの。できるだけ正確に、私が見たものを、ね」

「捷号作戦って、あの、レイテ?で勝ったときの作戦ですよね。テレビでも秋になると時々番組やってる…」

「そう。勝った…勝ったのよね。でもね、いろんなものを見たの。ほんとうにいろんなものを。だから、なんだか書いておかなければいけないような気がして…」

 お店の窓から夏空を見上げた。青いけれど少し霞がかったこの国の空。フィリピンの空はもっと抜けるように青かった。荒潮ちゃんと浦波ちゃんと白雪ちゃんのことを思い出した。フィリピンの戦いで、私が死なせて私が海辺の丘に埋めた子たちだ。彼女たちをこのお店に連れてきたら、きっと大喜びしたに違いない。彼女たちとここでカレーを囲む団欒を夢想した。虫のいい自分勝手な妄想だ。でも出来るなら時津風ちゃんだけでも連れてきて……「カレーの本書いてくださいよ、戦争の本じゃなくて」

 気が付くと私の方へ身を乗り出した彼女の顔が目の前にあった。近い。

「しーちゃんさん、今、心がフィリピンに飛んでましたよね。わかるんですよ、見てると。時々そうなるの」

「やっぱりわかっちゃう?」

「わかります。でもそれはいいんです。戦争に行って、いろんなものを見てきて、ひどいものもたくさん見てきたんでしょう。それがどんなにひどいことだったのか、なんでその後海軍を辞めてライターになろうと思ったのか、本当のところを聞いたって、戦場を知らない私には完璧には理解してあげられないっていうのも分かります。だからこそそれを書いておきたいっていうしーちゃんさんの気持ちも分かります」

「海軍は辞めたっていうか後備役編入で現職にないだけだから、まだ身分は海軍中尉ではあるんだけど…」

「細かいことはいいんですよ!」

 私は気圧されて、アイスコーヒーを一口だけストローで吸って頷いた。れーかちゃんはアイスコーヒーの氷をガリガリと噛み砕き、もう一押し私に顔を近づけて、

「でもね、ここは私が作ったカレー屋さんなんです。いいですか、人間っていうのは、おいしいものを囲んでおいしいねって気持ちを分かち合えば、絶対に幸せな気持ちになれるし仲良くなれるんです。絶対に、です」

 近い近い。顔が近い。私はストローを咥えたまま、背中をちょっと反らせた。

「だから、私のお店の中でお客さんに今みたいな顔をされるのは我慢ならないんですよ。私のカレーが負けたみたいじゃないですか。いいですか、ワガママ言いますよ。ここでは私のカレーのことだけ考えて、私のカレーだけを見て、幸せな顔をしていてほしいんですよ」

 私は黙って頷いた。圧がすごい。どうしたのこれ。怒ってる?

 れーかちゃんはそこまで言うと顔を離し、空になった自分のコップを手に席を立った。もう笑顔に戻っている。

「でも、ま、大事な常連さんですからだいたいは大目に見ます。夜の営業開始まではどうぞごゆっくり」

「ごめんね、いつも長居しちゃって…」

「来月の新作メニューは(はも)のカレーです。どうぞよろしくー、ご贔屓に!」れーかちゃんはウィンクをして厨房に引っ込んだ。

 なんだったんだろう?うん、まあちょっと驚いたけど、せっかくの静かな時間だし、集中しなくては。

 

 私はノートパソコンに向き直った。

 今書いているのは、5年前のレイテ決戦/捷号作戦の転換点のひとつであるルソン島西部戦域の放棄についての章だ。西部ルソンの放棄によって、あの悲惨な退却戦の当事者となった私としては、どうしても書いておかなければならない部分だ。

 当初海軍上層部はルソン島東方沖を決戦海域として想定していたが、前段作戦では予想に反してルソン島西岸が戦闘正面となり、深海棲艦の強力な攻撃にさらされた。警備・補給を目的とした程度の戦力しかなかったルソン島西岸の各根拠地は次々に壊滅的な打撃を受けることになる。私の所属していた根拠地隊もそこで壊滅した。

 ただ、艦娘艦隊の主力そのものはマニラにあってなお健在であり、マニラ湾から各地に全力出撃して激戦中だった。

 ここで1隻の軽巡艦娘が貧乏クジを引くことになる。これが誰であったのか、はっきる分かる資料や証言は無い。ただ、艦娘の主力部隊を擁するマニラ方面艦隊司令部から、作戦全体を統括する大本営に、現地第一線の実情を伝える連絡要員として彼女が「お使い」に出されたのは確かだ。

 彼女が持たされたマニラ方面艦隊司令部からの報告書は、おおよそ次のような内容だったらしい。

 

・現在マニラ方面艦隊の艦娘は連日全力出撃中であり、損害も逐次増加している。文字通りの総力戦である。やれと言われれば徹底的にやるが、戦力・物資とも1か月以上を支える確証は無い。最低でも巡洋艦1個戦隊と水雷1個戦隊の増強が必要だが、それでも2か月後まで持久の見込みは無い。このままなら年明けにはマニラは陥ちる。全滅するまでやれというなら、それならそれではっきり言ってほしい。

・西部ルソンが敵の集中攻撃を受けている現状から、艦娘艦隊のハブ基地として西部のバギオ-サンフェルナンドはあてにならない。マニラの南のバタンガスか東部のレガスピをハブ基地として至急設定するべき。大本営ではいまだに北部ルソンからの反撃を考えているようだが、もっと現実的に考えられないのか。

・また、西部ルソンが深海棲艦に脅威されている以上、フィリピン西方海域の航路確保につき高雄警備府やブルネイ泊地に協力させるよう大本営から要請してほしい。海上護衛のためにマニラ方面艦隊の戦力を割かれるのは苦痛である。

・加えて、現在ルソン島東方海域の哨戒や偵察が不十分になっている。基地航空隊に余裕があるならば協力を要請してほしい。

 

 激戦の渦中にある第一線部隊の感情の激しさと生々しさが伝わってくる。第一の項目についてはもはや現地部隊が開き直っている状況であり、第二項以下に関しても「こんなことまでいちいち言わないと気が付かないのか」という大本営への苛立ちが文面から見て取れる。実際にどんなやり取りがあったのかははっきりしないが、連絡会議の雰囲気が和やかだったはずはない。列席者の断片的な証言によれば、連絡要員として派遣された軽巡艦娘は大本営の幕僚たちに「増援が欲しいだけ」「弱気」「マニラ方面艦隊は卑怯」とさんざんに突き上げられ、途中でパニックに陥ったようだ。

 単に「お使い」だと思って内容も知らされずに報告書を持ってきた軽巡艦娘を容赦なく突き上げた大本営の幕僚たちも大概だが、大本営に実情を詳細に説明する労力を厭い、現場の憤懣を連絡要員の軽巡艦娘にそのまま押し付けて寄越したマニラ方面艦隊の幕僚たちも無責任と言える。

「現場がだらしない」と憤る大本営と、「上は何もわかっちゃいない」と憤るマニラ方面艦隊の板挟みにされた軽巡艦娘だが、結局マニラ方面艦隊の要望はほぼ承認された。大本営の幕僚たちは泣き出した艦娘を見て我に返ったのではなく、現地部隊が無理と言っている以上何か手は打つべきだと、その部分だけは割合現実的に判断したらしい。

 しかしここで大問題が発生した。マニラ方面艦隊の要望のうち、「基地航空隊に余裕があるならば協力を要請」の部分が、議事録にまとめられた段階で「基地航空隊には余裕があるのだから協力を要請」に変わっていた。

 激高したのは基地航空隊の将兵である。彼らは「在フィリピン陸攻隊の寿命は3日」と言われた激戦の中で、出撃すれば大半が帰ってこない攻撃隊と搭乗員妖精たちを連日送り出し、その大きな犠牲に胸をえぐられる思いで任務にあたっていた。議事録の内容が漏れ伝わるや、将兵の間に「マニラ方面艦隊の艦娘が『基地航空隊は余裕があるから作戦に協力させろ』と大本営にねじ込んだ」という噂が野火のように広がり、彼らは文字通り怒りを爆発させた。基地航空隊と妖精たちの奮戦と犠牲に対する耐えがたい侮辱と受け取ったのである。

 翌日には基地航空隊司令部の参謀長がマニラ方面艦隊司令部に乗り込み事実関係を確かめようとしたが、最終的には双方の参謀長が机の上に飛び乗っての怒鳴り合いになった(取っ組み合いになったという証言もある)という。

 折悪しく大本営との連絡会議を終えた例の軽巡艦娘がマニラ方面艦隊に帰着する。この後マニラ方面艦隊司令部、基地航空隊司令部、大本営の間でどのような応酬が繰り広げられたのか、そして軽巡艦娘が連日各司令部に呼び出されどれほどしつこい「事実確認」をされたのか、それは残酷な吊るし上げという以外に表現する言葉が見つからず、詳細を記す意味を感じない。一言で言えば各司令部の主張は「うちは悪くない」である。では誰が悪いのか。実の無い犯人捜しの結末は、おそらくは連絡会議で緊張した軽巡艦娘の単なる言い間違えであろう、という形に落ち着いた。軽巡艦娘本人も自分の言い間違えだと思うと認め、これでひとまず一件落着となった。

 ただし、各種の資料や証言を総合すると、「余裕があれば」が「余裕があるので」に変化したのは、大本営での連絡会議の終了から議事録がまとめられるまでの間であることは確実である。この、嫌がらせ以上の意味を持たない改竄行為の犯人探しを真剣にするのであれば、それは連絡会議に出席していた大本営の幕僚の中からでなければならない(そもそも正式な命令書が起案される前に議事録だけが外部に漏れ伝わるのも不自然であり、幕僚の関与を傍証する)。軽巡艦娘の犯人扱いは徹頭徹尾不条理であり、彼女に責任は無い。この状況の中で軽巡艦娘を公然と擁護した幹部・幕僚は一人しかいなかった。この人物は現在千葉県内の鎮守府で司令官を務めており、今回取材を申し込んだが断られた。

 そして各司令部がこの騒動に係っている間になぜか西部ルソンの放棄が決定されてしまった。マニラ方面艦隊の要望を読めばわかるが、あくまで「ハブ基地として西部ルソンを当てにするな」と言っただけで、「放棄するべき」とは一言も言っていない。確かに戦線を縮小して戦力を集中させるのは戦術の原則としてあり得るが、西部ルソンは持久確保するという選択もあり得たはずだ。しかし、この意思決定が何かしらの軍事的判断に基づいて推進された形跡はまるで見えない。マニラ方面艦隊からの「要望」に関する細々とした確認や調整をしたくない、これ以上の「面倒事」を避けたい、つまりは互いの組織の意思を確認してすり合わせようという積極性を各司令部がすでに失っていたように見える。ようするに決断したのが誰なのか曖昧なまま何となく決まったのである。

 この、いわば「責任なき戦場」で、私は世界一の豪雨の中の退却戦と、ルソンの敗兵の怨嗟の象徴となった「サンフェルナンド練成隊」の最後を見届けることになる………………うん?

 

 頬の表面を甘い息遣いのような微風が撫で、何か暖かく柔らかいものが触れた気がして目が覚めた。いけない、ノートパソコンに突っ伏して寝てしまっていたみたい。飛び起きてあたりを見回すとれーかちゃんがテーブルのそばで何やら慌てて後れ毛を直している。びっくりさせちゃったかな?

「あ、ごめんなさい、うとうとしちゃってたみたい」

「あー!いやいや、いいんです、いいんです。そろそろ夜営業なんでさすがに起こした方がいいかなと思いまして…夜も食べていきます?」

「さすがに悪いので、また今度ちゃんと来たときにします」

「あー…そうですよね…」

 お店を出る時にれーかちゃんはちょっと寂しげな表情をしたように見えたけれど、ちょうど来店した家族連れのお客さんたちを見て、すぐにカレー屋さんの顔に戻っていった。

 お店の奥からカレーの匂いがする。平和の匂いだ。

 顔を上げると夕陽の反対側の空に白い月が見えた。ああ、ここもフィリピンも、月の姿は変わらないのね。

 私は手をかざし、月に向かって軽く振った。ごきげんよう、明日もまた暑くなるかな?

(続く)

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