袖ヶ浜鎮守府の作法   作:佐伯美鈴

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 元々「お使い」には気の乗らない阿武隈だったが、提督の依頼で再び「お使い」に出ることになった。その「お使い」のゴールは阿武隈にとって不本意な「The Loneliness of the Long Distance Runner」となっていく。
 そして高まった不協和音は徐々に物語を支配していく。


⑤阿武隈「阿武隈のためのロングアンドワインディングロード(後編)」

【2022年夏 房総半島南端 野島崎灯台沖】

 

「次、『し』は…」

「『しのぶれど 色にいでにけり 我が恋は ものや思ふと 人の問ふまで』なのです」

 あたしたちの護衛する輸送船団は、野島崎灯台を右手に見ながら東京湾口を目指して緩やかな右回頭に入る。周囲数カイリに日光を遮るものはひとつもない。

「早いな、ええと…」

「もうひとつ、『白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける』よ!」 

 海面がぎらぎらと煮え立ち、並行する貨物船の船腹に反射した光が目を刺す。

「ちょっと待ってくれ、次は言わせてくれ」

「さあ、『す』よ?」

「『住江の 岸に寄るさえ よる波や 夢の通ひ路 人目よくらむ』 いいだろう?」

「あー」

「ちょっとおしいのです」

「次は『せ』だな」

「だめよ」

「響ちゃん、ちゃんとやるのです」

『せ』は…なんだったかな。いわれてみるとぱっと出てこない。あれこれ考えているうちに、酷暑に揺らぐ前方の海面に数隻の海防艦娘の姿がかすかに見えた。三浦半島の先端と館山の間を往復して対潜警戒をしてくれる、小さな頼もしい仲間。あの子たちのおかげで、東京湾に入れば少しはホッとできる。腕時計を見ると、あれ…文字盤が割れちゃってる…。

「電ちゃん、いま何時か教えてもらえる?時計が壊れちゃったみたい」

「ヒトヒトフタヨンなのです」

 静かな、それでいて確かな返答が、打てば響くように背後から返ってきた。三浦-館山の警戒線ももう越えるし、船団は解列してよさそうかな? もう一度ぐるりと周囲を見回す。頭の動きに合わせるように、首の後ろをじりじりと日差しが焼くのがわかる。いやそれにしてもこの暑さはちょっと異常というか…

「阿武隈さん、ちょっといいのです?」

「なに?」

「暁ちゃんの様子がおかしいのです」

 首をねじって4時の方向を見ると、確かに様子がおかしい。顔色が青ざめているし、姿勢が前かがみになってる。あれは熱中症ね…。

「いつからです?」

「ほんのさっきまでは普通だったのです。でも急に口数が少なくなって、見てみたらあの様子だったのです」

 響ちゃんがひそひそと「誰か水を持っていないかい?」と言ったけど、この暑さに加えて鎮守府まであと少しという状況で水を残している子はいないよね…。いや…旗艦の私がこういうときのために残しておくべきだったのかも…。

「いちおうあるにはあるんだけど…」雷ちゃんがばつが悪そうに私の顔を横目で見ながら言った。

 …ん…?…ああ…あの水のことか…!

 艦娘の艤装につけられた雑具箱の中には曳航用のワイヤーとかと一緒に、長期保存の純水ペットボトルが1本入っている。ただし、これは缶水が不足したときに艤装に注入して機関の運転を確保するためのもので、艦娘がこれを飲んでいいのは遭難時のサバイバルとかそういう状況に追い詰められたときだけだ。優先すべきは機関を動かし、任務を全うすること。非常用の水を飲むなんて、普通は選択肢にもならない。

 そこまで考えたところであたしを見つめる目に気が付いた。雷ちゃんの、電ちゃんの、響ちゃんの、それぞれの目だ。さすがにはっきりと口に出して規則違反を許してくれとは言わないけれど、内々に求めているものを感じる。

 雷ちゃんの目を覗き込む。(もう東京湾に入ったし、機関に多少異常があっても袖ヶ浜まではもつんじゃないかしら。いざとなれば私たちが曳航するわ)

 電ちゃんの目を覗き込む。(それに私たち6駆の水ボトルだけでも4本あるのです)

 響ちゃんの目を覗き込む。(規則違反なのは分かるけど、熱中症も甘く見るわけにはいかないんじゃないかな…)

 いつからだろう、他人の目を無意識に覗き込む癖がついたのは。覗き込んだところで他人の心が見通せるわけじゃないけど、どうしても覗き込んで相手の本心を探してしまう。じっと顔を覗き込んでくる私のことを気味悪がる人もいれば、腹を立てる人もいる。でも、この人はあたしをどうしたいのか、どう思っているのか、その心の表面にざらりとでも触れてみなければ気が済まない。

 鬼怒姉はいい、裏も表もありゃしない。由良姉もいい、気にかけてくれているお姉ちゃんだ。最近パースさんのこともわかってきた。いつもつまらなそうな顔をしているので誤解されがちだけど、実は気のいい人なのよね。

 あのときの大本営の会議室、あたしにとっての「101号室」に並んでいた「目」の不条理さ、不可解さ、不気味さに比べれば、袖ヶ浜の人たちの目は素直すぎて逆に不安になる。あたしは途中からあの「目」に耐えられなくて、目の前の空になったコップを俯いたまま見つめていた。ああ、でも、本当に分からないのは自分自身かもしれない。あのとき「言い間違い」だと認めたのはあたし自身だ。今さら言えることなんかないよね、「自由は屈従なり」。

 ねえ、そうでしょ、阿武隈さん。

 

「阿武隈さん?」

 電ちゃんの声で我に返った。混じりけの無い済んだ瞳がみつめてくる。まるで南方の海と空みたい。透き通って向こうまで見えそうだ(向こう?向こうとは?)。なぜだろう、心がざらつく。ああ、もういい!水の一本くらい、後で明石さんに言えばなんとでもなるんだから!

 あたしは少し乱暴に自分の雑具箱から水ボトルを取り出した。

 

 

 

 

 

底知れぬ、自らの中に鉛を下ろして深さを測れ。

 

 

 

 

 

「駅に行けばいいんだよね?」

 袖ヶ浜鎮守府から駅に向かう抜け道を軽快に飛ばす公用車のミニバンの運転席から、座席に半分埋まったサミュちゃんの声がする。ちゃんと前見えてるのかな?

 後部座席からヘッドレスト越しに答える。「はい、海側の改札につけてくれれば」

 サミュちゃんの運転ははきはきとして元気がいい。ハンドルはきゅっと切る。アクセルとブレーキの踏み込みはぐいっと入れる。交差点に頭を入れるときもおそるおそるではなくにゅっと入れる。こういうところにも性格が出るのかな…。

「それにしても変な任務だね?由良サンたちのお迎えなんて」

「ですよね。わざわざ迎えに行かなくっても東京から袖ヶ浜なんて電車で1時間半くらいなのに」

 由良姉と鬼怒姉は先月から霞が関の大本営に出張している。教育・演習担当の第2課が、海外艦を日本に受け入れる際のマニュアルを作成していて、その監修で呼ばれたのだ。2課ではかなりありがたがられているらしい。アリガタガラレル?大本営なんかに?心がざらつく。

 提督は「まあその出張も今日が最終日じゃ。迎えの『お使い』ついでに由良たちと東京見物も悪うはないじゃろ。息抜きもかねてゆっくりいってこい」と言い、横にいた加賀さんはいつもどおりの無表情のまま「東京ばな奈」とだけ言った。お土産が欲しいのね。

 加賀さんには悪いけど、ため息が出る。大本営に『お使い』ね。まあいいですけど。あの時と違って大本営で待ってるのは由良姉たちだし、半分休暇みたいなもんだし、それに連絡会議とかがあるわけじゃな……

「着いたよ」

 車ががくんと止まってサミュちゃんの声がした。

「帰りはまた連絡があるんだっけ?」

「駅に着く時間が分かったら鎮守府に連絡します。電車が遅れたら向こうで一泊するかもしれないし。まあ何もないとは思いますけど」

「でも、気を付けて。何があるかは誰にもわからないし」 

 サミュちゃんは運転席からいっぱいに体を伸ばして水のペットボトルを差し出しながら言った。笑顔だけど瞳の奥は真剣だ。不思議な目をする子だ。

「あ、ありがとう」

「暑いからね、熱中症対策だよ」

「なんか気を使ってくれてます?」

「いいのいいの。『私は柔和で心のへりくだったものである』から」

 サミュちゃんはよくわからないことを言うとウィンクしてから車を出し、タイヤを鳴らしながらロータリーを出て行った。…単に運転が荒いだけのような気もしてきたんですけど。

 

 改札で軍公用切符を出すと、艦娘を見慣れていないらしい若い駅員さんは目を白黒させてあたしを上から下までじろじろと見た。まあただの制服姿の中高生にしか見えないものね。改札を通りすぎた後ろから抑えたひそひそ声が聞こえてくる。「はじめて見ました」「普通の女の子に見えるだろう?」「はい」「それにしたって『艦娘さんもご苦労さんです』くらい言ってあげんか。気のきかん奴だな」「すみません」

 軍人特権でグリーン車にも乗れたけど、なんだか気が引けて普通車のボックスシートに座る。冷房の効いた車内と、午後の容赦ない太陽に照らされた車外とを隔てる窓ガラスに触れると、ねっとりと重い違和感のような熱さを手のひらに感じた。海岸の松林と、どろりとした黒っぽい緑色の東京湾が車窓を後ろに流れ去っていく。窓枠にサミュちゃんにもらったペットボトルを置いて窓の外をぼんやりと眺めているうちに、乗客たちのとりとめない会話がするすると聞くともなく耳に流れ込んでくる。

「昨日は千島の方に深海棲艦が出たって」「久しぶりだな」「まあ、こっちからは遠いから」「海軍さんにはしっかりしてもらわにゃ」「また町内会で貯蓄の割り当てが来て」「きりがないなあ」「ここは海軍のおひざ元だから景気はまだマシだけど」「県北じゃあ人手不足で休耕田ばっかりだって」「姪っ子がね、こないだ『生のバナナを初めて見た』って言ってね」「親として情けっなくって涙が出るわ」「バナナは最近ほんと見てないなあ」「糧食にしても、果実なんかにしてもだが、艦娘隊には加給食として優先的に割り当てている」「大本営が現場を重視しとらんというようなマニラ方面艦隊の物言いは度が過ぎるのではないか」「だいたいろくな対案も無しに不満だけを報告書でぶつけてきて連絡会議も何も無いだろう」「戦果が挙がっておらん責任は誰にあるのか」やめて。「最深部への攻撃をもっと徹底的にやれないのか」「敵最深部を目前にして撤退を繰り返し、艦隊の針路までも誤る艦娘隊をどう信頼せよというのか」「作戦指導に積極性が無い。ノーリスクの作戦など無い」「マニラ艦隊は卑怯」やめて、ざらざらする。「自分らの攻撃精神の不徹底を棚に上げて」「支援する一般将兵の労苦を何ととらえるか」やめて、やめて。「女子供を盾に艦娘隊が我儘を通したのも今回だけじゃなかったはずだ」待って、まず水を飲ませて、ちょっと待って。コップが空なの。「結局お前が黒いカラスを白いと言えば全部丸くおさまるんだよ」「変な意地はってないでさっさと頭下げれば済む話でしょ」「ふだんぼんやりしてるくせにこんなときだけ頑張りやがって」水を、水を。「お客さん起きて!」

 駅員さんが耳元で叫ぶ声で飛び起きた。居眠りしていたのだ。体中嫌な汗でぐっしょりしている、喉が焼ける、ええと、ペットボトルはどこに…と思ったら腕を引っ張られて列車の床に転びそうになった。「逃げてください!お客さんが最後です、退避!退避!」やっとそこで鳴り響く空襲警報のサイレンに気が付いた。駅のスピーカーから「敵第1梯団、深海艦載機約30機は勝浦方面から侵入中!」のアナウンスが聞こえる。

 ホームを2段跳びで駆け上がり、人気のない構内を駆け抜け、改札をハードルのように飛び越えて、走る走る、駅前に出ると人っ子一人いない。みんな避難したのだ。「そこの女の子、こっちこっち!」まだ子供みたいに見える若いお巡りさんが地下駐車場の入り口から手招きしている。

「早く地下へ!早く!早く!」急かすお巡りさんを手で押さえて軍隊手帳を示した。息が乱れてすぐには声が出ない。

「あ、海軍さんでしたか。ひとまず地下へ入ってください、敵機がもう来るかもしれません」

「敵機は」ぜえぜえ「今」えほっげふっ「どこです?」

「勝浦から鴨川、館山の方に向かってるそうです。とりあえずまだこっちには来てないみたいですが…横須賀がやられるんですかね」

「わかんないけど…」ふう…はあ…「警報解除までは」へえ…ふう…「待避している人たちを」んんっ「外に出さないでくださいね」

「それはまあ大丈夫ですよ。敵はこっちにも来ますかね?」

「わかんないです」ぶへっ「すみません」

 あたしの受け答えにお巡りさんはちょっと失望した感じだった。頼りにならないと思ったのだろう。でもしょうがないでしょ、わかんないものはわかんないんだから。でも、館山に向かってるなら袖ヶ浜は目標ではなさそうね、そこはまあ安心してよさそう。するとあたしは今からどうするべきか…警報解除まで交通機関は運休だし、スマホで袖ヶ浜に連絡しようにも…画面を見ると…あ、やっぱり一般回線は規制がかかってる。

 お巡りさんはちょっと苛立った様子で「もう耐爆扉を閉めますよ?」と言った。

「ここからいちばん近い海軍の部隊か施設はどこですか?そっちに行って原隊と連絡します」館山からここまでなら、たとえ敵機がまっすぐこっちに来たとしても巡航速度300キロで20分はかかる、まだ大丈夫。

「え、えー。確か、この通りを3キロくらい行くと海軍の被服支廠がありますが…遠いですよ、危ないですよ、やめましょうよ」

 心配してくれてるんだ。急に慌てだした相手の様子を見て、敬礼しながら自然に口元が緩んだ。

「とにかく海軍の部隊と合流して連絡を取りたいんです。ありがとう、あなたも気を付けて」

 お巡りさんはまだなにか口の中でもごもごと言ったけど、答礼しながら「そちらこそ。ご無事で」と言ってくれた。

 さて、また走らなきゃ。

 

 走る、また走る。避難命令で人影の絶えた無人の街を走り続けた。なるべく20分以内に着かなきゃいけない。この炎天下を走る。ただ走るんだ。ごちゃごちゃ考えちゃいけない。走るのは好きだ。あたしの頭の中には、古い蜘蛛の巣のようにこびりついて離れない、冷たく重いものが居座っている。思いっきり走ると、それは頭の中からずっと後ろに置き去りにされて、その瞬間だけ頭の中が晴れた気持ちになる。でも、それはいつのまにか頭の中に戻ってきて、まとわりつくような「目」でじっと見つめてくる。ちょうど、捨て忘れていつまでも置きっぱなしの切れた乾電池のように冷たく重い。走れば、あのうっとうしい嫌な「目」を振り払える。考えるとまた余計な考えが頭に入ってくる、生えてくる、「あのとき」のことを思い出す。ダメだ、考えるな、コリン・スミスもレイ・ギャラティも、あたしの頭の中から出て行け!

 

 そのうちに、真夏の炎暑に燃える路面の向こうに人だかりが見えた。「給水所」と書かれた標識のそばに給水車が停まっていて、水筒を持った陸軍の兵隊たちが50人ほど、あまりそろっていない列を作って並んでいる。あー、水だ!こんどは頭の中が「水」でいっぱいになって(サミュちゃんがくれた水はどこにやったんだっけ?)、息を切らしながら列の最後尾に近づいていった。

「おまえは、なんだ!」

 突然怒鳴り声が響いた。見ると、憲兵の腕章をつけた陸軍の少佐が軍刀の吊環をがちゃがちゃいわせながら大股で近づいてくる。あたしの目の前まで来ると鼻先に指を突き付けてまた割れるような大声をあげた。「なんだ、おまえは!」

 まただ、なんでみんな怒鳴るの。いやだ。胃の下の方からむかむかとした黒くて悲しい違和感が上がってくるのを抑えつつ、息切れの下からとぎれとぎれに事情を説明した。なんなのこの人、相槌までいちいち声が大きい。

「あ?なんだ。海軍か、艦娘?そうか。なにっ電車が停まった?原隊追求中、そうか。なんだ、水も飲んでいないのか、かわいそうに」

 そこでいきなりあたしの手を乱暴につかむと並んでいる兵隊たちを抜かして列の先頭までぐいぐい引っ張っていき、「おい、この者に先にやれ」と言った。アルミのカップに入った水はちょっと消毒液くさかったけど、一気に飲み干した。頭の中が急にすっきりしてくる。熱中症寸前だったのかな。

「もう一杯飲め」

「ありがとうございます。でもまだ並んでる人もいるから、大丈夫です」

「そうか」

 そう言って勝手に水を注いでくる。話を聞いてない。変な人だ。でも意外と親切なのかな?あまり期待したわけじゃないけど、この隊の通信機で袖ヶ浜鎮守府と連絡を取れないかと聞いてみた。少佐はなぜかあたしの前髪をじっと睨みながら何かを考えている。すると突然「おい、先任!先任―!ちょっと来い!」と先任曹長を呼びつけ、「おれは、わからん。あと、やれ」と言い捨てるとどすどす足音を響かせながらどこかへ行ってしまった。呼ばれてやってきた曹長は苦笑いしながら、「ああいう人なんで、すみません」と目で言っている。

「海軍への連絡なんですが、お役に立ちたいとは思うんですけど」

 あ、よかった。この人は会話が通じるし、親切そうだ。

「我々は空襲警報の発令中に無人になった市街地を見回るだけの補助部隊なんで、持ってるのは末梢通信系の3号無線機だけなんです。ですんで、陸軍の地区警備司令部としか交信できないんですよ。するってえと、あなたが海軍さんに連絡しようとしても、いったん地区警備司令部が伝言を預かって、そこから改めて海軍さんに照会して、で、また警備司令部経由で返信を待つ、って形になるんで、正直あてにならんと思います」

 でも言ってることは親切じゃない。

「ただ、今から港の方に巡察のトラックが出ますんで、ほんとはそんな権限はないんですが、荷台でいいなら便乗されますか?ここから被服支廠までよりは倍以上遠いですが、港の方が艦娘さんとしては都合がいいんじゃないですかね」

 やっぱり親切だった。

 

 水筒に水を詰め終わった1個分隊10人ほどの兵隊たちといっしょに荷台に乗り込む。運転席から顔を出した兵隊が首をこっちにひねって「艦娘さん、将校に見つかるとメンドウシイことになりますけん、ちっと荷台の奥のほうに座ってくれんですか」と言ったので体を奥につめ、荷台の側面に沿って渡された粗末な板に腰かける。が、荷台の上の兵隊たちが、顔つきも体格も年齢もみんな近所のおじさん風であまり兵隊らしくない。まだわりと若そうな分隊長に聞くと、全員がこの春の終わりに動員された第2国民兵で、ということはようするにそこらへんのおじさんたちだ。小銃は3人に1丁で、あとの人は帯剣だけ。分隊長は拳銃の帯革をぽんぽん叩きながら、自分が支給されたこの拳銃などは形式不明の押収品で、弾はいま入っている分しかないのだと言い、「軍は最後の一発まで戦えとかヨモシレンヘッパクを言いよりますが、もとよりその覚悟でやっとります」と、からからと笑った。つられて兵隊たちも笑い、あたしもつられて笑った。…ヘッパク?

 分隊長に「艦娘さんはこれからどこへ行かれるんですか」と聞かれて「大本営です。前にすごく嫌な目に遭ったからあんまり気が進まないんですけど」と答えると、全員があたしへの同情と普段の上官上級者への不満をごちゃまぜにして一斉にしゃべり始めた。

「大本営なんちゃどうせウサンキュウナスタクモンの集まりじゃろうもん、な」

「はい?」

「シカトモナイ理由でそげにイガキアゲルなんざドヂクショウな奴らよ、そうじゃないや」

「んんっ?」

「そうよ、ザントウで根性曲がりの兵隊いじめをしやがって、ほんにサグタマシイ連中ぞ」

「あっ、はい?」

 兵隊たちはあたしにはほとんど聞き取れない訛りで何かを言い合っては笑い、「な?」とあたしに同意を求めてはまた笑った。

「みんな、あまり騒ぎすぎるなよ。対空監視だけはちゃんとやれ」

 分隊長が釘を刺すと、兵隊たちはなにかを小声で言い交し、ポケットや雑嚢から取り出した飴やらガムやら塩の錠剤やらボールペンやらを、座っているあたしのスカートの上あたりにひょいひょいと寄越し、あたしがお礼を言うと何か言い合ってまた笑った。

 トラックは無人の街の無音の道を走り抜けていく。道路中央の白線をまたぎ、左右の家並みを見おろしながら、交差点の点滅信号もものかは、堂々と押し渡っていく。分隊長が「象に乗った王様のごたある」と、独特な例え方をした。

 10分ほど走って広めの国道の交差点に出た。暇そうに立っていた歩哨が近づいてきて運転兵に話しかけ、またもやあたしにはほとんど聞き取れない謎の訛で騒々しく話し合った。

「艦娘さん!」

 歩哨がトラックの下からアイドリングの音に負けないように大声で呼んだ。

「はい?」

「海軍の部隊略号で英語の『TB』は補給所で合ってますか?」

「はい」

「この交差点を海側に折れて500メートルほど行った岸壁のところに『TB』の標識を出したプレハブがあって、海軍のトラックが何台かいます」

 運転兵も顔を出し、「我々はここで引き返しますが、艦娘さんはどうされますか」と怒鳴った。

「ここで大丈夫です。ありがとうございました!助かりました!」

 荷台をぴょんと飛び降り、走り去っていくトラックを見送った。荷台の上では兵隊たちがあたしに向かって手を振りながら、まだなにやらにぎやかにがあがあと声を上げている。手を振って「ありがとうございまーす!」と精一杯叫んだ。敬礼よりそっちの方がいいよね、きっと。

 さあ、もうちょっとだ、急がなくちゃ。

 

 港に向かう道を、早歩きとジョギングの間くらいのペースで走る。袖ヶ浜からここまでずいぶんばたばたしたけど、最後に出会ったトラックの人たちはなんだかおかしな人たちだったな。言ってることはよく分からないのに、不思議と安心できる人たちだった。なんだか思い出し笑いがこみあげてきて、息が乱れそうになる。

 ふと足元を見ると影が無い。太陽は真上にある。太陽はじりじりと熱く、そして重い。さっきもらった塩の錠剤を口に入れ、唇を舐める。体重を前に傾けて、また、走る。

 道路の左側に「11TB」の標識とプレハブが見えてスピードを落とした。横には「23dg」の車両幕を付けたトラックが停まっている。23駆がいるんだ?

 乱れた息を整えながらプレハブを覗き込むが誰もいない。裏に回ると海に延びた簡易型の出撃用スロープがあるけど、やっぱり誰もいない。困ったな…。

「誰ぴょん?」

 頭の上から声がした。見ると、屋根の上の物干し台兼対空監視所から双眼鏡を持った艦娘が顔をのぞかせている。その艦娘はハシゴを無視して屋根の上から身軽にぴょんと飛び降りると、「第11補給所所属、卯月でっす!」と元気に敬礼した。

 

「所長はいま出かけちゃってていないぴょん。この、」整備台の真ん中に置かれた駆逐艦用の艤装を手の甲でコンコン叩きながら、「ここにもともと配備してあった艤装が不調なんで、交換用の艤装を取りにトラックで出かけちゃったぴょん。おかげでうーちゃんだけお留守番っぴょん」

「なんとか袖ヶ浜か、大本営でもいいからまず連絡が取りたいんだけど…」

「ここの隊内無線送話機じゃたぶんそこまで電波が届かないから、所長の保管庫の中の衛星電話を使ったほうがいいぴょん」

「保管庫の鍵は所長が持ってるんじゃない?」

「鍵の場所は知ってるぴょん♪」

 いたずらっぽく笑う卯月ちゃんと顔を見合わせて笑った。よかった、これでどうにか連絡が取れ…

 

 その瞬間、部屋の隅にある隊内無線機のスピーカーが大音量でがなり立てた。

「敵第2梯団、深海機約80機東京湾に侵入中!」同時に、味方の対空砲の砲声が聞こえた。エッ!もう? 情報が遅いのか、発見が遅れたのか? 砲声がくぐもっているから多少は距離があるけど、砲声が聞こえるほどには近い。続けて無線から「命令。敵機は要地上空に侵入。各隊は攻撃すべし」と聞こえると、すぐに警報のサイレンが鳴り始め、空に対空砲火が炸裂し始めるのも見えた。警報より対空戦闘の開始が先って…これはまずい! 足元から盛り上がってくるような重い衝撃も数回響いてきた。もう敵機が投弾しているんだ。

 突然頭の中に閃光がひらめいて、今日出会った人たち、すれ違った人たちの姿が圧縮したデータを解凍するみたいにぱっと頭の中に広がった。さっきあたしを送ってくれたトラックも、まだこの辺りを走っているはずだ…!

 

「守らなきゃ」

 

 考えるより先に手足が動いた。ためらいも迷いも無かった。目の前の整備台の艤装を背負い、高角砲と機銃を装備する。軽巡用と規格が違っていて起動スイッチの場所を探すのに少し手間取ったけど、嫌な音を立てながらもなんとか艤装は起動してくれた。暖機運転も省略して、出撃用のスロープのレールに艤装の脚部パーツを合わせたところで、もう一度対空監視所に上がろうとしていた卯月ちゃんが血相を変えて抱き着いてきた。

「だめぴょん!その艤装は整備不良で、しかも駆逐艦娘用ぴょん!」

「大丈夫!大丈夫だから!」

「なに言ってるぴょん!だめに決まってるぴょん!やめるぴょん!やめて!」

 うん、これは絶対卯月ちゃんが正しいね。

「連絡をお願いします!阿武隈、出ます!」

 卯月ちゃんの胸を右手で押し退けた。卯月ちゃんが尻もちをつく。悪いと思ったけどその隙に発進した。背中に「やめろ!ばかぁ!」の声を聞いた。

 

 速力を上げる。軽巡用の艤装と少し勝手は違うけど、基本は同じだ。生暖かい夏の海の空気を切り裂いて加速する。艤装に付属している隊内無線機の電波でどこまで届くかわからないが、「軽巡阿武隈は11TBから」と現在位置だけ報告した。沿岸の対空砲陣地が猛烈な射撃を始め、炸裂する対空砲火で空が薄暗く陰りだした。無線機に飛び込んでくる交信内容から、味方の混乱ぶりとだいたいの戦況が伝わってくる。

「スズランからアザミ、みな浮け、みな浮け、ハシゴ三に上がれ!」敵機の侵入高度は3000mか、低いね。

「こちらイケズキ、ただいまより第一撃!」制空隊が迎撃戦闘に入った。

「こちらスルスミ、1機撃墜!敵機は足つきなり」やばい、鳥型深海機がいるの?

「イヅクモよりソバカリ、高射砲の射撃やめ!射撃やめ!」対空砲が味方撃ちをしたのかな…対空砲がいったん射撃をやめるんなら、あたしはできるだけ市街地に寄って対空防御をしなきゃ!

 十分にスピードが乗ったところで陸岸に沿って左ターンをする。一瞬機関が息をついてヒヤっとする。やっぱりこの艤装は…でもとにかくここで踏ん張って、市街地に向かう敵機を食い止めなきゃ。敵機を探す視線の隅で市街地の方を見ると、何か所かに爆煙が上がっているのが見えた。今日出会った、いろんな人たちがいるはずの方角だ。唇を噛んだ。高角砲の防危安全装置を解除する。

「イナバは11TBから。これよりコロモデ、マル援とドッキング」 ん?「コロモデ」は袖ヶ浜鎮守府を示す通信符丁だけど…?

「各、各、各、こちらヤギリ。カラス15、ネコ10、市街地に向かう。各隊攻撃せよ!」…鳥型艦爆が15機に猫型艦戦が10機…見えた!10時方向!距離2000!両手の高角砲を構える。

「ヨーイ!」

 ことさらに声を張り上げる。

「テー!」

 試射も調整も無しに撃った高角砲の初弾は敵編隊の前方への至近弾になった。命中はしなかったけど、これでいい。全機撃墜なんて無理は狙わず、敵機の攻撃機動を妨害して照準を狂わせればそれでいい。敵機の高度を上げさせるイメージで、鼻先を狙う。続けて撃つ。さらに左回頭して撃つ。機関がまた息をついた。まずい。

 何機かの深海艦爆が投弾したけど、外れて海に落ちたのが見えた。あたしの対空砲火のせいで狙いを外したんだ。残りの深海艦爆は攻撃を一旦止め、高度を取りながら大きく旋回している。爆撃をやり直す気だ。でも今度は、深海艦戦が編隊から分離してこっちに向かってくるのが見えた。あたしを狙っているのね、そうなのね!艦戦があたしを制圧して、それから艦爆が市街地をじっくり狙って爆撃する気だ。こうなったら深海艦爆は射程の長い高角砲で照準を妨害して、至近距離で向かってくる深海艦戦は機銃で迎撃するしかない。難しいけどあたしならできる、任せて。

 そこで機関がまた息をついた、異常圧力の警告ランプがついている。機関部の缶水不足だ。駆逐用艤装に慣れないあたしが無茶な運転をさせちゃったのか、水漏れか、とにかく雑具箱の中の水ボトルで注水しなきゃ…。

 

ない。

 

 無い!雑具箱の中は空だ。誰のせいでもない、整備中の艤装で許可なく出撃したあたしのミスだ。ここだ、ここがあたしの土壇場だ。『ぜんぶここにつながってた』んだ!

 ここから先、一手間違えたらぜんぶが終わる。恐怖に震えあがった。そして同時に笑いがこみ上げてきた。意識していないのに口の端が上がった。誰に向けてでもなく言った。ふふ、「あたし的にはOKです」。いいじゃない、もうやるしかないんだもの。やってやろうじゃない。

 

 市街地への爆撃コースに乗るために旋回中の深海艦爆の編隊を、高角砲の斉射で崩す。1機か2機落ちたのがわかった。急激に高度を下げた深海艦戦が9時方向から海面を這って接近してくるのに機銃を1群射、敵艦戦の一部は分離して右手に回り込む、目で追う余裕は無いけど、たぶん10時方向にいるはずの艦爆の方に見当で高角砲を斉射、思いっきり体を右にひねって腰と肘の機銃を5時方向に向けて1群射、敵機の機銃掃射が頭の上を高い音を立てて飛び過ぎ、一部は一直線に水柱を並べて海面を縫った。機関出力が低すぎて、特に回頭してからの立ち上がりがものすごく悪い。射撃、回避、目標設定、すべてのタイミングがひとつずつずれていく。左舷に至近弾!右前に体がつんのめる、まずい、爆装艦戦が混ざってる。よろけた姿勢のまま左足を軸に右足を振って後ろに向きに体をぶん回す、そのまま高角砲を1斉射、左右から来る艦戦に機銃を…ああもう適当に射撃!頭の後ろにガツンと来て髪がほどけた、機銃弾だ。機銃弾が当たるってことは敵機があたしに正対して突っ込んできてるってことだ。爆撃が来る!前に向き直って両足を突っ張って急減速、目の前に至近弾が数発落ちる。ギリギリだ。背後に1群射…あっ市街地の深海艦爆は、と思ったけど、もうどっちが陸側か、方向がわからない、もう敵機が見えた方向に反射的に撃ち返すしかない、ああ、もう!速度が乗らないと舵がきかない、回避運動も思うようにできない、なのに機関は耳障りな騒音を立てるばかりで減速した分を回復できない。また機銃掃射が来る、機関部が撃ちぬかれて蒸気が噴き出した、視界が一瞬真っ白になる。左目に何かが入って視界がぼやける、血かな?と思った途端、左手に持った高角砲が被弾して砕け、ばらばらになって海に落ちていった、あれ?あたしの左手、感覚ないけどまだあるのかな?

 次の瞬間、感覚としては体の内側からだった。だから最初は腰に装備していた爆雷が誘爆したのかと思った。体の中でいきなり大きな太陽ができたみたいに、体の中心にある大きなバッテリーから電気が流れたみたいに、体の隅々、指一本の先の先まで熱さを伴った衝撃が確かな中心を持って広がった。そしてすぐに体中の骨を抜かれたみたいにすべての関節から支えが抜け、さっきまで見上げていた空が急に遠くなっていった。ああ、後ろに倒れているんだ、って思いながら見上げた空に、飛び去って行く深海艦戦が見えた。爆弾の直撃を受けたんだってそこでやっとわかった。真上でぎらつく太陽の中から急降下してくるもう1機の深海機が見え、黒い小さな点を切り離したのが分かった。だんだん大きくなる黒点はスローモーションのまま徐々に爆弾の形を取っていく。見上げる空が一層はっきりと美しく鮮やかさを増すのと一緒に、果ての無い深海に引き込まれ永遠に沈み続けるような、でもくっきりとした孤独感が背中の方からあたしを抱き寄せてくるのが分かった。怖くはなかった、ただ無性にさびしくなった。ここまで走ってきた最後のゴールに、孤独だけがあったなんて。

 

 

 

 

 

 あたしに迫っていた爆弾が突然視界から消え、紺色とピンクの何かが竜巻のように目の前を飛び越えていった。

「アブ!」

「阿武隈ちゃん!」

 由良姉と鬼怒姉が半分沈みかけていたあたしを両側から引っ張り上げて支えてくれた。夢かな?それとも由良姉と鬼怒姉もやられちゃって、お迎えに来ちゃったのかな?

「卯月ちゃんが連絡をくれたの!」由良姉は半分泣き声だ。

「アブ!間に合ったぞ!しっかりしろ!姉ちゃんたちに、長良型の根性見せろ!」鬼怒姉が耳元で怒鳴った。

 卯月ちゃんの対空戦闘の技術は常識外れだった。高角砲は左手だけに持ち、伸ばした右手の人差し指をいろんな向きに変え、それを基準に狙いを付けて高角砲と残りの機銃を操作している。人差し指一本を高射装置の代わりにしてるんだ。それであたしに向かって落ちてきてた爆弾を、横から命中寸前で撃ち飛ばしたんだ。教えられたってできるものじゃない。卯月ちゃんはあたりを文字通りウサギが跳ねるように駆け回り、敵機を排除していく。弾幕射撃で敵機を捉えるってレベルじゃない、1機1機狙って落としている。

 あっという間に深海機を撃退して戻ってきた卯月ちゃんは、明らかにあたしを非難するつもりで近づいてきたけど、目の前まで来ると急に気持ちが萎えてしまったのが分かった。あ、あたしよっぽどひどい状態なんだ。確かにさっきから心臓の鼓動のリズムに合わせて、体のどこかから出血してるのが自分でもわかるぐらいだものね。卯月ちゃんは自分の服が汚れるのも構わず、血だらけのあたしの兵装をかわりに背負ってくれた。

「ほら、阿武隈ちゃん!自分で立って!しっかりして!」

 由良姉の取り乱した声を初めて聴いた気がする。

「大丈夫、アブ!大丈夫だから!ぜったい大丈夫だから!」

 鬼怒姉は相変わらず語彙力無いなあ…あっそうか。

「思い出した」

「え?」

「なにを?」

「『せ』よ」

「なんの話ぴょん!」

「思い出したの、いい?よく聞いて。『せ』は、『瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はんとぞ思ふ』よ」

「しっかりするぴょん!こんなときに訳のわかんないこと言わないでほしいぴょん!あとでいろいろ言いたい文句だって、こっちはあるんだから!」

「われても末に 逢はんとぞ思ふ」 確かにそうだ。たとえ別々の川だって、最後には海でみんないっしょになれるもんね。よかった、いちばん寂しいときに由良姉と鬼怒姉が来てくれて、海の上で一緒になれた。あたしは、二人の姉の腕と胸の中で安心してすべてを任せきり、そのあたたかさに頬ずりしながら、本当に久しぶりの満ち足りた安らぎを感じていた。

 

 

 

 

 

 阿武隈はがっくりと頭を垂れ、意識を失った。呼吸はさらに弱い。

 由良と鬼怒は阿武隈を両脇から抱えなおした。それはまるで3人が互いを抱きしめ合っているような姿にも見えた。

 その瞬間、卯月は遥か前方に修理資材を積んだ秋津洲と護衛の第6駆逐隊がこちらに向かってくるのを認めた。彼らなりに全速を出してはいるのだろうが、その動きはもどかしいほどに鈍く遅い。

 卯月は秋津洲たちを喉が裂けるような声で呼び叫んだ。

 

 

 

 

 

【2022年夏 広島県広島市西区 カレー店 その②】

 古い喫茶店を居抜きで開業した小さなカレー店。壁にかけられたアンティークの振り子時計は午後11時を指している。

 ラストオーダーを終えた店内に私以外の客の姿は無く、こじんまりとした品のいい客席からは、人通りもまばらになった商店街のわずかな街の灯がかすかに窓ガラスに映っているのが見えるだけだった。

「アイスコーヒーと、あとお冷もひとつ」

 白いシャツに黒のネクタイをしめ、鬱金色の胸付きエプロンを着こなした店主は、ラストオーダー後の私の追加注文を一切無視するようになっていた。

「しーちゃんさん、今日のニュース見ました?」

「最近私のこと無視しますよね」

「深海棲艦の攻撃が首都圏にって、ずいぶんひさしぶりですね」

 れーかちゃんはお皿を拭きながら、それでも心配そうな面持ちで店内のテレビのニュースに見入っている。

 でも確かに気になるニュースだ。館山、横須賀に軽微な被害、喪失艦は無いものの艦船に若干の損害…と発表されているが、どのみち「大本営発表」だし、実際のところはよくわからない。ただ、もし深海棲艦の動きに大きな変化があったのなら、今後の戦局は大きく変わっていくことになるだろう。もしかつてない規模の作戦が発動するようなことになれば、私のような後備役軍人にも再召集がかかることになるかも…。

「しーちゃんさん、怖い顔してますよ」

「え、あ、ごめんなさい!」

 また「私のお店で暗い顔しないでください」って怒られるかと思ったけど、れーかちゃんはきまり悪そうにそのままお皿を拭いている。そんなに怖い顔をしていたのだろうか。ちょっと落ち着いた方がいいかもしれない。

「ごめんなさい、ちょっといろいろ考えすぎちゃったみたい」

「あー!いやいや、いいんです、いいんです」

「今日はもうお暇しますね、さすがに長居しすぎちゃったし」

「あ、あの、でも、まあ、夜道も危ないし、なんなら、あの、ここ店舗兼住宅なんで、2階、一部屋、空いてるんで、あの、よかったら、朝まで、いや朝までって、言い方が、ははは、あの、と、泊っていっててってても」

「え、いや、さすがに申し訳ないんで大丈夫ですよ、心配しないで」

「あー…そうですよね…」

 お店を出る時にれーかちゃんはちょっと寂しげな表情をしたように見えたけれど、気を取り直すようにぴょんとお辞儀をすると笑顔で見送ってくれた。

 顔を上げると白い月がもう頭の真上に来ている。

 私は手をかざし、月に向かって軽く振った。ごきげんよう、明日もまた暑くなるかな?

 

 

 

 

 

「(しーちゃんさん、また戦争行くのかな…)」

 

 

 

 

 

【袖ヶ浜鎮守府】

「あれは仕方なかったと思うわ。深海棲艦の空襲があるなんて誰も予想していなかったし。あなたが気に病む必要は無いと思うわ」

「まあ、加賀はそう言うじゃろうと思ったがな、実を言うとある意味気にはしとらんのよ。神ならぬ人の身では及ばぬこともある。自分自身に十全であることを求めるのはどだい無理だと思うちょるよ。ただ、前にも言うたかもしれんが、腹は決まっとるよ。最後まで結果を見届けるのはワシの役目じゃ」

 加賀は、そう言って両手を机に突いて俯いた提督を、鎮守府のどの艦娘にも見せたことの無い、夜の海のような深く悲しい色の瞳で見つめた。

「それよりも、これじゃ。さしあたりはこっちを気にせにゃならん」

「『決号作戦』の作戦書ね。上は本気かしら」

「第2次ハワイ作戦の時に発見されたハワイ東方沖の深海棲艦発生・集結地点の一挙撃滅を目指す、文字通りの総力戦じゃ。艦娘という艦娘全て、あらゆる海軍戦力、予備戦力の総動員になるじゃろう。本土が再攻撃された以上大本営は本気じゃ。ここが後方の鎮守府じゃ言うて、皆で多少はのんびりやっておられるのも今ごろが最後になるかもしれんな」

 加賀は、提督の心底寂しげな物言いにやや心の平衡を失ったのか、背中を向けると、少し震えた声で何かつまらない用事を言って執務室を出て行ってしまった。

 あるいは加賀は幸運だったのかもしれない。決号作戦の作戦書の下に不用意に置いてあった極秘書類を見ずに済んだからだ。

 

「(軍極秘)(所轄長限り)撃沈した深海棲艦から、かつて轟沈した艦娘の再生・復元が見られた例に関する報告書」




水は「満つ」であり「三つ」でもあります。
あと、レイ・ギャラティはスティーブン・キングの「死のロングウォーク(The Long Walk)」の主人公、コリン・スミスはアラン・シリトーの「長距離走者の孤独(The Loneliness of the Long Distance Runner)」の主人公です。
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