近所のカレー屋の店主「れーかちゃん」とも仲良くなり、穏やかな日々を送る「しーちゃん」だったが…
【2022年冬 広島県広島市佐伯区 みずとりの浜公園】
私はれーかちゃんが嫌いだ。
いつも明るく、にぎやかで、誰もがつられて口元を緩めるような笑顔の持ち主で、誰にでも好かれる商店街の人気者「カレー屋のれーかちゃん」を、だ。
だから悪いのは私だ。そんな夏のひまわりみたいな女の子を嫌う方がどうかしている。
オレンジ色の卵の黄身を無造作に落としたような生々しい夕陽が海に沈んでいく。二人で歩く海辺の公園は、その夕陽に右手から照らされ、左手は宵闇に没して街の灯だけがちらちらと瞬く一面の黒だ。寒風に首をすくめ、首に巻いたマフラーに顎をうずめる。
今何時だろう。ふと、四本足の時計塔が目に留まった。上の方にあるはずの時計は暗闇の中に没し、時針も分針も、まるで見分けることができない。そもそもあれは時計なのだろうか?
また夕陽だ。あの時も夕陽は右側にあった。
「しーちゃんさん、寒くないですか?」
寒さに肩をすくめ、俯いて歩く私の顔を、れーかちゃんが下から覗き込んだ。
「ううん、大丈夫」
―やめて、やめて、私の顔を覗き込まないで。
「でも、さすがにもう暗いし帰らなくちゃですかね…」
れーかちゃんはごく自然に自分の右手を私の左手に絡ませた。ちょっと驚いて顔を上げると目が合って、れーかちゃんも驚いて照れたようにはにかみ、空いている左手で私の左袖をきゅっと握った。体の左半分に、わずかにれーかちゃんの体温と、私に体を預ける重みとを感じた。
―やめて、私の手を引っ張らないで。
「もうお店に戻りましょうか、まだこれから新作カレーの試食もしてもらう約束ですもんね!」
れーかちゃんは私の正面にぱっと向き直り、私の凍えた両手を温かな手で優しく包んで、少し強く引っ張る。夕陽に照らされて、右半分だけの笑顔が見えた。
また夕陽だ。あの時から夕陽は右側にあった。
「そうだね、カレーも楽しみにしてたし、帰りましょうか」
確かにカレーは楽しみだった。でも私は嘘をついた。心の中でコトリと音がして、私にも分からない何かに噓をついたのがわかった。
5年前の秋、私が新米少尉としてフィリピンのルソン島で艦娘とともに戦い、そして彼らを、荒潮ちゃんと白雪ちゃんと浦波ちゃんを失ったときも、やはり夕陽は右手にあった。
ルソン島西岸のパヤグラヴェ特別根拠地隊での彼女たちとの賑やかな日々。そしてあの日の悲劇、その後の悲惨を極めた退却戦のことは、れーかちゃんにも話したことがない。というか、話せない。
華々しい捷号作戦の大勝利の陰で忘れられたルソン島西岸沿いの2号線の退却行。私はそこで、歩きながら死にゆく兵士たちの列の中にいた。足首まで埋まる泥の道を徒歩で300キロ南下する、豪雨の中のデスマーチだ。
疲労と空腹で意識を失い、泥の中に倒れた者は二度と立ち上がれなかった。倒れた者にすぐ駆け寄る者もいたが、手助けをするわけではない。雑嚢の中の水と食料、そして乾いた靴下という宝物を手に入れるためだ。あそこでは全てが濡れていた。頭から足の先まで、海も空も森も道も、すべてが濡れて泥にまみれていた。ビニールで包装された新品の靴下は、同量の黄金に等しい財宝と言ってよかった。
黙々と歩き続けた。考えては負けだ。ただ左右の足を交互に出す。海から深海棲艦の散発的な砲撃がある度に泥の中に伏せ、そして起き上がり歩き続けた。夕方になると右手からの夕陽が列を照らした。卵の黄身の色だ。
退却行の最終的な目的地はバギオだったが、その手前にあるサンフェルナンドに着いたときには撤退中の各部隊はすでに崩壊状態で、疲労困憊した幽霊のような兵士たちが数人ずつばらばらに到着しているような状況だった。
サンフェルナンドでは街道に野戦憲兵が出ていて、可能な範囲での部隊の再編を試みていた。憲兵というと映画や小説では大抵悪者扱いだが、サンフェルナンドの憲兵たちはかなり我々に同情的だった。
憲兵は私の水筒に白湯を注いで「歩けるなら大丈夫ですな、海軍さんはあっちで集結してます」と椰子林の向こうの港務部の建物を指さした。くれたのはただの白湯だったが、それがどんなに有難かったかはちょっと表現できないし伝えられる自信もない。
しかし、部隊を再編できるくらいに都合よくまとまった人数と階級の将兵が都合よく合流してくれるわけもなく、だんだんと将兵が滞留し始めた。さらに、屋根のある臨時兵舎で待機しているうちに、大半の将兵が最終目的地であるバギオまで歩く気力を失い、サンフェルナンド根拠地隊から給食を受けながらただ何となくその辺に屯する遊兵状態になった。
事態が急変したのは私が到着して3・4日後だった。目的地であるはずのバギオ方面から将兵が雪崩を打って退却して来たのだ。今度は反対に、私が彼らの水筒に白湯を注いでやる立場になった。
彼らは水筒の白湯を一気に飲み干すと、
「いや、ひでえもんです。空襲でなんもかも吹っ飛んじまいました。バギオはもう焼野原です」
「もうじきリンガエン湾に敵が
と、まくし立てた。
あっという間にサンフェルナンドは大混乱となった。バギオ方面から退却してくる将兵と、引き続いて北から2号線を退却してくる将兵が混ざり、もはや事態は制御不能に陥った。所属がばらばらの数千の将兵が屯集し、さらにすべての屋根のある建物が誰の命令もないまま流れで患者収容所になり、廊下や階段の下まで傷病兵がごろごろと並べられ、サンフェルナンド根拠地隊司令部も状況を把握できず、自分たちが対応すべき兵の数すら分からない状況になっていた。さらに、サンフェルナンドへの深海機の空襲が始まり、リンガエン湾の奥に向かう深海上陸部隊が目の前の海を通過するのを見るに及んで、この指揮官なき集団の動揺はパニックに近いものになった。
この、混乱の極みにあるサンフェルナンド港に、孤立した将兵を救出するために編成された「サ号船団」が入港してきたのはこのタイミングだった。そこらへんでかき集めてきたらしい雑多な輸送船が、わずかな艦娘に守られて入港するのを見て、将兵の間に不穏な空気が漂い始めた。無理もない。絶望の中で生きる希望を目にしたとき、人間は想像を超えてなりふり構わずそこに執着し突進する。
断続的な空襲が続く中での秩序なき乗船というものを想像できるだろうか。港の岸壁では憲兵と陸戦隊が規制を張って乗船を統制しようとしたが、部隊単位で順番に乗せようにも、その部隊そのものが存在していないのだ。
「整列しろ!傷病兵が先だ!下がれ!整列しろ!」という憲兵の叫び声は、それに数倍する怒号の中にむなしく消えていった。
規制線は押し破られ、最初に撤収部隊の乗船を始めた福井丸では乗降用ラッタルに押し寄せる将兵を制止できず、傷病兵優先という原則をいったん無視してとりあえず片っ端から船内に収容したが、「負傷兵でなくても乗れるらしいぜ」と言い交す声が一瞬で全体に広がり、次の高崎丸ではついに殺到する将兵に向けて憲兵隊が威嚇射撃をする状況になった。
そして私はといえば、港務部の建物の屋上で手すりに体を預け、ぼんやりとその混乱を眺めていた。諦めていたわけではないけれど、「なるようにしかならないよね」という妙に落ち着いた気持ちになっていた。生きて帰りたい気持ちもあるけれど、みんなが眠るルソン島で自分も終わるのなら、それはそれで構わない。
そこから見た光景は今でもよく覚えている。
港の岸壁を埋めて波のように揺れさざめく人々、怒号と叫び声、空襲を受けて港内に擱座した輸送船が燃える炎、対空砲の音、警報のサイレン、銃声、焼け焦げて骨組みだけになった倉庫群。人波から離れたところで座り込み、海に向かってじっと手を合わせていた片足のない負傷兵。突然爆発音がして飛行場の方から爆炎が上がるのが見えた。空襲ででこぼこになった滑走路で輸送機が離陸に失敗したのだ。さすがに視線をそらして俯いた。鈍く痺れたようにすり減った心が、いまさらきりきりと締め付けられた。あの輸送機に詰め込まれていたのが何かを想像してしまったから。
「将校集合!将校集合!」
金切声のような逓伝が聞こえた。屋上から見下ろすと、自転車に乗った憲兵軍曹が叫んでいる。私も声を張り上げた。
「海軍ですか?陸軍?どっち?」
「全部です、全部!みんな!将校集会所前に集合してください!」
私は相変わらず気持ちの定まらないふわふわした気持ちのままぼんやりと将校集会所の建物の前にやってきて、すでに整列していた将校たちの列に続けて並んだ。たぶん300人ほどいたと思う。所属も階級もばらばらのまま整列していて、私と同じような幹部候補生出身らしい若い女性士官の姿もちらほらと見えた。私の左側もちょうど私と同じくらい若い、長い黒髪の女性少尉だった。
「気を付け!」
号令がかかると、全員がざあっと不動の姿勢をとった。この辺はさすがに将校というべきだろうか。たぶんいちばんもたもたしていたのは私だ。血のにじんだ包帯を頭に巻いた少将閣下がつかつかとやってきて、弾薬箱の上に乗ると、割れ鐘のような声を張り上げた。少将について来た野戦憲兵たちが、ばらばらと我々を取り巻いた。なんでだろう?
「小官はサンフェルナンド根拠地隊司令官である!軍命令により、ただ今より陸海統合部隊を編成する!指名された者は列外に出て、向かい側に並べ!」
何が始まるのかと思って見ていると、横隊に並んでいる我々をさっきの憲兵軍曹が数え始めた。
「1!2!3!4!5!…」
そして「10!」となるべきところで指を突きつけ、「列外!」と叫んだ。
指名された十番目の将校は雷に打たれたようにびくっと震え、一瞬遅れて列外に出ると我々と対面する向きに立った。その顔は紙のように白い。
憲兵のカウントは再び「1」に戻り、やはり「10」にあたる者が「列外!」と指さされ、我々の向かい側の列に新たに加わった。
この場にいた全員がうすうす理解し始めた。おそらく、指名されたものはここに残置され、サ号船団が脱出するまで港を死守する決死隊を指揮するのだろう。対面に並んだ「10番」将校たちの顔色は、真っ白か、真っ青か、興奮して真っ赤になっているかのどれかだった。将校たちは不動の姿勢で前を向いているので、私からは目を動かして見える範囲のことしか分からないが、右から憲兵の声が近づいてくるのが分かる。さすがに心臓の鼓動が早まったが、その一方で「別にいいか」の気持ちも湧いてくる。
―できるなら、みんなと同じ場所に埋めてもらえないかな。
そう思って空を見上げた瞬間、突然誰かに腕を掴まれて視界が大きく揺れた。「あれ?」我ながら間の抜けた声を出す。気が付くとさっきまで左側にいたはずの女性少尉が右側にいる。その子は俯いて拳を握りしめ、ぶるぶる震えている。泣いているのだ。理解するのに数秒かかった。この子が私の腕を引っ張って自分と順番を入れ替えたのだ。
すでに目の前まで来ていた憲兵軍曹はこれを見ていたはずだが、何も言わなかった。そして、「9!」と言って黒髪の少尉の前を通り過ぎ、私に指を突き付けた。「列外!」
ぞっとした。冷たい手が心臓を掴んだ気がした。「なるようになる」「ここで終わってもかまわない」、さっきまでのそういう気持ちを黒と青と紫の絵の具を厚く盛って塗りつぶすように、恐怖が体を刺し貫いた。みんなへの思いと、生への執着がごちゃまぜになって頭の中で渦を巻いた。たぶん私の顔も真っ白になっていたはずだ。
今不正が行われたのだと声を上げるべきか一瞬考えたが、声が出なかった。私にいま何が起こって、何をされたのか? 世界と私がぐるぐるしていた。
私も含め30人ほどの「10番将校」が整列すると、少将はふたたび弾薬箱の上で声を張り上げた。
ただし、我々に背を向けて、多数の側の列に向けて、だ。「あれ?」今度はこちら側の列の誰かが間の抜けた声を出した。
「聞け。事ここに至り、もはや軍紀も崩壊の危機に瀕している!この状況で我々将校がなすべきことは、秩序を回復し、一人でも多くの兵を転進させ、後日の捲土重来を期すことである!」
言っていることは分かる。でもなんで私たちに向かって言わないんだろう。
「よってここに将校戦闘隊として『サンフェルナンド集成隊』を編成し、全将兵が転進を完了するまで当地を固守する!国軍の締幹たる貴官ら幹部将校諸士の勇戦に期待する!将校戦闘隊は
思わず口を開けて呆然とした。少将は言い終わるや否や回れ右をして我々の方に向きなおって声を張った。
「貴官らを『サ号輸送司令部付』とする!
ふうっと息を吐いた。(帰れるの?私たち…) それまで灰色だった心臓が急に赤みを帯びてふたたび生命のリズムを刻み始めたような気持ちになった。手と足に体温が戻って来る。自分の手を見ると、力いっぱい握りすぎて血の気の引いた青白い掌に爪が食い込み、うっすら血が滲んでいるのに気がついた。ああ、赤い。生きている。
はっと気がついて、頭ではいけないと分かっていたのに、無意識に目が左右に動いた。
見つけた。目が合った。
だめだ、やはり見るべきではなかった。
見るんじゃなかった。
さっきの女性少尉と目が合った。吸いつけられるように結ばれた視線は分かちがたく絡み合った。
その表情は笑っていた。そして同時に泣いていた。恐怖におびえ、苦痛に歪んだ笑顔だった。人間の感じるあらゆる種類の苦痛と苦悩が、笑顔の上にちりばめられて張り付いていた。それは生きた人間のしていい表情ではなかった。
目が合っていたのはほんの数秒だったと思う。けれど、その笑顔はいまだに私の記憶という書斎の壁に、大きく張り付いている。おせっかいな誰かが、頼まれてもいないのに何度も張りなおすポスターのように。
あの子の顔を思い出してみる。長い黒髪はしっとりと重く、目はぱっちりとして、ほんの少しだけツリ目の、かわいいともいえるし美人顔ともいえるし、戦争さえなければ、戦場にさえいなければ、戦場以外にいてさえくれれば、どこでも人気者になれるような、そんな感じの子だった。
「それでですねー、ネタばらししちゃうと、今回の新作は『ミートローフカレー』なんですよ!なかなか斬新な発想だと思いません?」
今、同じ顔が、戦争から遠く離れた平和な公園で、希望と喜びに満ちた笑顔でカレーについて喋っている。
あの小さな品の良いカレー屋でれーかちゃんに初めて会ったとき、私は怖気づいた。
「なぜこの子はあの子と同じ顔をしているのか」
れーかちゃんは私より年下で、幹部候補生の志願可能年齢を考えれば別人なのは分かる。ではこの子はいったい何なのだ。何度聞こうとしたか知れない、だが答えを聞くのが怖くて、未だに口に出せない。
「なんかさっきからぼーっとしてません? なんか盛り下がるなあ、ほら、もうすぐお店ですよ」
「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしてて…」
「また、フィリピンのこと考えてたんです?」
私は「ひっ」と小さく短い悲鳴を上げた。
「どうしたんです?大丈夫ですか?」
「いや、なんでもないの、大丈夫…」
呼吸を整えながら取り繕う。
「なんかまずいこと聞いちゃいました?」
「いや、ほんとに大丈夫…」
「…うーん、ならいいですけど…」
そう言ってれーかちゃんは私の右側から左側にぱっと位置を入れ替えて腕を組んだ。
そう、お願い、そうして。私の右側に立たないで。だって右にはいつも夕陽があるから。
だからだろうか、私はれーかちゃんが嫌いだ。
最後にもうひとつ付け加えておこう。サンフェルナンドからの撤収作戦とサ号船団のその後の運命について、今も、これからも、誰にも、れーかちゃんにも話す気はない。
ただひとつ、これだけは信じてほしい。私は誰も撃たなかった。(続く)
久々の投稿です。
人類の総力を挙げた大規模作戦である「決号作戦」の発動へとストーリーは向かっていきます。
実際の歴史において「決号作戦」は、ついに(そしておそらくは幸いにことに)発動されることのなかった本土決戦の作戦案でした。
もし発動されていれば、南九州攻略戦と東京攻略戦という、日本という国の歴史の「最後」に記される戦いが行われていたことでしょう。
さて、「しーちゃん」と「袖ヶ浜鎮守府」の人々と艦娘は、何を「決」するのか、あるいはどこに「決」するのか、よろしければ見守ってあげてください。
ここまで書いて気がつきましたけど、今回艦娘出てきませんね。
次は出てきます。