夜になるのを待って、私は集落に降りた。空を見上げれば、ダイエットに成功したらしい月が以前来た時よりも慎ましい光であたりを照らしている。
「あんたは随分と痩せたねえ?」
ふと自分の腹をさすってみる。特に痩せたりへこんだりしている様子はない……が、かといって水をがぶ飲みしても膨れない腹だ。河童の内臓は人のものとは違うのかもしれない。
あるいは、そもそも食べ物からして──おっと。視界の端に大きな家屋を認め、私は足を止めた。
「デカいな」
和風二階建ての母屋に加え、離れまでそれなりの大きさがある。近づいてみると、ガラス戸の向こうにテーブルと椅子が並んでいた。なるほど、こっちが定食屋か。するとここは若菜の家で間違いなさそうだ。
「良いところ住んでるんだなぁ。家が広いってちょっとあこがれるよな」
裏手に回ると、これまた広めの畑があった。耕されたふかふかの土が、月の光を吸収して鈍く輝いている。4列ほどある畝にはナス、トマト、ピーマン、そしてキュウリが植えられていた。
「……いざ目の前にすると、やっぱり罪悪感があるな」
育てたことがないからわからないが、それなりに時間と手間をかけてきたはずだ。それを結果だけかっさらっていくのはどうにも……。
「いや、いやいや。そもそもお宅の息子が毎日山に来なきゃ、私もこんなに腹が減ってないんだ。慰謝料ってことにしよう」
などと適当な理由で満足した私は、よさげなキュウリをひとつ見繕ってもぎ取った。
「いただきます」
真ん中の一番太いところにかぶりつくと、小気味良い歯ごたえとともに爽やかな味わいが広がった。水分をたっぷりと蓄えたきゅうりは、噛みしめるほどに口の中を潤す。青さの中にわずかに潜む甘さが、一段と美味さを引き立てていた。
久しぶりに固形物を食った。そういえば、食事ってこんな気分だった。
あっという間に一本を胃の中に収めて、「ごちそうさまでした」と手を合わせる。いやはや、河童が好きになるわけだ。こんなにも山と川の味がする野菜もなかなかないだろう。
しかし。それはそれとして。
「食べてる途中からやな予感はしてたけど。ダメだ、空腹感が拭えない」
これ以上畑の野菜をいただくわけにもいかず、私はあきらめて山へと戻ったのだった。
「腹へったなぁ」
▽▽
「ほら起きて起きて。夏休みだからっていつまでも寝てないで」
そんな声とともに布団が引っぺがされ、思わず体が震えた。7月も折り返しを過ぎたころとはいえ、寝間着だけで過ごすには朝は少し冷える。うっすら開けた視界に、布団をたたむ母さんの背中が見えた。
「おれの布団……」
「まだ寝ぼけてるの?」
手を伸ばしても暖かい布団には届かない。仕方なくおれは体を起こし、それから伸びをした。背骨がバキバキと鳴り響く。
「朝ごはん用意してあるから、食べ終わったら畑からきゅうりを一山取ってきてくれない? そろそろ食べごろだし、熟しすぎると酸っぱくなっちゃうから」
「めんどくせ……」
「まあまあそう言わず。今夜のおかず、好きなもの作ってあげるからさ」
「じゃあハンバーガー」
「私、あれを夕食と認めてないからダメ」
「はあ~?」
抗議しようとしたが、その前に母さんはさっさと去っていった。ハンバーガーは朝食でも昼食でも夕食でもイケる万能食なんだが?
しかし文句を言う相手がもういないんじゃ、何を言っても仕方ない。顔を洗うために、おれは重い腰を上げた。
「あ、その前に」
勉強机の上の双眼鏡をひっつかみ、山のほうを覗く。ここ数日様子を見てるけど、あいつがシッポを出す気配はない。
「いつも家にいてばっかりの若菜がひとりで山に行くはずないもんなぁ。聞いても答えねーし」
あいつはビビりなとこあるし、母さんに言いつけられたことは守るタイプだ。それが毎日こっそり山に行くようになったら、誰だって不思議に思うだろ。
それに──おれが見た『水色の人影』も、また姿を現すかもしれないし。写真が撮れれば大スクープになる、そんな予感がした。
「お味噌汁冷めちゃうよー?」
「すぐ行くってば!」
……仕方ない。いったん捜索を切り上げ、今度こそおれは洗面所へ向かった。
踵のつぶれた運動靴をつっかけて庭先に出ると、朝の涼しい空気が肌を撫でた。この時期、この時間帯に鳴くセミはヒグラシだっけ? これが10時くらいになると、だんだん鳴き出すセミが増えてくる。
「そうなるといよいよ夏だなぁ。今年のカブトはどうしよ」
いつもはその辺の森で探してたけど、今年は中学のやつらと遠出して捕まえに行ってもいいかもしれない。去年飼ってたカブトムシの『ノブナガ』は冬を越せなかったから、次はもっとデカいのにしよう。そんなことを考えながら裏手の畑に回る。
「……ん?」
ハサミ片手にキュウリを収穫していると、ふと足元に見慣れないものを見つけた。
足跡だ。それも長靴のような。母さんは長靴を持ってないし、若菜の足はこんな大きくない。近所に泥棒しに来るような人は住んでないし……。
「あっ」
足跡を目でたどって、思わず声が漏れた。畑から庭に、そしてあぜ道に、乾いて茶色くなった土が点々と続いている。そしてそれは──どうやら山のほうへと続いているようだった。
おれは急いでキュウリを獲って戻り、双眼鏡と使い捨てカメラを持って家を飛び出した。
「出かけてくるっ!」
「昼ごはんまでには戻ってね。あと山には行っちゃだめよ」
「わかってる!」
適当な返事をしつつ走り出す。きっと、いま、おれはとんでもない発見の入り口にいる。宇宙人かUMAか、はたまた妖怪か。逸る心をそのままに、行く先はもちろん山だ。土は途中で途切れていたが、おれには不思議な確信があった。
「いま行けば、きっと会えるっ」
前回『水色の人影』を見て山に来たときは、斜面が急だったり視界が悪かったりして迷ってしまった。でもそれから何度も山に行って、良いルートを見つけたんだ。
「絶対、見つけてやるからな……!」
疲れと空腹でちょっとローテンションな河童のお姉さんVS無駄に行動力のある好奇心旺盛な少年、ファイッ!
今回でようやっと少年視点書けたので、次回こそエンカウンターする予定です。