普通に精神的スランプだったけどどうにか復調気味
また好きなようにやっていくよ
──山美しく人貧し。農村を題材とした文学で名を遺した伊藤永之介は、晩年にこの言葉を多用した。その解釈はいかようにも取れるが、特に山村の置かれた状況が悪いというのは、昔から変わらないようである。稲作はあくまで最低限の生活基盤を支えるもので、その上に換金率の高い営利作物の栽培や日雇いの出稼ぎなどが加わり、ようやく人並みの生活ができるようになる……というのが、当時は一般的だった。
しかしやはりその生活も、働き手となる若い世代がいなければ話にならない。貧しさとは経済面のみにあらず、労働者の流出もまた、山村が抱える問題の一角であった。そしてそのような集落はさほど珍しくなく、国がすべてを救えるわけでもなし。経済的に自立してもらうのが理想的だが、一方の山村も、問題解決にあたっては政府の人的・金銭的援助に頼りきりの姿勢が強いことが度々指摘されており──即ちこれもまた貧しさである──根本的な改革は難しいように思われた。
そんな中、忙しない日々の中で心労を溜め込んだ都会人の需要により、注目を集めた産業がある。それこそが観光業だ。
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「聞きたい話といやぁ、あのホテル建設予定地ってやつだよ。そんだけ大層な信仰心があって、随分思い切った施策に出たもんだ」
「……山の神様は、お怒りになっていなかったかしら?」
「呑気なふうに見えたけどな。あれで激昂してるんなら、それはそれで神っぽいが」
まったくつかみどころのない、というか実際掴みにくそうなぶよぶよした肉塊。はっきり感情を示したのは、『食事の邪魔をされるのは嫌』という言葉の、その最後の最後だけだ。それ以外は私が向けた敵意に反応することもなく、まるで無垢な子供のように、無邪気な声音を揺らめかせていた。
「あれはねぇ、私の娘婿の健児さんが進めたの。反対する人は多かったけれど、一軒一軒家を周って、何日も頭を下げて……全員を説得するまでに、足掛け3年かかったのかしら」
「気の長い話だ」
「時間も味方したってことねぇ」
ああ、と察する。根負けというやつか。あるいは……幸運と言えば良心が無いが、説得にあたって頑固だった相手がそのうちに逝去することもあり得る。
「それにしても、娘婿ね。もしかして……ここの出身じゃなかったりするのか?」
「そう。もっと町の方よ、働き先もそっちの方なんよ」
「そりゃあなかなかの傑物じゃないか。言っちゃ悪いが、よそ者の意見なんてそう簡単には通らないだろう」
「え~え、そうなんよぉ。でも――子供を持つ親って強くってね」
婆さんはどことなく誇るように、あるいは嚙みしめるようにそう言った。
「『子供たちが大人になったときに故郷がなくなっているなんて、そんな寂しいことがあるか』……って」
「……」
「戦争があって、地震があって……帰りたくても帰れない人だってね、沢山いたから……」
もぞり、と薄い布団が動く。なんとなく、少年を撫でているのだろうなと思った。私は己の実家と、それに付随する子供時代を想起する。
「……故郷ねぇ。そんなものもあったな」
「思い出せないん?」
「ん、いや。印象に残ってないだけだ。泳ぎのへたくそな河童だったんだよ。いろんなものに流されてさ……」
素敵だったことよりも、嫌なことのほうがすぐ思い出せた。
本心は押し殺したほうが生きやすかった。規律に従うのは安心をもたらした。いざ個性を要求される年頃になって、自分のやりたいことなんかよくわからなくて。家からの近さと自分に合ったレベルってだけで進学先を選んだり、就職のしやすさで業界を選んだりした。結局、本心より安心を優先した。それを理解できたのだって、こうして肉体的なアイデンティティを失って精神の生き物になってからだ。軛から解放されて、ようやくなんだ。
あんたは死ぬのが怖くないっていうけどね、婆さん。死ぬのは怖いさ。まだ何も成してない気がするんだよ。
「……だから、こうして休暇に来られたのは望外の僥倖だったのさ。少なくともホテルが完成するくらいまでは、腰を落ち着けてられそうだから」
「もっと居ても良いんよ? 子供たちだって、にとちゃんに良く懐いてるし」
「バカ言うな、私は子守りじゃないんだ。それにあんたは見えないんだろうが、水色の風貌ってのは目立つんだよ。どこぞの少年が双眼鏡で目ざとく見つけたみたいにな」
「あらま、そんなことしてたの!」
婆さんはひとしきりくすくすと笑う。それから私たちの話題は徐々に、兄妹のこととか、村の地理とかに移ろっていった。二人とも触れなかったが、婆さんの布団からは時折穏やかな寝息や小さな寝言が聞こえ出していた。
「──けほっ、けっ、けんっ」
やがて婆さんが咳き込んで、台詞を朗読するように言葉を吐いた。
「ああ、話過ぎて疲れちゃった。今日はもう、休ませてもらおうかねぇ」
「……そうするといいさ」
婆さんの咳はひどく乾いて、ざらっとしている。それが頼りなく揺れる枯れ枝を思わせて、蒸すような夏の夜だというのに、胸の底ではからっ風が吹き込んだような冷たさを感じていた。
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山に戻った私は、さりとて落ち着いて眠ることもできず、あの白い肉塊を探すことにした。まず真っ先に向かったのは、やはり山頂の神社だ。川をさかのぼって湖面から顔を出すと、水面の月がゆらゆら揺れた。それを掬い取るようにリュックに詰めて、内心では万が一を考えつつ、細い参道を往く。
夜の神社は静謐さに満ちていた。無論虫などは鳴いているが、ここで言う静謐は喧騒の対義語だ。つまり、人の気配がなく、俗世から遠い、ある種の異界だった。
古ぼけた小さな社に近づくと、鼻を突く嫌悪感のある異臭がした。視線を動かすと、白い肉塊が鎮座していたあたりに、何かが乗った皿の様なものが置いてある。近づいて、思わず眉を顰めた。
「……腐った……野菜か?」
形こそ崩れ、おそらく色も変色しているのだろうが、どうやらそれは野菜のようだった。トマトにナスに……こいつはキュウリじゃないか。勿体ないことを……。
「ん?」
いや。違うな。時間をかけて腐ったにしては綺麗すぎる。蛆などの虫が湧き、あるいは獣が食い散らかしていてもいいはずなのに、野菜はきれいに並んだまま腐敗しているのだ。
「食ったのか。いやしかし、私のような妖怪や神って、人間の食物を食べても腹は膨れないんじゃないのか?」
『おやさい、おいしいよ?』
「!?」
あの独特の──思念を脳内に流し込まれるような──声が響いた。あわてて周囲を見回すが、ただでさえ木々に囲まれた小さな広場ゆえに月光は薄く、その所在が杳としてつかめない。
「どこにいるんだ?」
『ここ、ここ』
「っ……悪いがあんたとちがって河童には目と鼻と耳しかないんだ。わかるように頼むよ」
『ここ。うしろ』
振り返る。誰もいない。また、声がした。
『ふた、あけて』
ふた、あけて。私はその言葉を口の中で復唱して、それから猛烈に嫌な予感に駆られ、背負っていたリュックを勢いよく逆さまにした。果たして湖の水を詰めていたはずの中からは、ぼちょん、べちゃっと音を立てて白い肉塊が転がり出てきた。悲鳴を上げなかったのは奇跡に近かった。
「嘘だろ、いつの間に?」
『うまれたときから』
白い肉塊──山の神はぶるぶるげぽげぽと奇妙な音を立てて震えた。そのたびに、つるりとした体表にあるいくつかの亀裂が泡を噴きだす。
『どんぶりたべるの、できた?』
あっけにとられていた私は、ややあって返事を返した。
「……ああ、少年のことか。悪くはなかったよ。ちょっとづつ食っていけば、長いこと持つだろうさ」
『それだと、おなか、へるよ?』
「そうでもないぜ、今んとこ」
山の神は感心しているのか、あるいは首を傾げているのか、とにかくその身体を震わせた。
『いっぱいたべて、おおきくなりますように』
「いっぱいって言ったってなぁ。第一、食料源は今んとこ二人くらいしか当てがないし」
『おすすめは、ながいき。ながいきは、おおもり。でもだんだんくさっていって、おいしそうじゃなくなる』
「ん? まぁ老人は河童を見たところで驚きはしないな。腐るってのは感覚的によくわかるよ、やっぱ情動ってやつは子供のほうが振れ幅が大きいもんだ」
山の神は頷くように、体表からべぶべぶと泡を噴いた。
『でも、さいごだけ、かならず、ぜんぶがよみがえる。しんせんになる。おおもりのまま』
「……難解だな。どういう意味なんだ」
『きたくする。わかがえる。んー?
新鮮だったころ……つまりは幼少期のことか?
それを、思い出す。『さいごだけ』。すなわち死の寸前。
おそらく言いたいのは、走馬灯というやつ。あるいは人生の回顧。今際の際の一瞬だけ、過ぎ去りし日々を想起して、その生涯のすべてを圧縮したに等しい情動が得られるとしたら──?
それは。
きっと。
壮大なフルコースを一口に食らうような、快感――。
そこまで考えて、ふと、浮かんだ疑問が口を突いて出た。
「……あんたは、菜江って婆さんを知ってるか?」
『うん。
「……ハハハ……」
聞かなきゃよかったよ。
……もちろんこの小説は因習村的ホラーではなくあらすじの通りなんだけど、それはそれとして……なんかこの神、怖くない? 書いてて予想外の方向に行っちゃってしかもおさまりが良かったからこのままいくけど、何が怖いって……ほら、名前がさ……
もう収穫する前提じゃん。
しかも他にもいるじゃん。
こわー……