川に足を踏み入れると、水温に熱が吸い取られていく感覚がある。冷たい水の匂い。砂利を踏みしめる感触が、浮力によって軽くなり、踏み応えが失われていく。そうしておれたちは、蒸すような暑さと重力、そしてもっと厄介だったはずの
にとりがおれの手を引いている。隣で若菜が目を輝かせている。川の中なのに流れを感じることはなく、しかして淀んだ微温さもない。川の中でさえ眩しさを覚える白い肌から目が離せないまま、深みへと、ゆっくり引き込まれてゆく。
「ほらご覧。水面から差し込む光芒を」
おれたちは振り向いて、上を見る。いまや水面は遥か遠い。なんとなくそれに手を伸ばしかけて、繋いでいた方の手が強く引かれた。
「いいのかい」
にとりが顔を寄せて言う。心臓が跳ねる。
「戻っても、いいんだよ」
空よりも鮮やかな水色の瞳が俺を覗き込んでいた。埋もれた何かを浚うように。奥にあるものを品定めするように。
……おれは首を横に振った。
「戻ったって暇なだけだよ」
「ふふ……」
にとりは気泡を一切出さずに笑った。仄暗くて、蕩けるような微笑みだった。
やがて、おれたちは川底に着地した。ふいに、にとりはおれと繋いでいた手をするりと解く。掴んでいた魚がすり抜けるような感覚。
それから若菜の方を振り向いて、何事かを囁いている。若菜は顔を明るくして、にとりのほうに両手を伸ばす。抱っこをねだるようなその仕草に、ふと、若菜がもっと小さかったころを思い出した。
兄になるのと同時に、これまで叶えてもらっていた
お兄ちゃんだから、なんなんだよ。
遥か昔に抑え込んで、忘れかけていた感情が、心中の水面にぷかりと浮かび上がった。羨ましさと、心細さと、寒さ。初めて一人で寝た日と同じだ。自分の熱だけで布団を温めなきゃいけなくて、頭から布団を被り、膝を抱いてじっとしていたのを覚えている。
中学生なんだ、親にくっつくなんて恥ずかしいってわかってる。けれどおれは、にとりが若菜の脇の下に手を差し込んで抱き上げるのを、ずるいと思ってしまった。
どうしたら。
どうしたら、にとりはおれだけを見ていてくれるのだろうか……。
ふいに、にとりがおれのほうを見た。その唇が微かに開いて、赤い舌がちらりと覗く。揶揄うようでいて、どこか優しげな表情が浮かぶ。それだけで、おれの心に波風が立つ。
「どうした少年。寂しくなったの?」
「あ、いや……」
「ほんとうに?」
にとりはどこか確信があるようで、おれの内心を見透かしているみたいだ。
おれの気持ちを。何も言わなくても、わかってくれるような。
若菜を片腕に抱き直したにとりは、空いた手をこちらに差し出してくる。
おれは、それに、■えて──
「ん、悪かない味だ。ついてきなよ、少年」
返事の代わりに、少しだけ強く手を握り返した。若菜が不思議なものを見たような目でこちらを見ていた。
そのままおれたちは、川底を遡るように歩き出した。にとりは会話の合間合間に、まるでアンパンのヒーローみたいに、おれたちの頭を取り囲む大きな気泡を新鮮なものと入れ替えた。
「ねえにとり、魚いる!」
「ん……ありゃ私とよく寝てるヤツかな。何と間違えてるか知らんが、脇腹を突っついてきて擽ったいったらない」
おれはうっかりにとりの脇腹を想像して、途端に罪悪感みたいなものに駆られて、反射的に頭を振った。突然動いたからか、髪が濡れて頬にぴしゃりと水が跳ねた。
「ちょっと、気泡が散っちまうじゃないか」
「ご、ごめん」
若菜が首を傾げる。
「なんか今日のお兄ちゃん、素直だね。いっつも自分勝手なのに!」
「んふ、なんだ、そうなの?」
「そんなことない!」
言い返したが、にとりの表情はすこし意地悪な笑みのままで……やはり見透かされているようで、どこか、ばつが悪い。口を閉ざしたおれに、にとりはくすくす笑いかけた。
「別にいいさ、自分勝手でも。やりたいことに素直になれる。それって、周りの顔色伺って流されるだけの人生よりかはずっと健全だろ」
わかるかい、とにとりは片手で器用に若菜の脇腹をつついた。若菜が身を捩らせて笑う。
「好きに泳ぎな。見たものを見たまま素直に描けるあんたの絵なんて、一等素敵じゃないか」
「えへへ……今度、またにとり描いてもいい?」
「いいのかい。そりゃ楽しみだ」
若菜と話すにとりは、時折おれの知らない顔をする。疲れたような、慈しむような。柔らかい手つきで大切なものに触れるように若菜を撫でる様も、若菜が描く絵を褒めそやす度に弧を象る形の良い唇も、ぜんぶぜんぶ知らなかった。
嫉妬してるんだ、おれ。でもどうしたらいいかわからないんだ。だって、こんなの、ただの我儘だから。抑え込んで、忘れて……。
「少年」
「うわっ!?」
突然、にとりが繋いでいた手をそのまま振り上げた。引っ張られた当然おれは水中を舞って、手を離されては視界がくるりと回って、逆さまのにとりがずいっと顔を寄せてくる。
「教えてやる。私みたいな妖怪とか、山頂の神社にいる仮称神とかってのは、人間の精神エネルギーを喰うんだ」
しなやかで細い指が、おれのあばらの真ん中をすうっと縦になぞった。それはまるで、メスを入れて胸を割り開くような仕草だった。
「そいつは素敵なエネルギーでな、無限に湧いて出てくる。
ああ、彼女の歯はこれほどまでに鋭かっただろうか。似たものを図鑑で見たことがある。ライオン、トラ、オオカミ……生態系の頂点に立つ、捕食者の歯だ。やっぱり彼女は妖怪で、たぶん人と仲良くしているのも気まぐれみたいなもので、けれど心臓はこんなに素直に揺れていた。あの日にとりに出会ってから、捕食される獲物の気分を、どこかで求めてしまっていたのだろうか。
「隠すなよ、少年。そいつは何よりつまらない。声に出さなくてもいい、顔に出さなくてもいい。だが認めろ。そいつらは全部、少年自身の情動で──だから、私に、喰わせろ」
最後に見たのは、光の無い彼女の口内だった。
▲
「あ、しまった」
さっきまで七変化していた少年の感情が急に薄れたのでちょっと発破をかけてみたのだが、パフォーマンスをやりすぎたらしい。やっぱり死の恐怖が染みついちゃってるんだろうか? 恐れを喰らう身としてはそれでもいいのだが、やけに少年の情動が甘めの風味なんだよな……。気絶した少年を回収すると、さすがに若菜も兄の異変に気付いたようで、不安げな表情が浮かぶ。
「お、お兄ちゃんどうしたの?」
「ん、まあ、緊張しすぎて気絶したみたいだな。そのうち気が付くはずだ」
「大丈夫?」
「勿論。息はしてる」
さすがにこんなところで殺すなんて勿体ない。正直、ちょっと今際の際に発散されるという精神エネルギーに興味はあるのだけども……若菜が悲しみそうだし。ホテル建設前に行方不明で評判を下げるのも悪かろう。
……いや、もちろん少年を殺すことについて忌避感みたいなのはあるよ? でもこいつ、好奇心をコントロールできてない節があるからなあ。昨晩だって婆さんの顔に免じて見逃しただけだし。なあ、そこのとこわかってるの?
「ん、にとり……」
「……わかってないんだろうなぁ。いいさ、それでも。新鮮でいるうちは、見逃してやろうかな」
少年を肩に担ぎあげ、若菜を連れて山頂へ向かった。
実のところ、少年に対するにとりの心証はあんまし良くなかったりする。若菜と比べると確実に下。というか素直な若菜が人生お疲れ精神くたくた主人公に対して癒しすぎるだけだよ。
少年は少年でファーストコンタクトがやらかし&怒られなだけに、相手をストレートに可愛がるにとりの姿が珍しく、しっかりめに脳を焼かれている。ただもう壊れちゃってるので無敵。にとりも一々反応の良い少年で小腹を満たしつつちょっと遊んでる節があるので、破れ鍋に綴じ蓋っていうか。まあ鍋壊したのはにとり本人なんだけど……。
少年の兄属性については、まあ、なんとも。兄妹揃うと少年はお兄ちゃんとしての役割を押し付けられてしまうのです。かわいそう。にとりと二人でずっと遊べればよかったのにね。ところでにとりさん、ホテル建設終わったらここを去るらしいですよ?
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