呆けた私の頬を、ざわりと吹き上がる風が撫でる。その感触でようやく自分が居る場所を思い出した私は、上った時と同じように水の足場を作りつつ木から降りた。心中にはまだ先ほどの驚きの余韻が残っている。ここは幻想郷じゃなかった。現実だ。ならば私は──いったい何者だ?
身元不明、居場所が無いという恐怖を誤魔化そうと、私は湖のほとりをとぼとぼ歩き始めた。
「たぶん、私は『河城にとり』だ。その過程を気にしてもしょうがない。これからどうするか考えなくちゃ」
ぶつぶつ、ぶつぶつ。思考を口に出して整理するのは癖だった。情報を吐き出して、耳で再輸入して、より深く考えるための癖。
俯き、腕を組みながら歩いていると細い道を見つけた。道と言っても舗装もされておらず、ただ草の生えていない地面が細く奥に続いているような、それだけの道。
でも、心の中で指針を求めていた私はその道を進むことにした。当てもなく湖の周りをぐるぐる回るより、終着点があるほうが気が楽だった。
数分も歩くと、私は木々で覆われた広場へと出た。枝葉に隠れて木の上から気づかなかったのだろう、そこには古ぼけた神社があった。僅かな隙間から差し込む木漏れ日が、広場全体に神聖な雰囲気を醸し出している。
「流石に守矢神社ではないだろうな。多分この山の神様を祀っているんだろう」
都会暮らしの自分が言うのは少し不相応な気もするが、東方オタク並みには神話系の知識を仕入れているし自然に親しみを持っていると自負している。
例えば風神録──河城にとりが登場する回である──のEXボスである洩矢諏訪子は名前から分かる通り諏訪付近で信仰を
ああ、神さまつながりで思い出した。昔何処かで読んだのだが、山の神様はどれだけ仕方のない理由で訪れた者であろうと──例えば、病に伏す母のために薬草を取りに来た子供だとしても──自分の領域に踏み込んだものに容赦はしないそうだ。良くて神隠し、悪くて……と、まあ、そういう話は割と全国各地に散らばっている。
そこまで考えて、私は自分が妖怪であることを思い出した。
えっ? 大丈夫これ? 思いっきり神社まで来ちゃったけど……
「もしかしてヤバい?」
分からない。分からないが三十六計逃げるに如かずと言うし、触らぬ神に祟りなしともいう。以前読んだホラー漫画の1ページを思い出して身震いしながら、あんなのが出る前にと引き返すことにした。
『待って……』
ざぷん。川に飛び込む瞬間はやっぱり目を閉じてしまう。妖怪として目覚めてまだ数時間、人間としての習慣は簡単には抜けてくれなさそうだ。時間経過に任せよう。
とりあえず目覚めたところまで戻るつもりで私は川の中を泳ぎ始めた。全身の熱が水に抜けていく感覚が心地よい。しかし……目覚めた時から思っているが、ここの川の水は随分と透き通って綺麗だ。私のイメージする川はどちらかと言えば灰色に近くて、不潔感が勝っているものだから、こんな清流はレアなんじゃなかろうか。偏見だけど。
そういえば、私は水の中を移動するにあたって、目覚めた時と同じように能力を使っている。『水を操る程度の能力』は非常に燃費が良くって、多少は無理しても妖力を大きく消費するということは無く、おかげで川を遡れるほどの速度を出すことも可能だ。
今は下りだし、光学迷彩スーツの分も考えて使用は最小限にしているが。今度暇なときにでも練習して、サーフィンみたいに川を下れるようになれたら楽しそうだ。
ああ──うん。本当に楽しそう。
私みたいにクリエイティブでもカリスマがあるわけでもない人間の生活は、大抵が『責任の生じるルーティーン』で出来ている。登校、出勤、バイト、部活、残業、起床に就寝時間も。これら一つ一つに社会的信頼とか金額とかが懸かっているのに、向き不向きがあるのだから笑えない。
だが今はどうか。全て自己責任、つまり全て自分次第。即ち自由である。そして時間もある。あまりに多かった『やらなきゃいけないこと』に押しつぶされてきた『やりたいこと』が、漸く形を取り戻してきたのだ。それがどうにも胸元で擽ったい。
と、そんなにやけ面を水中で晒している私の耳に微かな人の声が聞こえてきた。一瞬で心に緊張が走る。しまったな、こんな山奥に人が来るとは考えなかった。しかし、よく考えれば『道がある』というのは『人が通る』というのと同義で、すなわち山頂の神社まで来る人が未だいることに他ならない。
一方的ながらここにきてから人間とのファーストコンタクト、恐る恐る水面から顔を出してみる。もちろん光学迷彩スーツのスイッチを入れることも忘れずに。
「ね、ねぇ! やっぱり帰ろうよぉ!」
「うるさいな、じゃあこなきゃいいだろ! 俺は一人で行く!」
麦わら帽子を押さえながら息を切らしている白いワンピースの少女と、チェックのシャツに随分短い丈の、太腿が見えるようなズボンをはいた少年が川沿いを駆け上がっていた。少年の首元には随分とごつく黒光りする双眼鏡が揺れている。少女の静止も聞かず少年はそのまま山頂へと走っていった。
「はー、はー、どうしよう、おかあさんにおこられちゃう」
置いてけぼりにされた少女は一人、その場で蹲ってしまった。ぽろぽろと目の淵からあふれ出す雫。思わず声をかけようとして、私は少女を慰めるリスクとリターンを考えた。
とかく人間関係というのは、『貸し』とか『借り』とかそんなものの押し付け合いで成り立っているから……損得勘定をはじき出すのは、自分で自分の面倒を見るようになってから得意になっていた。
私に少女を慰めるメリットなんてない。よくて涙を止められるかもしれないなんてあやふやなもので、悪くて不審者扱いだ。相手が少女で、こちらが未知の存在だというのがなお悪い。面倒なことになる前に無視して通り過ぎるべきだ。
そう、思っていた。
水面に映る顔は疲れ気味の冴えない男のものではなく、幻想の少女のもの。外観の変化。価値観の変化。執着の変化に、習慣の変化。ねぇ、そのさ、『人間社会で必要なスキル』って、ここに来てまだ大事に抱えなくちゃいけないものなの?
もう人間でもないのにさ。
「やりたいことって、どうやるんだっけ」
その呟きにに私の心は『簡単だとも』と笑って答えた。
「考えるより先に、動けばいい」
それでどれだけ不利益を被ろうとも、その先にしか、私の満足は無いんだから。それにほら、私ってば妖怪だから、恐れられてなんぼみたいなとこあるし?
だから帽子のスイッチを切った。机でそうするかのように水面に肘をついて、軽やかな、楽し気な口調で。
「おや、人間じゃないか。
面倒な文書いてるなって? 自分でもそう思う。プロットとか無いから、その場その場で出力してるんだよね。だからちょっと文にまとまりがなくなっちゃうのかなぁ。
因みにホラー漫画の1ページっていうのは、「場所は伏す」で有名なアレの#8。一応軽く説明しておくと、神社に来た老人が境内で物音がしたので子供の遊びだと思って注意しに行ったらうっかりとんでもないものと鉢合わせたっていう話。主人公はけっこう神さまとか信じてるタイプなので、超自然系の怪談とか分かってても真に受けちゃうタイプ。そんなんだから狙われちゃうんですよ。
ではまた。