創作に向き合うまでに邪魔なものが多すぎる!
場面は移って山頂である。木陰の下に少年を寝かせた私は、湖のほとりで湖面を眺めていた若菜の隣に座った。
「お兄ちゃん、大丈夫そう?」
「ああ、すぐに目を覚ますさ。ところで、何を見てたんだ?」
「湖の模様がね、たまに揺れるから……」
そう言って、若菜は風で波立つ水のうねりを見ていた。誰にも共有されることのない、彼女だけの色眼鏡で、世界が揺らめくさまをずっと眺めていた。どこか花茎を手折る気分になりながら、若菜へと声をかける。
「なあ若菜、龍って知ってるかい?」
「りゅうって、どらごんのこと?」
「んー……同じ意味だけど、ドラゴンって感じじゃないね。もうちょい和風の蛇っぽい奴だと思うな。というか、ドラゴン知ってるのか」
「お兄ちゃんの友達がね、ゲームいっぱい持ってるの」
なるほど、と頷いた。少年は中学生だったか。少なからず交友関係も広がるだろうし、その中にひとりはゲーマーがいてもおかしくない。にしても、電子機器ね……そういえば画面を久しく見てないな。現代では必需品と謳われたスマホだって持ってないが、案外暇せずにやれているし。
「ねえ、それで、龍がどうしたの?」
「ん、いやな。この辺に出るって噂だから、一目拝んでやろうと思ってたのさ」
「いるの!?」
「そりゃ河童がいるんだから、龍がいたっておかしくないだろ。問題なのは、どういう大きさで、どういう性格で、何を食って生きてるのかだな」
湖面に手を浸して、何かを掴むような形に手を握る。引き上げると、棒状の水が手の中にあった。先端は円錐のように尖り、もう片方からは細い水の管が伸びて湖に繋がっている。
「つまり、こうだ……」
その棒を握り込んで振るうと、尖った先端から出た水が線を描いて空中に固定される。即ちこれは水をインクに、空中を紙替わりにした水筆なのである。さらに腕を振るえばさらさらさらりと水が形になって、やがて――
「……にとり、なにこれ?」
「龍……のつもりだったんだけどなぁ」
現れたのは、ふにゃふにゃに折れ曲がった人魂のような代物だった。
「にとりの帽子のマークみたい」
「ああ、言われてみればちょうどそんな感じだね。もうちょっと絵心があると思ってたんだけど」
龍の絵を使って話を続けようと思ったのだが、いかんせん技術が無いばかりにこのザマである。私は若菜に水筆を手渡した。
「代わりに描いてくれるかい? 私じゃ無理だ」
若菜は手元の水筆と私を交互に見て、それから眉を下げた。
「でも、龍、見たことない……」
「そりゃ本物はそうそうお目にかかれないさ。でもほら、想像なら書けるだろ」
「……見て、描きたい……」
自信の無さそうな声に私は違和感を覚えて、少し首を捻った。私の想像では、若菜は水筆を受け取って好きなように絵を描くのだろうと思っていた。それがなんだか、描き方がわからないとばかりに手を止めて、伺うようにこちらを見ている。まるで、テストで解けない問題にぶちあたった子供のようだ。いや、実際子供なんだけど……。
「……あんたは、絵が、上手い。私が保証してやる」
「うん……」
若菜は伏し目がちに、時折伺うようにこちらを見ていた。そこはかとない違和感と、どこか懐かしい傷口が疼くのを感じた。ふと、いつかの彼女が抱えていた冊子は絵日記帳だったなと思い出す。自由帳では、なかった。そうだ……彼女の絵は、現実に即した、フラットで、写実的な絵だった。
だから上手だと思ったのだ。彼女の絵は客観的に寄っていたから。ふつう子供の絵というのは、顔がやたら大きくなったり、目が黒目だけだったりと、主観的な印象に大きく左右されがちなものだろう。
けれど若菜の絵は、見たものを忠実に描き起こしている。確か前に、雨の日は買ってもらった写真集を見て絵を描いていると言っていたはずだ。そういう写真的な風景の切り取り方が、若菜に透明な視点を与えたのかもしれない。
「そうか、あんたは……見たものを描いているんだな。見たことがないものを形に
「……こわくは、ないの。でもさ、見たことがないのに、どうやって描いたらいいかわかんないよ」
「正しくなくたっていいさ。竜は九似とも言ってだな、角は鹿で鱗は魚、体は蛇で手は虎に似るというぜ。想像できるかい」
言われて若菜は、龍という異形の存在に想像を馳せるように目を閉じた。それは自分の心の中に、龍を降ろし、住まわせる作業。自分だけの正解を作り、認めるために、象る作業。体長はどのくらいだろうか。牙はどれほど鋭く、鬣はどれほど神々しいだろうか。龍の姿を描いた全員が、龍の実物を見たわけではあるまい。後世に伝わったその威容は、少なからず人間の想像力に依っている。
ああ、そうだ。
神の似姿ですら、人間は書き、描き、彫り、象ることができるのだ。
だれもがそんな偉業を成し遂げうる精神エネルギーを秘めていて、だからこそ神が、妖怪が生まれた。
創作とは、まず自分を信じる作業。
「むむ……」
「間違いなんてないのさ、なにせ正解がないんだから。あんたはあんたの好きなように世界を色塗りして、上書きして良いんだよ」
まるで言い聞かせるように私は言った。若菜に向けた言葉が、若菜を通して翻り、私にも向いていた。好きなように、という言葉ほど難しいものは無かった。私の人生を彩る色は、たいていが他人の絵の具で塗られていた。自前の絵の具はわずかに数種類しかなく、そのどれもがくすんだ色で――もがいてぐちゃぐちゃに混ざり合うたびに、黒い汚点ばかりがシミになってこびりついた。
昔から人と関わるのが苦手だ。隣の芝が青く見えるように、他人の絵の具は鮮やかに見えるから。同系色で比べた時に、明らかに見劣りしているから。それなら他人の絵の具のほうが、いい絵が描けるのが道理……。そうやって、自分の人生を鑑賞する側に回した。
「……できた!」
若菜がふうっと息を吐いて、空中に浮かぶ水の像を指さして見せた。それは私の知る龍よりはるかに短く、目はつぶらで、角は丸みを帯び、可愛らしい量の髭を蓄えていた。傲慢な感想だなと思った。彼女はこの龍をかたどった。彼女の中で、龍とは真実この姿なのだ。彼女の眼鏡に色を塗りたくない一心で言葉を選ぼうとしたが、のどにつっかえてあれもこれもうまく話せない。
「ああ……うん、よく描けているよ。本当に……」
若菜は、透明な水でも像を描けることを証明した。
私は──私は、たった一つ手に入れたこの透明な絵の具で、世界に色を塗れるのだろうか。
他人と交わっても赤く染まることのない、自分だけの色を、持つことができるだろうか……?
その疑問に答えを示せないままでは、私は人間だったころと何も変わらない、という気がした。
主人公ちゃんの無味無臭無色な自我が仄かに色を帯びる回です。
若菜ちゃんは、主人公ちゃんにとっては失ったものの象徴みたいなところがあって、自分みたいにはなるなよと反面教師風に接していたら、自分で自分の傷を抉ってしまった……ような、雰囲気。
作中でも言うてますが、とくに創作なんかやってると他人と比較して潰れたり、デキる癖に性格悪い奴がいたりで無限に自分の色を信じられなくなる機会があるのでしんどい。だからこそ、子供の描いた絵を冷笑するとこまで行っちゃあお終いなわけで……その辺りが書いてて浮かんできたのでこういう締め方になった、というのが顛末。
わたくし自身はちょっと続きが書けそうなんで粘ってみます。というか山頂でのストーリーに詰まっていただけで、ちょっと先の展開は想像してるから……
じゃあまた。年内に一度更新できてよかった。