日が暮れた。
夜とは人外の時間である。視覚や聴覚、嗅覚までもが非日常に包まれ、影すら映らぬ闇の中を川に沿って歩く。
「なんだか素晴らしい全能感に包まれているな」
辺りは暗いというのに、気分は高揚するばかりだ。より河童らしくなっている――いや、より妖怪らしくなっているのか。人間らしい恐怖心のない、純然たるあちら側の存在に。
葉をざわめかせる風の音、耳鳴りのような虫の声がなんとも心地よい。
戯れに手を振ってみれば、私の能力によって川面がパシャリとはねた。箸が転んでもおかしい年ごろじゃあるまいに、この楽しさはどうしたものか。
一つ歌でも歌いたくなるような気分だが、あまり大声を出すのはよろしくない。動物たちの眠りを妨げたくはないし、それに──これから私は、山のふもとの集落に行くつもりだからだ。
いくつか確認しなきゃならないことがある、私はそう考えている。
例えば、そのうちの一つが「時代」だ。
世俗から離れ、悩みとは無縁な生活を心から願っている私だが、一方で1人きりで暮らすことに漠然とした不安感がある。
今朝この山で目覚めて、木や川を昇ったり降ったりして解ったこと。麓には集落があって、車が存在する程度には文明が発達していて、どうやら
これは無視できない問題だ。私という実例がありながら、他に河童がいないのは何故だろう? 水でレンズを作る練習をする傍ら、私はぼんやりそんなことを考えて、一つの推論を導き出した。
――それは、幻想郷が存在するからではないか? 既にこの山の妖怪は1匹残らず幻想郷へと移住した後ではないのか?
それはなんとも恐ろしい空想だった。河童になりたての私には、河童の勝手がわからない。食べ物は? 寿命は? こうして夜に活動しているわけだが、睡眠は必要なのか?
……河童はどうやったら死ぬんだ?
かの芥川龍之介が描いた「河童」では、河童は気軽に自殺と自活を繰り返す享楽的な存在として描かれていたが……。まさかそれを実証するわけにもいくまい。お試しでも死ぬのはまっぴらごめんだ。
兎にも角にも、私は私自身についてよく知る必要があった。そのためには同胞に会うのが1番で、だから時代考証が必要だ。
今が何年なのか。妖怪はただのキャラクターに成り下がったのか。この世界で東方はあくまでコンテンツなのか、それとも幻想郷は実在するのか。
その糸口を掴むため、私は川沿いから逸れて麓の集落に向け山を下る。
「なにか成果が得られるといいな」
一つ呟き、私はずんずんと山を下った。
▽
「おっ」
家々の明かりを遠目に集落へ続く一本道に降りてきた私は、道端にお地蔵様が立っているのを見つけた。石を掘って作られたそれは、雨風にさらされて穏やかな表情を浮かべていた。
「道祖神ってやつかな。村境に建てられ、疫病や悪霊の侵入を防ぐと信じられている……」
東方風神録EXボスである洩矢諏訪子が従える『ミシャグジ神』も、道祖神と深くかかわっているとされる。昔に調べた甲斐があった、私のオタク知識も案外捨てたもんじゃないな。
月明かりの下でよく調べてみると、凹凸はすり減っているものの苔や泥はきれいに取り除かれているのがわかった。集落からはまだ距離があるはずだが、誰かが掃除しに来ているのだろうか。
「誰かが掃除しにきてるってことは、信仰を失っていないってことだ。今の私って山から人里に降りてきた妖怪なんだけど、通してもらえるのかな」
神なんていない、そう言い切れれば楽なのだろうが……妖怪になっている以上、神の存在を否定する気が起きない。
腕を組み、ちらりと道祖神をみる。さすがに消されはしないと思うが……。まあ、ここで足踏みしてても仕方がない。何はともあれチャレンジだ。
おっかなびっくり震えながら、道祖神が守る村の境界のあたりに手を伸ばしてみる。
「っ……?」
想像していたような障壁や衝撃は無く、指先が空を切った。辺りを手探りで触ってみるも、全く手応えは帰ってこない。境界を踏み越えてもそれは同じだ。
「既に神が宿っていなかったか? それとも……入村を許されたか。はは、まさかね」
一応これでも元人間。祟りはやっぱり怖いので、心の中で「村の中で悪さはしないよ」と念じながら集落の中に踏み入った。
水色の長靴がざり、と音を立てる。おっと、光学迷彩スーツのスイッチを入れるのを忘れていた。
帽子に備え付けられたコレは、私がここに来た時に唯一持っていたガジェットだ。妖力を燃料に、全身を周囲の風景に溶け込ませる。
つまり、透明になれる。仕組みはまったく分からないが、コレがあれば集落の探索も安全に進むだろう。改めて私は一歩踏み出した。
「……」
視界には水田ばかりが広がっている。月明かりが水面に映り、ゆらゆらと光を跳ね返している。きっと私が目覚めた川の下流から水を引いているのだろう。
河川の近くにある水田は堤防の働きも果たすらしい。つまり溢れた水の受け皿となるってことだ。良くできている。
しかし、
「……米、ねぇ」
妖怪の主食は何なのだろう。
ふと、昼間の少女のことを思い出す。あの時はつっぱねてしまったが、きゅうりを一本くらい持ってきてもらっても良かったか……いやいや、危ない目に遭わせるわけにはいかないな。そう思って少し笑った。
「ふふっ。妖怪になってもそれくらいの倫理観はあるんだな」
しばらく畦道を歩いていると、やがて民家がちらほら見えてきた。トタン屋根の小屋や少し大きめな日本家屋、脇に停められた薄汚れた軽トラ。山頂の木から見た車はこれかな。
「新聞があればかなり嬉しいけど」
年月日が載っている上に、時の総理大臣の名前などを見ればこの時代の理解にも繋がる。切れ端一枚でも落ちていないかと目を皿のようにしてうろうろ彷徨うが、てんでダメ。やけに綺麗じゃんか、この村。
そして、一つの日本家屋の庭を通り抜けようとした時にそれは起こった。
「あら、あら。こんな夜中にどうしたの」
「!」
低くてカサついている――つまり歳をとった女性の声が、縁側の向こうの暗闇から聞こえてきた。
「お母さんとケンカしたん? それとも冒険したくなった?」
「……」
「大丈夫、大丈夫。怒らないし、誰にも言わないよ」
一歩後ずさると、慌てたような声が返ってきた。咄嗟に息を潜めるが、どうやら声の主はこちらの存在に気づいているらしい。
逃げるべきだ、と思った。しかし一方で、どうしてバレたのかを知らなければならない、とも思った。その2つを脳内で天秤にかけて、わたしの心は後者に傾いた。
「……見えているのか?」
「あらま」
驚いたように一瞬間が空いて、それからすこし楽しげな声が返ってきた。
「この歳になって知らない声に出会えるなんて。長生きしてみるもんね」
「……見えているのかって聞いてるんだ」
「見えないよ。でも足音がしたから、誰かいるんだなぁって」
……いや、いや。あり得ない。いくら寝静まった夜だからといって、気を抜いてはいない。足音だって極力抑えて進んできた。
にも関わらず、声の主は私を認識している。
「ずいぶん耳が良いんだね」
「あら嬉しい。私ねえ、目が悪くって。あんまり見えないもんだから、代わりに耳がちょっと良いの。此処じゃ有名なのよ」
「……へえ」
話好きなのか、聞いてもいないことまで喋るじゃんか。ちょうど良いや、情報収集も兼ねて少し話を聞こう。もしこの老婆が私のことを言いふらしたとて、年寄りの妄言にされるのがせいぜいだ。
私は縁側に腰掛けた。
「いくつか聞きたいんだけど、いいかい? 例えば年号とか」
「年号? それならえーっと、つい最近変わったばかりだわ。なんて言ったかしら――」
声の主はしばらく唸って、ハッとしたように小声で叫んだ。
「そうだ、平成だわ!」
設定は練っていたけど、いかんせん作中の時代に作者が生まれてないので情報収してたらわかんなくなっちゃってエタったっていうのが経緯。とりあえず多めに書いたから許し亭許して……