「……今、なんて?」
「平成、平成だったわ。ようやっと思い出したんよ」
その言葉に私は頭を抱えた。2000年が平成12年だから……今は1989年くらいか? まさか過去に逆行しているとは。想定しなかったわけではないが……東方の旧作が初めて頒布されたのは2000年の少し前だから、まだ10年近くある計算になる。
困った。10年もの年月を、在るか無いかもわからない幻想郷に憧れながら生きるしかないのか?
「しまったな……。時間がありすぎる」
「あら、暇なの?」
その問いに漠然と頷く。
「まあそうなるのかな。いや、いっそ旅に出るのもいいか」
「いいわね。そしたら、お土産話を待ってるよ」
「……あんたさ」
私は暗闇の奥のほうに視線を向けた。
「素性の知れない相手に対して、もう少し警戒心とかないの?」
「あら、心配してくれるの? ふふ、この年になって目も見えなくなるとね、もうこれ以上怖いことなんてないんじゃないかって思うのよ」
「……羨ましいね、まったく」
老婆はどうやら無敵のようだった。年を重ねて、世界を既知で定義して、未知を取り除いていって。生きるのに慣れた環境の中で、やがて人は恐怖心を忘れるのだろう。人間としてはその安寧が羨ましい限りだが、妖怪の身としてはやるせない。
なぜって……妖怪は『未知』の体現だからだ。不条理、無意味、非現実的な現象に名前と姿をつけたのが妖怪であるからだ。ならば、妖怪が平和ボケした婆さんを驚かせても道理だろう。
「なあ、あんた。河童は知ってる?」
「変なことを聞くんね。亀さんみたいな甲羅しょって、頭に皿があるんでしょ」
「そりゃあちょっと時代遅れさ。現代の河童はね、皿の代わりに帽子をかぶって、甲羅の代わりにリュックを背負って──女の子の見た目をしているんだよ」
水田の水を少しだけ拝借し、水のボールを作る。そこからほんのすこし水しぶきを飛ばせば、畳にぱたたっと音が鳴り、「あらっ」という声が聞こえた。
「雨でも降ったの?」
「まさか。河童は水を操れるんだ。勉強になったろう?」
「……知らなかった。すごいんねぇ河童って」
「呆れた。妖怪を目の前にした人間の反応じゃないよ、そりゃ」
縁側に体を投げ出す。見上げた夜空には星と月が仲良く輝いていた。ぼんやりそれを見上げて、なんだか名前のない猫になった気分で、人間の時は好きでもなかった酒が飲みたいような気がした。
「うまくいかないもんだね」
庭先の植え込みに水球を投げ捨てた。不自然な形を保っていた水が重力に引っ張られ、地面に叩きつけられて水音をたてる。
「なああんた」
「あんた、じゃなくて。私はナエって名前があるの。菜っ葉のナに入江のエで、菜江」
「……そうか。私は河城にとり。ひらがなで『にとり』が名前」
「じゃあにとりちゃん。にとりちゃんはあの山に住んでるの?」
いや、質問しようとしたのはこっち……まあいいか。で、あの山ってどの山?
「ほら、最近工事の人がきてるとこよ」
「ああ、ホテル建設が予定されてるとこね。そうだよ」
「……もし山の神様に会ったら、謝っておいてくれないかしら。『木を切ってごめんなさい』って」
ああ、そういう質か。この婆さん、妖怪も神もすでに『存在し得るもの』として認識しているから、これほどまでに驚かないのか。疑問が一つ解けたところで、改めて婆さんの言葉の意味を考える。どうにもこの婆さんは、ホテル建設業者を招いたことに後ろめたさがあるような気がした。
「この村が、この町が生きていくには新しいお仕事が必要だって、わかってはいるんだけど。私が子供のころからずっと見守ってくれた山の神様は、お怒りではないかしらって」
「うーん、悪いけど私は山の神様とやらを見たことがないんだ」
「あら、そうなん。山の神様はとっても優しくてねえ、山で迷った私を送り届けてくれたことがあって──」
そこからさえぎる間もなく婆さんの山の神語りは続き、話半分で聞き流していたら気づけば月がだいぶ傾いていた。ああしまった、情報収集もあまり進んでいないのに。それもこれも全部、婆さんのスローペースな語り口が悪い。
華麗に責任転嫁を決めながら、私は縁側から飛び起きた。
「おっと、そこまでにしてくれ。私はもう帰る」
「──あらっ、ごめんなさい。こんなにゆっくり話を聞いてくれる子は久しぶりだから、つい。また来てくれるかしら?」
「さあね。私のことを内緒にしてくれたら、そのうちまた会えるかもね」
話は長いが、情報源としては悪くない。口止めはしつつ、私はその場を去った。さらに探索を続けることもできたが、迷って帰れなくなるのは嫌なのでさっさと帰ることにする。
ああ、今度は地図を作ってから行きたいところだ。そのためには何が必要かな。紙はあるか怪しいから、木の板と炭を用意しよう。すると必要になるのは、
「やっぱりレンズか」
先は長そうだ。でも10年よりは長くないだろう。
この世界に幻想郷が、私以外の河童がいない可能性を頭から追い出しながら、一人帰路についた。
夜は妖怪の時間。朝昼は人間の時間だ。
よし投稿。老婆と少女が対等な口調で話してるの、かなり妖怪感を感じられて個人的には気に入ってます。もっとも三人称視点がないので、作中で語れなかったのが残念ですが。
んん、次は何させようかなぁ。やっぱり河童だし、キュウリを食わせてなんぼかな?