少年は走るのが好きだった。
日差しを浴びて、風を切って、大地を蹴り上げる感覚がなにより好きだった。
朝起きて小学校へ行く前。放課後は日が暮れるまで。休日はリュックサックにおむすびとスポーツドリンクを詰め込んでひたすらに走り続けた。
数少ない友人からは「君はウマ娘でもないのに何故そんなにも走るのが好きなんだい?不可解だよ」と問われたことがあったが少年は答えられなかった。その問に対する答えは彼自身、まだ探している最中だったのだろう。
走る。といっても世の中にはさまざまな走法が存在する。リズムに乗り一定の速度で走ることで身体への負担を軽減するピッチ走法、一歩の間隔を広く持つことで速度を上げるストライド走法等がそれにあたる。しかし少年の走りは既存のどの走りにも当てはまらない。ただ永い時間、長い距離を走りたいと願う彼の走りはとにかくスタミナの消費を抑えた軽やかなモノだった。脱力し、風の流れに身を任せまるで蒲公英の綿毛が空に舞うかの様なその走りは彼が長い年月を駆けて生み出したオリジナル。彼だけの走りだった。
四六時中走り続ける少年を見て町の人々は「ありゃウマ娘の生まれ変わり……いや、最早ウマ息子だな」と茶化し、笑いつつも暖かく見守っていた。
そんな生活を数年続けて行くうちにいつしか彼の住む町は『世にも珍しいウマ息子が走る町』として一部で話題になった。テレビの取材が来たこともあった。両親はどちらも普通の人間なので少年にウマの因子は継承されていないのだけど、ウマ息子と呼ばれる事に不快感はなく、彼はむしろ誇らしく思っていた。
ある日の早朝、いつものように町を走っていると河川敷に一人の少女が膝を抱えて座っていた。少年よりも少し年下、恐らくは小学校低学年と思しきその薄緑の髪色をした少女は走る少年をジッ、と見つめ目を離さない。
それからは次の日も、その次の日も、雨の日も台風の日も少女は河川敷に現れた。何をするでもない、走り横切る少年をただジッと見つめ続けた。向けられる双眸は一度も瞬きをしない。絶対に見逃してなるものかという鬼気迫る視線に少年は恐怖すら覚えていた。
あまりの不気味さに何度か走るコースを変えたりしたが何処から嗅ぎつけたのか翌日には新たなランニングコースでその少女は膝を抱えて座っていた。
かなり怖かった。怖かったが何故そうまでして自分の走りを見るのか。そう湧いて出た疑問は興味へと変わった。
少女が現れるようになって一ヶ月、とうとう少年は少女へ声をかけた。
「やあ。君、いつも僕が走るところを見てるよね?何か用でもあるのかな?」
そう声をかけると少女はゆっくりと立ち上がった。ゆらりと彼女のお尻から尻尾が覗いた。
ウマ娘だったのか─────
今まではずっと座っていて尻尾が隠れていて気づかなった。ということは帽子のしたには耳もあるということになる。ウマ娘だからどうということはないが少年は少し驚いた。
「走り─────見てくれませんか」
「へ?」
「貴方の走りとても綺麗でかっこいいので、私も貴方みたいに走りたいと思いました。だから─────ずっと観察していたんです」
そう言うと少女は帽子を脱ぎ捨て走り出した。
トン、トン、トン、と軽やかに、一歩踏み出すごとに地球の重力から解放されて行くように加速していく。
その走りは正しく少年のモノだった。
「嘘だ……」
認められない、認めたくない。自身が永い年月をかけ生み出した走法が1ヶ月観察しただけの少女に模倣されている。いや、それどころか─────
走り終え、爽やかな汗を流しながら少年の元に戻ってきた少女はいった。
「やっぱり、この走り方凄く気持ちいい」
絶望し沈む少年とは対称的に少女は晴れ晴れとした笑顔を少年に向けた。
「ねぇ、セイちゃんのトレーナーになってくれませんかね?」
純粋に無邪気にそして何よりも残酷なその言葉を少女は少年に放った。
少女に悪意はない。
少年が永い永い年月をかけて作り上げた走法。それをただ数日観察しただけで完全に模倣し、少年よりも速く走って見せた。それが何を意味するのか、少年がどのような感情を抱くのかを想像するには少女はまだ幼すぎたのだ。
少女から差し出された右腕を少年が握り返すことはなかった。代わりにただ一言、
「ごめんね」
そう言って少年は少女に背を向け
歩くのなんていつぶりだろう。そんな事を考え零れ溢れようとする涙を必死に抑えながら少年は帰路についた。
以降少年が町を走り回ることも無くなり、次第にウマ息子と呼ばれた少年の存在も人々の記憶から消えていった。
□□□
息が整わない。どれだけ大気を吸い込んでも全く酸素を取り込めない。酸素を押しのけ、二酸化炭素が血液中のヘモグロビンと結合しているのではと錯覚するほどの息苦しさをセイウンスカイは覚えた。まるで呼吸の方法を忘れてしまったかのようだ。
それでも彼女は二つの肺が求めるままに呼吸をくり返した。走る為にはどうしても酸素が必要だったからだ。
ゴールまでの距離は残り100m。前には誰もいないが直ぐ後ろからは追走者の足音どころか息づかいまで聞こえてくる。聞き慣れた呼吸だ、後ろにいるのがライバルの一人であるグラスワンダーだという事は直ぐに分かった。
もう呼吸がどうだとか言っている余裕はない。酸素を諦め歯を食いしばる。
負けたくない。あの人の走りでこれ以上負けたくない。だから体への負担も何もかも顧みずにスパートにスパートを重ねた。ブチブチと筋繊維が悲鳴を上げているのが分かる。
あと50、あと20、あと5m。
飛び込むようにしてゴールした。結果はハナ差でのスカイの勝ち。いつものようにグラスワンダーにドヤ顔を向ける余裕もなく、仰向けに寝転がって必死に空気を吸い込んだ。
はあ、はあ、はあ、と無様に倒れるスカイをグラスが覗き込んだ。疲労困憊といった状態のスカイに対し彼女は汗こそ流しているものの涼やかな表情を浮かべている。あと少し距離が長ければ結果は違っていただろうことは明白だった。
「セイちゃん。私、次は勝ちます」
みーんみーんみーんと蝉の鳴き声が異常なほど喧しく響く中、彼女のその言葉は不思議な程にハッキリとセイウンスカイの耳に届いていた。
□□□
「スカイさん!!レースお疲れさまでした!!!今日も見事なバクシンでしたね!!!」
模擬レースを終えたセイウンスカイが寮の自室へと帰宅すると耳鳴りがするほどの大声が彼女を出迎えた。声の主であるサクラバクシンオーはつかつかとスカイへ歩み寄り両手を握って上下に振り回す。
「いつにもまして委員長は元気だねぇ」
「委員長ですから!!」
「いや、委員長関係ないでしょ」
バクシンオーの労い(パワー)からスルリと猫のように抜け出したスカイはそのままベットへとダイブした。バクシンオーが「スカイさん!寝る前にお風呂に入りましょう!あとご飯も!」とスカイの尻をペシペシと数度叩く。すると彼女はうつ伏せのままだらりと右腕を上げ言った。
「セイちゃんは疲れました~。お風呂まで連れてってください~ご飯食べさせてください~」
「分かりました!!但し!!バックシンですからね!」
そう言うとバクシンオーはスカイをタワーブリッジの体勢で担ぎ上げ、そのまま入浴場へとバクシンして行った。
□□□
「そういえばスカイさんはトレーナーとは上手くいっていますか?」
「ばーぼべばでーーーー」
「なるほど!またクーリングオフしたんですね!」
バクシンオーによって身体を余すことなく洗浄され、そのまま湯船に放り投げられたセイウンスカイはブクブクと口を湯に沈めた状態で返事をした。その言葉はもはや言語としての体をなしてはいなかったが流石はトレセン学園の誇る学級委員長である。すぐにその言葉を翻訳してしまった。
まさか通じるとは思っていなかったセイウンスカイはブクブクと気泡を産み出し続けながら気まずそうに視線を逸らす。
「気に病む必要はありませんよ!誰にだって相性というものは存在します!スカイさんの場合は他の娘よりすこーーしだけストライクゾーンがせまいだけですから!」
「……これで5度目のクーリングオフだとしても?」
「はい!いつか絶対にスカイさんの認めるトレーナーさんが現れますよ!!」
「そうだと良いんだけどねぇ……」
そう蚊の鳴くような声で小さく呟いた。けれどスカイは気づいていた。クーリングオフをくり返す事になっているのは別にトレーナーに問題があるわけではない、寧ろ優秀な人ばかりだった。問題があるのは自分自身だ。
数年前、名も知らぬ少年に自身のトレーナーになってくれと頼み、拒絶された少女セイウンスカイはそれでも少年を待ち続けた。来る日も来る日も少年が走っていたコースに腰を降ろし彼を待ち続けた。
それ程までにセイウンスカイは少年の走りに心酔していた。彼から走りを教わりたい。彼以外に自分のトレーナーは考えられない。そう考える程だった。
けれどどれだけ待っても少年は現れない。
五月蝿かったセミの鳴き声が聞こえなくなり木々の葉が赤に染まった。
紅葉が舞い散り、降り注ぐ淡い雪がスカイの頭に積もった。
雪が溶け、桜が咲き誇った。
季節が一巡してセイウンスカイはようやく少年はもう、この街には居ないという事実を受け止めた。
受け止めた筈だった。
月日が経ちトレセン学園に入学した。見よう見まねの
「スカイさん、走り方を変えましょう。その走法はもう貴方の骨格に合っていない」
その指示をスカイは強く拒絶した。セイちゃんにはこの走りしかできませんから~と和やかな口調で、しかしトレーナーを睨みつけながらそう言った。けれど「怪我の危険がある。絶対に変えなきゃダメだ」とトレーナーも譲らない。次第に両者の語気は強くなり、最後には契約解除という形で別れを告げた。
トレーナーに言われずとも分かっていた。自身の身体の成長に従ってアノ人の走りが合わなくなっている─────。それは感覚だけの話ではなく、伸び悩むタイムが純然たる事実としてスカイにつきつけられていた。
関節と骨格、筋肉までもが奇跡的に噛み合い自分の為に有るのだと錯覚していた走法も今では錆び付き欠損しかかっているのだ。
「そういえばグラスワンダーさんの走り、以前と比べて随分と変わりましたよね」
「そうなの?」
長い髪をシャンプーでモコモコと泡立てながらバクシンオーが呟いた。今まで幾度となくレースで競い合ってきたスカイだがグラスワンダーの走りを今まで一度も見たことがない。それはグラスへの興味の希薄さからくるものでなく、スカイの脚質が『逃げ』でこれまでグラスに彼女の前を走らせて来なかったことに起因する。
「はい!以前は力強さを全面に押し出す走りでしたが今はなんというか───蒲公英の綿毛が飛ぶような軽やかな走りになっていますね」
「へ~~~。そういえばグラスちゃん、最近ようやくトレーナーを決めたって言ってたもんね。その人におそわったのかな」
「そうでしょうね!……でもあの走り誰かに似ている気がするのですが……う~~ん思い出せません」
泡をシャワーで洗い流したバクシンオーは顎に手を当てながら唸り続ける。う~んう~んと頭を抱え湯船に浸かった瞬間にバクシン!!と閃いた。
「思い出しました!!!あの走り、スカイさんにそっくりなんです!盲点でした!!」