「さてと、グラスちゃんはどこにいますかね」
グラスワンダーの走法が変化しているとバクシンオーから話を聞いた翌日、セイウンスカイはグラスの走りを覗くべくターフへ足を運んでいた。しかし生憎とグラスワンダーの姿は見当たらない。仕方なく彼女はフラフラとターフの周りを歩き始めた。
肌が焼き付くような陽射しがジリジリと照りつける。絶え間なく鳴き続ける蝉の声に実際の温度以上の暑さを錯覚した。歩いているだけで汗が頬を伝う。いつものセイウンスカイならこんな日は決して外に出たりはしないのだが今は状況が違った。
『思い出しました!!!あの走り、スカイさんにそっくりなんです!盲点でした!!』
昨日、入浴中にそう叫んだバクシンオーの言葉をスカイは反芻し、その意味を考えた。
セイウンスカイの走法は8年前、名も知らぬ少年から盗んだものだ。1ヶ月観察し研究に研究を重ねようやく猿真似程度の完成度ではあるが模倣する事に成功した。
けれどその模倣もボロが出始めている。成長し伸びた骨格、硬くなった筋肉、増えた体重があの人の走りを妨げている。
もしもあの少年がいたのなら成長したスカイに合うようあの走りをアップデートしてくれるかもしれないが残念ながら少年はもういない。8年前のあの日からどれだけ探してもただの1度も会うことは叶わなかった。
では……グラスワンダーはその走法をどこで手に入れたのか?普通に考えればスカイからヒントを得たと考えるべきだが当の本人が持て余している状態で他者がそれをモノにしたというのは考え辛い。
だとすれば消去法としてもう一つの可能性が浮上する。
「グラスちゃんはあの人を見つけてトレーナーにしている」
突飛な発想だ。そもそもグラスワンダーの走法がスカイに似ているというのだってバクシンオーの主観によるものだ。スカイ本人がそれを見たわけでない。確率からすればあの人である可能性は限りなく低い。
だというのに朝、目を覚ましたスカイの足は真っ直ぐにグラウンドへと向かっていた。
「セイちゃん?珍しいですね、こんな朝早くからここに来るなんて」
振り向くと体操服を着たグラスワンダーが立っていた。手を口元にやり、信じられないものを見るかのような表情を浮かべている。
「失礼しちゃいますな〜。セイちゃんだってたまには早起きしますって」
「その割には制服を着てて練習するつもりが有るようには見えませんけど……」
痛い所を突かれスカイは口を閉ざした。反論出来なかったわけではない、元々口が達者な彼女ならいくらでも誤魔化すことは出来た。しかし、今日はグラスワンダーのトレーナーについて探りにきたのだ、誤魔化すことに意味はない。それに嘘を嫌うグラスを怒らせたくはない。彼女は怒るとめちゃんこ怖いのだ。
「グラスちゃん……さ。最近トレーナーが決まったって本当?」
口を出た言葉は彼女にしては珍しく建前も装飾もなにも無いストレートな質問だった。その言葉に対しグラスはスっと目を細める。その姿はまるで捕らえた獲物を横取りされまいと威嚇する蛇のようで、スカイはブルりと肌を震わせた。
「はい、随分と遅くなりましたがようやく決まりました。少し癖の強い人ですが日進月歩、共に強くなる事を誓ってくれた
「私だけってことは今はグラスちゃんの専属トレーナーってことです?」
「今は、ではなく『これからも』です。セイちゃんも早く良いトレーナーが見つかるといいですね」
私のトレーナーに近づくな─────グラスの言葉の裏にハッキリとそんな意図を感じた。けれどもしも彼女のトレーナーがアノ人なのだとしたら、こんな威嚇程度では諦められない。スカイはグラスへ一歩近づき言った。
「へぇ〜。グラスちゃんがそこまで執着するトレーナーさんってことはさぞかし凄い人なんでしょうね〜。是非ともセイちゃんも会って見たいな〜」
「ダメですよ」
ピシャり、とグラスの一言にスカイは黙らされた。目が笑っていない。これまで幾度となく彼女を怒らせてきたスカイだが今回はレベルが、いや、怒りの種類その物が違う。絶対にトレーナーとは会わせないという確固たる意志を滲ませている。
「私、もう練習に行きますね」
そう言ってスカイに背を向けグラスは走り出した。
トン、トン、トン、と一歩進む事にまるで重力から解き放たれるように加速していく。トップスピードに到達して尚、全身から脱力を感じさせる蒲公英の綿毛のような走り。
その走りは正しくこの数年間、スカイが探し続けたあの少年の走りだった。しかもあの頃よりも、今のスカイの走りよりも進化し、尚且つグラスの体格に合ったものに調整されている。
そんな走りを教えられるのはこの世界に一人しかいない。
「やっぱりグラスちゃんのトレーナーはあの人なんだね─────」
そう確信したスカイはグラウンドを全力で駆け出した。グラスのトレーナーがあの人なら、今この場でグラスを見守っているはずだ。だとすれば見つけられる。どれだけの年月が経っていようと一目見ればあの人を特定できる。これまで幾度となく脳内で少年の走りを再生してきた彼女にはそんな自信があった。
どこだ、どこだ、どこだ、どこだ!
目が飛び出て落ちてしまうのではないかという勢いでスカイはグラウンドを隈無く探した。しかし何処にもいない。
コースを何周したか分からない。直ぐに息は切れ、肺の水分が消し飛んだ。汗にまみれ、体力が尽きて芝の上に仰向けに倒れた。
やはりあの人に会うことはできないのか。肩で息をしながらそう諦めかけた時、見覚えのない手がスカイの視界に現れた。
「随分と無茶をしますね」
差し出された手の持ち主に視線を向ける。
空いた口が塞がらなかった。
そこに居たのはセイウンスカイよりも年上の男性だった。シワ一つないパリッとしたスーツに真っ黒な髪を七三分けで固めている。とはいえそのスーツは決して男性に似合っている訳ではない、どちらかと言えばスーツに着られているといった表現の方がしっくりくる。まだ成人していないだろう幼さの残る彼には不釣り合いな印象だった。
あの頃の少年とは似ても似つかない。けれどセイウンスカイは彼があの日の少年であると確信した。
差し出された手を勢いよく、両手で全力で掴み男を自らへ引き寄せ言った。
「もう────絶対逃がさない」